総合案内

小林秀雄先生 提供 新潮社)
昭和五四年四月二七日
七十七歳
小林秀雄先生 ご紹介
 
 小林秀雄先生は批評家です。明治三五年(一九〇二)東京に生れ、昭和四年(一九二九)、二十七歳の秋、「様々なる意匠」によって文壇に登場、以後、日本の批評界、思想界を牽引して日本における近代批評の創始者、構築者とたたえられるとともに人生の教師としても仰がれ慕われました。
 代表作中の代表作と言える「ドストエフスキイの生活」(昭和一四年刊)、「モオツァルト」(同二二年刊)、「ゴッホの手紙」(同二七年刊)、「近代絵画」(同三三年刊)、「本居宣長」(同五二年刊)等、著作はすべて「人生いかに生きるべきか」を第一級の文学者、芸術家、哲学者、思想家たちの生涯に学ぶ態度で貫かれ、昭和五八年(一九八三)三月一日、先生が永眠されてから四十年が過ぎた今日なお先生の本は多くの読者に読まれ続けています。
 全集は第一次から第六次まであり、現在は第五次全集と第六次全集が新潮社から発売されていますが、第六次全集にあたる「小林秀雄全作品」(全二八集 別巻四)では収録作品すべてに味読のための脚注が施されています。

  総合案内 私塾レコダ l’ecoda とは
  講師 池田 雅延   
 ≪私塾レコダ l’ecoda≫は、小林秀雄先生に人生の生き方を学ぶ塾です。
 小林先生は、日本における近代批評の創始者、構築者とたたえられ、「ドストエフスキイの生活」「モオツァルト」「ゴッホの手紙」「近代絵画」「本居宣長」などの大著を遺して昭和五十八年(一九八三)三月一日、八十歳で亡くなりましたが、昭和四十年、六十三歳の年、究極のライフワークとなった「本居宣長」を書き始めた頃から読者に「人生の教師」と仰がれ慕われ、亡くなって四十年が過ぎた今なお先生に寄せられる敬慕の念は変りません。先生生涯のテーマは、「人生、いかに生きるべきか」でした、その先生の「いかに生きるべきか」に読者はいつの時代も鼓舞されているのです。

 当塾の講師、というより語り部は、新潮社の元編集者、池田雅延が務めます。池田は昭和四十五年(一九七〇)四月、新潮社に入り、翌四十六年八月、小林先生の本を造る係を命じられて五十二年十月、「本居宣長」の単行本を世に送り、五十三年五月からは第四次「小林秀雄全集」を刊行するなど、十一年六か月にわたって小林先生の謦咳けいがいに接し続けました。そしてさらに先生亡きあとも、第五次、第六次「小林秀雄全集」の編集に携わりました。
 こうして池田は、いつの時代にも小林先生が仰がれ慕われているという日本の読書界の真摯な熱気と、その熱気をもたらした小林先生の生き方とを後世に語り遺す任務も自分は課されていると早くに思い始めていました。そこへ平成二十三年(二〇一一)十二月、脳科学者の茂木健一郎さんに、これからの日本を背負う若い人たちに小林先生のことをもっと知ってもらいたい、ついてはそのための塾をひらきたいので協力してほしいと頼まれ、渡りに舟と快諾したのが「小林秀雄に学ぶ鎌倉塾」の始まりでした。ところが、この塾は、鎌倉だけに留まりませんでした、引く手数多 あまたとなって西は広島から北は仙台まで、鎌倉塾の弟塾、妹塾がいくつも生まれ、オンライン方式が軌道に乗った令和四年四月、それらの塾が相寄って≪私塾レコダ l’ecoda≫の誕生となりました。

 「l’ecoda」は、フランス語の「l’école」(学校)に、塾の本拠をおいた東京都中野区江古田の「江古田」を組合せた造語で、本誌の編集長、坂口慶樹さんの発案です。「江古田」という地名は隣の練馬区にもあり、中野区の江古田は「エゴタ」と発音され、練馬区の江古田は「エコダ」と発音されていますから、中野区江古田に本拠を置くなら「l’ecoda」ではまずいのではないかと言われるかもしれませんが、坂口さんによれば「ecoda」に「ikeda」も響かせて下さっているのだそうです。

 ともあれ、それはそれとして、ぜひともここでお伝えしておきたいことは、「l’ecoda」をあえて「私塾」と呼んだことの含みです。「私塾」は、たとえば『広辞苑』には「私設の塾。江戸時代には主に市井 しせいの儒者が、後には国学者・洋学者も任意に開設」した、とありますが、私たちがお手本としている「私塾」は、小林先生が「本居宣長」に書かれている中江藤樹、伊藤仁斎、契沖、荻生徂徠、本居宣長ら、近世の古典学者たちの塾です。そこで藤樹は「大学」を、仁斎は「論語」を、契沖は「萬葉集」を、徂徠は「六経」を、宣長は「源氏物語」をと、彼らは人生の「道」を求めてやまない人々に日本の古典、中国の古典を講じ続けました、私たちはその志にならうのです。
 しかしこれは、講師池田が藤樹や宣長のような立場に立って「小林秀雄」を講じるというのではありません。池田にそんな大それた考えはありません。先ほども記したように講師池田は語り部です、小林先生の言葉と生き方の語り部です。したがって私たちが倣う志とは、藤樹、仁斎、契沖、徂徠、宣長の塾につどった人たちの志です、「道」を求める志です。
 小林先生は、「考えるヒント」の一篇「ヒューマニズム」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第24集所収)に、儒学者であり神道家であった山崎闇斎の塾生の一人が、塾の厳しさを「心緒シンショ惴々ズイズイトシテ」と言っている逸話、すなわち、心がびくびくして、と言っている逸話を引き、「これも学問をする喜びの証言である点で変りはない、誰も強制されていたわけではない。好き好んで出入りしていたのである。嫌ならつい隣りにあった仁斎の塾に行けばよい。和気藹々あいあいとしていて、茶菓も出た。『論語』の講義には酒も出た」と書かれていますが、≪私塾レコダ l’ecoda≫の「私塾」はそういう意味なのです、小林先生に感じるところのある人はどなたもが好き好んで出入りでき、人生いかに生きるべきかを小林先生に学ぶよろこびと出会える塾、そういう意味での「私塾」なのです。とはいえやはり≪私塾レコダ l’ecoda≫は、闇斎の塾のような「心緒惴々」ではなく、仁斎の塾のように「和気藹々」でありたいとは常々思っていますしすでにしてもうそうなっています。
(了)

  総合案内 誌名「ふ」について
  編集長 坂口 慶樹   
 ≪私塾レコダ l'ecoda≫ の3つの講座では、池田雅延講師によって「小林秀雄山脈五十五峰」と銘打たれた小林秀雄先生の作品五十五作、そしてその五十五峰中でも最高峰である畢生の大作「本居宣長」、さらには小林先生が日本の古典では唯一若い頃から愛読したと言われている「萬葉集」の歌を読んでいきます。
 しかし、これは、それぞれの作品の内容や関連事項を単なる知識として学ぶということではありません。前掲「私塾レコダ l’ecoda とは」で池田講師が書いているように、本塾は「人生、いかに生きるべきか」を生涯のテーマとした小林先生に人生の生き方を学ぶ塾です。そうであるなら塾生一人ひとりは、どのように考え、どのような態度で臨んでいけばよいのでしょうか。まずは、「考える」ということについての小林先生の言葉に耳を傾けてみましょう。
 ――宣長は、この考えるという言葉を、どう弁じたかを言って置く。彼の説によれば、「かんがふ」は、「かむかふ」の音便で、もともと、むかえるという言葉なのである。「かれとこれとを、比較アヒムカへて思ひめぐらす意」と解する。それなら、私が物を考える基本的な形では、「私」と「物」とが「あひむかふ」という意になろう。「むかふ」の「む」は「身」であり、「かふ」は「交ふ」であると解していいなら、考えるとは、物に対する単に知的な働きではなく、物と親身に交わる事だ。物を外から知るのではなく、物を身に感じて生きる、そういう経験をいう(「考えるという事」、新潮社刊「小林秀雄全作品」第24集所収)。
 先生がここで言われている「『むかふ』の『む』は『身』であり、『かふ』は『交ふ』であると解していいなら……」をもう少し詳しく辿りなおしますと、現代語の「考える」は古語では「考ふ」「かんがふ」ですが、その「かんがふ」は古くは「かむがふ」とも表記されていて、さらに「かむがふ」の「が」はもとは「か」とんで発音されて「かむかふ」だったとも推察できますから、最初の「か」を語調を整えたり軽い意味を添えたりするだけの発語ととればこの語は「むかふ」となり、「むかふ」の「む」は「身」であり、「かふ」は「交ふ」であったと解し得るところから「考える」という言葉の語源は「身交う」であり、「身交う」は物を外から知るのではなく、物を身に感じて生きる、そういう生活経験を言い表した言葉であったと推察できる……、と小林先生は言われているのです。
 こうしてここから私たちは、塾生一人ひとりが小林先生にならい、小林先生と、本居宣長と、そして萬葉人たちと、身交むかった、親身に交わった、握手を交した、と芯から言えるような感触を味わう、その肌触りを抱きつつ日々の生活を新たにし、人生に向き合っていく……、そんな経験にまで深めていきたいと、切にねがっています。

 さらには、そのような一人ひとりの貴重な経験を対話で共有し、より実り多きものとする場として「交差点――受講者交流コーナー」も設けました。まずは、ひと言、ふた言からでも構いません、多くの皆さまのお気軽なご参加を、心よりお待ちしています。

 以上、この≪私塾レコダ l’ecoda≫のホームページをささやかながら雑誌風に仕立て、「ふ」と名付けた所以ゆえんを感じ取っていただければ幸いです。
(了)

私塾レコダ l'ecoda 3つの講座