事務局ごよみ

事務局ごよみ(20)
 ~~今月の「交差点」より~~
  言葉と心
入田 丈司  
 まもなく梅雨入りですが、先日までは、早くも夏の到来を思わせるような気候が続きました。
 今月は、お二人の方から講座「小林秀雄『本居宣長』を読む」第三十五章、第三十六章について、湿り気を吹き飛ばすような、熱の籠った投稿文が届きました。いずれも、言葉と人の心との関係は本来いかなるものなのか、について思いを巡らせられた文章です。
 第三十五章「初めにあやありき」の講義を受けて、金森いず美さんは、「宣命」という言葉について「ミコトノル」というその「事」を指し、今は伝わらない『宣命譜せんみょうふ』という古書が、「ミコトノル」その「読揚ざま、音声の巨細長短昂低曲節などを、しるべしたる物」であったこと、「宣命」という「事」が、「神又人の聞て、心にしめて感くべく、其詞にあやをなして、美麗ウルハシく作れるもの」であって、「『意より詞を先きとする』宣長の主張が、上代の人々の言葉の感触といかに固く結ばれていたか、上代の人々が何を大切にして言葉の世界に身を置いていたか」と、心に深く残る引用をされています。また大江公樹さんは、「宣命」は、「どんな内容を読み上げるかではなく、どういふ風に聴き取つてもらふかといふ語りを重視したもの」と池田雅延塾頭の言葉を引用されています。
 上代の人々は、言葉を音声や抑揚を含めた姿を真っ先に受けとめ、心に強く丁寧に響かせていたのでしょう。また、言葉というものは、現代の我々が思っているよりも、ずっと広く大きい姿をしているのでしょう。これは私の勝手な想像ですが、音楽の歌唱があれほど強く心に訴えかけてくるのは、言葉と音楽が元々は一つであったからかもしれない、とまで思わせられます。
 さらに、大江公樹さんは第三十六章「人に聞かする所、もっとも歌の本義」の講義を受けて、小林秀雄先生の次の文章を引用しています。
「言葉によつて、限定され、具體化され、客觀化されなければ、自分はどんな感情を抱
いてゐるのか、知る事も感ずる事も出来ない。……『あはれ』を歌ふとか語るとかいふ事は、『あはれ』の、妄念と呼んでもいゝやうな重荷から、餘り直かで、生まな感動から、己れを解き放ち、己れを立て直す事だ」
 そして、これこそが「和歌」を詠むということだ、と。
 この「心と言葉の協調関係が言われた箇所」(塾頭の言葉)について、大江さんは「わが身にひきつけてしみじみと感じられ」ると述べていらっしゃいます。はい、私の経験でも、言葉には人の心を鎮め立ち直させる力があると確かに思います。
 まだまだ、言葉と心は尽きぬほどに奥深い関係があるように思います。
 一生のお付き合いをする「言葉」という親しき者に、今一度、礼を尽くして「身交ふ」ことは良く生きる事に必ず繋がる、と思っています。
(了)  

事務局ごよみ(19)
 ~~今月の「交差点」より~~
  正宗白鳥と「想像力」、そして「(から)(ごころ)
橋岡 千代  
 目に青葉 山ほととぎす 初かつを……皆さんも新緑の風を楽しんでいらっしゃることと存じます。
 さて、今号の「交差点」には、三月の講義について金森いず美さん、福井勝也さん、田中純子さん、大江公樹さんにご感想をお寄せいただきました。
 三月の「小林秀雄と人生を読む夕べ」では、第一部に小林秀雄先生が二十九歳のときに発表された「正宗白鳥」が、第二部では「『想像力』という言葉」が取り上げられました。
 池田雅延塾頭は当講義のご案内文で、「小林先生は、白鳥の作品にも生き方にも見られる一種傍若無人なリアリズム、奇妙な投げやりに白鳥の天才を見、終生、満腔の敬意を抱いて親炙したのです」と書かれ、当日の講義では、どれほど小林先生にとって正宗白鳥の存在が大きかったかをお話しくださいました。
「交差点」で毎回おなじみの金森いず美さんは、正宗白鳥の生家のお近くに住んでいらっしゃるということもあって、今回の講義はことのほか待ち遠しかったとご感想を送ってくださいました。金森さんは、池田塾頭の、小林先生が正宗さんの生誕百年記念の講演会で岡山にいらっしゃったときの模様をききながら、晩年の正宗さんと小林先生の雑談について書かれた「ネヴァ河」の冒頭を思い出されたとお書きになっています。私塾レコダの講義を聴かれたあと、まさにそのお二人に会いに行くかのように正宗さんの生家跡に向かわれ、講義で巡らせられた感慨を正宗白鳥の作品「入り江のほとり」に託してしめくくられています。西風の凪いだ後の入り江の鏡のようなというのは、小林先生と正宗さんの遺された文学を見つめられる金森さんご自身の心だったのかもしれません。
 また、福井勝也さんは、正宗白鳥に向けられた「傍若無人のリアリズム」は、その後、「『未成年』の独創性について」で小林先生がドストエフスキーにも使っていた言葉であることをご紹介してくださっています。この小林先生の眼力は、第二部の「『想像力』という言葉」にもつながっていきます。
「『想像力』という言葉」が取り上げられることを知って機敏に反応されたのは田中純子
さんでした。田中さんは、「想像力」とは「眼前にないもの、見えないものを見る力」であり、「人が生きていくうえでなくてはならないもの」としてこの言葉をずっと見つめていらっしゃいました。ところが、池田塾頭の講義で「小林先生の想像力」を聴かれるうちに、今までの漠然とした考えが変わられたそうです。さて、田中さんが気づかれたものとは……。
 さらに田中さんは、池田塾頭が「想像」と「空想」とを混同してはいけない、と言われて、小林先生がある作家の作品に対して「空想というものは観念上の遊戯であり、想像力というものは作家の性格的な力なのだ」と仰ったことにも触れられています。
 さて、「小林秀雄『本居宣長』を読む」第三十四章では、「言葉で作られた『物』の感知」ということを読みました。大江公樹さんのご感想から、「本居宣長」に出てくる「からごころ」は、小林先生によって簡単に空理として読むことができますが、実際、私たちは生活に深く染着いてしまっていて気づかない「からごころ」や、日本の文化として馴染んでしまっている「からごころ」もあることを思わされました。
 今回も、二つの講義から得られた思いをご感想にしていただきありがとうございました。
 青葉の勢いに乗じて、また来月も身近な言葉から新しい発見や喜びの機会を重ねていきたいと存じます。みなさまもどうぞよろしくお願いいたします。
(了)  

事務局ごよみ(18)
 ~~今月の「交差点」より~~
  小林先生の文章は「散文」ではない、「詩」なのだ!

入田 丈司  
 三月も終わろうとしていますが身にこたえる寒さが続き、いっそう満開の花々が待ち望まれます。
 今号に掲載されました「交差点」への投稿文で、金森いず美さんは、小林秀雄先生が訳された「ランボオ詩集」の講義について書かれています。若き日の小林先生がランボオの詩に出会って「激しく魂を掴まれ」たこと、小林先生がランボオの詩と長年に渡って深い親交を続けられたことを綴られています。そして、講義の中で池田塾頭からランボオの詩を素読してみることを勧められ、金森さんご自身が講義の翌日に声に出して読み素読を実践された。それを読んで、私も素読をしてみました。すると、金森さんが引用された小林先生の一文、「その昔、未だ海や山や草や木に、めいめいの精霊が棲んでいた時、恐らく彼等の動きに則って、古代人達は、美しい強い呪文を製作したであろうが、ランボオの言葉は、彼等の言葉の色彩や重量にまで到達し、若し見ようと努めさえするならば、僕等の世界の到る処に、原始性が持続している様を示す」(『小林秀雄全作品』第15集「ランボオⅢ」p.139)、という批評に、自分の心というより身体がうなずく実感がありました。何十年も前の高校生時代に、ランボオの詩を初めて読んだものの何を表しているのか皆目わからず、このランボオの詩を凄いと言っている人が凄い、と独り言をした記憶のある私にも、素読は何かをもたらしたようです。
 また、田中純子さんからの投稿文は、小林先生の言われる「詩」について、田中さんがどのように受け止めていらっしゃるかが前半で綴られています。田中さんが印象深い言葉とした中から、「ボオドレエルの象徴詩はボオドレエルの思想・感性の、言葉による未完成な彫刻であって、読者の思想・感性との出会いを得て、詩として完成する」、にハッとしました。読むという行為は、作者が言葉を作り出す行為に読者も加わるという積極的な行いだと。これは普段なかなか意識できないように思いました。また後半で田中さんは、ご自身が経験されている、学校での国語の授業の現実と課題について書かれています。「じっくりと(要約ではなく)作品そのものと向き合い、自らの考えを練り、作者と対話する……というような授業実践は現場では至難の業です」という現実。たしかに、限られた授業時間で、また学年によっては入試準備も必要な中で、とても難しく苦労が絶えないと思います。自分の学校時代でも作品としっかり向き合あった経験は少なく、高校の教科書に小林先生の「天の橋立」というエッセイ全文が載っていて授業を受けたのみかもしれません。実は私にとってこのエッセイは初の小林先生との出会いです。高校生の私は、冒頭に出てくる油漬けのサーディンを食べてみたいと思った以外、まともな感慨を抱いたものかどうか怪しいものですが、それでも小林先生の深みのある文章は授業とともに心に残っています。学校の授業という様々な制約のある場であっても、授業は作者や学問の世界に向けて歩みだす最初の一歩となり、それは貴重でとても価値があると思うのです。
 新年度になると、そこかしこで色彩が豊かになり、新たな出会いが始まる季節です。私も読者の皆さんも、すがすがしい気持で日々の学びに臨んでいければと念じております。
(了)  

事務局ごよみ(17)
 「新撰・私撰、私たちも『萬葉』集歌百首」に
  みなさまのご推薦をお待ちします!

橋岡 千代  
 池田雅延塾頭の「新潮日本古典集成で読む『萬葉』秀歌百首」は今年の十一月で最後の百首目を迎えます。
 そこで、令和七年一月からは、読者のみなさまからこれぞと思われる歌をご推薦いただき、そこから「私たちの『萬葉』集歌百首」を新たに選んだ講座に移ります。
 つきましては、この四月から、みなさまご推薦の「萬葉」歌を受け付けます。これまでの講義に参加されていた方もされていなかった方も、何首でも構いませんのでお選びになって、本誌「身交ふ」でご案内している「新撰・私撰、私たちも『萬葉』集歌百首」コーナーにお寄せください。
 なお、ご推薦いただくに際しては、ご推薦歌をお書きくださり、「新潮日本古典集成『萬葉集』(一)~(五)」の歌頭に打たれている歌番号をご記入くださいますようお願いいたします。
 
 そこでさて、皆さまとご一緒に読みたい歌を私も試みに選んでみました……。
  
 いにしへに 恋ふらむ鳥は ほととぎす
   けだしや鳴きし 我が恋ふるごと
               額田王[112]

 春の野に すみれ摘みにと し我れぞ
   野を懐かしみ 一夜寝ひとよねにける
               山部赤人[1424]
 
 ゆふ月夜づくよ 心もしのに 白露の
   置くこの庭に こほろぎ鳴くも         
               湯原王[1552]

 ここに挙げました三首の歌は、「新潮日本古典集成」の『萬葉集』をぱっぱっぱっと開いていって目に留まった歌です。
 みなさまも、お気の向くままページを繰って「私の『萬葉』秀歌」をお選びください、楽しみにお待ちしています。
(了)  
事務局ごよみ(16)
 自分の身丈に、しっくりあった思想
村上 哲  
 ――この誠実な思想家は、言わば、自分の身丈に、しっくりあった思想しか、決して語らなかった。(「本居宣長」第二章、新潮社刊「小林秀雄全作品」第27集p.39)
 『本居宣長』という長大な道のりの、いうなれば旅立ちの直前、さりげなく置かれたこの言葉は、章を読み進めていくほどに、その姿を鮮明にしていくかのような趣きがあります。それは、ただ本居宣長という人の姿を照らすのみならず、まさに、余人には成しえなかった偉業の所以を照らしだす、最初のスポットライトだったのかもしれません。
 現代のように専門知識の建築を生業とする専門家と違い、当時、学者たるものの仕事とは、つまるところ、人生をいかに生きてゆくべきかという問いに答えることでした。そうでないならば、それは学者というよりも、技芸を志す者だったはずです。
 では、宣長の『自分の身丈に、しっくりあった思想』とは、人生をいかに生きるべきかということだったのでしょうか。そう言って間違いではないでしょうが、そこには、一段の注意が必要になると思われます。
 宣長のみならず、当時の学者は、それこそ、在野であろうと幕府に仕えていようと、いかに生きてゆくべきかという問いに向かっていました。その意味で、この問題意識は、宣長のみならず、当時の学者が皆、共有していたと言ってもいいでしょう。
 いかに生きてゆくべきかという問いが、『自分の身丈に、しっくり』あうとは、どういうことか。それは、そこから最も対照的ともいえる、官学について考えてみると、多少は見えやすくなるかもしれません。
 官学とは、つまるところ国を治めるための学問です。もちろん、そこにおいて国民がいかに生きるべきかという問いも当然あり、それに答えられぬようでは、官学たる意味がないでしょう。
 しかし、その答えとは、どうあがいても政府の都合によった答えです。こう言うと、現代からみれば何とも欺瞞ぎまんに満ちた答えと見えるかもしれません。ですが、そうでないならば、それは官学たる資格がない、とすら言っていいでしょう。国を治める立場から言えば、政府を安んじるということは、そのまま、民を安んずるということでもあります。
 もちろん、このような考えが、商家の子に生まれた宣長には『自分の身丈に、しっくりあった思想』と見えないのは、明らかでしょう。それこそ、官から支給された御仕着せの思想と言う他ありません。
 では、在野の学問においてはどうでしょうか。ここにも、いくつかの注意が必要と思われます。
 一つは、当然、当時の学問とは、そのほとんどが儒学であったという背景があります。儒学というものが、そもそも、いかに国を、それも、宣長の生国からはるか海を隔てた地にあるような国を治め民を安んじるかという道を目したものであり、強いて官学における学問との違いを上げるなら、それが必ずしも現行政府の都合に合わせる必要がない、という程度の違いでしかないでしょう。
 どちらにせよ、宣長にとって、それはあまりに遠いところから配された思想にしか見えなかったのではないでしょうか。これは、儒学のみならず、仏教や、おそらくは当時新しく吹き込んでいた蘭学などについても、同じだったのではないかと思われます。
 それは、それらがただ遠い異国から来たものだった、というのみならず、そのいずれもが、天理や真理など、努めて自分から遠いところから考えを始めている、そういうところに宣長は引っかかっていたのではないか、そんなことを思ってしまいます。
 もっとも、それは、それぞれの学問が、というより、そこに従事する学者たちの態度が、と言った方が正確かもしれません。宣長には、彼らが、自らの生き方について、自分よりはるかに遠いところからお墨付きをいただこうとしている、そんな風に見えていたのではないでしょうか。
 宣長は『自分の身丈に、しっくりあった思想しか、決して語らなかった。』
 それは、いかに生きるべきかという問いに答えるということは、決して、どうすれば間違いのない生き方ができるかということではない、いうなれば、そういった覚悟を、しっかりと育て上げてきたということなのかもしれません。
(了)  

事務局ごよみ(15)
 ベルグソンの言う「持続」-「集中力と持続力」に寄せて-
有馬 雄祐  
 「我々は我々に対してよりもむしろ外界に対して生き、考えるよりもむしろ語る。我々は自ら行動するよりもむしろ『行動される』。自由に行動するということは、自己を取り戻すことである。純粋な持続のうちに自己を置き返すことである」  アンリ・ベルグソン『時間と自由』(服部紀訳, 岩波文庫)(原文は旧字体、旧仮名遣い)

 令和五年十二月の「小林秀雄と人生を読む夕べ」第二部「生き方の徴」では、「集中力と持続力」という言葉が取り上げられるので、この言葉に関連して書いてほしいという執筆依頼を編集部から頂いた。池田雅延塾頭によると、小林秀雄先生は人間の頭の良し悪しは「思考の集中力と持続力」だと言われたという。思考の持続力とは、文字通りの意味で、ある問いを考え続ける力だろう。僕は頭の回転が速いわけでも、記憶力が良いわけでもないから、学生時代からこの教えを救いにしてきたところがある。小林秀雄に学ぶ塾に入塾して間もない頃は、朝のシャワーを浴びる時はいつも気になる問題を考えたものだ。そのまま家を出て、考え事を続けながら大学まで行き、席に着いてから手ぶらであることに気づいて慌てて荷物を取りに帰る、そういったことがしばしばあったから、集中力はそれなりに才能があったのかもしれない。それが今ではどうだ。社会人となった最近は「今日はアレとコレをして……」といった具合に、計画など立てながらシャワーを浴びているのが常だから、生活のためとは言え随分と怠惰になったものだと悲しんでいる。幸い、荷物を忘れて出勤することもなくなり、無事に社会生活を送っている。
 さて、「持続力」という言葉だが、ベルグソン素読塾の幹事を務める私としては、これはもう、ベルグソンの言う「持続(durée)」について触れざるを得ない。アンリ・ベルグソンと言えば、小林先生が最も敬愛された哲学者である。とは言え、ここでベルグソンについて長々しく論じることを編集部が許してくれるはずもない。必要最小限の説明に留めて、ベルグソンの「持続」が小林先生の言われた「持続力」に繋がることが示せればと思う。
 持続は、私達が現に経験している時間が、物理学で言われる時間や、普段考えられている時間とは別物であるという事実を論じるうえで、ベルグソンが使った言葉である。真の時間とか、生きられた時間などとも呼ばれる、前者の「時間」が持続である。物理学の言う時間とは、時計で測られる時間をイメージしてもらえればよい。それは1秒、2秒…、1時間、2時間…、と測られるが、「持続」の方は測れない。時間が計測できるのは、それぞれの時間を均質な記号(t)として扱っているからだが、持続と呼ばれる生きられた時間は、互いに異質なものだからである。昨日の1時間と今日の1時間ではその質は異なるはずだし、今ここであなたが刻む1秒は、これまであなたに経験されたどんな1秒とも全く同じという事はあり得ない。例えば、子供の頃のあなたと、大人になった今のあなたが、同じ出来事を目の前にしたならば、それぞれで全く異なる「時間」を経験する筈であろうことからも、それは確かな事実である。
 小難しい話になってしまい恐縮だが、実のところ単純な事実が指摘されているだけである。しかし、私達は普段、時間にまつわるこの単純な事実を、殆ど意図的に忘れてしまっている。なぜなら、真の時間は測れないという事実は、未来の計画を立てる際には甚だ都合が悪いからである。その不都合は、時計の問題に留まらない。私達が日常生活をスムーズに遂行するためには、昨日の私が今日の私と同じであるという、安定した自己への信頼が不可欠だろう。今日の友人が昨日の友人と同じように振る舞うはずだという予測が成り立たなければ、安心して友人に声をかけることもままならない。絶えず変化する現実の、真の時間である持続の、安定した記号への置き換えは、未来の予測にとって必要不可欠なのである。それが人間の知性の本来的な役割であり、言葉もそれが記号として用いられる場合には、同じ働きを担うとベルグソンは言う。担うというより、それが言葉本来の働きでもある。小林先生の『美を求める心』の中に「言葉は眼の邪魔になるものです」という有名な一節があるが、言葉は持続の邪魔をする、そうした知性的な傾向が元来備わっているのである。
 しかし、持続の記号への置き換えは、あくまで日常生活の便宜の為の近似である。本当の持続は、過去を引き連れながら、絶えず膨らみ、変質する。今日の私は昨日の私とけして同じではない。だから、自分自身に立ち戻るには精神の努力が必要となるのだ。本当に生きるとは、絶えず変化する「私」に立ち戻って、自由に行動することだろう。それは、「純粋な持続のうちに自己を置き返すことである」とベルグソンは言う。要するに、純粋な持続が創造の唯一の源泉なのだ。同様に、生きた言葉とは、あなたの持続に根差した言葉であり、それは他者の言葉との共通項で定義される言葉とは異なる質を担った「言葉」なのである。
 長くなってしまったが、「持続力」という言葉に戻って話を終えよう。ベルグソンの言う持続から、思考の持続力を捉えるならば、それは日々自己を新たにしながら問いを考え続ける力、ということになるだろうか。あなたに抱かれた問いが、あなた自身を驚かせる答えを明かしてくれることを願うなら、時間をかけてその問いと向き合ってみるより他にどんな方法もないだろう。あなたの持続の内で、その問いが成熟するのをただ待つのみである。そうした思考の持続力に求められるのは、頭の回転の速さだとか、知識を覚えようとする好奇心ではなくて、問いへの愛情だろう。

 来年は手ぶらで出勤できますように。
(了)  

事務局ごよみ(14)
 塾とは何か
本多 哲也  
 「小林秀雄に学ぶ塾(山の上の家塾)」を知ったのは、令和四(2022)年の正月のことである。その前年の秋に『本居宣長』を読んでいた私は、読み終えたとは言え、多くの疑問が曖昧なまま残っている状態で、さてどうしようかと悩んでいたところだった。年末年始の宿題として、気になる箇所の再読をしていた時に、ふとインターネットで見つけたのが、この塾だった。「私塾レコダl’ecoda」の母体となっている、茂木健一郎さんが池田雅延塾頭を招いて始められた「山の上の家塾」は、毎年春先に募集されるが、ちょうど入塾の応募締切が近いこともあり、急いで志望書を書き、入塾に至ったという経緯である。中学受験の際に親に入れられた塾を除けば、自らの学びたいという意志で門を叩いた、人生初めての「入塾」であった。
 そこで改めて考えたいのは、「塾」とは何かということである。真っ先に思いついた文章がある。池田雅延塾頭が小林秀雄『批評家失格 新編初期論考集』 (新潮文庫)にお寄せになった解説文である。そこでは、小林秀雄先生の恩師、辰野隆氏について書かれている。辰野・小林両氏の師弟関係にまつわる逸話は、その文章をそのまま味わっていただくに如くはない。ここでは、「塾」という言葉の使われ方を見ていただきたく、引用する。
 ——小林氏は、こうして東京帝国大学仏文科を卒業したのだが、世間から「東大仏文科卒」と見られたり言われたりすることを内心では疎ましく思っていた。終生「独立独歩」を人生いかに生きるべきかの中心においていた氏にしてみれば、我も我もと世間が寄りかかる「東大卒」という大樹は「非独立独歩」の最たるものであり、不本意極まりないものだったのである。小林氏は、東京帝国大学を出たのではない、その一角を占めていた「辰野隆塾」を出たのである。
 普通、大学の教授の名前を冠して「塾」とは言わない。「研究室」や「ゼミ」という呼称が一般的であろう。であれば、ここで池田塾頭がわざわざ「辰野隆塾」としたことに、塾という語に対する塾頭の、格別の情を感じざるを得ないのである。
 それを踏まえて、改めて塾とは何か。先の引用でもあった、「独立独歩」という語と深く結びつく学びの場であることは疑えない。日本において「学校」は、江戸時代以降、一人の教師が一方的な講義をし、生徒はそれを受動的に勉強する場であった。それはそれとして、国家にとって重要な役割があることは否めないが、何かそこには一人一人の人間を見えにくくするような雰囲気がある。学校とは官学が再生産される場なのだ。官学に対して、私学があり、私学の場が塾である。そして、塾にいる者は独学者である。もちろん、先生と呼ぶべき存在はいる。しかし、塾生たちの学問への意欲は内発的である。塾には、独学者の場という意味合いがあるのではないか。
 しかし、それだけではない。独学者が一人いても塾にはならない。独学者が集うことで塾が生まれる。山の上の家塾で、池田塾頭はしばしば「共同作業」という語をおっしゃる。塾生の自問自答を土台にして、よりよい答えを導こうと、と言うよりも、よりよい問いを形作ろうと、池田塾頭と塾生とが対話によって思索を深める。この作業を指して、共同作業と言われるのだ。ここには、教師が生徒の答案に丸つけをするのとは、全く異質の学びの営みがある。一人の独学者が提示した問いと答えを、塾頭が吟味する。塾頭もまた独学者である。ときに、第三、第四の独学者が対話に交じり、新たな展開が生まれる。模範解答はない。各々の全人格、全人生の交流が生きた劇となって上演される、その劇場が塾ではないか。
 池田塾頭の塾では、呼称の便宜上、「講義」と言うこともあるが、根本において、我々は塾である。我々塾生が行く小林秀雄という山道は、決して池田塾頭に背負われて歩くものではない。日々歩き方の指南はいただきながら、独立独歩、己の足で歩むのである。
(了)  

事務局ごよみ(13)
 小林秀雄素読塾のご案内~『源氏物語』を原文で読む~
謝 羽  
 「人の心というものはだいたい、漢書に書いてあるような、ひととおりのそっけないものではない。深く思いつめるようなことがあるときに心は、なんやかやと煩わしく、めめしく、みだれて入り交じり、これと定まりがたく、様々な陰影があるものだ。この物語にはその煩わしい様子までも詳しく書かれている。まるで曇りのない鏡に読者を映して見せてくれているかのように、この世に生きる人々のこころのありさまを描き出したこの『源氏物語』には、大和にも唐土にも、過去から未来にいたるまで、比べものになる書はないと思っている」
(小林秀雄全作品27「本居宣長」十三章、「玉のをぐし二の巻」の引用より。現代語訳:謝羽)

 尊敬する宣長さんにそこまで勧められて、『源氏物語』を読まずにいられるでしょうか。
「小林秀雄素読塾~源氏物語~」の会はそんな思いに突き動かされた有志が集まって始まり、2ヶ月に1度、「源氏物語」(以降、「源氏」と呼びます)の原文を素読しています。開催から時が経って主催者は何度も入れ替わり、この世から去ってしまったメンバーもいました。それでも本会は6年目を迎え、まもなく折り返し地点にさしかかろうとしています。
 素読とは、書かれた文章を読み手に倣って声に出して読む読み方で、「源氏」を読むなら原文の素読が何よりも私はおすすめです。
 その理由の一つ目は、原文を選べば「誰の現代語訳がいいのか?」と考える必要がないからで、時間の節約になるだけでなく、人の解釈に煩わされず、自分の体で直接受けとめられるので、「まずは何でも自分の手で触ってみたい」と思う方にはぴったりです。「意味がわからないものに触るのは怖い」と思われる方は、アンリ・ベルクソンという、どの訳文でも意味がわからない哲学者の著書を素読してきた有馬雄祐氏の率直な体験談が事務局ごよみ(4)にありますので、そちらをお読みいただけますと勇気づけらると思います。
 さて、二つ目の理由は「音読」することです。言うまでもなく源氏物語は「歌物語」なので、「歌」が多く出てきます。「歌」は作者の気持ちが圧縮された詩であり、音の響きまで設計されているはずです。それならば音まで含めて楽しむのが、「源氏」の一番誠実な、そして贅沢な楽しみ方ではないでしょうか。とはいえ、「源氏」の原文をいきなり読むのは難しいため、「小林秀雄素読塾~源氏物語~」では、毎回「読み手」を数名決めて事前に練習をしていただいて本番を迎えます。誰でも最初は音読しても詰まってしまうので、お互いに音読の手助けをするのです。私はたいてい読み手として参加していますが、今回はその練習をしていた際の体験をお話したいと思います。
 読み手になるときは、十から十五回ほど音読をします。最初の3回は単語の意味を調べたり、注釈を読んだりして、原文になじんでいきます。次の3回では、登場人物たちの感情にあわせて声のトーンを変えていきます。「悲しい気持ちだろうから少し声のトーンを落とそう」といったシンプルなものです。
 こうして音読を重ね、10回を超えたあたりになると、私はいつも、自分は歩いていて、場面をのぞきこんでいるような気持ちになります。読んでいる私は長い廊下を歩き、登場人物たちが部屋のなかで会話したり、楽器を奏でたり、蛍を放ったりしているのを盗み見ているような、なんとも不思議な気持ちです。
 一度だけ、そのように「歩いている」とき、私のずいぶん先に紫式部が歩いている気配がしたことがありました。姿は見えず、本当に紫式部なのかはわかりません。ただ、とても切なく、幸せな気持ちになったことを覚えています。紫式部はもうこの世にいない。けれど、ここにいる。そんな気持ちになりながら、私は歩き続けました。
 そして、家のドアの枠に頭をぶつけました。
 ……いつの間にか、読みながら本当に歩いていたのです。
 いつから歩き出したのか、一体どこまでが想像で、どこまでが夢で、どこまでが現実なのか、あとから思い返そうにも、まったく思い出すことができません。

 さて、私は10ページ前後を読むだけでもこのような情けない有様ですが、宣長さんは『源氏物語』の文体をそっくりそのまま真似て「手枕」を書いています。一体そうなるまで宣長さんは、どれだけ「源氏」を読んだのでしょうか。「原文に慣れ親しむ」とは、なんと高く険しい道なのか。素読を続けていると、そのことを強く思います。そしてその険しい道を、宣長さんはなんと軽やかな足取りで歩いていったことでしょう。

「すべて人の心といふものは、からぶみに書るごと、一ㇳかたに、つきゞりなる物にはあらず、深く思ひしめることにあたりては、とやかくやと、くだくだしく、めめしく、みだれあひて、さだまりがたく、さまざまのくまおおかる物なるを、此物語には、さるくだくだしきさままで、のこるかたなく、いともくはしく、こまかに書きあらはしたること、くもりなき鏡にうつして、むかひたらむがごとくにて、大かた人の情のあるやうを書くるさまは、——」(小林秀雄全作品27「本居宣長」十三章)

 これは冒頭で私が現代語訳をした「本居宣長」本文の一部ですが、実はこの短い文章のなかに、「源氏」の言葉がずらりと出てきます。

「つきぎりなり」
意味:そっけなく言い放つ。突き放して言う。
文例:「はしたなくつききりなる事なのたまひそよ」(源氏物語 若菜下)

「おもひしむ」
意味:心にしみて深く思う。しみじみ思う。強く思う。「おもひそむ」とも。
文例:「おもひしみながらことでても聞こえやらず」(源氏物語 桐壺)

「くだくだし」
意味:わずらわしい、くどい。
文例:「さやうの人は、くだくだしう詳しくわきまへければ」(源氏物語 玉鬘)

「大かた」
意味:世間一般。
文例:「おほかたのやむごとなき御思ひにて」(源氏物語 桐壺)
         (「学研全訳古語辞典 改訂第二版小型版」より)

 宣長さんは自らの文章に「源氏」の言葉を実によく使っていて、辞書をひくたびに驚きます。これはまだ憶測にすぎませんが、宣長さんは「源氏」のことを書くとき、「源氏」で使われていた言葉を意識して使っていたのではないでしょうか。あるいは、紫式部が歩く姿を想像するために。
 そんな風に想像を膨らませながら、次回も読み手を担当するので、私はふたたび自分の小さな一歩を踏みしめます。これを読むあなたも、「源氏」の素読がしたくなったら、あるいは「歩きたく」なったら、「小林秀雄素読塾」はいつでもあなたを歓迎しています。
 次回は12月13日(水)、対面(東京)&オンラインで行います。
 詳しくはy.sha.taisa@gmail.comまでお問合せ下さい。
(了)  

事務局ごよみ(12)
 小林秀雄と歩む人生
安達 直樹  
 細胞生物学を長くやっている私にとって、細胞を観察するのは、とても幸せな時間だ。細胞には一つとして同じ形がないどころか、生きている細胞は刻々と形を変えるので飽きることがない。
 身体を構成する細胞には多くの種類があるが、神経細胞(ニューロン)は樹木のような枝をもつ細胞で、美しい。もう30年近くも眺めているが、今になっても、その美しさに見入ってしまって、手が止まることがある。もうこれで、この姿を知っているだけで十分なのではないかと思ってはいるが、それでは研究にならないので、どうしても細部に分け入っていくことになる。
 ニューロンの中心的な機能は、他の多くのニューロンから信号を受け取り、それを統合して、また別のニューロンやその他の細胞に信号を伝えることだ。だからニューロンの枝には大きく分けて二種類あって、他のニューロンから信号を受け取る「樹状突起」と、信号を伝達する「軸索」に分類される。不思議なことに、これらの名前、「樹状突起!」「軸索!」という呪文を唱えた途端に、ニューロンの美しさは、全体の姿とともに消えてしまう。それどころか私の仕事では、美しい細胞をバラバラに解体して、最後には数値となった要素をデータとして扱う。科学的に知るとはそういうことで、ある現象のメカニズムがわかった!というときには、やはり大きな知的興奮を味わうが、論文として発表する際には、当然、数値化された要素を並べることになるので、私は小さな抵抗として、自分の論文には美しい細胞の写真を(もちろんデータとして)できるだけ多く載せるようにしている。
 
——今日の様に、知識や学問が普及し、尊重される様になると、人々は、物を感ずる能力の方を、知らず識らずのうちに、おろそかにするようになるのです。物の性質を知ろうとする様になるのです。物の性質を知ろうとする知識や学問の道は、物の姿をいわば壊す行き方をするからです。例えば、ある花の性質を知るとは、どんな形の花弁が何枚あるか、雄蕊おしべ雌蕊めしべはどんな構造をしているか、色素は何々か、という様に、物を部分に分け、要素に分けて行くやり方ですが、花の姿の美しさを感ずる時には、私達は何時も花全体を一と目で感ずるのです。(「美を求める心」新潮社 小林秀雄全作品21)
 小林先生は何でもお見通しである。
 
 この「美を求める心」の冒頭で、小林先生は「何も考えずに、沢山見たり聴いたりすることが第一だ」と述べ、また講演でも、刀の映りに関する体験を具体例に、長く見ることの大切さを語る。
 小林先生が刀のことを教わっていた刀屋が、実際に目の前にある刀のうつりを指して、「ここにあるでしょ、ここに、ご覧なさい。今出ております。これが映りです」と言うのだが、小林先生には、いくら見ても見えない。そんな様子を見た刀屋から、「まだお見えになりませんね、今にお見えになります」と言われ、「ギョッとした」という経験だ。そして、「見て見て見ているうちに見える、そういうことがある」と述べる。(小林秀雄講演 ① 文学の雑感2 「審美眼」)
 
 私にとって、細胞の表情の変化を逃さないということは、もちろん仕事をする上での必要でもあるが、細胞好きも手伝って、とにかく長い時間顕微鏡をのぞき込んできた。そうしているうちに、微妙な陰影から細胞の表面の「ざらつき」なども見えてきて、栄養が足りているかどうかなど、細胞の「健康状態」までわかるようになった。一方で、細胞を見慣れない学生にとっては、そもそも重なり合った細胞一つひとつの輪郭を見分けることさえ難しい。どうやって見るのかを問われることも多いが、そんなときには、「まだお見えになりませんね、今にお見えになります」と言うことにしている。
 
 私は小林秀雄という人と、古本屋でたまたま手に取った「考えるヒント」を通じて出会った。こちらも30年近く前のことだが、数ページを立ち読みして、書かれている内容よりも先に、「日本語でこんなに美しい文章が書けるのか」ということに衝撃を受けたのをよく憶えている。今回、美しい細胞について書こうと思い、「美を求める心」を読み返してみて、膝を打ちながら「そうですよね、小林先生!」と、ただ微笑んでこちらをみているだけの小林先生と対話をする充足した時間を過ごした。
 若い頃は先人の考えなかったような「新しいこと」を考え出したいと無謀なことも空想したものだが、あるとき、敬愛する先人が遺してくれた言葉を、実際に経験して確認をする作業とその過程が、自分の人生を豊かにしてくれるということに気がついた。考えてみれば、小林先生も愛する先人の作品や精神とともに生きていた。
 ただ、先人と一緒に歩いて得たところを言葉にして、それが、美しく純粋な一つの自己表現となるのは希有なことだと、ようやく秋らしくなってきた夜にしみじみと思った。
(了)  

事務局ごよみ(11)
 もりで会いましょう
坂口 慶樹  
 私塾レコダの講座は、東京都中野区にある「江古田の杜、リブインラボ」を基地局としてオンライン(Zoom)でお送りしています。機材操作などすべての運営は、ボランティアスタッフの手で行われていて、私もその一員として、月に数回伺っています。
 江古田の杜の北側には、広大な区立江古田の森公園があり、その広さは東京ドームの十三個分もあります。園内には、縄文時代の北江古田遺跡があり、土器や、漁撈に使用するオモリ(土錘)などが発掘されています。太古から人々の生活が営まれていた、自然が豊かな場所だったのです。公園の周りには、湧水から発する江古田川が流れていて、江古田の杜の横を流れたあとは、妙正寺川と合流します。その江古田川の河岸段丘の上に、江古田の杜があることになります。
 私は、江古田での講義に伺う際には、舗装された道路を通り建物の正面から入るのではなく、あえて江古田川沿いの林の中を通る裏道の歩道をよく使っています。まさに古き武蔵野の雑木林といった風情で、川岸には桜やあじさいも植えられていて、花や紅葉、この時季であれば、ミンミンゼミ、ツクツクボウシとヒグラシによる三部合唱など、四季折々の風物を全身に浴びながら歩きます。もちろん、今晩の講義がどういう内容になるのか、期待に胸を高鳴らせながら歩きます。段丘の登り道を超えると、リブインラボがあり、受付で鍵を受け取って、基地局である「多目的ルーム」に入ります。
 会場には、最低三人のスタッフが参加し準備を進めていきます。機材は常備してあり、丁寧で詳細なマニュアルにしたがって(とはいえ、何回か経験すると自然に身体が覚えてしまいますが)、机や照明器具を配置したあとに、パソコンやモニター、マイクやスピーカーなどの機材を接続します。Zoom上でのマイクやスピーカーの動作確認を終えると、あとは池田雅延講師の登場を待つのみとなります。

 池田講師が、紙袋に入った多くの参考資料を両手に抱えて会場に到着しました。時間配分などの打ち合わせを済ませ、十九時の開講を待ちます。
 「十秒前、九、八、七、六、五、四、三、二、一、どうぞ!」
 講義が始まりました。
 三人のスタッフは、池田講師を囲むように並べた机で、Zoomの操作を行いながら、講義を聴きます。いや、より正確に言えば、聴き入ります。いや、さらに正確に言うなら、自ずと聴き入るように自らの身体が仕向けられる、そういう感覚です。それでは、何にそう仕向けられるのか…… よくよく振り返って考えてみると、これは、講義の内容、すなわち池田講師が語る言葉の内容に、というだけではなさそうです。それに加えて、講師の身体や言葉から発せられる、眼に見えない熱のようなものに仕向けられると言った方がよい感じです。
 以前、私には、池田講師が講義をしている様子が、暗いステージ上でスポットライトを浴びながら、バッハの無伴奏チェロ組曲を一心に弾く、熟練のチェリストに見えたことがありました。また、別の時には、高座で釈台をパンパーンと張り扇で叩きながら、絶妙に抑揚をつけて話す名講談師のように見えたこともありました。いずれの講義も、その光景が眼に焼き付いて離れません。これは、現地で直かに講師の話を聴くことができたからの役得でしょう。

 ところで先日、ビオラ奏者の友人に誘われて、福岡県の柳川市民文化会館「水都やながわ」に足を運び、ポーランド出身のピアニスト、イグナツ・リシェツキさんがアーティスティックディレクターを務めるアンサンブルを聴いてきました。日本ではあまり馴染みのないポーランドの音楽家ヴィエニャフスキやモシュコフスキの作品に接することができたことに加え、ピアノと弦楽器の見事な合奏を堪能できました。
 ホールもよかった。二〇二〇年に開館、当地出身の詩人の名を取り「白秋ホール」と命名され、すぐ横には、有名な柳川城の掘割ほりわり(幅の広い水路)の水が、静かにゆったりと流れています。風に揺られる柳の木の間を、大勢のトンボが飛んでいます。さらには、そういう立地と共鳴するかのように、ホール内での音の響きも鮮明で心地よい。地域の周辺環境などの特性を十二分に活かしきったホールと演奏会に、今後の大きな可能性を感じながら水都をあとにしました。

 さて、江古田の杜の基地局の状況に話を戻しましょう。
「それでは、皆さま、今晩もありがとうございました。Zoom配信を終了します……」
 あっという間に、その晩の講義がお開きとなりました。資機材を片付け床をワイパーでさっと拭き上げ、池田講師をお送りし、受付に鍵を戻すとすべてが完了です。
 再び、裏道の雑木林の坂を下りながら、次のようなことに思い至りました。私が「江古田の杜、リブインラボ」での池田講師の講義に聴き入ってしまうのは、講師の熱量やオーラに加えて、その周辺環境がやすらかな自然に恵まれていることとも大いに関係があるのではないか…… 気づけば、蝉しぐれもやんでいました。

 私塾レコダでは、平日の夜に開催中である三講座の、基地局での機材操作など運営をお手伝いいただけるスタッフを、引き続き募集しています。初めは操作に不安がある方でも、先輩スタッフがやさしく教えてくれますので、大丈夫です。江古田の杜で、四季の移ろいを全身に浴びながら、一緒に池田講師のお話を聴きましょう。
 ご興味おありの方は、事務局のメールアドレスまで、ぜひご一報をお願いいたします。 
(了)  

事務局ごよみ(10)
  「萬葉の黎明」と天武天皇の哀しみ
      ――私塾レコダ l’ecoda「『萬葉』秀歌百首」へのお誘い 
 橋岡 千代  
 前々回の「事務局ごよみ」(8)では、『萬葉集』巻第一の巻頭にある第二十一代雄略天皇の春の国見の歌を伊藤博先生の『萬葉集釋註 一』(集英社刊)に拠ってご紹介しました。「萬葉の時代」は、天智天皇、天武天皇の父である第三十四代舒明天皇の御代から始まると言われていますが、ここに第二十一代雄略天皇の御製歌が置かれているのは、「萬葉の時代」を準備した歴代天皇への敬意であり、中でも雄略天皇は、雄武の天皇として聞こえ、歌によって物事を支配した王者としても著名な天皇であったからだそうです。
 『古事記』の「下つ巻」は仁徳朝から推古朝で、一般に馴染みのある天皇の御名が並びます。この時期に神人分離の認識や大陸との国交、仏教統制機関の設置など中央集権国家の意識が盛り上がりますが、伊藤先生は「抒情詩の個性は、集団を構成する人間が国家の確立による統一的な秩序や機構によって制約をうけ、一定の義務や権利を与えられて矛盾や喜びを感じるときに形成されてくるといわれる」と書かれています。そしてその抒情詩は、『古事記』『日本書紀』に収められている古代歌謡や和歌が、推古朝を継ぐ舒明朝から急に増えだし、「萬葉の黎明」を迎えるとおっしゃっていますが、『萬葉集』の第二番歌に来る舒明天皇の国見歌は、この「黎明」を身をもって証された歌であり、古代の雄略天皇の御製歌を戴いた直後に実質的な冒頭歌として置かれています。

   天皇、香具かぐやまに登りて国見したまふ時の御製歌
 大和には 群山むらやまあれど とりよろふ あめの香具山 登り立ち 
 国見をすれば 国原くにはらは けぶり立ち立つ 海原うなはらは かまめ立ち立つ 
 うまし国ぞ 蜻蛉あきづしま 大和の国は

 伊藤先生の口語訳は次のように書かれています。
 ――大和には群がる山々があるけれども、中でもとりわけ神々しい天の香具山、この山の頂に出で立って国見をすると、国原にはけぶりが盛んに立ちのぼっている。海原にはかまめが盛んに飛び立っている。ああ、よい国だ。蜻蛉島大和の国は。……
 池田雅延塾頭は、「『萬葉』秀歌百首」の講義でいつもまず取り上げる歌を何度か読み上げられますが、この歌のときはとりわけ聴いているうちに古代の香具山に連れていかれ、そこの住人になったような心地がしました。たとえば「けぶり」という言葉は、平原から水蒸気となって立ちのぼる草のにおいや、家々の夕餉の炊煙などを思い起させ、嗅覚を刺激します。「国原はけぶり立ち立つ」「海原はかまめ立ち立つ」というリズミカルな対句を聴くと、瑞々しい土地の映像が広がり気持ちも豊かになります。それを「うまし国ぞ蜻蛉島大和の国は」と賛美される天皇の喜びは、大和の人々や自然へも移ってすべてに親和が生まれるかのようです。

 ――緊張した構図、詩想の豊かさ、形象力のたくましさ、躍動する韻律、高らかな感慨等々、どこから見ても、一首には萬葉の暁鐘にふさわしい高鳴りがこめられている。それは、この歌以前の記紀歌謡の国見歌などには「大和には群山あれど、とりよろふ天の香具山」のような、天皇の立つ環境の優位を示す表現がない点に思いを致すことによってもたやすく理解されよう。日本の詩の原郷ヤマトの躍動を鮮明に造型した一首によって、萬葉の朝が輝いたというべきで、このことは、日本最古の抒情歌集『萬葉集』の本質にとってすこぶる象徴的なことである。……

 この伊藤先生の言葉を受けて池田塾頭は、「萬葉集を読むことの楽しさは、萬葉歌のリズムに慣れ、古の大詩人たちが作り出した言葉の世界の映像、音響を全身で感じることです」とおっしゃいます。この「緊張した構図、詩想の豊かさ、形象力のたくましさ、躍動する韻律、高らかな感慨」といった萬葉の抒情歌のリズムには、まだ文字という書き言葉が日常のものにはなっていなかった萬葉の人々の、「声にのせる言葉がどれほど肉体化していたか」をまざまざと全身で感じ取れるような気がします。

 先日の「小林秀雄『本居宣長』を読む(第三十章)」の講義で、池田塾頭は「いにしえまことのありさま」を遺そうと『古事記』をつくり始めたときの天武天皇の哀しみについて話されました。その「哀しみ」とは、中国から渡来した漢字漢文に習熟していっても、それを借用して自国の言葉を書き記そうとすれば純粋には再現されないどころか自国の言葉が漢字漢文に呑まれて消滅してしまうという塞がった実情への危機感なのですが、裏を返すと、そこまで自国語に対する危機感を募らせるほどに天皇は「萬葉の黎明」期に父親の舒明天皇をはじめとする優れた歌人たちの豊かな抒情詩の中で育ち、長じてからも何事も歌の力をよりどころにしていたことが考えられるのではないでしょうか。
 こうして『萬葉集』の歌が朗々と謡われていたころの歌人の声や、私たちの国にはなぜ書き言葉が発明されなかったのかに思いを馳せながら「萬葉集」を読むと、まだまだ多くの歌の力が見えてくるような気がします。
(了)  

事務局ごよみ(9)
  言葉と想い
入田 丈司  
 このたび、「交流コーナー 交差点」の校閲・校正を通じて本誌『身交ふ』の編集に加わることになりました、入田丈司(いりたたけし)と申します。よろしくお願い致します。
 私は子供の頃から言葉で想いを伝えることに強い関心を抱き続けており、今回は自己紹介を兼ねて、現在の小林秀雄先生へと至る道の出発点である子供の頃の体験を記そうと思います。

 私の生まれ育った東京のわが家には、中学二年生頃まで、なんとプロの詩人が、血の繋がりはないながらも、ひとつ屋根の下に私の家族と今で言う二世帯住宅のような形で住んでいました。詩人の名は、三越左千夫さん(みつこしさちお 大正五年生~平成四年没)と言います。
 現在はもう無い、かつての平屋建てのわが家で玄関は一緒、その先の一部屋に三越さんが一人で自活されていましたが、部屋鍵はなく行き来も自由にできました。三越さんは私を「坊や」と呼んで可愛がって下さり、私も何かとその部屋に入りびたり、小学時代の夏休みには、三越さんの弟さんが商店を営んでいた千葉県佐原市の生家への里帰りに付いて行っては遊んでいました。また三越さんの風姿は、映画「男はつらいよ」の寅さんこと車寅次郎を上品にして眼鏡をかけた感じ、と言いましょうか。庶民的で、若い頃は細身だったそうですが、私が物心ついた頃には、ふくよかな体形でした。
 現代詩には難解な印象がありますが、三越左千夫さんの詩は誰にでもわかる表現で、ある時期からは、子供や生徒向けの雑誌などに発表する「子供にも充分読める詩」と「大人に向けた詩」の両方を創り続けていらっしゃいました。日々の中でいつ詩作をされるのかが謎でしたが、よく朝方に布団にうつぶせになって何やら小さな呻吟とともに紙に書き付ける姿があり、時たま卓袱台のような机に向かい真剣な顔で原稿用紙に万年筆で丁寧に記されていました。
 ここで三越左千夫さんの詩を、ひとつ紹介させて下さい。

      おちば
             三越左千夫
  おちばを ことりにして 
  そらへ とばしたのは
  いたずら きたかぜ

  おちばを ふとんにして
  はるまで ねるのは
  やまの どんぐり

  おちばを さらにして
  ままごと したのは
  ふたりの いもうと

  おちばを しおりにして
  ぼくは ほんの あいだに
  あきを しまいます
     (アテネ社刊『新版 三越左千夫全詩集』 p. 483)

 私はこの詩を目にした時、あの、周囲の大人達と何ら変わりない、生活感にあふれた庶民的に過ぎるとすら見える三越左千夫さんの、一体どこから、この素敵な想いの溢れる言葉がやって来るのだろうかと、ただ驚嘆していました。
 子供の頃の私は上野の科学博物館が大好きな理科少年で、それでも高校生となればイッパシに失恋もして、胸の内を詩にしてやろうと思えば思うほど書けない自分でした。振り返ると、とても狭い意味での頭だけを使って詩を書こうとしていたのでしょう。けれども、それは、所詮無理だった、ということなのだと今では思っています。しかしその一方で、この三越左千夫さんとの交流、また彼の生家の豊かな自然に浸かった日々が、私の内面のとても大きな財産になっていることに、また小林秀雄先生に至る道の出発点となっていることに、私は徐々に気づいてきました。

 私は大学で物理学を専攻し製造業に就職、技術者を仕事にしています。ですが、想いを表す言葉への関心は薄れるどころか、それは私が精神面で手応えを持って生きていく糧ではないかと思うようになっています。
 そんな心境を抱いて還暦も見えてきた頃、茂木健一郎さん主宰の「小林秀雄に学ぶ塾」に入らせて頂き、池田雅延塾頭の御指導を受け、小林秀雄先生の大著『本居宣長』と取り組んでいます。
 そして宣長の言語観について述べた小林秀雄先生の次の文章に出会い、大きな感銘を受けました。

 ――私達の身体の生きた組織は、混乱した動きには堪えられぬように出来上っているのだから、無秩序な叫び声が、無秩序なままに、放って置かれる事はない。私達が、思わず知らず「長息」するのも、内部に感じられる混乱を整調しようとして、極めて自然に取る私達の動作であろう。(中略)確かなのは、宣長が、言葉の生れ出る母体として、私達が、生きて行く必要上、われ知らず取る或る全的な態度なり体制なりを考えていた事である。言葉は、決して頭脳というような局所の考案によって、生れ出たものではない。この宣長の言語観の基礎にある考えは、銘記して置いた方がよい。(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集 p261、8行目~、第23章)

 これは深遠な認識です。想いを伝える言葉が発せられるのは、人との、世の出来事との、自然との、など自分と(広義の)他者との深い交流によって、心身が揺り動かされることがみなもとなのだと気づかされます。人の内面は、そのように出来ているのだとも。
 そして学ぶことも、その対象と深く交わることなくしては成し得ない、と言えます。
 優れた批評も、また詩作も、これが底流にしっかりとあるのだと思います。

 「交流コーナー 交差点」への皆さんからの投稿も、それぞれの講義の、また古人の言葉との交流から生まれた文章です。これを胸に、おひとりおひとりに丁寧に向き合っていきたいと思います。
 また私は、とある事から短歌、和歌への関心が強くなり、還暦後の人生で多少なりとも歌を詠み、我が子などに言葉を残せればと思っています。
 最後に「萬葉集」から、御講義での選とは別の和歌ですが、私の好きな一首を引いて名の知れぬ古人の想いと交わりつつ、稿を閉じます。
 
  いめのごと 君をあひて あまらし
    降りくる雪の 消ぬべく思ほゆ
        (「萬葉集」巻十 冬さうもん 2342番歌 作者未詳)
(了)  

事務局ごよみ(8)
  夏といえば白
     ――私塾レコダ l’ecoda「『萬葉』秀歌百首」へのお誘い 
橋岡 千代  
 前回の「事務局ごよみ」(5)では、池田雅延塾頭の講座「新潮日本古典集成で読む伊藤博氏撰『萬葉』秀歌百首」より、雪という天象を通じて冬から春を迎える「萬葉」の人々の心に思いを馳せました。今回は、持統天皇の夏の名歌に偲ばれる、女帝のおもかげをお伝えいたします。

 春過ぎて 夏来きたるらし 白栲しろたへの
  衣干したり あめの香具山
                   とう天皇てんのう

 この歌は百人一首でも知られる、夏到来の歌です。
 伊藤博先生の釈文では、「衣のその清浄な白さは、明快な夏の感覚を見事に表象している」「日本に夏がおとずれきった歓喜を、すこやかに宣言した歌であるといってよい」と書かれています。けれど、その一方で「萬葉びとは夏という季節をあまり好まなかった。『萬葉』では、夏の名歌が絶無に近いばかりでなく、夏歌自体が極端に少ない」とも仰っています。
 春の優しい花や清水に一年の始まりが朗らかになる芽吹きの季節が過ぎると、陽の光はだんだん強く照りつけるようになり、雨は緑をたくましくします。すると大気は湿度を含んで厚くなり、人々の気分も自ずとぐったりしてくるのでしょう。当時の暦は中国から渡来した太陰暦で、夏は四月から六月とされていましたが、現在の太陽暦では五月から七月頃に当たります。夏のイメージは「萬葉」の人々にとっては梅雨であったのかもしれません。
 では、持統天皇は、、人々の心に反して、どのような思いが働いてこの歌を詠まれたのでしょうか。伊藤博先生の『萬葉集釋注』(集英社刊)では、持統天皇の一生をこう紹介されています。

 ――姉とともに大海人皇子(天武天皇)に嫁し、草壁皇子を生み、皇統をこの子とその血脈に伝えることに腐心した。姉大田大田おおたの皇女ひめみこの他界(六六七年頃)によって優位を占め、壬申の乱の終わった天武二年(六七三)二月、皇后となり、天皇の陰で手腕を振るった。天武崩後、ただちに称制、病弱気味の皇太子草壁皇子の即位までの時をかせいだ。しかし、持統三年(六八九)四月、皇太子病死に及び、翌年正月即位。夫天武の遺業をひたすらに継承、かつ発展させ、きよ御原令みはらりょうの完成、戸籍の作成、藤原宮の造営など、充実した政治を行い、「萬葉」の盛期を築いた。持統十一年八月、孫の軽皇子かるのみこ(十五歳)に位を譲り、文武もんむ朝大宝二年(七〇二)十二月二十二日、世を終わった。――

 池田塾頭は、この、時代が大きく揺れるはざまで、数々の困難を乗り越えた持統天皇という女帝は、新しいものに対する感受性が豊かで、為すべきことは何かを適確に判断する力を持つ、進取の気性に富んだ方だったのだろうと仰っています。
 その一つは、大陸から入ってきた太陰暦の暦法を先に挙げた歌に取り込まれて、春から夏へと人の心が季節の変化に驚くことを歌にされたことですが、日本人はこの歌がうたわれてのち、春夏秋冬という言葉を意識的に使い始めています。しかも、祖父のじょめい天皇が「ひさかたの 天の香具山 このゆうへ 霞たなびく 春立つらしも」と詠って、萬葉人の心に、大和の中心に天くだった香具山にことよせて春の到来を浸透させたように、持統天皇は「香具山の麓に白い衣がたなびいている、どうやら夏が来たらしい」と、白い清涼感を装った夏を萬葉人の心に印象づけました。
 この「白」という清潔感の代表である色から連想されたのか、女帝は、皇族の葬儀の慣習を潔く変更されます。それを伊藤先生はこのように仰っています。「遺言によって、日本の帝王の火葬は持統女帝の葬儀から始まった(日本人の火葬の最初は、文武四年の僧道昭とされている)。自分のからだが熱く燃えることもいとわず、さっと焼いて一瞬のうちに白骨と化す火葬に思いを寄せる人物は、気丈であると同時に、いたく清潔でもあったのではないか。二年三か月にもわたる夫天武天皇の、しかばねを保存したままの古来の葬儀を行った持統は、愛する夫の屍に「蛆集うじたかれころろく」(『古事記』上巻)のを目にしたに違いない。彼女が清潔な火葬に思いを寄せたのは、その時であったかもしれない」。
 けれど、持統天皇の「進取」の成果がもっとも表れたのは「萬葉集」を発案されたことでしょう。ゆくゆくは皇位につき、また皇族の一員として国を支えて行く皇子皇女たちに、人間が生きることに伴う心の働かせ方や日本人の生活ぶりを「歌」によって教育しようとされました。
 このように、持統天皇は現代にまで道をつけるいくつもの功績を遺されていますが、さて、今回取り上げた歌をもう一度読んでみましょう。

 春過ぎて 夏きたるらし 白栲しろたへの
  衣干したり あめの香具山

 この歌は子どもの心にも真っすぐ話しかけてくる朗らかな歌ですが、伊藤先生は、夏到来に感動する女帝の歌は、「早咲きの狂い咲きの感がある」と仰っています。さらに、律令国家が形づくられていく中で、大陸からの画期的な文化の浸透の影響があるとしても、それを超えて「持統御製の個性は照りまさるばかりである」と仰っています。
 夫に先立たれ、たった一人の我が子に先立たれ、それでも遺されたまつりごとを次々と遂行し、自らも後世に新風を開いて皇統を守った持統天皇の人生は、一刻一刻、自己の歩む道を吟味する余裕などなく、為すべき判断に迫られていたことでしょう。それはひたすら国母として、母として、亡き夫を慕う妻として、「守る」ことを生き甲斐に乗り切った、そういう人生だったのではないでしょうか。そう思うと、この歌には、暑い夏も、心に白栲しろたへをなびかせることで、清涼な夏が生まれて来る、そのように聞こえ、歌に学ぶ知恵を女帝に伝えられた気がして快くなります。女帝は、現代風に言えば、目の前にたとえどんな絶望や悲嘆で真っ黒なカードが出ても、次々と困難を消していくかのように、健やかさや清浄という真っ白なカードに裏返してみせられた……伊藤先生が「早咲きの狂い咲き」と仰る言葉に深くうなずき、目の前に炎天下に咲く大輪の白い花が現れたようでした。
 なお、百人一首には、「夏来るらし」を「夏来にけらし」と、「衣干したり」を「衣干すてふ」と、詠み替えられています。中世以降の和歌は、このような婉曲表現を好む詠み方が広まっていたようですが、ここに述べてきたように、せっかくの持統天皇の気概と清潔なイメージが台無しになって、そのまま広く知れ渡っていることを残念に思います。
(了)  

事務局ごよみ(7)
  ChatGPTと小林秀雄
安達 直樹  
 対話形式で、どのような質問に対してもかなりの精度で答えてくれる人工知能(AI)ChatGPT(チャットジーピーティー)が話題となっている。この人工知能は急速に改良が進んで、ついには米国の司法試験の模擬試験で上位10%の成績を取るまでになったそうだ。調べ物をするという行為が、「資料や文献に当たる」ということから、いつの間にか「インターネットで検索する」に置き換わってきているように、「AIに質問する」ことが主流となっていくのにも、それほど時間がかからないように思われる。教育の現場では、この人工知能が、「優」の評定をつけざるを得ない課題レポートをほんの数秒で仕上げてしまうために、大学の教員などは、学生の理解度や思考の力を「面接」で評価する必要に迫られるようだ。その一方で、あらゆる業種において、資料作成などの強力なアシスタントとなってくれるのではないかという期待も膨らんでいる。
 
 去る四月二日、山の上の家の塾では、茂木健一郎さんが「小林秀雄と人工知能」というタイトルで講演をしてくださった。冒頭で茂木さんは、世間が大騒ぎしているChatGPTの本質について、この人工知能がやっていることが、基本的にはインターネット上のすべての文章のデータを用いながら、次に来そうな単語が何かを統計的に予測して、「平均知」としての尤もらしい文字列を作り出すことだと、解説をしてくださった。次いで、人工知能が得意とする「統計知」が生成する「合理性」と、一人ひとりの「個人の経験」から生まれてくる「表現」とが、まったく別の領域に属すること、また、「表現」は生きている身体から発するもので、それゆえに、卓越した表現には人間の「成熟」が必要であることを指摘されたうえで、たとえモオツァルト風の音楽や小林秀雄風の文章を生成できたとしても、「成熟」を知らない人工知能には、モオツァルトや小林先生のような人の心を動かす表現を生み出すことはできないと述べられた。また、人工知能がこのような性質をもつことで、今後、私たちは、表現や創造とは何かという問いを突きつけられることになるため、小林先生の作品を読むことの価値は、ますます大きくなると締めくくられた。
 茂木さんが、「今回の講演は決して人工知能を否定するわけではなく、その立ち位置を相対化させる意味合いのもの」と言われた通り、これまでぼんやりと認識していたChatGPTの機能を、人工知能とは対極にある小林先生と対比させることで、私たちにはっきりと理解させてくださった。また、なによりもその講演が、茂木さん自身の熱がこもった訴えといった気味合いで、大きく心を動かされた。

 茂木さんの話に触発されて、すぐにChatGPTを使ってみた。その人工知能は、物知り博士のように、、文法的に間違いのない教科書のような文章を瞬時に返してくるし、すこしは気の利いた詩や和歌まで作ることができて驚いたが、それらを読んで心を動かされることはなかった。また、画面上にそつのない答えをつらつらと書き出す人工知能に、テレビやインターネットで、尤もらしい言説を表情ひとつ変えずに話すコメンテーターの姿が重なった。もしかするとそういう人たちこそ、最も早くAIに仕事を奪われるのかもしれない。そこに欠けているもの、尤もらしい正解を導き出す目的のために平均化を指向することで人工知能やコメンテーターが宿命的に見落とすもの、それは、私たち一人ひとりの人生の瑣事さじや機微である。小林先生は、著作の中で、瑣事の持つ力を知ることの大事を幾度となく説いている。そして、さまざまな人物の人生や生活の瑣事に研ぎ澄まされた眼を凝らすことで、過去に生きた人を、私たちの眼前に蘇らせる。

 茂木さんには、新潮社の『小林秀雄全作品』の第26集「信ずることと知ること」刊行に寄せて書かれ、その巻末に収録されている「合理を貫き、官能を生きること」という名文がある。どうやら私たちは、論理性と感性という二つの翼で飛んでいるようである。理屈ばかりを並べ立てて、虚しく片方の翼だけで羽ばたいてクルクルと旋回しているような人の姿は滑稽に映る(無論、旋回している者同士は、互いに止まって見える道理だが…)一方で、日々の経験は予測不可能で論理性はなく、私たちの感性を育てるが、みんなが一回性の生の経験を持ち寄るばかりでは、共通の話はできなくなる。人工知能はいわば、高性能の機械でできた一翼をもつ雛のようなものということになるが、茂木さんは先の文章の中で、極上の美しい双翼で飛翔する小林先生を描き出している。講演を聴いた池田塾頭が「小林先生の文章には、これが正解と言ってしまえるような大意や要旨はない」と言われたが、正解を出すことを使命としている人工知能と、批評という表現をする小林先生とでは、そもそもやっていることが違うということを指摘されたのだと、今になって思い至る。

 人の心を動かすような表現には、たしかに、「成熟」も大切な要素となるのだろう。小林先生は、「常識について」(『小林秀雄全作品』第25集所収)で、デカルトが自分の著想ちゃくそうを実行するまでに、「自分自身と世間という大きな書物」の他は何も頼まぬ「経験」「実習」「訓練」の九年の歳月をかけて成熟を待ったことなど、後世に残る仕事をした大人物にとって、自身の成熟や円熟、また、機が熟するということが大切であったことを書き記している。
 ——成功は、遂行された計画ではない。何かが熟して実を結ぶ事だ。其処には、どうしても円熟という言葉で現さねばならぬものがある。何かが熟して生れて来なければ、人間は何も生む事は出来ない。(「還暦」/同第24集所収)
 小林先生自身、「近代絵画」に五年、「本居宣長」には十二年の歳月をかけた。
 今後、インターネットには人工知能が作成した文字列が氾濫するのだろう。その中で、人の心を動かし、いつまでも読まれるような言葉を遺すためのヒントは、やはり、「古事記」を三十五年の歳月をかけて読み解いた本居宣長が「うひ山ぶみ」で述懐した「倦まずおこたらず」ということなのかと、まるで帰巣本能に導かれるように、私はいつも同じ場所に戻ってきて反省をする。

 なお、茂木健一郎さんの同内容のご講演はYoutubeで公開されています。ぜひご覧ください。
   https://www.youtube.com/watch?v=Dhmb_U_Fjo0
(了)  

事務局ごよみ(6)
  解き難き姿と親しむ

村上 哲 

 小林秀雄の文章は難しい、殊に『本居宣長』は難解極まる……。
 この手の評は、小林秀雄氏当人がご存命のころから今に至るまで続く、ある種の共通認識とすら言えるのではないでしょうか。
 私も、『本居宣長』を読み始めてからようやく十年経とうかというところではありますが、その真意を理解したなどとはとうてい言えません。しかしその一方で、『本居宣長』ほど明らかな文章もそうそうない、そう言いたくなるような感覚もまた、私の中に間違いなく存在します。どころか、初めて『本居宣長』を読んだ時、まず私の中に腰を据えたのはこの感覚でした。
 なるほど、『本居宣長』に何が描かれているのかわかるように説明しろと言われれば、まったく言葉に窮するしかないでしょう。しかし、実際に読んでみて、私の心を照らさない文章だと思ったことは一度もありません。そうでなければ、何度も、何年も読み直し、考え続けることなんて出来はしないでしょう。なんなれば、何かを好きになるとは、相手の解き難きその姿と親しむことではないでしょうか。『本居宣長』の姿は、難解ではあっても、決して、親しみ難いものではないように見えます。
 試しに、理解などというものを忘れ、ただ文を読むという行為の中に身を投じたならば、これほど読みやすい文章もないのではないでしょうか。もちろん、今の感覚で言えば言葉そのものが難しいところはありますし、そこに引かれている古文を読み切ることも難しいと言えるでしょう。ですがそれは、文章を隅々まで理解しようとする時の難しさであり、文を読む時の難しさとは、必ずしも一致しないように思われます。
 こう言ってみると、そんなものは読書ではないとお叱りを受けるかもしれませんが、私達が文章を読むとき、果たして、一字一句を丁寧に拾い上げ、一言一句取りこぼすことなく、明瞭に認識しているでしょうか。少なくとも私は、もっと曖昧に文章を読んでいるように感じます。もちろん、それを一概にいいことだとは言いません。特に、より深く読み進めようと思うならば、文字通り一言一句に神経を張り巡らせていく必要があるでしょう。
 ですが、まずこの文と親しむ、すなわち文と「身交ふ」うえで、この曖昧な読みというものは、存外、見過ごせないものなのではないか、そんな思いが私の中にあります。
 なるほど、曖昧な読みは文を読んでいるとは言えないかもしれません。では、ここで私達は、少なくとも私は、何を読んでいるのでしょうか。おそらくそれは、文体と呼ばれるものでしょう。きっと私は、そこに「文の姿」を見ているのです。「文の姿」と「身交」っているのです。
 もちろん、曖昧な読みはその曖昧さゆえに、多くの誤解を生む危険があります。一時の納得に留まらず、より理解を深めようという努力は不断に行われるべきでしょう。ですが、古典や古書の熟読というものは、この、「文の姿」と「身交ひ」、温められた親しみにこそ、支えられているのではないでしょうか。

(了) 


事務局ごよみ(5)
  降る雪のうれしくあらまし 
     ――私塾レコダ l’ecoda「『萬葉』秀歌百首」へのお誘い 
橋岡 千代  
 この一月末、関西は十年ぶりの雪に見舞われました。明け方、戸を開けると外は真っ白に降り積もった雪が広がり、さて……とこちらの頭もまっ白になりながら、ともかく和服に着がえてお茶会へでかけなければなりませんでした。バスはこないし、タクシーはつかまらない……雪は風とともに勢いを増していきます。……歩いた方が早いかもしれない、と大通りを北に向かうことにしました。アスファルトの上は十五センチほどの積雪ですが、川風で凍てついた橋の上は膝丈ほども積もっています。見慣れた山々は白く立ちはだかり、一夜にして町を雪国にしたひとひらひとひらの雪を見上げながら、「萬葉集」のある歌を思い出しました。

  大口おほくちの 真神まかみの原に 降る雪は 
    いたくな降りそ 家もあらなくに                     
             舎人娘子とねりのをとめ[1636]

 [1636]は、『国歌大観』で振られている歌番号ですが、大著『萬葉集釋注』(集英社刊)を遺された伊藤博先生は、この歌を次のように訳されています。
 ――真神の原に降る雪よ、そんなにひどく降らないでおくれ。このあたりに我が家があるわけでもないのに。
 その語注では、――「大口の」は、「真神」の枕詞。真神(狼の異名)の口が大きい意から冠したもの。一首の荒寥感に響くところがある。「真神の原」は、奈良県高市郡明日香村にあった原。飛鳥寺から香具山に続く一帯。……と記されています。なお、『萬葉集釋注』は集英社文庫にも入っています。
 皆さんもご存じのとおり、毎月第四木曜日に池田雅延塾頭が伊藤博先生撰の「『萬葉』秀歌百首」のご講義をされていますが、私も毎回楽しみに受講しています。そのおかげで日頃ふとした瞬間に古の人と一緒に見ているような情景を発見することがあります。
 先の歌は、奈良朝以前の風格ある古歌として巻第八の「冬雑歌」の冒頭に置かれていますが、伊藤先生は口語訳とは別の釈文で「肌にしみて寒い」歌と仰っています。吹雪の中で、一人香具山辺りの平野を過ぎ行くとき、何者かがぱっくり口を開けて待っているような空恐ろしさを感じます。舎人娘子の心細さが「雪」を介して玄冬をいっそう厳しく感じさせます。
 私はその日、お茶会の席入りになんとか間に合い、しびれた手足がほぐれていくのを感じていると、広いお庭に面した座敷から数人の女性たちの感歎の声が聞こえてきました。行ってみると、差してきた日の光が雪化粧したお庭をいっそう白く照り返し、そこに新たな雪があとからあとから散らつき始めていました。雪のゆっくり落ちて来る情景は、男性よりも女性に似合います。天平時代に聖武天皇のお后、光明皇后はこんな歌を詠まれています。

  我が背子せこと ふたり見ませば いくばくか 
    この降る雪の 嬉しくあらまし
             藤皇后とうくわうごう[1658]

 伊藤先生の訳は、
 ――我が背の君と二人一緒に見ることができましたら、どんなにか、この降り積もる雪が嬉しく思われるでしょうに。
 そして語注には、「藤皇后」とは光明皇后のこと、藤原不比等の娘、と書かれています。                 
 釈文には、「降る雪に寄せて夫を思慕する歌。皇后であることを捨てて一人の女性になりきっているところに、やさしくて可憐な姿がある」とあり、このころ聖武天皇は、皇后のいとこ藤原広嗣の叛乱に遭って東国巡幸に出かけている最中でした。伊藤先生の釈文は、歌の背景を単に並べて示すのではなく、このような皇后の複雑な心境や孤独感を見ていたかのように語りかけてくださいます。そのエッセンスを池田塾頭が取り次いでくださる、このお二人の連携プレイこそは”レコダ萬葉” の魅力です。
 さて、「雪」といえば「白」ですが、無彩色でありながらこれほど光が詰まっていて、他とかけ離れた力を持つ色はありません。百二十年ほどかけて編纂された「萬葉集」の最後の編者である大伴家持やかもちは、この白い雪を天皇の威徳に見たて、その御代が永遠に続きますようにと、予祝よしゅくの歌で「萬葉集」全二十巻を締めくくっています。

  あらたしき 年の初めの 初春の 
    今日けふ降る雪の いやしけ吉事よごと
             大伴家持[4516]

 伊藤先生の訳は、
 ――新しき年の初めの初春、先駆さきがけての春の今日この日に降る雪の、いよいよ積もりに積もれ、き事よ。         
 釈文には、「ここは『いやしけ』と命令形(願望)になっている。上からは『今日降る雪よ、この雪のいやしけ』という関係になり、その『いやしけ』は『吉事』にかかわり、『吉事よいやしけ』というのが結句の意であるから、『雪』と『吉事』とは等質の物ということになる。家持の眼前に降りしきるめでたい『雪』そのものが家持の願望するそのものとして降り積もっているのである。だから、『いやしけ吉事』は未来に及ぶことでありながら、眼の前に今実現しつつある。これは予祝の断定と言ってよいだろう」と書かれています。
 この『いやしけ吉事』をうけて、伊藤先生は大伴家持がこの「予祝」の歌をどんな思いで全二十巻にも及ぶ歌集の終わりにもってきたのか、そしてそこから「萬葉集」の誕生のいきさつにも考察を展開されています。
 伊藤先生は、集英社の『萬葉集釋注』より先に、新潮社の「<新潮日本古典集成>萬葉集(『新潮萬葉』とも呼ばれています)」の校註者としても中心的な役割を果たされ、各巻末の解説で「萬葉集」という歌集はなぜつくろうとされ、どういう風につくられていったかを詳しく書かれています。この「新潮萬葉」の担当編集者を十五年間務められた池田塾頭の講義では、「萬葉集」の幕開けを伊藤先生の註釈に則して、次のようにお話しされています。
 ――そもそも、『萬葉集』の発案者は天武天皇亡き後、皇位についた皇后の持統天皇でした。持統天皇は大和の国が幾久しく国民にとって安らかな国であることを願われました。そのためには、やがて国を治める立場となる皇子や皇女がこの大和の国の民の生活ぶりや心を知らなければよき統治者となれない、その教科書として、歌集に勝るものはない、そう考えられました。さらに、今後どの時代にあってもこの教科書が統治者のよりどころとなるような、そういう歌集の編纂が目指されました。そうした「持統萬葉」に継いで元明天皇のころには「元明萬葉」、元正天皇のころには「元正萬葉」と、編纂事業が続きました。それぞれの時代には、実際の立役者、柿本かきのもと人麻呂ひとまろ額田王ぬかたのおおきみ、大伴家持など、優れた歌人たちが天皇のそばに控え、その天皇の国を思う壮大な御心をよりどころとして、自らも歌を詠み、天皇から乞食者ほがいびとまであらゆる層の歌を集めて編んでいきます。つぶさに読むと、それは決して純朴な歌集ではありません。人間が生きていく上でどんな局面に立たされても、どう切り返して乗り越えるか、まさに持統天皇が望んだ名歌の集まりとなっています。……
 その人々の人生を支え励ますかのように巻第一の劈頭へきとうには第二十一代雄略天皇の春の歌を置き、「萬葉集」全巻の末尾巻第二十にはやはり春の歌で全二十巻を包む仕立てになっています。
 その巻第一の巻頭、雄略天皇の歌は国見の歌です。

 もよ み持ち ふくしもよ みぶくし持ち 
 この岡に 菜摘なつます子 家らせ 名らさね 
 そらみつ 大和やまとの国は おしなべて 我れこそれ 
 しきなべて 我れこそれ 我れこそば らめ 家をも名をも

 伊藤先生の訳は、
 ――おお、かご、立派な籠を持って、おお、掘串ふくし、立派な堀串を持って、ここ、わたしの岡で菜を摘んでおいでの娘さん、家をおっしゃい、名をおっしゃいな。さきわうこの大和の国は、くまなくわたしが平らげているのだ。隅々までもこのわたしが治めているのだ。が、わたしの方からうち明けようか、家も名も。……
 語注では、「国見」とは「望見くにみ」のことで、高い所から国の有様を見ること、もと「春秋」(古代中国の歴史書)に五穀豊穣を願い祝う儀礼、と書かれています。
 天皇が土地の娘に家や名を問うという当時の大らかで明るい求婚の場面は、彩り豊かな野辺の花が揺れているようでもあり、青い土が匂い立つようでもあり、春の躍動が長歌のリズムとなっています。伊藤先生の釈文には「土地の娘と天皇との結婚はこの地が天皇に服属することを意味するとともに、結婚による子孫の繁栄ということから、この地の五穀豊穣を約束する意味を持つ」と書かれています。

 さて、私は、「雪」という天象に触れ、今も昔も人の心をとらえるのはなぜかと考えたとき、とっさに「萬葉集」が頭に浮かびました。こうして歌を通じて古の人の心を訪ねて行くことができるのは、おそらくこの国には古来、四季の移り変わりや天候のあらわれという時空を超えた風土の接点があるからではないでしょうか。
 現代の私たちはそれを「趣」とでも言うのかもしれません。しかし古代の人々は、雪のみならず森羅万象と直結しており、そこで感じる畏れを生活の経験として深い所で育て、それをよりどころにして人生の山坂を超えて行ったのではないでしょうか。古語の一息に読めない音やリズムを何度も声に出すうちに、この切実な思いが伝わってくるような気がします。
 小林秀雄先生は池田塾頭に、「僕は若い頃、フランスやロシアの本ばかり読んで、日本の古典は四十歳になるまでほとんど読んで来なかった。しかし、『萬葉集』だけは早くから愛読した」とおっしゃったそうです。その「愛読」はおそらく「生きていくための歌」として持統天皇の心が何百年も経て小林先生の心にも伝わっていたということではないでしょうか。
 三月の講座「小林秀雄と人生を読む夕べ」では、「蘇我馬子の墓」が取り上げられます。今日、一般には明日香の石舞台古墳として知られていますが、この地を訪れた小林先生の文章はこんな風に結ばれています。
 ――私は、バスを求めて、田舎道を歩いて行く。大和三山が美しい。それは、どの様な歴史の設計図をもってしても、要約出来ぬ美しさの様に見える。「万葉」の歌人等は、あの山の線や色合いや質量に従って、自分たちの感覚や思想を調整したであろう。取り止めもない空想の危険を、僅かに抽象的論理によって、支えている私達現代人にとって、それは大きな教訓に思われる。(中略)山が美しいと思った時、私は其処に健全な古代人を見附けただけだ。それだけである。ある種の記憶を持った一人の男が生きて行く音調を聞いただけである。……
 小林先生が古典や歴史と出会われたときには、いつもこの「音調」を聴いてらっしゃったにちがい、と思いながら私も早春の雪に耳をすませました。
 皆さんもぜひこの音調を聴きに「伊藤博氏撰『萬葉』秀歌百首」にいらしてください。そして、このホームページ『身交ふ』で募集中の「新撰・私撰、私たちも『萬葉』百首」にこれぞと思った歌をぜひご推薦ください。『身交ふ』の彼方から、今度はどんな「音調」が聞えてくるでしょうか。
(了)  

事務局ごよみ(4)
  小林秀雄素読塾のご案内 
有馬 雄祐  
 数人の塾生からベルグソンが読みたいという声があがり、それならば素読でという池田雅延塾頭の教示により、2014年に素読会が始まりました。「素読」とは、古典の文章を一区切りずつ、皆で声を揃えて読んでいく読み方です。その特徴を強調するなら、内容の理解は云々せず、声に出して読むだけという点になります。ベルグソンの『物質と記憶』と、異色な組み合わせではありますが『古事記』の素読会が並行して開催され、『古事記』の素読を終えた後の2017年5月からは『源氏物語』の素読を始めました。現在はベルグソンの著作と『源氏物語』の素読会をそれぞれ隔月で開催しており、『源氏物語』の素読会は謝羽さんに舵をとってもらいながら、私の方は主にベルグソンの素読会で幹事を担当しています。
 生命の哲学に取り組んだアンリ・ベルグソンは、小林先生が最も敬愛された哲学者です。小林先生の思想をより深く理解したいと願う多くの方が、ベルグソンの著作にも関心を寄せられています。しかし、ベルグソンの著作は難解であるともよく言われます。小林先生でさえ、ベルグソンの『物質と記憶』を一応わかったという確信が持てるまでには十年の月日を要したと、そう池田塾頭に言われたというのですから、その難しさはお墨付きです。私自身も『物質と記憶』の素読会に参加し始めた当初は「わからない」という印象が強くありました。『物質と記憶』には、「イマージュ」や「純粋記憶」といった、ベルグソンの著作に特有な言葉が出てきます。そうした言葉の定義を追いかける、分析的な読み方を密かに試みたりもしたものですが、上手くいきませんでした。
 けれど、ともかく素読を続けるうちに、ベルグソンの作品のリズムや、言葉の響きが、馴染み深いものに感じられようになりました。『物質と記憶』という作品を、音楽作品であるかのように、心地よいリズムで読もう、なるべく皆と声を合わせてみよう、そうした努力を続けるうちに、「わからない」といった印象が薄れてくる。要するに、『物質と記憶』に慣れるのだ。すると不思議なもので、ベルグソンの言葉が意味する内容も、文章全体のリズムを通じて、少しずつ感じられるようになってくる。小林先生はベルグソンの文体を「驚くほど透明で、潔白である」と評されますが、あれほど複雑に思えた文章が、ベルグソンが観ている生命の実相を真っ直ぐに伝えようとしている文章に感じられてくるのです。
 これは、小林先生が言う「すがた」の経験であったのだろうと思います。小林先生は世界的な数学者である岡潔さんとの対談「人間の建設」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第25集所収)で、素読こそが古典の「すがた」に親しむ唯一の方法であると、次のような話をされています。

 小林:岡さん、どこかで、あなたは寺子屋式の素読をやれとおっしゃっていましたね。一見、極端なばかばかしいようなことですが、やはりたいへん本当な思想があるのを感じました。
 岡:私自身の経験はないのですが、ただ一つのことは、開立かいりゅうの九九*を中学二年くらいだった兄が宿題で繰り返し繰り返し唱えていた、私は一緒に寝ていて眠いまま子守唄のように聞き流していたのです。ところがあくる日起きたら、九九を全部言えたのです。以来忘れたこともない。これほど記憶力がはたらいている時期だから、字をおぼえさせたり、文章を読ませたり、大いにするといいと思いました。(中略)(*執筆者注:「開立」とは、ある数や代数式の立方根を求めることで、その九九とは三乗九九のこと。)
 小林:昔は、その時期をねらって、素読が行われた。だれでも苦もなく古典を覚えてしまった。これが、本当に教育上にどういう意味をもたらしたかということを考えてみる必要はあると思うのです。素読教育を復活させることは出来ない。そんなことはわかりきったことだが、それが実際、どのような意味と実効とを持っていたかを考えてみるべきだと思うのです。それを昔は、暗記強制教育だったと、簡単に考えるのは、悪い合理主義ですね。「論語」を簡単に暗記してしまう。暗記するだけで意味がわからなければ、無意味なことだと言うが、それでは「論語」の意味とはなんでしょう。それは人により年齢により、さまざまな意味にとれるものでしょう。一生かかったってわからない意味さえ含んでいるかも知れない。それなら意味を教えることは、実に曖昧あいまいな教育だとわかるでしょう。丸暗記させる教育だけが、はっきりした教育です。そんなことを言うと、逆説をろうすると取るかもしれないが、私はここに今の教育法がいちばん忘れている真実があると思っているのです。「論語」はまずなにをいても、「万葉」の歌と同じように意味をはらんだ「すがた」なのです。古典はみんな動かせない「すがた」です。その「すがた」に親しませるという大事なことを素読教育が果たしたと考えればよい。「すがた」には親しませるということが出来るだけで、「すがた」を理解させることは出来ない。とすれば、「すがた」教育の方法は、素読的方法以外には理論上ないはずなのです。実際問題としてこの方法が困難になったとしても、原理的にはこの方法の線からはずれることは出来ないはずなんです。私が考えてほしいと思うのはその点なんです。古典の現代語訳というものの便利有効は否定しないが、その裏にはいつも逆の素読的方法が存するということを忘れてはいけないと思う。……

 この小林先生の教えに倣い、私たちはベルグソンの著作を素読しています。小林秀雄素読塾は古典の素読をただ続けるだけの会ですが、ぜひいらっしゃってみて下さい。より詳しくはyusukearima77@gmail.comまでお問合せ下さればご案内します。
(了)  

事務局ごよみ(3)
  運営スタッフ募集中! 
坂口 慶樹   
 ≪私塾レコダ l’ecoda≫における三講座の、基地局での機材操作などすべての運営は、ボランティアスタッフの手で行われています。私もその一員として月に数度、基地局として使用している、東京都中野区にある「の杜、リブインラボ」に伺っていますが、向かう経路としてはいくつかの選択肢があるなかで、最近ではもっぱらJR目白駅経由、都営バスで終点江古田二丁目下車、というルートをよく使っています。
 山手線の目白駅前を出たバスは、目白通りを西に走ります。道の両側には、飲食店など様々な商店が軒を連ねており、車内の高い位置からウィンドーショッピングを楽しむことができます。途中、手塚治虫氏をはじめとする漫画家が暮らしたトキワ荘入口を過ぎ、落合南長崎付近から新青梅街道に入ってしばらく行くと、哲学堂のバス停の前に、その店はありました。靴修理の専門店です。けっして大きくもないし今どきに洗練されているわけでもありませんが、とにかく店構えがいい。醸し出す「におい」がよく、その風情は、いい職人のような顔をしています。ただ、≪私塾レコダ l’ecoda≫の講座の準備に遅れるわけにはいかないので、日を改めて伺うことにしました。
 
 ちょうど、ソール(靴裏)やヒール(かかと部)がだいぶすり減ってきていた靴があったので、二足持って店内に入りました。やはりいい職人がいました。それも親子二人です。創業は一九四五年、終戦の年だという。二代目となる七十代半ばのお父さんが、修理方法のいくつかの選択肢について素材の実例を示しながら、費用対効果と耐久性を詳しく説明してくれます。なぜか、その対話の時間そのものが、かけがえのないものに感じられて、勝手に思い極まりながら耳を傾けました。しかも仕上がりまでは一週間だという。これまでの修理は、デパートの靴売り場にお願いしてきましたが、そこでは三週間以上かかっていたので、大いに助かる。もちろん価格もリーズナブルです。
 
 仕上がりも、まったく申し分ありませんでした。どころか、新たに魂の込められた新品が帰ってきたようです。大いなる満足感とともに深くお礼の気持ちを伝えて、出口の引き戸を開けると、小林秀雄先生のこの言葉を思い出しました。
 「思想のモデルを、決して外部に求めまいと自分自身に誓った人、平和という様な空漠たる観念の為に働くのではない。働く事が平和なのであり、働く工夫から生きた平和の思想が生まれるのであると確信した人、そういうふうに働いてみて、自分の精通している道こそ最も困難な道だと悟った人、そういう人々は隠れてはいるが到るところにいるに違いない。私はそれを信じます」。
 きっと小林先生も、この店の前を通ることがあれば、その「におい」を直観されて「君、この店、いいよ!」と仰って下さったことだろう、と得手勝手な推量をしながらバスに乗り直し、江古田の杜へと向かいました。
 
 私塾レコダでは、毎月第一、第三、第四木曜日の夜に開いている三講座の、基地局での機材操作などをお手伝いいただけるボランティアスタッフを引き続き募集しています。また、江古田近辺には、今回紹介した以外にも、まだまだたくさんの隠れた名職人の店があります。
 いずれも、ご興味おありの方は、事務局のメールアドレスまでご一報をお願いします。
 
     *
 
 本年も、新型コロナ禍が続くなかで、多くの参加者と読者の皆さまに支えられ、三つの講座と本誌の刊行を継続できましたことに心から感謝申し上げます。新年も倍旧のご愛顧とご鞭撻をお願いします。
(了)  

事務局ごよみ(2)
  ウェブ雑誌「身交ふ」の立ち上げにあたって 
安達 直樹   
 私は、この10月に刊行となった当ウェブサイト『身交ふ』のウェブデザインと誌面の割り付けを担当している。
 私塾レコダ l’ecodaには『身交ふ』の前身となるウェブサイトがあり、そこでは、池田塾頭の講義の情報が受講生に共有され、「交差点」というコーナーには、講義に触発された受講生の自問自答が投稿されていた。『身交ふ』は、この前身のウェブサイトを発展させる形で生まれた。また、デザインや色調は、兄弟サイトである『好*信*楽』との親和性を考慮しながら、幅広い年代の読者が閲覧しやすいよう、シンプルなものにした。
 池田塾頭はこの「交差点」への投稿文が、「小林秀雄先生の正当な享受のかたち」であると言われる。小林先生がこの世を去ってから40年が経とうとする時期に「小林秀雄」をタイトルに冠した書籍が相次いで出版され、小林先生が練り上げた言葉が持つ影響力にあらためて驚かされる一方で、著者が本当に小林先生の言葉に心を動かされたのかと首をかしげたくなるものも多いと感じる。
 小林先生は著作や講演の中で、自分はいつも感動からはじめた、そして、自分の作品は感動を書こうとしたものだ、ということ言われている。「交差点」への寄稿文は、小林先生の言葉や池田塾頭の講義から受けた感動であふれていて、そこをはっきりと感じ取って、池田塾頭は、「小林秀雄先生の正当な享受のかたち」とおっしゃるのだろうと思っている。

 小林先生の「天命を知るとは」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第24集所収)のなかには、このような文章がある。
 「ここに徂徠の独創性が現れるのだが、彼の考えによれば、孔子の思想は、古文献に徴した限り、宗教でもなければ、哲学でもない、のみならず、彼には、どんな学説も発明した形跡はない、ひたすら、民を安ずるという現実的な具体的な「先王之道」を説いて止まなかった人である。それに、もう一つ大事なことは、この人が、そういう道を説くという使命感を自覚していたのを、歴史は証しているという事だ。これが徂徠の思想に一貫した聖人の定義である。従って「五十ニシテ天命ヲシル」という彼の言葉は、五十という年齢にこだわる要はないが、彼が、天から、先王の道を説けというはっきりした絶対的な命令を受けている、と悟るに至った、そう素直に受け取るのが一番正しい。」
 小林先生の謦咳に接し、その後も真摯に対話を続けている池田塾頭の言動を近くで見ていると、小林先生の言葉を正しく後世に伝えることを、自身の使命としてはっきりと自覚されていると感じることが多い。塾生が心を動かされ続けているその姿には、きっぱりとした迫力があって、少しでもその使命を果たすことの助力になることができれば、と思わせる力がある。もちろん、私は、まだまだ天命を知るという境地には達していないし、そもそも到達できるのかどうかも定かではないが、池田塾頭の言葉や、小林先生の作品の享受史を広く届けること、遺すことの大切さは知っている。それが今の自分の「任」だと思っている。少し大袈裟な表現になったが、これが、私が、慣れないウェブサイト運営という役割を引き受けた、偽りのない動機である。

 一応の形が完成して、無事に出航した『身交ふ』。各コーナーの編集には何人もの塾生が携わっていて、今後は「私たちも『萬葉』百首」のページも充実していく。ぜひ、多くの人に読まれ、小林先生の言葉を共有するプラットフォームとして活用されるウェブ雑誌に育ってほしいと願っている。                                                                  
(了)  

事務局ごよみ(1)
  ふ」創刊にあたって
橋岡 千代   
 ≪私塾レコダ l’ecoda≫が二〇二二年四月に発足して六か月、このたび新しく「身交ふ」という雑誌風ホームページが創刊されることになりました。
 ≪私塾レコダ l’ecoda≫は、二〇一二年二月に鎌倉で脳科学者の茂木健一郎さんが池田雅延講師を招いて始められた「小林秀雄に学ぶ塾」(ふだんは「鎌倉塾」とも「山の上の家塾」とも呼ばれています)が母体となっています。そのいきさつは本誌今号の「総合案内 私塾レコダ l’ecodaとは」で池田講師が詳しく説明していますが、鎌倉塾では小林秀雄先生が十二年かけて執筆された大著『本居宣長』を十二年かけて読むという大目標が掲げられ、今年はもうその十年目で、私は鎌倉塾の事務局も兼任させてもらっています。
 さてそこで、「事務局ごよみ」の第一回は、私がこの「山の上の家」と呼ばれる小林秀雄先生の旧宅で開かれている塾に、第六期生として通い始めた日のことをお話ししようと思います。
 
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 鎌倉にある小林秀雄先生の旧宅は、鶴岡八幡宮の裏手の山の上で、一気に登り切れない傾斜の坂道を上がったところにあります。先生のお宅に足しげく通われた編集者の方々、またこちらで三十年にわたり執筆活動をなさっていた先生のおもかげを慕って通い始めた今の塾生たちも、皆この坂道の途中で足を止め、汗をぬぐったり蝉の声や鳥の声を聴いたりするうちふと竹林の風に吹かれて、さあもう一息だ、と歩き出したことでしょう。この坂を登るごとに、誰もがこの孤高の風に小林秀雄先生に出会えた奇蹟や高揚を感じ、それを一歩ずつ踏みしめてお宅に伺ったのではないでしょうか。
 そもそも「山の上の家」とは、先生のご家族やご親戚の間の呼び名だそうで、それを聞き及んだ塾生たちもいつしかこの学び舎を「山の上の家」と呼ぶようになっていましたが、そこに私が初めてお邪魔したのは、茂木健一郎さんが塾生を募られていたSNSを通じてのことでした。今から考えると物見高さの勝った不純なきっかけでお恥ずかしい限りなのですが、「あの近代文学の殿堂のような小林秀雄という人の言葉についていけるのだろうか、こちらは教養も心得もないし……やっぱり引き返そうか」なんて深いため息をつきながら湘南新宿ラインの車窓を眺めていたのを思い出します。
 そのころ、私には漠然とした願いがありました。それは「言葉」について知りたい、文学講座でもなく、哲学講座でもなく、「言葉」とは人間にとって何なのか、「言葉」そのものを学べるところはないだろうかと探し続けていたのです。……もうお気づきの方もいらっしゃると思いますが、神様は迷える子羊であった私を、それならここがある……と願ったり叶ったりの鎌倉の山のてっぺんまで連れ出してくださったのでした。
 その日は年度初めであり、池田雅延塾頭はこのように仰いました、「今年も小林先生の『本居宣長』を第一章から五十章まで読んでいきますが、『本居宣長』にはキーワードが三つあります。それは、道、言葉、歴史の三つです。今年はそのうちの『言葉』に焦点を合わせます……」。はじめは国文学者ばりの言葉の講義かと思って聞いていましたら、塾頭の一言一言はこちらの既成の学問というタガを大きく外して、身体全体に突き刺さってくるようでした。人生にとって大事なこと、当たり前なこと、だけど誰も取り立てて言わなかったような話が次々と展開されるうちに、私の心の堅く重い門扉がギギギっと押し開けられていきました。そしてこれまで経験したことのないような、と同時にしっかりこちらの原風景に向かってくる、新しくて自由な風がそこに吹いていたのです。
 その日のノートの最後はこうでした。「『本居宣長』を読む――想像力を持って読むこと、考えること、時間をかけること……小林秀雄」。この第一日目の最後の言葉を大事に包んで湘南新宿ラインに乗り込んだ私は、そっとそれを開け、「……小林秀雄という偉人に出会ってしまった」とまた深いため息をついたのです。

 さて、この第一日の言葉にあった「考える」こそが、このホームページの誌名「身交ふ」の出どころです。編集長の坂口慶樹さんは、「総合案内 誌名『身交ふ』について」で、「『むかふ』の『む』は『身』であり、『かふ』は『交ふ』であると解していいなら、考えるとは、物に対する単に知的な働きではなく、物と親身に交わる事だ」と言われている小林先生の言葉を引かれています。ということは、「考える」とは「身交ふ」こと、「自分という身が、物であれ人であれ相手という身と親身に交わり、つきあうこと」であり、「身交ふ」という言葉の持つ含蓄がこのホームページの根っこにあると言えるでしょう。さらに、これを踏まえて坂口さんは、この≪私塾レコダl’ecoda≫において小林先生の作品や「萬葉集」を読んでいくということは、作品を単なる知識として学ぶということではなく、「人生、いかに生きるべきか」を生涯のテーマとした小林先生に、人生の生き方を学ぶことです、とも仰っています。
 誰もが一度や二度、人生の難問にぶつかって人間とは何なんだろう、と自問自答した経験があることでしょう。「身交ふ」という言葉はそうしたときの態度になって表れるかもしれません。けれど小林秀雄先生の仰る「身交ふ」が動き出すのはここからです。先生は、たとえばこう仰います、「不安なら不安で、不安から得をする算段をしたらいいではないか」(「僕の大学時代」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第9集所収)と。算段をするのは私たち自身ですが、小林秀雄という人が人生に向き合って紡ぎ出した言葉に耳を傾けていると、どういうわけか私たちは、私たち自身の底にある生命力が立ち上がってくる、そんな疾風を感じるのです。
 私たちが、≪私塾レコダ l’ecoda≫とこのホームページを楽しんでいるうちに、自ずと「身交ふ」が私たちのフォームとなって現れてくれることを願ってやみません。

 晩春の小林秀雄先生の旧宅では、開け放した窓から入る風はまだ冷たく、肌寒いくらいでしたが、それが、やはり私たちの精神をピンと立ててくれる孤高の風であり、その向こうには、小林先生のお好きだった桜、普賢象や山ざくら、芳しい梅などの木々が揺れていました。そして遠くに霞む伊豆の大島を見晴るかす庭の芝に立つと、体の中に何かが広がってくるのを感じます……。
 私はこの広がりを、このホームページに来てくださった方々にも感じていただけるものと信じています。そしていつか、コロナ禍が終息したあかつきには、皆さんとご一緒にあの小林先生のいらっしゃる山の上の家に伺えることを願っています。

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 さて、ここにご紹介しました茂木健一郎さん主宰の「小林秀雄に学ぶ塾」ですが、この「小林秀雄に学ぶ塾」は一年に一度、いまも塾生募集が行われています。けれどそれとは別に、「私塾レコダl’ecoda」の三講座、「小林秀雄と人生を読む夕べ」「小林秀雄『本居宣長』を読む」「<新潮日本古典集成>で読む『萬葉』秀歌百首」に計六回以上出席し、その上で池田雅延塾頭の入塾許可をもらえばいつでも入塾できます。お問い合わせの際は「私塾レコダl’ecoda」事務局までご連絡ください。皆さまの鎌倉塾へのご参加も心からお待ち申し上げます。
(了)  

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私塾レコダ l'ecoda <lecoda.shijuku2022@gmail.com>