次回の講座ご案内

令和6年7月のご案内

 令和6年7月の≪私塾レコダ l’ecoda≫三講座は、次のように開きます。
講師  池田 雅延   

●7月18日(木)19:00~21:00
 小林秀雄と人生を読む夕べ
   第一部 小林秀雄山脈五十五峰縦走

     第十六峰「慶州」(「小林秀雄全作品」12集所収) 
 
「慶州」は、小林先生三十七歳の年の昭和一四年(一九三九)六月に書かれました。
 日中戦争下の昭和一三年一〇月、友人の彫刻家、岡田春吉氏の兄の招待を受けて朝鮮から満州、華北を旅行した先生たちは、その途次、朝鮮の慶州郊外にある仏教遺跡、仏国寺と石窟庵を訪れました。仏国寺は新羅時代の石塔などが残る古刹こさつですが、石窟庵に入ってそこに居並ぶ仏像を目にするなり、先生は、「これらすべて、申し分のない一流品だ」と一流品ならではの強い感じを受けて烈しく心を動かされました。あの部屋に満ちていた奇妙な美しさは何だったのか……。
 この申し分のない一流品との不意の出会いが、以後、先生が急激な深入りを見せて、終生、眼と心を置き続けた美の世界への第一歩となったのです。




  第二部 小林秀雄 生き方の徴(しるし)
    
「意識」という言葉

 小林先生は、「純粋小説について」(「小林秀雄全作品」第7集所収)でこう言っています。
 ――ベルグソンは、「創造的進化」のなかで、人間の意識を「可能上の行動と現実の行動との算術的差」と定義しております。この算術的差の適量は、人間がよく考えよく行う健康状態を維持する為に必須である事は申し上げるまでもない。そして、僕等現代人は、いよいよこの算術的差の増大に苦しんでいる事も亦申し上げるまでもない事だと思います。……      
 そして、これに加えて、さらに言っています、
 ――この人間の近代的苦痛に関する、殆ど予見と形容したい程の天才的な洞察の上に、新しい小説手法の革命を断行したのがドストエフスキイであった。……

 続いて、「『罪と罰』についてⅡ」(同第16集所収)でこう言っています。
 ――この主人公(ドストエフスキーの小説「地下室の手記」の主人公/池田注記)は、人間の意識というものを、殆どベルグソンの先駆者の様に考える。意識とは観念と行為との算術的差であって、差が零になった時に本能的行為が現れ、差が極大になった時に、人は、可能的行為の林のなかで道を失う。安全な社会生活の保証人は、習慣的行為というものであり、言い代えれば、不徹底な自意識というものである。自意識を豊富にしたければ、何にもしなければよい。……

 さらに、「本居宣長」第十四章ではこう言っています。
 ――問題は、人の情というものの一般的な性質、更に言えば、その基本的な働き、機能にあった。「うれしき情」「かなしき情」という区別を情の働きの浅さ深さ、「心に思ふすぢ」に、かなう場合とかなわぬ場合とでは、情の働き方に相違があるまでの事、と宣長は解する。何事も、思うにまかす筋にある時、心は、外に向って広い意味での行為を追うが、内に顧みて心を得ようとはしない。意識は「すべて心にかなはぬ筋」に現れるとさえ言えよう。心が行為のうちに解消し難い時、心は心を見るように促される。
 心と行為との間のへだたりが、即ち意識と呼べるとさえ言えよう。宣長が「あはれ」を論ずる「本(モト)」と言う時、ひそかに考えていたのはその事だ。生活感情の流れに、身をまかせていれば、ある時は浅く、ある時は深く、おのずから意識される、そういう生活感情の本性への見通しなのである。……

 こうして小林先生がベルグソンに示唆されて先生のライフワークの中軸とした「意識というもの」に、7月18日、塾の当日には、私たちも私たちの経験に即して思いを巡らせてみようと思います。


●7月4日(木)19:00~21:00
   小林秀雄「本居宣長」を読む

     第三十八章  神という「コトバ」の「ココロ

 今回読む第三十八章では、古代の日本人は「神」という言葉をどういうふうに生み出し、どういうふうに用いていたか、ということは、彼ら彼女らはどういう思いをこめて「神」という言葉を、さらには神々の名を口にしていたか、そこを宣長は「古事記」からどう読み取り、「古事記伝」にどう記したかが子細に辿られます。
 小林先生は、まず言います、――彼は(宣長は/池田注記)、本文の(「古事記」の本文の/同)「なべての地を、阿礼あれが語と定め」て、これを「古事記」の本体と見做みなしたが、それと言うのも、肝腎かんじんの阿礼の口ぶりは、安万侶の筆録の蔭に隠されていたからだ。この曖昧極まる漢文風の表記を、「本の古言にカヘす」事は、まことに困難な仕事であった。古言の「サダマリ」については、「万葉」を初めとする、手に入る限りの、同時代の文献に照らして、精細な調査が行われたが、それは、仕事の土台に過ぎず、古人の「心ばへ」を映じて生きている「古言のふり」を得るには、直覚と想像との力を、存分に行使して、その上に立ち上らなければならなかったのである。それが、「古事記伝」が到りついた高所であり、既記のように、その点で、「古事記伝」は、後人の修正のかぬ、宣長自身の作品となったのである。……
 これに続けて先生は、――さて、神という「コトバ」の「ココロ」という問題に直ちに入ろう。古伝による神の古意については、「古事記伝、三之巻」に詳しい。大事な文であるから、引用は省けない。……
 こう言って「古事記伝、三之巻」から引きます。 
すべ迦微カミとは、古御典等イニシヘノミフミドモに見えたる天地のモロモロの神たちを始めて、マツれるやしろに坐ス御霊ミタマをも申し、又人はさらにも云ハず、鳥獣トリケモノ木草のたぐひ海山など、其余何ソノホカナニにまれ、尋常ヨノツネならずすぐれたるコトのありて、可畏カシコき物を迦微カミとは云なり、(すぐれたるとは、タフトきこときこと、イサヲしきことなどの、スグれたるのみを云にあらず、アシきものアヤしきものなども、よにすぐれて可畏カシコきをば、神と云なり、……
 以上、小林先生が、大事な文であるから引用は省けない、と言われた宣長の文ですが、≪私塾レコダ≫の本日のこのご案内文ではひとまずここまでとし、後日、7月4日の塾当日にあらためて全文を音読させていただくこととして、本日この場では小林先生が「引用は省けない」と言われた「大事な文」の「大事」である所以を、次章の第三十九章まで先回りしてお伝えします、第三十九章を始めるなり、先生は次のように言います、
 ――宣長には、迦微カミという名の、所謂いわゆる本義など、思い得ても得なくても、大した事ではなかったのだが、どうしても見定めなければならなかったのは、迦微という名が、どういう風に、人々の口にのぼり、どんな具合に、語り合われて、人々が共有する国語の組織のうちで生きていたか、その言わば現場なのであった。「人は皆神なりし故に、神代とは云」うその神代から、何時いつの間にか、人の代に及ぶ、神の名の使われ方を、忠実に辿って行くと、人のみならず、鳥も獣も、草も木も、海も山も、神と命名されるところ、ことごとくが、神の姿を現じていた事が、確かめられたのである。上は産巣日神むすびのかみから、下は狐のたぐいに至るまで、善きもしきも、貴きもいやしきも、強きも弱きも、驚くほど多種多様な神々が現れていたわけだ。では、この八百万ヤオヨロズの神々に共通な、神たる特質とは何か。「ナニにまれ、ヨノツネ常ならずすぐれたるコトのありて、可畏カシコき物を迦微カミとは云なり」と宣長は答える。それは、読者が既に読まれた通りである。……
 第三十八章に引かれた「古事記伝、三之巻」の文は、今ここに引いた第三十九章の小林先生の文を読んでもう一度読み返せば、宣長が「古事記」から読み取っていた「神という『コトバ』の『ココロ』」がありありと感じられるのです。

●7月25日(木)19:00~21:00
   新潮日本古典集成で読む「萬葉」秀歌百首


   今月の「秀歌」は次の二首です。


    が妻は いたく恋ひらし 飲む水に 
     かごさへ見えて よに忘られず
              遠海の防人[4322]91

    ももくまの 道はにしを またさらに 
     八十島やそしま過ぎて 別れかかむ
              上総の防人[4349]92


 ・末尾の[ ]内は新潮日本古典集成『萬葉集』の歌頭に打たれている
 『国歌大観』の歌番号、その次の数字は今回の秀歌百首の通し番号です。