学びの思い出 小林秀雄と人生を読む夕べ

学びの思い出
小林秀雄と人生を読む夕べ   
第一部 小林秀雄山脈五十五峰縦走

これまでの講座
●令和六年四月十八日(木)
「『罪と罰』についてⅠ」
「『罪と罰』についてⅠI」
「罪と罰」は、一九世紀ロシアの小説家、ドストエフスキーの長篇小説です。ペテルブルグに住む元大学生のラスコーリニコフは、選ばれた強者は人類の幸福のために殺人すらも許されるという想念に捉えられ、金貸しの老婆を殺します。しかしこの殺人がもたらした良心の呵責かしゃくは大きく、彼は罪の意識におびえるみじめな自分を嫌でも発見しなければなりませんでした。
 ドストエフスキーといえば、今日、日本でも一、二を争う人気作家ですが、そのドストエフスキーの真の読みどころを最初に日本人に教えたのは小林先生だったと言っても過言ではありません。「罪と罰」についてはこう言っています、――これは犯罪小説でも心理小説でもない、如何に生くべきかを問うた或る「猛り狂った良心」の記録なのである……。
 小林先生が「『罪と罰』についてⅠ」を発表したのは昭和九年(一九三四)、三十二歳の年でした、それから十五年、思索の熟成を待って四十六歳の年の昭和二十三年、「『罪と罰』についてⅡ」を書きました。
●令和六年三月二十一日(木)
「正宗白鳥」
 小林先生が「正宗白鳥」を発表したのは、「様々なる意匠」で文壇に出た昭和四年(一九二九)九月からほぼ二年半、先生二十九歳の七年一月でした。
 正宗白鳥は明治十二年(一八七九)生れの小説家、劇作家、批評家で、小林先生よりも二十三歳年上ですが、この「正宗白鳥」から四年後の昭和十一年一月、先生はロシアの大作家トルストイの家出をめぐって白鳥が示した見解に猛然と反論、後に「思想と実生活論争」と呼ばれて昭和の日本文学史に残る大論戦の火蓋を切りました。しかし、それ以前から、そしてそれ以後も、白鳥は文学上wの信念理念を超えて志賀直哉、菊池寛とともに小林先生が心底敬愛しつづけた文学者でした。昭和二十三年十一月には「大作家論」と題して白鳥と熱烈対談をしましたし、先生の最後の作品は、畢生の大業「本居宣長」の刊行後、昭和五十六年一月に七十八歳で『文学界』に連載を始めた「正宗白鳥の作について」でした。小林先生は、白鳥の作品にも生き方にも見られる「傍若無人のリアリズム、奇妙ななげやり」に白鳥の天才を見、終生、満腔の敬意を抱いて親炙したのです。



●令和六年二月十五日(木)
「ランボオ詩集」
 ランボオは、一九世紀フランスの詩人です。小林先生は旧制第一高等学校に在学していた大正十三年(一九二四)の春、神田の古書店でランボオの詩集『地獄の季節』の原書と出会い、その場で激しく打ちのめされました。以後、数年にわたってランボオという事件の渦中にあったと言い、大学の卒業論文もランボオで、大学を出た翌々年の昭和五年(一九三〇)、二十八歳の年の十月に白水社から『地獄の季節』の翻訳を出してその後も何度か改訳を繰り返し、昭和四十七年、七十歳の年の十一月に東京創元社から『ランボオ詩集』を出して定本としました。実に五十年におよんだランボオとの親交でした。
●令和六年一月四日(木)
「志賀直哉」
 昭和四年九月、雑誌『改造』の懸賞評論二席に入選した「様々なる意匠」で文壇に出、受賞第一作として発表した作品が「志賀直哉」です。小林先生は早くから志賀直哉に傾倒していましたが、直哉のどこに惹かれていたか、それがこの作品でよくわかります。一つは、古代人さながらの鋭敏な神経です。もう一つは精神的にも肉体的にも自分の個性を肯定し、自分独自の道徳に則って行動する「ウルトラ・エゴイスト」の生き方です。小林先生自身のなかで、すでに古代人の神経を具えたウルトラ・エゴイストが目覚めていたのです。
●令和五年十二月二十一日(木)
「美を求める心」  
 「小林秀雄山脈五十五峰縦走」は、前回の第五十一峰「人間の建設」をもって全五十五峰の登攀、縦走を達成しました。
 しかし、この≪私塾レコダ≫での「五十五峰縦走」は、講師池田雅延が≪私塾レコダ≫の開設前に新潮社で開いていた講座の後を承けたかたちであったため、≪私塾レコダ≫で取り上げた小林先生の作品は二十作に留まっています。そこで本年十二月からは≪私塾レコダ≫でまだ取り上げていない三十五作を読んでいくこととし、その第一回は「美を求める心」を読みました。池田は、「小林秀雄は何から読んだらいいでしょうか」と訊かれるたび、老若男女を問わず「美を求める心」から読んで下さいと答えています。
 「美を求める心」は、元はといえば小学生・中学生に向って書かれた文章です、したがって難しいことは何も言われていません、しかし、ここで言われていることは、小林先生が大人に向かって言い続けたことのエッセンスです。先生の文筆生活は約六十年に及びましたが、「美を求める心」はその六十年のほぼ中間点で書かれていることによって前半期のエッセンスがここに流れこみ、後半期のエッセンスはここから流れ出ています。
 先生は、私たちが生きるうえで大事なのは「知る」ことよりも「感じる」ことだと言い、絵や音楽がわかりたいなら頭でわかろうとせず、たくさん見なさい、聞きなさい、まず慣れて、そして感じることが大切です、と言います。
 たとえば菫の花を見て、たいていは「ああ、菫だ」と思うだけですませてしまうけれどそうではない、菫だとわかってからも黙って一分間見つめるのです、すると細かい部分の形や色までもがはっきり見えてきて、菫の花にも自分の目にも驚くはずですと言います。では、なぜそこまでするのでしょうか。菫の花の姿に感じて新たな何かに気づくように、人の姿に感じて人生の機微を知るようになるためだと言います。
●令和五年十一月十六日(木)
「人間の建設」  
 「人間の建設」は、日本が生んだ世界的大数学者、岡潔氏との対話録です。昭和三七年(一九六二)四月、岡氏が『毎日新聞』に連載した「春宵十話」を、小林先生は「数学を学ぶ喜びを食べて生きている」人の境地に感銘を受けたと別の新聞で絶讃しました。これを承けて四〇年八月一六日、京都で初めて会った岡氏と小林先生はたちまち意気投合し、知性について、情緒について、個性について……と叡智の盃を縦横無尽に交しあいました。この年、岡氏は六十四歳、小林先生は六十三歳、文芸雑誌『新潮』の同年十月号に掲載され、単行本はたちまちベストセラーになりました。


●令和五年十月十九日(木)
「考えるヒント」  
 『考えるヒント』は小林先生が六十二歳の年の昭和三九年(一九六二)五月、文藝春秋新社から刊行されてベストセラーとなった随想集です。もとは昭和三四年六月から『文藝春秋』に連載された随想シリーズで、目次には「常識」「漫画」「良心」など身近な言葉から入って人生が考えられた文章が並んでいますが、これに続いて昭和四九年一二月に刊行された『考えるヒント2』を読み併せると昭和三六年六月以後は「学問」「徂徠」「辨明」「歴史」といった表題も見られ、昭和四〇年六月から『新潮』に連載する「本居宣長」への助走がすでに始められていたことが窺われます。
 なお最初の『考えるヒント』には『朝日新聞』PR版の「四季」欄に書かれた「人形」などの名作も収録されています、『考えるヒント』がベストセラーとなった要因はここにもあると思われます。
●令和五年九月二十一日(木)
「花 見」  
 昭和三十七年(一九六二)、六十歳の春、小林先生は友人に誘われて信州高遠の桜を見に行きました。それから二年、東北地方への講演旅行を花見が楽しみで引き受けます。山形県の酒田ではもう散っていましたが、青森県に入ると弘前城の桜が満開でした。六十代、七十代と、春は日本全国に桜の名木を訪ねて行く旅が先生の大事な年中行事になっていましたが、先生が桜の虜になったのは、あるいは弘前城の夜桜からだったかも知れません。この年齢になると、花を見て、花に見られている感が深いと、不意に襲ってきた感慨にひたります。
●令和五年八月十七日(木)
「 人 形」
 今からだと五、六十年前のことになりますが、昭和三十年代当時、国鉄(現JR)の東海道本線には東京から大阪へ向かう夜行列車があり、食堂車がついていました。ある時、四人掛けのテーブルに小林先生が一人で坐り、遅い夕食をとっていると、前の席に上品な老人夫婦が腰を下ろし、夫人の袖の蔭から大きな人形が現れました。老夫婦の挙措からして人形は戦争で死んだ一人息子なのだなと先生は察しますが、そこへ来て先生の隣に坐った若い女性も一目でその場の気配を読み、こうして始まった五人の会食は沈黙のうちに、和やかに終りました、先生は、最後に、誰かが余計なことを言ったらどうなったであろうと言っています。
 「人形」は、昭和三十七年十月六日、『朝日新聞』PR版の「四季」欄に発表されたエッセイです。しかし、このエッセイは、単に優れたエッセイというに留まらず、読者に珠玉の短篇小説を読んだときと同じような味わいと感銘をもたらします。したがって、私たちも、「人形」を読み終えたあとはその味わいと感銘を胸にたたんで沈黙する、これが「人形」の正しい読み方です。
 ところが、私塾レコダ l’ecodaではそうはいきません。「小林秀雄に学ぶ塾」の「小林秀雄と人生を読む」集いである以上、私たちは「人形」からも私たちの人生を読む努力をしなければなりません。では、どういう努力をするか、ですが、その努力は、この「人形」の味わいと感銘はどこから来ているか、どういうふうにしてもたらされているかに思いをひそめる、ここに尽きると思います。
 小林先生は、「人形」を、大阪行きの夜汽車の食堂車での実体験に基づいて書かれているのですが、その食堂車で先生自身が覚えた実体験の感銘を、どういうふうに読者に伝えるか、そこに並々ならぬ苦心が払われています。小林先生は文章のプロとして、どんなに長い文章でも、逆にどんなに短い文章でも、常にこの苦心を怠りませんでした。
 今回は、「人形」に私たち誰もの人生を読み、さらにそこから小林先生の文章術を学びます。


●令和五年七月二十日(木)
「還 暦」  
  今回登る第四十六峰の「還暦」は、昭和三十七年(一九六二)、小林先生自身が数え年で六十一歳となり、還暦を迎えた年に書かれました。
 「還暦といえば昔ならもう隠居だが、隠居という言葉には長い歴史と生活経験が磨いた具体的な思想が含まれているはずだ」と言い、孔子は、世間を捨てるのも世間に迎合するのも水に自然に沈むようなものでやさしい生き方だ、最も困難で、最も積極的な生き方は、世間の直中に、つまり水の無いところに沈む事だと考え、これを「陸沈」と呼んだ、この現実主義は、年齢とのきわめて高度な対話の形式と言えはしないかと、当時の日本人の老後の生き方に再考を促しました。
 この「還暦」と題された文章が書かれた頃の日本では、一般に「人生五十年」と言われていました。本来、「五十年」は平均寿命を言ったものではありませんでしたが、そこはともかくとして人々の間では漠然とながらこの世にいられる年数の目安と意識されていたようには思えます。それが今では「人生百年時代」と言われるまでになってきました。ということは、隠居暮らしも「四、五十年時代」にさしかかっていると言えなくはなく、そういう時代背景を頭において読むと小林先生の「還暦」はまさに「年齢との高度な対話」と読め、なるほど「陸沈」は最も困難ではあるが最も積極的な生き方だと納得させられます。


●令和五年六月十五日(木)
「読書週間」  
  今回登る「読書週間」が発表されたのは、小林先生五十二歳の年の昭和二十九年(一九五四)二月でしたが、この作品の基になったのはその前年、昭和二十八年秋に行われた講演でした。
 平成から令和にかけての今日、書店には様々な本が溢れかえっています、しかし、この現代の本の洪水に比べればはるかに新刊書の点数は少なかったと思われる昭和二十八年、九年に、小林先生はもう本が多すぎると警告を発し、「本という物質の過剰が、読書という精神の能力を危険にさらしている」と言って、次のように続けます。
 ――一定の目的も、さし迫った必要もあるわけではないが、ただ漫然と何を読んだらいいか、という愚問を、いかに多数の人々が口にしているか。これは、本が多過ぎるという単なる事実から、殆ど機械的に生ずる人々の精神の朦朧もうろう状態を明らかに示している様に思われます。……
 そして、言います、
 ――一般教養を得るためには、どんな書物を読んだらよいか、という本が出版されている、開けてみると一生かかっても読み切れないほどの数の本があげられている、実に無意味な事だ、教養とは、生活秩序に関する精錬された生きた智慧を言うのでしょう、これは、生活体験に基いて得られるもので、書物も多少は参考になる、という次第のものだと思う、教養とは、身について、その人の口のきき方だとか挙動だとかにおのずから現れる言い難い性質がその特徴であって、教養のあるところを見せようというような筋のものではあるまい。……
 ここまでは、昨年の十二月、 <小林秀雄と人生を読む夕べ>の「小林秀雄 生き方のしるし」で「文化という言葉 教養という言葉」と題してお話ししました。今回はこれに加えて次のくだりを熟読します。
 ――読書百遍という言葉は、正確に表現する事が全く不可能な、またそれ故に価値ある人間的な真実が、工夫をこらした言葉で書かれている書物に関する言葉です。そういう場合、一遍の読書とは殆ど意味をなさぬ事でしょう。そういう種類の書物がある。文学上の著作は、勿論、そういう種類のものだから、読者の忍耐ある協力をねがっているのです。作品とは自分の生命の刻印ならば、作者は、どうして作品の批判やら解説やらを希う筈があろうか。愛読者を求めているだけだ。生命の刻印を愛してくれる人を期待しているだけだと思います。忍耐力のない愛などというものを私は考える事が出来ませぬ。そんなものがあるなら、それは愛ではない、何か別なものでしょう。……


●令和五年五月十八日(木)
「『白痴』についてⅡ」  
 「『白痴』についてⅡ」は、小林先生五十歳の年の昭和二十七年(一九五二)五月に発表されました。先生は、昭和8年1月に発表した「『永遠の良人』」を第一作として、三十代の初めから20年にわたってドストエフスキーの作品論を書き続けましたが、今回読みました「『白痴』についてⅡ」はその掉尾を飾る長篇です。
 先生は、いかなる場合もまず作品を何度も読み、全篇全文を暗記同然にしてから書き始めるのが常でしたが、わけてもこの「『白痴』についてⅡ」は、執筆にかかるやここぞという要所は原作をまったく見ずに書き上げたと言います、あたかも手練れのヴァイオリニストが楽譜に目をやることなく大曲を弾ききるようにです。そのためこの「『白痴』についてⅡ」は、内容は重厚ですが文章は音楽の名演奏のように流れます。先生自身、ドストエフスキーの作品論としてはこれが最もよく書けていると言っていました。



●令和五年四月二十日(木)
「年 齢」  
 「年齢」は、小林先生四十八歳の年の昭和二十五年(一九五〇)六月に書かれました。
 ――私は、今まで自分の年齢という様なものをほとんど気にした事がない。よわい不惑ふわくはとうに過ぎ、天命を知らねばならぬ期に近附いたが、惑いはいよいよこんがらかって来る様だし、人生の謎は深まって行く様な気がしている。……
 と書き起こされていますが、「不惑」は四十歳の異名、「天命を知る」(知天命)は五十歳になることを言います、ともに孔子が自分の生涯を省みて言ったと「論語」で伝えられている言葉です。
 先生はこれに続けて、
 ――孔子が、自分の生涯を省み、弟子の為に、思想と年齢の予定調和表の如きものを遺して置いたという事は、興味ある事だ、……
 と言い、
 ――誰も知る通り、知天命の次には、耳順じじゅんという時機が来る事になっているが、耳順とは大変面白い言葉の様に思われる。これは、恐らく孔子が音楽家であった事に大いに関係がある言葉だろう、彼は、音楽を、じんどうの表現と信じて非常に尊敬していた人で、すると、耳順とはこういう意味合いに受取れる、自分は長年の間、思索の上で苦労して来たが、それと同時に感覚の修練にも努めて来た、六十になってやっと両者が全く応和するのを覚えた、自分の様に耳の鍛錬を重ねて来た者には、人間は、その音声によって判断出来る、又それが一番確かだ、誰もが同じ意味の言葉を喋るが、喋る声の調子の差違は如何いかんともし難く、そこだけがその人の人格に関係して、本当の意味を現す、この調子が自在に捕えられる様になると、人間的な思想とは即ちそれを言う調子であるという事を悟る、自分も頭脳的判断については、思案を重ねて来た者だが、遂には言わば無智の自覚に達した様である、其処まで達しないと、頭脳的判断というものは紛糾し、矛盾し、誤りを重ねるばかりだ、そういう意味合いを、私は、耳順という言葉から感ずるのである。……
 と思いを巡らせます。
 ちなみに、こうして手から目へ、目から手への「書き言葉」ではなく、口から耳へ、耳から口への「話し言葉」にこそ人それぞれの人格や思想が端的に現れると「論語」の行間に読み取った昭和二十五年から翌二十六年にかけての頃、小林先生は本居宣長の「古事記伝」について書きたいという意思を胸中に秘めて折口信夫氏を訪ねています、……と、こういうふうに先生の足跡を辿ってみると、先生の「本居宣長」には「耳順」という言葉が大きく作用していると言えるかも知れません。本居宣長が読み解いた「古事記」に神話や伝説を語り残している人々は文字というものを持たず、彼らがもっていた言葉は口から耳へ、耳から口への「話し言葉」だけでした。



●令和五年三月十六日(木)
「蘇我馬子の墓」 
 「蘇我馬子の墓」は、小林先生四十七歳の年、昭和二十五年(一九五〇)二月に発表されました。
 奈良の明日香村にある石舞台古墳は、古代、大臣おおおみとなって国政の主導権を握り、専横をきわめた蘇我馬子の墓であるとする説があります。小林先生は、その石舞台の天井石の上で、これほどまでの花崗岩を切って墳墓に組み上げた古代人の心に思いを馳せ、そして帰途、大和三山を目にし、「萬葉集」の歌人らはあの山の線や色合いや質量に従って自分たちの感覚や思想を調整したであろう、取りとめもない空想の危険を、わずかに抽象的論理によって支えている私たち現代人にとって、それは大きな教訓に思われる……と感じ入ります。



●令和五年二月十六日(木)
「オリムピア」 
 「オリムピア」は昭和十五年(一九四〇)八月、小林先生三十八歳の年に書かれました。
 先生はスポーツも大好きで、若い頃は野球、登山、スキーを、五十代からはゴルフをと自ら実技を楽しみ、相撲はテレビ観戦を欠かしませんでした。
今回登る「オリンピア」は、一九三六年のベルリン・オリンピックの記録映画で、小林先生の文章はそれを観た感想なのですが、「『オリムピア』という映画を見て非常に気持ちがよかった。近頃、稀有けうな事である。健康というものはいいものだ。肉体というものは美しいものだ。映画の主題が、執拗に語っている処は、たったそれだけの事に過ぎないのだが、たったそれだけの事が、何んという底知れず豊富な思想をはらんでいるだろう、見ていてそんな事を思った。出て来てもそんな事を考えていた」と書き起こし、続いて砲丸投げの選手が位置につき、投げようとするまでを描写したくだりは早くも読者の手に汗を握らせるほどです。そしてそこから、詩人や思想家にとっては言葉が砲丸である、と言い、言葉の故郷は肉体だが……と、批評家として思索の糸を伸ばしていきます。



●令和五年一月十九日(木)
「人生の謎」
 「人生の謎」は昭和十四年(一九三九)、小林先生三十七歳の年に書かれました。小林先生は日本における近代批評の創始者ですが、世界的規模での創始者は一九世紀フランスの詩人、小説家、批評家であったサントブーブで、小林先生はサントブーブに倣って新しい批評の道を切り拓いたのです。そのサントブーブが、「人生の謎とは一体何であろうか。それは次第に難かしいものとなる、齢をとればとる程複雑なものとして感じられて来る、そしていよいよ裸な生き生きとしたものになって来る」と言っていて、小林先生はこのサントブーブの言葉は心にこたえる、事に当って心のうちで鳴り、僕はドキンとすると言い、「人生の謎は、齢をとればとるほど深まるものだとはなんと真実な思想であろうか。人生の謎は深まるばかりだ、しかし謎は解けないままにいよいよ裸に、いよいよ生き生きと感じられて来るならば、僕に他の何が要ろう、要らないものは、だんだんはっきりして来る」と言われています。小林先生は批評の書き方も人生の生き方も、まずはサントブーブに学んだのです。


●令和四年十二月十五日(木)
 「読書について」
  「読書について」は、小林先生三十七歳の年の昭和一四年(一九三九)四月、『文藝春秋』に発表されました。
  「書くのに技術が要るように、読むのにも技術が要る」と言い、「読む工夫は誰に見せるというようなものではないから、言わば自問自答して自ら楽しむ工夫であり、そういう工夫に何も特別な才能が要るわけではない、だが、誰もやりたがらない」と言ってこう言います。
 これは、と思う著者を知ったら、その著者の全集を読め、無理にわかろうとはせずに、とにかく隅から隅まで読め、すると全巻全ページを読み上げたときには小暗いところでその著者と会い、顔は定かにわからぬが手はしっかり握りあったというようなわかり方が得られる。そうなればしめたものだ、個々の作品の出来具合や世間の評判などには関わりなく、ちょっとした片言隻句にもその著者の人間全部が感じられるようになる、これが「文は人なり」という言葉の真意であり、文は眼の前にあるが、人は奥の方にいる、という意味だと教えます。


●令和四年十一月十七日(木)
 「作家の顔」
 令和四年十一月の講座では「作家の顔」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第7集所収)を読みました。この作品は、小林先生三十三歳の年の昭和一一年(一九三六)一月、『読売新聞』に発表されました。
 「戦争と平和」や「アンナ・カレーニナ」などの名作で知られるロシアの文豪トルストイは、八十二歳の年の一九一〇年一〇月二八日に家出し、同年一一月七日、田舎の小駅の駅長官舎で病死しました。その訃はただちに日本にも伝わりましたが、昭和一〇年一二月、『トルストイ未発表日記・一九一〇年』の邦訳版が刊行され、これを読んだ作家、正宗白鳥は、翌年一月、『読売新聞』に「トルストイの家出は妻が怖かったからだ、日記を読むとそれがわかる、人生救済の本家と仰がれている文豪も、と思うと人生の真相を鏡にかけて見るようだ」と書きました。
 今回取り上げる小林先生の「作家の顔」は、この正宗白鳥の見解に対する反駁です。トルストイのような大天才が、実生活の苦しみを代償として「これが人生だ」と示してくれた思想は容易に得られるものではない、そういう得難い思想を世間並みの実生活レベルに引下ろして何が面白い、と噛みつき、これに反論した白鳥に小林先生は「思想と実生活」を書いて応酬、さらなる白鳥の反論に先生は「文学者の思想と実生活」を突きつけ、結局この論争は物別れとなりましたが、後には<思想と実生活論争>と呼ばれていまなおかたぐさとなっているだけでなく、昭和文学史の重要な研究課題となっています。
 11月17日の塾当日は、「作家の顔」とともに「思想と実生活」「文学者の思想と実生活」も精しくご紹介しましたが、「文学者の思想と実生活」には、昭和九年一月に書いた「文学界の混乱」で、
 ――僕は今ドストエフスキイの全作を読みかえそうと思っている。広大な深刻な実生活を活き、実生活に就いて、一言も語らなかった作家、実生活の豊富が終った処から文学の豊富が生れた作家、而も実生活の秘密が全作にみなぎっている作家、而も又娘の手になった、妻の手になった、彼の実生活の記録さえ、嘘だ、嘘だと思わなければ読めぬ様な作家、こういう作家にこそ私小説問題の一番豊富な場所があると僕は思っている。出来る事ならその秘密にぶつかりたいと思っている。……
 と言われていたことの深意が具体的に説かれ、小林先生の言う「思想」とは何かがリアルに読み取れます。


●令和四年十月二十日(木)
 「私小説論」
 令和四年十月の講座では「私小説論」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第6集所収)を読みました。「私小説」とは、一般に作者が作者自身の実生活とそれに伴う心境を一人称で綴った小説とされていますが、この「私小説」という小説のスタイルは日本独自のもので、明治四〇年(一九〇七)に発表された田山花袋かたいの「蒲団ふとん」を嚆矢こうしとして「私小説」は日本の近代小説の主流となり、文壇では「私小説」をめぐって「文学」というもののあり方が議論されるまでになっていました。小林先生の「私小説論」は、そういう気運の真っ只中へ投じられたのです。
 しかし、小林先生がここで論じようとした「私小説」は、日本のせせこましい「私小説」に限ってのことではなく、世界的規模での「私小説」でした。一八世紀の末、フランスに現れたジャン=ジャック・ルソーの「告白」に衝き動かされて作家たちはさかんに自己告白を行いましたが、一九世紀後半になると自然科学に準じて興った実証主義、自然主義に圧迫され、さらには近代社会に踏みつけにされて実生活では自己告白の道を閉ざされたフローベールやドストエフスキーが、それならと作中人物を介して自己告白を行った長篇小説、たとえばフローベールの「ボヴァリー夫人」などを小林先生は「私小説」と位置づけて論じます。フローベールやドストエフスキーは、「私」を消して「私」を書いたのです。
 小林先生は、「私小説論」を書く前年の昭和九年一月、『文藝春秋』に「文学界の混乱」(同第5集所収)を書き、そこに「私小説に就いて」と題した一節を立てて最後にこう言っています、
 ――僕は今ドストエフスキイの全作を読みかえそうと思っている。広大な深刻な実生活を活き、実生活に就いて、一言も語らなかった作家、実生活の豊富が終った処から文学の豊富が生れた作家、而も実生活の秘密が全作にみなぎっている作家、而も又娘の手になった、妻の手になった、彼の実生活の記録さえ、嘘だ、嘘だと思わなければ読めぬ様な作家、こういう作家にこそ私小説問題の一番豊富な場所があると僕は思っている。出来る事ならその秘密にぶつかりたいと思っている。……
 すなわち、小林先生の「私小説論」は、単に「私小説」は是か非かというような文学論争に割って入ったものではありません。小林先生にとって「私」の問題は、「悪の華」でボードレールに出会って以来の「人生いかに生きるべきか」に関わる「私」であり、上記の「文学界の混乱」に先立って昭和八年一〇月、『文學界』の創刊号に書いた「私小説について」(同第4集所収)ではこう言っています、
 ――一流芸術とは真の意味で、別な人生の創造であり、一個人の歩いた一人生の再現は二流芸術であるという明瞭な意識を、わが国の作家は今日に至ってはじめて持ったのである。バルザックの小説はまさしく拵こしらえものであり、拵えものであるからこそ制作苦心に就いての彼自身の隻語より真実であり、見事なのだ。そして又彼は自分自身を完全に征服し棄て切れたからこそ拵えものの裡に生きる道を見つけ出したのである。……
 ゆえに、先生は、「私小説論」にも「一流芸術とは真の意味で別な人生の創造であり、一個人の歩いた一人生の再現は二流芸術である」という明瞭な意識をもって臨んでいました。この「私小説について」で言った「一流芸術とは真の意味で、別な人生の創造であり」という「明瞭な意識」は、最後の大作「本居宣長」で展開される「源氏物語」論にまで一貫して続いたのです。


●令和四年九月十五日(木)
 カヤの平
 令和四年九月の講座では「カヤの平」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第5集所収)を読みました。「カヤの平」は紀行文です、しかし、並みの紀行文ではありません。昭和八年(一九三三)、三十歳の一月、小林先生は文学仲間でもあった深田久弥氏についてスキーを習い始めました。ところが翌月、二人で行った信州発哺ほっぽで大変なことになります、一七〇〇メートル級の山を七つも越えるという山越えスキーに参加してしまったのです。そのときの七転八倒、悪戦苦闘の一部始終を書いて九年十月、『山』に発表された「カヤの平」は、二十九年、柳田國男氏によって高校二年生用の国語の教科書に全文が載せられ、後に小林先生は自分の文章が教科書に載って唯一嬉しかったのがこの紀行文だと「国語という大河」(同第21集所収)に書いていますが、とにもかくにもこの紀行文、小林先生の機知と諧謔が相俟って全篇これ喜劇の趣き、最後は抱腹絶倒させられます。


●令和四年八月十八日(木)
 故郷を失った文学
 令和四年八月の講座では「故郷を失った文学」(同第4集所収)を読みました。「故郷を失った文学」は、小林先生三十一歳の年の昭和八年(一九三三)五月、『文藝春秋』に発表されました。
 小林先生は、明治三十五年(一九〇二)四月に東京で生れましたが、東京に生れたとは感覚的に合点できず、自分には故郷がないという不安な感情があると言います。明治の東京は開国日本の首都として雑多な物事と早すぎる変化の坩堝るつぼだった、思い出を育む暇はなかった、思い出のないところに故郷はない、文学も同じだ、日本の作家には明治に渡来した西洋文学の伝統に思い出はなく、ゆえにそれらの技法をなぞって生れた日本の近代文学には故郷がない、明治以降、大人の鑑賞に耐える文学がほとんど現れなかったのはそのためだと言って思念をこらします。


●令和四年七月二十一日(木)
 Xへの手紙
 令和四年七月の講座では「Xへの手紙」(同第4集所収)を読みました。「Xへの手紙」は昭和七年(一九三二)九月、小林先生三十歳の秋、『中央公論』に発表された小説です。
 俺は元来、哀愁というものを好かない性質たちだ、あるいは君も知っているとおり、好かないことを一種の掟としてきた男だ、それがどうしようもない哀愁に襲われているとしてみたまえ、事情はかなり複雑なのだ……と、自分について、世間について、恋愛について、孤独について、三十歳の青年が熱く烈しく訴えます。わけても恋愛についての独白は、小林先生自身の実生活が背後にあるとされ、女は、俺の成熟する場所だった、書物に傍点をほどこしてはこの世を理解して行こうとした俺の小癪な夢を一挙に破ってくれた……と、男と女であることの謎が精神の劇として認識されていきます。
 小林先生は、大正十一年十一月、二十歳の年の「蛸の自殺」以来、「一ツの脳髄」「飴」「女とポンキン」と相次いで小説を発表し、昭和七年九月、「様々なる意匠」で雑誌『改造』の懸賞評論二席に入って華々しく批評家として文壇に出てからも、「からくり」「眠られぬ夜」「おふえりや遺文」と小説を書き続けていました、ところが、昭和七年、「Xへの手紙」を最後に小説はまったく書かなくなります。何があったのでしょうか。『中央公論』編集部は小林先生に「小説」を依頼し、先生も「Xへの手紙」を小説のつもりで書いたのです、しかし出来上がったその「小説」は、「小説」と言うよりも「批評」でした、「批評」の文体でした。「様々なる意匠」に記された言葉を借りれば、小林先生の「宿命」が先生に「小説」ではなく「批評」を書かせ、以後、先生の書く文章はことごとく「批評」となっていったのです。
 今回は、こうして「批評家小林秀雄」の実質的誕生となった「Xへの手紙」を、小林先生が持って生まれた「宿命」から読み解いてみようとしました。


●令和四年六月十六日(木)
 様々なる意匠     
 令和四年六月の講座では「様々なる意匠」(同第1集所収)を読みました。「様々なる意匠」は、小林先生の文壇デビュー評論です。昭和四年(一九二九)、二十七歳の年、雑誌『改造』の懸賞評論に応じ、第二席に入って同誌の同年九月号に掲載されました。
 一言で言えば、小林先生の批評家宣言です。それまでの日本の文壇では、批評とは評者の趣味やマルクス主義などのイデオロギーを作者に押しつけて良し悪しを言う、そういうものでした。小林先生は、それらの評者に烈しく詰め寄って問いかけたのです、
 ――人は如何にして批評というものと自意識というものとを区別し得よう。彼の批評の魔力は、彼が批評するとは自覚する事である事を明瞭に悟った点に存する。批評の対象が己れであると他人であるとは一つの事であって二つの事でない。批評とはついに己れの夢を懐疑的に語る事ではないのか!……
 この雄叫おたけびが日本に近代批評の道をひらき、以後五十年以上にわたって続いた小林先生自身の自己発見への旅立ちをも告げたのでした。


●令和四年五月十九日(木) 
 「悪の華」一面
 令和四年五月の講座では「『悪の華』一面」(同第1集所収)を読みました。「『悪の華』一面」は小林先生二十五歳、東京大学仏文科三年次の年の昭和二年(一九二七)十一月、『仏蘭西文学研究』第三輯に発表されました。「悪の華」は、今日、象徴詩と呼ばれている詩型の先駆となった一九世紀フランスの詩人、ボードレールの詩集です。小林先生は第一高等学校在学中にボードレールを知って「悪の華」をボロボロになるまで読み、「詩人が批評家を蔵しないということは不可能である」という言葉にも出会って大きく目をひらかれ、後の「批評家小林秀雄」の心髄も文体もボードレールによって培われました。四十七歳の年に書いた「詩について」(同第18集所収)では、「私が象徴派詩人によって啓示されたものは、批評精神というものであった。これは、私の青年期の決定的な事件であって、もし、ボオドレエルという人に出会わなかったなら、今日の私の批評もなかったであろうと思われるくらいなものである」と言っています。


●令和四年四月二十一日(木)
 一ツの脳髄
 令和四年四月の講座では「一ツの脳髄」(同第1集所収)を中心に小林先生の小説を見渡しました。小林先生は最初は小説家を志していました。現在のところ、その処女作は大正十一年(一九二二)十一月、二十歳で発表した「蛸の自殺」で、これに続いたのが大正十三年七月、二十二歳で発表した「一ツの脳髄」でしたが、昭和七年(一九三二)九月、三十歳で発表した「Xへの手紙」を最後として小説は書かなくなりました。その理由は「Xへの手紙」を鑑賞対象とする七月の塾で精しく推量を試みますが、ひとまずここで一言で言えば、先生が全身全霊を傾けて書けば書くほど文体は小説から遠ざかり、批評の文体になってしまう、それを先生は「Xへの手紙」を書くことでいやというほど思い知らされた、ということのようなのです。以来、批評に専心して批評家としての地歩を築き、昭和十四年、「ドストエフスキイの生活」を刊行、戦後の二十二年、「モオツァルト」を刊行し、その翌年、作家の坂口安吾氏と対談してこう言いました。
 ――例えば君が信長が書きたいとか、家康が書きたいとか、そういうのと同じように、俺はドストエフスキイが書きたいとか、ゴッホが書きたいとかいうんだよ。手法は批評的になるが、結局達したい目的は、そこに俺流の肖像画が描ければいい。そうするとどういうことになるか。結局、描写したくなるんだよ。……
 ここで先生が言っている「描写」は、普通に言われる描写ではありません、「精神の描写」です。その精神の描写力が「ドストエフスキイの生活」で、「モオツァルト」で、遺憾なく発揮されているのですが、それはまたすでに「一ツの脳髄」でも発揮されていました。
 「一ツの脳髄」の主人公「私」は、神奈川県の真鶴まなづるまでは船で、真鶴から湯河原へは乗合バスでと独りで旅に出ています。神経が病んでいて、自分の脳が自分の脳を意識する、それを癒そうとしての旅らしいのですが、帰りの船を待つ間、下駄の歯を意識しながら真鶴の汀を歩き、引き返そうと振り向いた時、一列に続いた下駄の跡が目に入ります、それを自分の脳についた歯の跡と附合させようとして「私」は苛立ち、一歩も踏み出せなくなります。……
 小林先生の小説には、合せて七作品があります。
  「蛸の自殺」(「小林秀雄全作品」第1集所収 )
  「飴」(同)
  「女とポンキン」(同)
  「からくり」(同)
  「眠られぬ夜」(同第3集所収)
  「おふえりや遺文」(同)
  「Xへの手紙」(同第4集所収)
 「蛸の自殺」も「飴」も、「女とポンキン」も「からくり」も「眠られぬ夜」も、小林先生の小説作品としてそれぞれに意義も魅力もありますが、「一ツの脳髄」と併せてとりわけ薦めたいのは「おふえりや遺文」です。「おふえりや」とはシェークスピアの悲劇「ハムレット」でハムレットに捨てられ入水するオフィーリアですが、この作品には小林先生の批評の決め技とも言われる逆説的認識力が随所で冴えわたっています。たとえば次のようにです、
 ――生きるか、死ぬかが問題だ、ああ、結構なお言葉を思い出しました。問題をお解きになるがいい、あなたのお気に召そうと召すまいと、問題を解く事と、解かない事とは大変よく似ている。気味の悪い程、よく似ています。いいえ、この世で気味の悪い事といったら、それだけだ。あとは、あとは何んの秘密もない人の世です。……
  こうして四月の講座では「一ツの脳髄」に小林先生の精神の描写力を、「おふえりや遺文」に逆説的認識力を読み取り、ここにも小林先生を小説家ではなく批評家にした先生の「宿命」を感取して思いを馳せました。

平成三十一年一月~令和四年三月
●平成三十一年(二〇一九)一月十七日
<オリエンテーション>
小林秀雄が求めたもの

 日本の近代批評の創始者・構築者として大きな足跡を残した小林秀雄先生は、文学、音楽、絵画、歴史、哲学、実生活面……と多彩な文筆活動を六十年にわたって展開しました。その間、先生が一貫して考え続け、書き続けたことは「人生、いかに生きるべきか」でした。
 一般に、「人生、いかに生きるべきか」と言われると、「世のため人のために生きよ」といった中学校や高校の先生が生徒に言って聞かせる社会道徳のようなものか、「人間らしく生きよ」「自分らしく生きよ」といった掴みどころのないお題目とかを思い浮かべがちですが、小林先生の「いかに生きるべきか」はそうではありません。ひとことで言えば、「この世に生まれて小林秀雄以外のものにはなれなかった小林秀雄は、小林秀雄にしか生きられない人生をどう生きればよいか」でした。そのために先生は、自分はどういう人間として生まれてきているかをまず知ろうとし、ランボー、ドストエフスキー、モーツァルト、ゴッホ、本居宣長といった特異な生き方を絵や音楽や文章に刻んで遺した天才たちに語りかけ、彼らと無限に対話することで自問自答を繰り返しました。
 私たちが小林先生の文章を読んで奮い立つのは、そういう小林先生の人生態度に打たれるからではないでしょうか。私たちも、小林先生が考えたように考えて自問自答を繰り返しましょう。小林先生は「読書について」で言っています、はっきりと眼覚めて物事を考えるのが人間の最上の娯楽である……。これから月々、小林先生の作品を一篇ずつ読み、その作品に即して「人生、いかに生きるべきか」を学んでいきます。
                       
	
●平成三十一年(二〇一九)二月二十一日
<初山踏>
「美を求める心」
(新潮社刊『小林秀雄全作品』第21集所収)

 小林秀雄先生の全作品を、飛騨山脈、奥羽山脈などの荘厳な山並に見立てて池田は「小林秀雄山脈」と呼んでいます。開講第一回の今回は、その「小林秀雄山脈」への初山踏ういやまぶみとして最も好適な「美を求める心」を読みました。この作品は、元はといえば小学生・中学生に向けて書かれました。したがって、難しいことは何も言われていません。しかしここで言われていることは、小林先生が大人に向かって言い続けたことのエッセンスです。先生の文筆生活は六十年に及びましたが、「美を求める心」はそのちょうど中間点で書かれました。前半三十年のエッセンスがここに流れ込み、後半三十年のエッセンスがここから流れ出ています。
 小林先生にとって「美」は、「人生」と同義語です。絵や音楽がわかりたいなら頭でわかろうとせず、たくさん見なさい、聴きなさい、と言い、目も耳も訓練しなければ見えるものも見えない、聞えるものも聞えないと言います。たとえば菫の花を見て、私たちはたいてい、「ああ、菫だ」と思うだけですませてしまいますが、それではいけない、黙って一分間見つめるのだ、すると細かい部分の形や色までが浮き立って見えてきて、菫の花にも自分の目にも驚くはずだと小林先生は言います。
 ではなぜそこまでするのでしょうか。菫の花の姿に感じてそれまでは思いも寄らなかった何かに気づくように、人間の姿に感じて人生の大事に気づく、そうなるためだと小林先生は言います。 小林秀雄は何から読むのがよいでしょうかと問われると、池田はいつでも、どなたにも、「美を求める心」を一番に読んで下さいと答えています。
                                    
                          
●平成三十一年(二〇一九)三月二十一日
<秀峰六峰シリーズ> 第一回
「ランボオⅠ・同Ⅱ・同Ⅲ」/「ランボオ詩集」
(新潮社刊『小林秀雄全作品』第1集・第2集・第15集所収)/(同第2集所収)

 前回も言いましたように、池田は小林秀雄先生の全作品を荘厳な山並に見立てて「小林秀雄山脈」と呼んでいますが、そのなかでもひときわ高く美しく聳える六つの峰、すなわち「ランボオⅠ・Ⅱ・Ⅲ」と「ランボオ詩集」、「ドストエフスキイの生活」、「モオツァルト」、「ゴッホの手紙」、「近代絵画」、「本居宣長」にまず登ろうと思います。今回は「ランボオⅠ・同Ⅱ・同Ⅲ」と「ランボオ詩集」です。
 ランボーは、一九世紀後半のフランスに生れ、早熟の天才と謳われた詩人です。小林先生の文学的青春の幕は、このランボーによって切って落とされました。「ランボオⅢ」に小林先生は書いています。
 ――僕が、はじめてランボオに出くわしたのは、二十三歳の春であった。その時、僕は、神田をぶらぶら歩いていた、と書いてもよい。向うからやって来た見知らぬ男が、いきなり僕を叩きのめしたのである。僕には、何んの準備もなかった。ある本屋の店頭で、偶然見付けたメルキュウル版の「地獄の季節」の見すぼらしい豆本に、どんなに烈しい爆薬が仕掛けられていたか、僕は夢にも考えてはいなかった。而も、この爆弾の発火装置は、僕の覚束ない語学の力なぞ殆ど問題ではないくらい敏感に出来ていた。豆本は見事に炸裂し、僕は、数年の間、ランボオという事件の渦中にあった。それは確かに事件であった様に思われる。文学とは他人にとって何んであれ、少くとも、自分にとっては、或る思想、或る観念、いや一つの言葉さえ現実の事件である、と、はじめて教えてくれたのは、ランボオだった様にも思われる。……
   「地獄の季節」はランボーの詩集です。そこに仕掛けられていた「烈しい爆薬」とは何だったのでしょうか。そしてその爆風を真正面から浴びた小林先生は、「ランボオという事件の渦中」で何を見、何を考えたのでしょうか。
 講座では、先生が訳したランボーの詩「酩酊船」も読み、ランボーと一体になった先生の言葉と調べを味わいました。
                                   

●平成三十一年(二〇一九)四月十八日
<秀峰六峰シリーズ> 第二回
「ドストエフスキイの生活」
(新潮社刊『小林秀雄全作品』第11集所収)

 ドストエフスキイは、一九世紀のロシアが生んだ世界的大文豪ですが、日本での人気もトルストイと並んで他を圧していると言っていいでしょう。そしてその日本での人気の基礎は、小林秀雄先生によって築かれたと言っても過言ではありません。それほどに先生のドストエフスキイ論は大きな衝撃と感動を日本にもたらしました。 
 ドストエフスキイは二十八歳の年、社会主義研究サークルの仲間とともに逮捕され、銃殺刑を言い渡されます。しかしその執行直前に赦されてシベリアの監獄へ、さらに兵役へと送られ、自由の身になってからの私生活も波瀾万丈でした。激しい恋の狂奔、桁外れの賭博熱、繰返し襲ってくる精神疾患……。
 小林先生はこの驚天動地の作家の肖像を小説のような具体的描写ではなく、批評独自の抽象的描写で描くという空前の表現法に挑み、その野心を堂々前人未到の評伝文学として結実させました。それが「ドストエフスキイの生活」です、先生が日本における近代批評の創始者と称されるに至った最初の足跡がこの作品です。完成した年、先生は三十七歳でした。
 後に先生はドストエフスキイの代表作「罪と罰」を論じて、「これは犯罪小説でも心理小説でもない。如何に生くべきかを問うた或る『猛り狂った良心』の記録なのである」と書きます。「ドストエフスキイの生活」は、まさに小林先生によって書かれたドストエフスキイの「如何に生くべきかを問うた『猛り狂った良心』の記録」です。講座ではそこに重点をおいて読みました。


●令和元年(二〇一九)五月十六日
<秀峰六峰シリーズ> 第三回
「モオツァルト」
(新潮社刊『小林秀雄全作品』第15集所収)

 小林先生の文章には、突然、稲妻のように光り、読む者の目を鋭く射て心に刺さる、そういう言葉がいくつもあります。「アシルと亀の子Ⅱ」の「批評するとは自己を語る事である、他人の作品をダシに使って自己を語る事である」もそうですし、「当麻」の「美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない」もそうです。
 そういう「小林秀雄の言葉」のうちでも最も知られ、最も親しまれているのは「モオツァルト」のなかの「モオツァルトのかなしさは疾走する、涙は追いつけない」だと言ってもいいでしょう。元の文章には次のように書かれています。――モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない。涙のうち玩弄がんろうするには美しすぎる。空の青さや海の匂いの様に、「万葉」の歌人が、その使用法をよく知っていた「かなし」という言葉の様にかなしい……。
 実は、この一節に、作品「モオツァルト」のすべてが凝縮されています。二十六歳の冬の夜、着の身着のまま大阪の道頓堀をさまよっていた小林先生の頭の中で、不意にモーツァルトの交響曲第40番が鳴ったという経験から書き起こし、モーツァルトの音楽と声に耳を澄まし続けた小林先生が、「モオツァルト」で書きたかったことの心髄を一言で言いきった言葉が「モオツァルトのかなしさは疾走する、涙は追いつけない」なのです。
 では、モーツァルトは何をかなしんでいたのでしょうか。涙は追いつけない、とはどういうことなのでしょうか。「万葉集」の歌人がその使用法をよく知っていた「かなし」とはどういう言葉なのでしょうか。
 講義では、この一句が噴き出たモーツァルトの「弦楽五重奏曲 第4番 ト短調」を、後に小林先生が好んで聴いていたスメタナ四重奏団とヨゼフ・スークの演奏で聴きました。


●令和元年(二〇一九)六月二十日 
<秀峰六峰>シリーズ 第四回
「ゴッホの手紙」
(新潮社刊『小林秀雄全作品』第20集所収)

 ゴッホは、言うまでもなく「烏のいる麦畑」や「ひまわり」や多くの自画像などで知られる画家ですが、画家としての修業を始めたのは二十七歳の年、それから約十年、三十七歳で自殺するまでの生涯において、実の弟テオに七〇〇通もの手紙を書きました。この手紙はテオの妻、ボンゲル夫人によって全三巻の全集に編まれ、小林先生はそれを読む機会に恵まれたときの感動をこう記しています、
 ――僕は、殆ど三週間、外に出る気にもなれず、食欲がなくなるほど心を奪われた。幾年振りでこんな読書をしたろうか。ボンゲル夫人は、序文の冒頭に、ゴッホの弟の母親宛の手紙の一節を引いている。「彼(ゴッホ)は、何んと沢山な事を思索して来たろう、而も何んといつも彼自身であったであろう、それが人に解ってさえもらえれば、これは本当に非凡な著書となるだろう」、いかにもその通りだ、これは告白文学の傑作なのだ。そしてこれは、近代に於ける告白文学の無数の駄作に対して、こんな風に断言している様に思われる、いつも自分自身であるとは、自分自身を日に新たにしようとする間断のない倫理的意志の結果であり、告白とは、そういう内的作業の殆ど動機そのものの表現であって、自己存在と自己認識との間の巧妙なあるいは拙劣な取引の写し絵ではないのだ、と。……
 小林先生は、早くから「批評家も小説家と同様に、創造的な作品を書くのだ」と宣言し、その大望を昭和十四年(一九三九)に「ドストエフスキイの生活」、同二十一年に「モオツァルト」と実現してきて、同二十七年、五十歳の年、「ゴッホの手紙」を書き上げました。すべてはゴッホ自身に語らせるという新手法をおのずと生みだし、この手法が後に同四十年から書き始めた「本居宣長」へとつながっていきます。


●令和元年(二〇一九)七月十八日
<秀峰六峰シリーズ> 第五回
「近代絵画」
(新潮社刊『小林秀雄全作品』第22集所収)

 昭和二十二年(一九四七)三月、上野でゴッホの絵と出会って以来、小林先生のなかでは西洋美術への関心が年々高まっていましたが、「ゴッホの手紙」を単行本として出した同二十七年の暮、「観念でいっぱいになったヨーロッパを見てくる」と言って生れて初めての海外旅行に出ました。同行は学生時代からの親友、今日出海氏で、小林先生は五十歳でした。 
 十二月二十五日、羽田を発ってパリに降り立ち、以後、エジプト―ギリシア―イタリア―パリ―スイス―スペイン―パリ―オランダ―イギリスと回って翌年七月四日、アメリカを経由して帰国しました。この半年にわたった旅は絵を観ることを最大の目的とし、エジプトやギリシャの古代遺跡も訪ねましたが、多くはフランスのルーヴル、スペインのプラドといった美術館に毎日のように通って絵を観ました。
 帰国の翌年、昭和二十九年(一九五四)三月からそのヨーロッパ美術探訪を基にして「近代絵画」を『新潮』に連載、同三十一年一月からは『芸術新潮』に連載して同三十三年二月に完結しました。連載期間ほぼ四年。ボードレールの絵画論を序章に置き、モネ、セザンヌ、ゴッホ、ゴーガン、ルノアール、ドガ、ピカソを中心として、レンブラント、ドラクロア、コロー、ミレー、ベラスケス、ゴヤといった大画家たちが、自分自身を現すためにどれほど色に苦心したかを描きだしました。単行本の「著者の言葉」に、「近代の一流画家たちの演じた人間劇はまことに意味深長であって……」と言っています。
 したがって、「近代絵画」も、「様々なる意匠」で宣言した<天才たちの人間喜劇>なのです。ランボオ、ドストエフスキイ、モオツァルト、ゴッホに続く、人間のドラマなのです。なかでも小林先生は、セザンヌが好きでした。先生はセザンヌのどこがどう好きだったか、この回ではそこから出発してお話ししました。


●令和元年(二〇一九)八月十五日 
<秀峰六峰シリーズ> 第六回
「本居宣長」
(新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集、第28集所収)

  「本居宣長」は、小林先生が六十三歳の夏から七十四歳の冬まで雑誌『新潮』に連載、さらにその連載稿に徹底的に推敲の筆を加えること約一年、計十二年余の歳月をつぎこんで完成した文字どおり畢生の大作です。
 本居宣長は、江戸時代の中期に活躍した大学者ですが、彼の最も大きな業績は「源氏物語」と「古事記」を現代の私たちもが正しく読めるようにしてくれたことです。平安時代に書かれて以来、作者紫式部の真意を無視して勝手気儘な読み方が罷り通っていた「源氏物語」を、七〇〇年以上もの時を超えて初めて正当に読み解き、さらには、まだ平仮名も片仮名もなかった奈良時代に漢字だけで書かれたため、あっというまに日本人の誰にも読めなくなってしまっていた「古事記」を、一〇〇〇年もの眠りから覚まして誰もが読めるように解読したのです。
 小林先生の「本居宣長」は、こうして長い間、日本人の誰もが誤読するか手を拱いているかしかできなかった「源氏物語」と「古事記」を、なぜ宣長は一代で、しかもたった独りで読み解くことができたのか、そこを精しく追った本です。宣長の学問の根底には、私たち日本人はどう生きていけばよいかという大きな問いがありました。その問いの答を宣長は「源氏物語」と「古事記」に求めた、そこが両作品解読の鍵だったと小林先生は言います。それはまたどういうことでしょうか。この回では特に「源氏物語」と「古事記」に共通する「そらごとのまこと」に注目しました。


●令和元年(二〇一九)九月十九日 
<「無常という事」シリーズ> 第一回
「当 麻」
(新潮社刊『小林秀雄全作品』第14集所収)

 この回から<「無常という事」シリーズ>を始め、その第一回として「当麻たえま」を読みました。
  「当麻」は世阿弥の手になった謡曲の曲名ですが、小林先生はこれを当時の能の第一人者、梅若万三郎の舞台で初めて観て、それまでまったく経験したことのない感覚に襲われます。あれは一体何だったのだろう、何と名づけたらよいのだろう……、中将姫のあでやかな姿が、舞台を縦横に動き出す、人間の生死に関する思想が、これほど単純な純粋な形を取り得るとは……、世阿弥の花は秘められている、確かに……。
 そして、この後に、小林先生の名言として人口に膾炙している次の言葉が記されます、――美しい「花」がある、「花」の美しさというようなものはない……。小林先生の「当麻」を読み味わうとは、この言葉に秘められた小林先生の思いを読み味わうことに尽きると言っても過言ではありません。
 この言葉はまた、十代、二十代、三十代と、フランス文学、ロシア文学に心酔し続け、日本の古典はほとんど読んでいなかった小林先生が、四十歳を目前にして突然日本に回帰し、「当麻」を観、世阿弥の「風姿花伝」を読んで、日本というものを初めて目の当たりにして挙げた驚きの声だったとも言えるのです。
 この回では、その小林先生の驚きを丹念に読み解き、「花」という言葉で先生が何を言わんとしたかに迫っていきました。


●令和元年(二〇一九)十月十七日
<「無常という事」シリーズ> 第二回
「無常という事」
(新潮社刊『小林秀雄全作品』第14集所収)

 一般に「無常」という言葉は、この世のはかなさを言った仏説、あるいはそこから派生した死の類語と受取られています。たとえば『広辞苑』には「①[仏]一切の物は生滅・変化して常住でないこと。②人生のはかないこと。③人の死去」とあり、『日本国語大辞典』には「①[梵語anityaの訳]一切万物が生滅変転して常住でないこと。現世におけるすべてのものが移り変ってしばしも同じ状態にとどまらないこと。特に生命のはかないこと。②特に、人の死を言う」とあり、『大辞林』には「①[仏]万物は生滅流転し、永遠に変らないものは一つもないということ。②人の世の変りやすいこと。命のはかないこと。③人間の死」とあります。
 しかし、小林先生は、そうではないと言います、「この世は無常とは決して仏説というようなものではあるまい。それは幾時如何なる時代でも、人間の置かれる一種の動物的状態である。現代人には、鎌倉時代の何処かのなま女房ほどにも、無常という事がわかっていない。常なるものを見失ったからである」……。
 小林先生は、「無常」は単に、死と背中合わせというだけの言葉ではなかった、人間が人間になるための秘訣を教える言葉だったと言うのです。では、小林先生の言う「人間の置かれる一種の動物的状態」とはどういう状態でしょうか。現代人が見失った「常なるもの」とは何なのでしょうか。それを考える手がかりは、次の一節にあるようです、  ――或る日、或る考えが突然浮び、偶々たまたま傍にいた川端康成さんにこんな風に喋ったのを思い出す。「生きている人間などというものは、どうも仕方のない代物しろものだな。何を考えているのやら、何を言い出すのやら、仕出来しでかすのやら、自分の事にせよ他人事にせよ、解った例しがあったのか。鑑賞にも観察にも堪えない。其処に行くと死んでしまった人間というものは大したものだ。何故、ああはっきりとしっかりとして来るんだろう。まさに人間の形をしているよ。してみると、生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな」……


●令和元年(二〇一九)十一月二十一日
<「無常という事」シリーズ> 第三回
「平家物語」
(新潮社刊『小林秀雄全作品』第14集所収)

  「平家物語」といえば、その語り出しが有名です、――祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらわす。おごれる者も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし……。この名調子が人々の心をとらえ、「平家物語」は平清盛を中心とする平家一門の栄華と滅亡を、仏教的無常観を主題として描いた軍記物語である、という読み方が世に定着していると言ってもよいほどでしょう。 
 しかし、小林先生は、そうは読みません。――「平家」のあの冒頭の今様いまよう風の哀調が、多くの人々を誤らせた、「平家」の作者の思想なり人生観なりが、そこにあると信じ込んだがためである……。そう言って先生は、「平家物語」の合戦場面でも好きな文の一つだという巻九の「宇治川先陣」を取り上げ、具体的に、ヴィヴィッドに「平家」の読み方を示します、――まるで心理が写されているというより、隆々たる筋肉の動きが写されている様な感じがする。太陽の光と人間と馬の汗とが感じられる……、さらには、――込み上げて来るわだかまりのない哄笑こうしょうが激戦の合図だ。これが「平家」という大音楽の精髄である。「平家」の人々はよく笑い、よく泣く。僕等は、彼等自然児達の強靱な声帯を感ずる様に、彼等の涙がどんなに塩辛いかも理解する……。
  「平家物語」は、無情にも無常観という湿気た着物を着せられてきました。この回では、そういう暗い「平家物語」ではなく、作者たちが意図した豪快闊達、天真爛漫そのものの人間活劇「平家物語」を、朗々と明るい小林先生の語りでお聴きいただきました。


●令和元年(二〇一九)十二月十九日
<「無常という事」シリーズ> 第四回
「徒然草」
(新潮社刊『小林秀雄全作品』第14集所収)

 今日、「徒然草」は高校国語の古典入門に用いられ、古語や古典文法を学ぶための道具にされてしまって、それさえできれば「徒然草」はもうわかったということになっているのではないでしょうか。つまり、「徒然草」は、古文の初心者にちょうどいい身辺雑記で、大学に受かってしまえば、あるいは社会に出てしまえば、もう用はないと思われているのではないでしょうか。 
 とんでもない誤解です。小林先生は、昭和四十七年(一九七二)二月、七十歳を目前にして発表した講演録「生と死」で、こう言っています、――「徒然草」を残した兼好法師という人は、私たち批評を書く者にとっては忘れることのできない大先輩です、彼が死んでから六百年余りになるが、この人を凌駕するような批評家は一人も現れていないのです……。小林先生の批評活動は、最初から最後まで人生いかに生きるべきかの探求でしたが、兼好はそういう批評の大先輩であるのみならず、最高峰だと言うのです。
 では兼好の、どこが小林先生にそう言わせるのでしょうか。「徒然草」で、小林先生はこう言います、彼には常に物が見えている、人間が見えている、見え過ぎている、この見え過ぎる眼をいかにぎょしたらよいか、これが「徒然草」の精髄であり、物が見え過ぎ解り過ぎるつらさを、彼は「怪しうこそ物狂おしけれ」と言ったのである……。
 この回では、その兼好の見え過ぎる眼が見た摩訶不思議な人の世の機微を、兼好の眼を借りて見ていきました。


●令和二年(二〇二〇)一月十六日
「無常という事」シリーズ> 第五回
「西 行」
(新潮社刊『小林秀雄全作品』第14集所収)

 西行は、平安末期から鎌倉初期にかけて生きた歌人です。歌集に「山家集」があり、最晩年に詠んだ「願わくは 花の下にて 春死なん そのきさらぎの 望月のころ」は特によく知られていますが、同時代に編まれた勅撰集「新古今和歌集」には、全収録歌約二〇〇〇首のなかで最も多い九十四首が採られているという大歌人です。
 しかし小林先生は、西行に「新古今集」の大歌人の顔ではなく、空前と言ってよい内省家の顔を見ていきます。西行にはまず自分の心にうずきがあり、その疼きの内省がそのまま放胆な歌となって現れた、いかにして歌を作ろうかという悩みに身も細る想いをしていた当時の歌壇に、いかにして己れを知ろうかというほとんど歌にもならぬ悩みを提げて西行は登場したのだと言って、西行の心の疼きを繊細に感じ取っていきます。
 ――西行には心の裡で独り耐えていたものがあったのだ。彼は不安なのではない、我慢しているのだ。何をじっと我慢していたからこそ、こういう歌が出来上ったのか、そこに想いを致さねば、「捨てたれど 隠れて住まぬ 人になれば なお世にあるに 似たるなりけり」の調べはわからない。「世中を 捨てて捨てえぬ 心地して 都離れぬ 我身なりけり」にただ弱々しい感傷を読んでいるようでは「心のあり顔」とはどんな顔だかわかるまいし、人々の誤解によっていよいよ強くなるとでも言いたげな作者の自信も読みとれまい。……
 こうして小林先生に導かれて読んでいくうち、西行が私たちのすぐそばに来ている気がしてきます、願わくは西行のごとく我れ生きん、という思いが強く湧いてきます。 


●令和二年(二〇二〇)二月二十日
<「無常という事」シリーズ> 第六回
「実 朝」
(新潮社刊『小林秀雄全作品』第14集所収)実朝さねとも」は、源実朝です。鎌倉幕府を開いた頼朝の次男で、自身も第三代の将軍となりましたが、二十八歳の正月二十七日、雪の降り積む夜の鶴岡八幡宮で兄頼家の子に殺されます。将軍とはいえ、実権は母政子の親元、北条氏に握られていた実朝でした。
 小林先生は、実朝横死の奇々怪々を幕府の手になったとされる史書「吾妻鏡」の紙背に追い、彼の歌に「何かしら物狂おしい悲しみに眼を空にした人間」を読み取ります。人口に膾炙した歌「箱根路を われ越えくれば 伊豆の海や 沖の小島に 波の寄るみゆ」も大変悲しい歌と読んで、「大きく開けた伊豆の海があり、その中に遥かに小さな島が見え、またその中にさらに小さく白い波が寄せ、またその先に自分の心の形が見えて来るという風に歌は動いている」と言い、前回読んだ西行の歌と同じように、実朝の心の微妙な調べを聴き取っていきます。
 雄大と言われてよく知られた「大海の 磯もとどろに よする波 われてくだけて さけて散るかも」についてもこう言います、「こういう分析的な表現が、何が壮快な歌であろうか。大海に向って心開けた人に、このような発想の到底不可能なことを思うなら、青年の殆ど生理的とも言いたいような憂悶を感じないであろうか」「いかにも独創の姿だが、独創は彼の工夫のうちにあったというよりむしろ彼の孤独が独創的だったと言った方がいいように思う。自分の不幸を非常によく知っていたこの不幸な人間には、思いあぐむ種はあり余るほどあったはずだ。これは、ある日、悶々として波に見入っていた時の彼の心の嵐の形である」……。 
 この回では、こうして小林先生がきめ細かに聴き取っていく実朝の叫びを十二首取り上げ、小林先生に導かれて彼の孤独な魂と対面しました。


●令和二年(二〇二〇)七月十六日
<講演文学シリーズ> 第一回
「文学と自分」
(新潮社刊『小林秀雄全作品』第13集所収)

 今回から新たに始める<講演文学シリーズ>の「講演文学」は、小林先生が自らの講演を基として書いた作品をさして池田が用いている呼称ですが、その「講演文学」の第一回は「文学と自分」です。
 日中戦争が始まった昭和十二年(一九三七)当時、戦争に対する文学者の覚悟とはと雑誌社から問われ、その問い自体には馬鹿々々しくて答えなかったが、と切り出し、文学はあくまでも平和の仕事である、したがって、と次のように言います。外から仕入れた様々な知識の国に遊ぼうとせず、自分が直接経験できるきわめて狭い世界だけを確実なものと信じ、この世界のなかだけで自得するより正しい道はないと覚悟する、それが文学者の覚悟である……
文学に限らず文章の世界では、書く側も読む側も観念的、空想的になりがちです。書く側は自分の日常とはかけ離れた世界へ飛んで行って立派そうなことを言おうとし、読む側もそういう頭でね上げられた人生観、世界観らしきものをありがたがるというわけです。
 小林先生はそこを終生、戒め続けました。「文学と自分」では、――なるほど、己れの世界は狭いものだ、貧しく弱く不完全なものだ、が、その不完全なものから一筋に工夫をこらすというのがものを本当に考える道なのだ……と言い、私たちが人生を考えようとするとき、そこにはどんな落し穴が待ち受けているかを次々示しながら、日々の暮らしに即して「いかに生きるべきか」を考え実践するための手筈を説き明かしていきます。
ここで言われていることは、いずれも難しいことではありません。ややもすると物事を難しく難しく考えようとする私たちに、もっと易しく、自分の背丈に自信をもって、背伸びせずに考えなさいと言っていることばかりです、小林秀雄は難しいという先入観をまず取り除いて、書かれているがままに、読み取れたままに記憶していって下さいとお話ししました。


●令和二年(二〇二〇)八月二十日
<講演文学シリーズ> 第二回
「歴史と文学」
(新潮社刊『小林秀雄全作品』第13集所収)

  「講演文学」シリーズの第二回は、「歴史と文学」を取り上げました。歴史は、人間の興味ある性格や尊敬すべき生活の事実談に満ち満ちている。そこには日本の伝統の機微、日本人の生活の機微がいくつも見え隠れしている。歴史を読む、学ぶとは、そういう「機微」に直接ふれて、私たちが現代を生きるうえでの糧とすることなのだが、しかし、そこをわざわざそうではなくさせる歴史の本や教科書がまかり通っている、歴史は事実でなければならない、客観的でなければならないと言って、史料という名の証拠が示せない物事や出来事には見向きもしない、そこがそもそも間違いだ、たとえばゲーテは言っている、自分に過去の英雄が立派だと信じられさえすれば、彼に関する歴史が伝説や作り話に過ぎなくても一向差支えない、そんな作り話をそのまま信じるほど吾々も立派であってよいではないか……、そういう事例をたくさん引いて、歴史の機微に生々しくふれるにはどうすればよいかを示します。
 小林先生は昭和十一年(一九三六)から明治大学で文学とともに日本史を教えましたが、歴史の勉強は暗記地獄という状況はその頃も同じで、学生はみな歴史に冷淡になっていました。これではいけない、小林先生は同僚の先生たちに提案します。通史を教えるのではなく、建武中興なら建武中興、明治維新なら明治維新、というふうに歴史の急所に重点を定め、そこを精しく、日本の伝統の機微、日本人の生活の機微にわたって教えるのだ、学生の心は人生の機微に対して鋭敏だ、人生の機微にふれて感動しようと待ち構えている、そういう学生の心をまず尊重する、歴史教育はそこからだ……、そう言って自ら先頭に立ちました。


●令和二年(二〇二〇)十月十五日
<講演文学シリーズ> 第三回
「私の人生観」
(新潮社刊『小林秀雄全作品』第17集所収)

  「講演文学」シリーズの第三回は「私の人生観」です。この作品は昭和二十四年(一九四九)、小林先生四十七歳の十月に刊行された講演録ですが、内容はまさに講演文学と呼びたい綿密さで、小林先生の代表作のひとつに数えられています。
 タイトルは「私の人生観」ですが、私の人生観はこうこうこうですと、手際よく説明するのではなく、「人生観」の「観」という言葉はどういう歴史をもっているか、仏教の「観法」について考えることから始め、京都高山寺の明恵上人の画像や宮本武蔵の言葉に、人間を質実に生かす「観」の現れを見ていきます。「観」は「心眼」に近いとも言えるようですが、歴史も人生も「見」ではなく「観」で観なければ見えてこないと言い、同時に優れた画家は肉眼を鍛え、拡大した視力で物を見る、そうして描かれた海や薔薇は、君はまだ本当の海や薔薇を見たことはないのだと、見る者に視力の改革を迫ってくる……、そうも言って、美を観る眼によって大きくひらける人生へと読者を誘います。


●令和二年(二〇二〇)十一月十九日
<講演文学シリーズ> 第四回
「表現について」
(新潮社刊『小林秀雄全作品』第18集所収)

 文学、美術、音楽……芸術はすべて人間の表現行為の結晶です。ではその表現とはどういうことでしょうか。「表現」という日本語のもとになった英語のexpressionは、たとえばみかんをつぶしてみかん水をつくるように、物を圧しつぶして中味を出すという意味の言葉です。ということは、表現とは、動揺してやまない自分の主観を意識し、感情も理性もぎりぎりまで酷使してそれを絞り出す作業です。したがって、芸術家の表現とは、自分はどう生きているかを自覚しようとする行為なのであり、ひいてはどう生きるべきかの実験なのです。 
 だから、よりダイナミックに音楽を聴いたり文学を読んだり絵を見たりするコツは、作者の表現しようとする意志、そこへかぎりなく近づいていこうと努力することだと小林先生は言います。この「表現について」こそは、小林先生の「芸術とは何か」のエッセンスです。昭和二十二年(一九四七)、四十五歳の夏七月、鎌倉で行われた音楽講座のための講演がもとになっています。


●令和二年(二〇二〇)十二月十七日
<講演文学シリーズ> 第五回
「生と死」
(新潮社刊『小林秀雄全作品』第26集所収)

 この文章は、昭和四十七年(一九七二)二月、『文藝春秋』に発表されましたが、基となったのは前年の十一月、東京宝塚劇場で催された「文藝春秋祭り」での講演です。一と月余り前には敬愛しつづけた志賀直哉氏が、二年前には親友のひとり獅子文六氏が亡くなっていました。死は前よりしも来らず、かねて後に迫れり――、生が終って死が来るのではない、死は早くから生のうちに在って、知らぬ間に己れを実現するのだ、と言っている兼好の「徒然草」を引き、志賀氏が生前、自ら用意し砂糖壺として使っていた益子焼の骨壺、獅子氏が毎年、花時には必ず出向いて見入り、最後の年にも見入った大磯の書斎の牡丹畑の花に思いを馳せ、両氏の死を得るさりげない工夫を小林先生もさりげなく語ります。この時期、小林先生は七十歳を目前にしていました。


●令和三年(二〇二一)一月二十一日
<「講演文学」シリーズ> 第六回
「信ずることと知ること」
(新潮社刊『小林秀雄全作品』第26集所収)

 昭和三十年代の初めから毎年、夏の九州で国民文化研究会の主催による学生青年合宿教室がひらかれていました。小林先生は、そこへ昭和三十六年(一九六一)八月に初めて招かれて以来、都合五回にわたって出かけ、全国から集まった各回数百人の若者たちに語りかけました。この回で取り上げた「信ずることと知ること」は、その合宿教室で同四十九年八月に行った講義が基になっています。
 現代人は、超能力や超自然的といわれるような出来事を聞かされると、鼻先であしらうか無視するか、いずれにしても真面目に向きあおうとしない、そういう態度はいけない、そういうさかしらが現代人の生き方を貧寒にしていると言い、小林先生が終生敬愛したフランスの哲学者ベルグソンの講演「生きている人の幻と心霊研究」や、民俗学者、柳田国男の「山の人生」を引いて、私たちは本当にあったこういう話にどう向きあうべきかを語ります。わけても、「山の人生」から引かれた炭焼きの父子の話は胸に沁みます。


●令和三年(二〇二一)二月十八日 
<「講演文学」シリーズ> 第七回
「文化について」
(新潮社刊『小林秀雄全作品』第17集所収)

 この回は、令和二年(二〇二〇)七月から続けてきた<「講演文学」シリーズ>の拡大版として「文化について」を読みました。
  「文化について」は、昭和二十四年(一九四九)、小林先生四十六歳の年に行われた横光利一追悼講演会での講演がもとになっていますが、その趣旨は令和元年(二〇一九)十月の講義で読んだ「私の人生観」でも述べられています。したがって、この回の「文化について」は、「私の人生観」のいわば熟読篇です。
 今日私たちが口にしている「文化」という言葉は、明治時代に欧米から入ってきた言葉「culture」の訳語として広まったものですが、日本語の「文化」は「culture」に備わっているそもそもの語感をまったく伴っておらず、したがって日本人は文化文化と騒ぐだけで、文化とはどういうことかがわかっていないと小林先生は言います。
  「culture」は、もとは「栽培する」という意味の言葉です。だから欧米人は、どんな場合でも「culture」という言葉を耳にすると「栽培」という意味の語感を伴って聞き、ただちに何かが栽培されたのだな、あるいは何かを栽培するのだなと受取ります。それは、野菜や果物に限ったことではありません、人間も、いや人間こそは最大の「栽培」対象です。では、人間を栽培するとはどういうことでしょうか、小林先生の語りにしっかり耳を傾けながら読み進めていきました。


●令和三年(二〇二一)三月十八日 
<「講演文学」シリーズ> 第八回
「常識について」
(新潮社刊『小林秀雄全作品』第25集所収)

 小林先生は、まずこう言います、常識という言葉は、ずいぶんでたらめに使われている、困った男だ、まるで常識がない、と言うかと思うと、そんなこと常識ではないか、面白くもない、と言う、これでは何のことやらわからない、そもそもを言えば「常識」は英語「コンモン・センス」の訳語である、「コンモン・センス」とは私たち誰もが持って生れている精神の不思議な能力のひとつであり、そこを敢えて別の言葉でいえば誰にも備わっている直観力、判断力等に基づく思慮分別や知恵である……。
 そして、そういう「コンモン・センス」の働きに最初に気づいたデカルトは、この能力は生活面でどういうふうに働かすのが正しいか、また有効かを問い続け、常識の使用法についての感動的な本を書いた、それが日本では「方法叙説」と題して売られてきたが、原題はそんな固苦しいものではない、「方法の話」とか「私のやり方」とかとしたほうがはるかにふさわしく、デカルト自身、「古人の書物ばかりをありがたがっている人たちよりも、単純な分別だけを働かせている人たちのほうが私の意見を正しく判断するだろう」と本の中で言っていると紹介し、デカルトの「常識」を具体的に語っていきます。 
     
             
●令和三年(二〇二一)四月十五日 
<「小林秀雄と作家たち」シリーズ その一> 第一回
「中原中也の思い出」
(新潮社刊『小林秀雄全作品』第17集所収)

 <「小林秀雄と作家たち」シリーズ その一>の第一回は、小林先生が昭和二十四年(一九四九)四十七歳の夏に書いた「中原中也の思い出」を読みました。
 三十歳という若さで逝った天才詩人、中原中也は、今なお日本人に最も人気のある詩人と言っていい存在ですが、小林先生との関係も格別でした。小林先生は、大正十四年(一九二五)二十三歳の春、中也と出会いました、しかし、「中原と会って間もなく、私は彼の情人に惚れ、三人の協力の下に(人間は憎み合う事によっても協力する)、奇怪な三角関係が出来上り」、やがてその女性と小林先生は同棲します。「この忌わしい出来事が、私と中原との間を目茶々々にした」という断腸の思いとともに「中原中也の思い出」は始められ、中也との間で織りなした悲劇と友情の行方を追います。
 あの日、中原とふたりで見上げた鎌倉妙本寺の海棠かいどうは美しく哀しく、そして今、悔恨の穴は深くて暗いと記す小林先生の切なさが、まざまざと私たちの胸に迫ります。


●令和三年(二〇二一)五月二十日 
<「小林秀雄と作家たち」シリーズ その一> 第二回
「芥川龍之介の美神と宿命」
(新潮社刊『小林秀雄全作品』第1集所収)

 この回で取り上げた「芥川龍之介の美神と宿命」は、昭和二年(一九二七)九月、芥川が自殺した七月二十四日の翌々月に発表された作品です。その二年後、小林先生は「様々なる意匠」を書いて雑誌『改造』の懸賞評論二席に入り、文壇に打って出ますが、先生はそこでも「作家の宿命」ということを強く言い、以後、先生の仕事は詩人であれ画家であれ作曲家であれ、彼らの「宿命」を逸早く見出してそれぞれの「宿命」と話しこむ、そういう姿勢で貫かれます。そこでこの回では、その「宿命」という言葉に注目しました。
 ただし、「芥川龍之介の美神と宿命」を書いた年、小林先生は二十五歳でした、そのため文章自体は若書きそのもので難解です、したがって、ここで言われていることを無理にもわかろうとする必要はありません。先生は文中で、たとえば「芥川氏にとって人生とは彼の神経の函数としてのみ存在した」と言っています。この「神経」を頭において芥川の作品を「鼻」から「歯車」へといくつか読み返せば、小林先生の言う「芥川の宿命」がおのずと感じられてきます。


●令和三年(二〇二一)六月十七日 
<「小林秀雄と作家たち」シリーズ その一> 第三回
「志賀直哉」
(新潮社刊『小林秀雄全作品』第1集所収)

 <「小林秀雄と作家たち」シリーズ その一>の第三回は「志賀直哉」を取り上げました。この作品は、小林先生が「様々なる意匠」によって文壇デビューを果した昭和四年(一九二九)九月の三ヶ月後、今日風にいえば受賞第一作として雑誌『思想』に発表されました。小林先生二十七歳の年の十二月です。
 志賀直哉は、小林先生にとって終生の大先達、大恩人でしたが、「様々なる意匠」に先立って書いた処女小説「蛸の自殺」を送って賞讃されるなど、早くから大きな感化を受けていました。しかも二年前の昭和三年(一九二八)五月、長谷川泰子との同棲生活に追いつめられて関西に出奔、翌四年の春まで約一年に及んだ関西放浪の間、小林先生は物心両面にわたって志賀直哉の庇護を受けました。その志賀直哉を、小林先生は批評家人生の初仕事として論じたのです。 
 この回の対象作品「志賀直哉」は、志賀直哉の親友のひとりであった小説家、広津和郎が大正八年(一九一九)に発表した「志賀直哉論」と並んで直哉論の双璧とされ、今日に至るもなお直哉の読者、研究者に並々ならぬ影響を及ぼし続けています。それというのも、小林先生が指摘した志賀直哉の個性、特性が、的確という以上の示唆に富み、読者、研究者は一読するなり目を洗われる思いに誘われるからです。 
 小林先生の指摘は、大きく分けて三つあります。この回の集いではその三つの指摘を順次ご紹介し、それが単に優れた志賀直哉論というにとどまらず、「様々なる意匠」で叫んだ「批評の対象が己れであると他人であるとは二つの事でない。批評とは竟に己れの夢を懐疑的に語る事ではないのか!」が見事に実践され、以後半世紀以上に及んだ先生の批評人生の主調低音が鮮やかに鳴っています。


●令和三年(二〇二一)七月十五日 
<「小林秀雄と作家たち」シリーズ その一> 第四回
「菊池寛論」/「菊池寛」
(新潮社刊『小林秀雄全作品』第9集所収)/(同第21集所収)

 <「小林秀雄と作家たち」シリーズ その一>の第四回は「菊池寛」でした。小林先生が昭和十二年(一九三七)一月、三十四歳で書いた「菊池寛論」を読みました。
菊池寛は、明治二十一年(一八八八)に生れた作家であり、ジャーナリストです。作家としては「忠直卿行状記」や「恩讐の彼方に」などの純文学、「真珠夫人」などの通俗小説、また「父帰る」などの戯曲で知られ、ジャーナリストとしては雑誌『文藝春秋』の創刊、芥川龍之介賞・直木三十五賞の創設、文芸家協会の設立等々数多くの事業を興し、並み外れた先見の明と実行力とで大きく文壇に寄与しました。  
 その菊池寛は、小林先生にとって特別の存在でした。晩年、自分が心底敬愛した日本の作家は菊池寛と正宗白鳥だと言い、わけても菊池寛は文章を売って生計を立てるという文士の生き方の大先達、大天才として仰ぎ、『文藝春秋』への執筆はもちろん、菊池寛の実行力に魅せられて講演旅行、文士劇……と、行を共にし続けました。  
 菊池寛のどこが、なにが、小林先生をこれほどまでに引きつけたのでしょうか。まずは、菊池寛その人が逸話の問屋のような人だったからですが、菊池寛の小説もまさに逸話の魅力でした。菊池寛は、アメリカの文学者アッシュマンが小説を分類し、「human interest stories」(人間らしさの面白さを狙う小説)というグループを設けていると随筆に書いているが、菊池寛の短篇小説自体、すべてが「human interest stories」である、小説は素材で決まる、「ここにも人間がいる」と読者の誰もが共感してくれるような逸話をさっと拾う、それだけだと菊池寛は思い決めていたたにちがいないと小林先生は言い、そこにこそ先生が菊池寛に心酔した理由があると言っています。 


●令和三年(二〇二一)八月十九日 
<「小林秀雄と作家たち」シリーズ その一> 第五回
「正宗白鳥」/「正宗白鳥の作について」
(新潮社刊『小林秀雄全作品』第3集所収)/(同別巻2所収)

 <「小林秀雄と作家たち」シリーズ その一>の第五回は、小林先生が昭和七年(一九三二)一月、二十九歳で書いた「正宗白鳥」と、畢生の大業「本居宣長」を書き上げた後の同五十六年一月、七十八歳で雑誌連載を始め、同年十一月、未完のまま先生の絶筆となった「正宗白鳥の作について」を取り上げました。
 正宗白鳥は、菊池寛と並んで小林先生が終生敬愛し続けた作家ですが、小林先生が白鳥のどこにそんなにも魅せられたかを一口で言えば、白鳥の「一種傍若無人のリアリズム、奇妙ななげやり」です。そこをまたこうも言っています、「正宗氏の作品で、私が動かされるのは、氏独特の文体である、調子である。氏の文体は、勿論豊かでもなければ、軽快でもない。併し又、素朴でもなければ、枯淡でもない。氏の字句の簡潔は、磨かれた宝玉の簡潔ではなく寧ろ、捨てられた石塊の簡潔だ。私は、氏の文体の強い息吹きに統一された、味も素気もない無飾の調子に敬服するのである。この文体はこの作家の資質の鏡である」……。
 またいっぽう、昭和十一年四月、三十四歳の年にはトルストイの家出と死をめぐって二十三歳年上の白鳥に論戦を挑み、後に「思想と実生活論争」と呼ばれて語り継がれる応酬を烈しく展開しました。かと思うと戦後すぐの昭和二十三年秋には「大作家論」と題した対談を行い、酒は一滴も飲めない白鳥相手に大演説をぶって、「全体酔漢の心理は私には神秘不可思議である」と白鳥に言わせたという伝説を残しました。この大論争と対談もまた、小林先生がどんなに深く白鳥の懐に飛び込んでいたかを示すものです。


●令和三年(二〇二一)九月十六日 
<「小林秀雄と作家たち」シリーズ その一> 第六回
「『罪と罰』についてⅠ」/「『罪と罰』についてⅡ」
(新潮社刊『小林秀雄全作品』第5集所収)/(同第16集所収)

 <「小林秀雄と作家たち」シリーズ その一>の第六回は、「ドストエフスキー」でした。ドストエフスキーはトルストイとともに一九世紀のロシアを代表する大作家ですが、小林先生は昭和八年(一九三三)三十歳の一月に発表した「『永遠の良人』」から同三十九年、六十二歳の五月に刊行する「『白痴』について」に至るまで、実に三十年にもわたってドストエフスキーを熟読し続けました。昭和十四年五月には「ドストエフスキイの生活」を刊行し、「久しい間、ドストエフスキイは、僕の殆ど唯一の思想の淵源であつた。恐らくは僕はこれを汲み尽さない。汲んでいるのではなく、掘っているのだから」と言いました。
 この回で取り上げた「『罪と罰』についてⅠ」と「同Ⅱ」の「罪と罰」は、ドストエフスキーの五大長篇、「罪と罰」「白痴」「悪霊」「未成年」「カラマーゾフの兄弟」の第一作であると同時に世界の文学に大革命をもたらした大作です。貧しさに負けて大学を中退したラスコーリニコフは、選ばれた人間は人類の幸福のためには殺人も許されるという想念にとりつかれて金貸しの老婆を殺します、しかし良心の呵責に駆られ、罪の意識に怯えて、人間心理の極限をさまよいます。この「人間心理の極限」は、それまで世界中の誰にも描かれたことがなく、小林先生はこうしてドストエフスキーの独創に成ったラスコーリニコフの精神地獄を克明に追体験していき、「これは犯罪小説でも心理小説でもない。如何に生くべきかを問うた或る『猛り狂った良心』の記録なのである」と言いました。


●令和三年(二〇二一)十月二十一日 
<「美を求める心」シリーズ 第一回>
「慶 州」/「ガリア戦記」
(新潮社刊『小林秀雄全作品』第12集所収)/(同第14集所収)

 この回から新たに<「美を求める心」シリーズ>を始め、第一回は「慶州」と「ガリア戦記」を読みました。
「慶州」は小林先生三十七歳の年、昭和十四年(一九三九)の六月に発表されました。日中戦争下の昭和十三年十月、友人の兄の招待を受けて友人とともに朝鮮から満州、華北を旅行し、その途次、朝鮮の慶州郊外にある仏教遺跡、仏国寺と石窟庵を訪れます。  
 仏国寺は新羅時代の石塔などが残る古刹ですが、石窟庵に入って居並ぶ仏像を目にするなり、これらの仏像、どれもが一流品だ! と一流品ならではの強い感じを受け、外に出るやあの部屋に満ちていた奇妙な美しさは何なのかとただちに考えこみます。これが、以後、文学から一転して深入りしていく美の世界への第一歩となりました。
  「ガリア戦記」は昭和十七年五月、四十歳の年の作品です。小林先生は慶州へ行った昭和十三年前後から陶磁器をはじめとする骨董に熱中し、色と形とだけの世界で言葉を封じられ、視覚と触覚に精神を集中する日々を続けていました。そこへ十七年二月、「ガリア戦記」の翻訳が出ました。この本は古代ローマの武将、シーザーの遠征報告書ですが、視覚と触覚だけに精神を集中していた先生には、この史書が現代の文学とは異なり、強い彫りの線や石の手触りなどをさえ感じさせる古代の美術品のように迫ってきたというのです。小林先生は美に沈潜してかえって深く文学の世界を見すえていきました。


●令和三年(二〇二一)十一月十八日 
<「美を求める心」シリーズ> 第二回
「骨 董」/「真 贋」
(新潮社刊『小林秀雄全作品』第16集所収)/(同第19集所収)

 <「美を求める心」シリーズ>の第二回は、「骨董」と「真贋」を読みました。
 小林先生は、三十代半ばの昭和十三年頃から二十年頃まで、約七年にわたって骨董に熱中しました。骨董という言葉を辞書で引くと「古美術品や価値のある古道具。アンティーク」等とあり、一般に理解されている意味合もこのあたりと思われますが、小林先生の骨董いじりはそういう面での趣味や道楽ではなく、一言で言えば「眼」と「精神」の徹底鍛錬でした。前回の講義で読んだ「『ガリア戦記』」にこう書かれていました、――ここ一年ほどの間、造形美術に異常な執心を持って暮した、色と形との世界で、言葉が禁止された視覚と触覚とだけに精神を集中して暮すのが容易ならぬ事だと初めてわかった……。
 壺なら壺という言葉を発しない美しいものが一方的に強いてくる沈黙に耐え、いっさいの言葉が締め出されたなかで何が見えてくるか、何が聞えてくるかをひたすら待つ……。この鍛錬は、たちまち小林先生の文学、そして歴史を見る眼を一変させ、「『ガリア戦記』」と相前後して書かれた「無常という事」には、「歴史というものは見れば見るほど動かし難い形と映ってきていよいよ美しく感じられた」「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい」と記し、さらに「モオツァルト」には、現代では「真らしいものが美しいものに取って代った、真理というものは、確実なもの正確なものとはもともと何の関係もないものかも知れないのだ。美は真の母かも知れないのだ」と言い、「コメデイ・リテレール」では「美は真を貫く、善も貫くかも知れない」と言っています。
  「真贋」では、そういう骨董いじりによって目の当りにした「器物に関する人間の愛着や欲念」の尋常ならざる様相を自分自身をも含めた骨董好きの狂態に見て取り、その狂態によって露わとなった人間の本性と「美」の本性に思いを馳せます。
 この回では、こうして「美」に鍛えられた小林先生の「眼」が、「人生」を鋭く貫くさまを見ていきました。


●令和三年(二〇二一)十二月十六日 
<「美を求める心」シリーズ> 第三回
「鉄 斎Ⅰ・同Ⅱ・同Ⅲ・同Ⅳ」/「雪 舟」
(新潮社刊『小林秀雄全作品』第15集・第17集・第21集・第21集所収)/(同第18集所収)

 <「美を求める心」シリーズ>の第三回は「鉄斎Ⅱ」と「雪舟」を読みました。
  「鉄斎」は、富岡鉄斎です。明治・大正期の文人画家で、儒学・国学・仏典・詩文と和漢の学問を広く修めるとともに、日本古来の大和絵に中国明・清の画風を取り入れ、独自の画境をひらきました。その絵、その生き方、いずれも自由奔放、大胆不羈で、この鉄斎に小林先生は四十代から惚れこみ、四篇の鉄斎論を書きました。が、鉄斎という画家を知るうえでも、先生が鉄斎のどこをどう面白がっていたかを聞きとるうえでも、まずは「鉄斎Ⅱ」が好適と見て、この回では「鉄斎Ⅱ」を精しく読みました。ある年、小林先生は、兵庫県宝塚の所蔵家の好意で四日間、早朝から坐り通してワカガキだけでも二〇〇点近くあるという鉄斎の絵を見て過ごしました。なかでも大作「富士山図屏風」は三時間以上も眺めて隅から隅まで味わい、これを描いた鉄斎の気持ちまで汲んで文章に写し取りました。読んでいくうち、まるで鉄斎と小林先生に連れられて富士山へ登っているような気分にさせられます。もちろん「鉄斎Ⅰ・Ⅲ・Ⅳ」も面白さは尽きません。  
 そして、雪舟は、「破墨山水図」「天橋立図」など、数々の名品で知られる室町時代の水墨画家です。小林先生はある年、長さ十五メートル以上にも及ぶという雪舟の大作「山水長巻」を、山口県の所蔵家の好意で心ゆくまで眺める機会に恵まれました。先生は、こんなに心を動かされた山水図はいままで見たことがないと言い、山水鑑賞が人生の目的になってしまったような男が山路を歩きだす、私もこの男と一緒に絵の中を歩きだす、と筆を起し、男の目に映る水や岩を次々と文章に写し取っていきます。こうして出来上がった「雪舟」は、まさに「小林秀雄の山水長巻」であり、同時に雪舟という画家の凛々しい肖像画です。読み進むにつれて私たちも雪舟の絵の中を歩いている感覚に襲われ、絵というものはこういうふうに見るものなのかという感動がどんどん高まります。    


●令和四年(二〇二二)一月二十日
<「美を求める心」シリーズ> 第四回
「ヴァイオリニスト」/「蓄音機」
(新潮社刊『小林秀雄全作品』第19集所収)/(同第22集所収)

 令和三年(二〇二一)十月から令和四年三月は、小林先生の作品名から採って「美を求める心」をテーマとし、これまでに「骨董」「真贋」と焼物の世界を、次いでは「鉄斎」「雪舟」と日本画の世界を巡ってきましたが、この回は「ヴァイオリニスト」「蓄音機」と音楽の世界を巡りました。
 小林先生は、絵や骨董と並んで音楽も大好きでした。なかでも音楽との出会いは最も早く、子供の頃に父親が外国から買って帰った蓄音機がきっかけでした。そして終生、一も二もなく好きだった楽器はヴァイオリンで、そういう小林先生の音楽大好き人生のサワリが「蓄音機」と「ヴァイオリニスト」で語られます。
 ただし、先生は、大の音楽好きと言っても今日のいわゆるクラシックファンとはまったく違っていました。折にふれて先生は、「音楽は耳で聴くものだ、近ごろの音楽好きは耳で聴いていない、頭で聞いている」と言っていましたが、さらに先生は「音楽は目でも聴く」と言い、「ヴァイオリニスト」ではかつて日本に来たエルマンやチボーの肉体の動きをまざまざと思い出した後に、一八~一九世紀のイタリアで屈指の奏者だったパガニニは日頃の一挙手一投足でも聴衆を熱狂させたと言って彼の逸話を次々語り、ヴァイオリンという楽器は古風だが今も独奏楽器として重要な役をつとめている、これは、宗教も哲学も無視してヴァイオリンに独特な歌を歌わせる芸しか信じていなかった放蕩者パガニニの亡霊なくしては考えられないことだとパガニニの音に思いを馳せ、憑かれたようにその亡霊を追います。


●令和四年(二〇二二)二月十七日 
<「美を求める心」シリーズ> 第五回
「梅原龍三郎」・「梅原龍三郎展」/「地主さんの絵Ⅰ・同Ⅱ」
(新潮社刊『小林秀雄全作品』第14集所収)(同第28集所収)/(同第26集所収)

 <「美を求める心」シリーズ>の第五回は、「梅原龍三郎」と「地主さんの絵Ⅰ・Ⅱ」を読みました。
 梅原龍三郎は、小林先生とはほぼ一回り年上の洋画家です。明治四十一年(一九〇八)、フランスに渡ってルノアールに師事し、大正二年(一九一三)に帰国、同九年、再び渡仏しますが帰国後の同十五年頃からは彼の豊麗な色彩がいっそう注目され、戦後もたびたびヨーロッパに渡って華麗な風景画を描き続けました。その梅原龍三郎の「色」について、小林先生はこう言っています。
 ――画家の唯一の方法は、色だという単純な真実の深さに、いつも立還り自問自答しているこの純血種にあっては、色調という言葉は、どうも尋常な意味を抜いている様に思われてならないのである。……
 これは、具体的にはどういうことが言われているのでしょうか。その答は「梅原龍三郎展」に見られます。そのためこの回では、「梅原龍三郎」とともに「梅原龍三郎展」もしっかり読みました。
 そして、「地主さん」こと地主悌助じぬしていすけは、梅原龍三郎より一歳年下の洋画家です。三十余年にわたった師範学校等での図画教師を経て昭和二十九年(一九五四)、六十五歳の年から画作に専念し、もっぱら石、紙、瓦、大根といったものばかりを本物そっくりに描いて「石の画家」と呼ばれるようになりましたが、小林先生は最初の個展で見てその筆致に感服し、大根の絵を買って帰って夫人に見せました、すると夫人は、「おや、この大根二本は、<す>が立っている」と言ったと「地主さんの絵Ⅰ」に書いています。「<す>が立っている」とは、根菜の内部にすき間が生じていることを言いますが、小林先生は、「写生写実と呼んでいい地主さんの画風は、言ってみればまあそれほど徹底したものだ。今日に至るまで少しも変らない。その一貫性には驚くべきものがある」と言い、昭和四十六年(一九七一)、新潮社主催の「日本芸術大賞」の選考委員の立場からも地主氏を同賞に強く推しました。
 なお、小林先生が高く評価し、親交を結んでいた画家として他に洋画の中川一政、日本画の奥村土牛がいます。この回ではこの両画家について語られた「中川さんの駒ケ岳」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第26集所収)、「『土牛素描』」(同第27集所収)も併せて紹介しました。


●令和四年(二〇二二)三月十七日
<「美を求める心」シリーズ> 第六回
「ルオーの版画」/「ルオーの事」
(新潮社刊『小林秀雄全作品』第28集所収)/(同第22集所収)

 この回は、「ルオーの版画」と「ルオーの事」を読みました。令和三年(二〇二一)の十月から続けてきた「美を求める心」シリーズの大詰めです。  
 小林先生は、『本居宣長』を刊行した昭和五十二年(一九七七)の翌々年、七十六歳の年の三月に書いた「ルオーの版画」で、最近は進んで見たいと思うような絵は少なくなり、「部屋にはルオーの版画しか掛けていない。時々取り替えては眺めている。ここ数年間、そうしている」と言っています。  
 ルオーは、二〇世紀の前半から半ばにかけて描き続けたフランスの画家ですが、四十歳を過ぎた頃から版画に専念し、全五八点の連作銅版画集「ミセレーレ」を生み出しました。「ミセレーレ」とは「あわれみたまえ」の意のラテン語で、「旧約聖書」の<詩篇>第五〇篇から採られています。  
 一八七一年、貧しい木工職人の子として生まれたルオーは、最初はステンドグラス職人の徒弟になりました、しかし、三十歳を過ぎた頃からピエロや娼婦などを青の色調と荒々しい筆致で描き始め、のちには「聖書風景」と呼ばれる多くの宗教画を描きました。  
 小林先生には、ルオーについて、「ドストエフスキイの生活」のように、あるいは「モオツァルト」のように書きたいと思っていた時期があり、屡々フランスへ出向いていた画商の吉井長三さんにルオーに関する本をできるだけ多く集めてほしいと頼んで熱心に思いを巡らせていました。しかし、あれほど多くの「聖書風景」を描いたルオーについて書くということは、イエス・キリストについて書くというに等しく、それなら「聖書」を徹底的に読み直さなければならない、だが自分の年齢を考えれば、もうそうするだけの時間も体力もないと、一度は諦めかけました。  
 ところが、あるとき、吉井さんに、――判ったよ、ルオーはキリストを描いたのではない、風景のなかにキリストの仮の姿を描いたのだ、そういうふうに判ってみると、ルオーは書けそうな気がする……、そう言ったと小林先生の死後、吉井さんが追悼文に書いています(新潮社刊『小林秀雄全作品』別巻3所収「小林先生と絵」)。 
 そういう経緯を頭において「ルオーの版画」と「ルオーの事」を読めば、この二篇はついに書かれることなく終った「ルオー」のデッサンとも思えてきます。たとえば「ルオーの事」には次のように言われています。
  ――ルオーは、生涯ピエロを描きつづけた。彼にしてみれば、描きつづけねばならなかった、とはっきり言った方がよかったろう。人間劇の舞台にピエロに扮して登場し、死ぬまでこの役を演じ通して、ピエロとは何かという鋭い意識を、ぎりぎりまで磨く事になる。/ そういうピエロの複雑多様な内面性を我が物としてみなければ、この世に生きて行く意味は、決して見付かるまい。これは、早くからルオーの人生観の核心にあった信念であった。そして、其処に彼の宗教の基盤があったと附言して少しも差支えない。……  
 また、――風景画と言っても、ルオーの場合、必ず人々の日常の暮し、それも貧しい辛い営みが、景色のうちに、しっくり組み込まれたものだが、画家の信仰の火が燃え上るにつれて、キリストも時には画面に登場して来るようになる。普通、ルオーの「聖書風景」と呼ばれている構図が、次第にはっきりして来る。……  
 ――場末の古びた家の台所を描いたものがある。/太い煙突の立ったかまどに赤い火が静かに燃えて、何か粗末な食べ物が鍋で煮え、薬缶やかんの湯が沸いている。壁には、フライパンが三本、まるで台所の魂が眼を見開いたような様子で懸っている。傍の椅子に、男が一人腰をかけ、横を向いて、考え事をしている。頭上にかれた背光めいた色から見て、キリストに違いないのである。裸にされた人間の暮しの跫音あしおとに聞き入っているのであろうか。……  
 ルオーの作品は、日本では出光美術館とパナソニック汐留美術館に多く所蔵されています。 
 出光美術館 ⇒時期によって、併設展示というかたちで見ることができる場合もあるようです。    
           http://idemitsu-museum.or.jp/exhibition/establishment/#exhibition1
 パナソニック汐留美術館⇒以下のように常設があり、展示内容も確認できます。 
                     http://panasonic.co.jp/ew/museum/collection