特別研究紀行 「身交ふ」のルーツを索めて

特別研究紀行
「身交ふ」のルーツをもとめて
種子田  正一郎  
 広島の小林秀雄素読塾に参加させて頂いている種子田正一郎と申します。このたび、「身交ふ」という言葉のルーツについて、わずかながら知見を得るところがありましたので、その経緯を体験記風に書いてみることに致しました。

 学生時代に小林秀雄の講演テープ「信ずることと考えること」を聴いて以来、「身交ふ」という言葉は私にとって大事な言葉となっています。「対象と私とがある親密な関係に入り込む」「交わりから直観力を養う」などの言葉と相まって、「身交ふ」という言葉は、ともすると抽象的になりそうな自分の思考を本来のところに引き戻す錨のような働きをしてくれている感じがします。

 周知のこととは存じておりますが、小林秀雄の文中での「身交ふ」の初出は『考えるヒント』の中の「考えるという事」(1962年、新潮社刊「小林秀雄全作品」第24集所収)であり、そこでは以下のような記述があります。

 ――宣長が、この考えるという言葉を、どう弁じたかを言って置く。彼の説によれば、「かんがふ」は、「かむかふ」の音便で、もともと、むかえるという言葉なのである。「かれとこれとを、比校アヒムカへて思ひめぐらす意」と解する。それなら、私が物を考える基本的な形では、「私」と「物」とが「あひむかふ」という意になろう。「むかふ」の「む」は「身」であり、「かふ」は「交ふ」であると解していいなら、考えるとは、物に対する単に知的な働きではなく、物と親身に交わることだ。物を外から知るのではなく、物を身に感じて生きる、そういう経験をいう。実際、宣長は、そういう意味合いで、一と筋に考えた。……

 「考える」という言葉の語源(「考える」→「考ふ」(かんがふ)→「かむかふ」→「か・むかふ」(か は意味のない言葉)→「むかふ」→「身交ふ」)については、上述の小林秀雄の言葉のとおり、「考える」→ …… →「むかふ」までは本居宣長の説なのですが(『玉勝間』八の巻 一〇)、「むかふ」を「身交ふ」と解する説の出典がずっと分からないでいました。
 では、小林秀雄はどうやってこの「身交ふ」という、見方によってはこじつけのような感じもする語源に辿りついたのか。それを思うと、まるで、他人が書いた謎のマークを見て、由縁はあるのだろうがこちらには分からない、といった感じにも似た 割り切れない思いがしておりました。

 先月、地元の図書館で、『日本語源大辞典』(小学館)で「むかう」を調べてみると、「『むきあふ(向合)』の変化した語」という、いかにも自然な語源が採用してありました。
 ところが、目を走らせてみると、その記載の横に「むきあふ(向合)」を含めて五つの語源説が併記されており、その五番目に「ムカフ(身交)の義 <大言海>」と書いてあるのを見つけました。私は驚きました。というのは、私の知るかぎり、小林秀雄全集には『大言海』(大槻文彦 編纂)から語意を引いてきた箇所が二か所あり、小林秀雄は、平素、この言葉についてはもっと認識を深めたいという言葉には、『大言海』にあたっていた様子がうかがえていたからです。
 (なお、小林秀雄が『大言海』から引いた語意の二か所というのは、「批評」という言葉の語意「非ヲ摘ミテ評スルコト」(「批評」中、小林秀雄全作品 25、p.10。1964年)、そして、「下剋上」という言葉の語意「此語、でもくらしいトモ解スベシ」(「本居宣長」中、同 27、p.88。1965~1977年)です)

 そこで早速、『大言海』を引いてみました、ありました、確かにありました、「むかう」の項目の語源欄に、「身交ふ、ノ義」と記載されていました。また、「考える」という言葉についても『大言海』を引いてみたところ、「かんがう」の項目の語源欄に「かむかふヲ音便ニ云フナリ、かハ發語、かムカふる義、(か寄る、同例)事件ヲ、相對アヒムカヘテ推シ定ムル意、(本居宣長ノ説)」という記述があり、小林秀雄と同様、『大言海』では、本居宣長の「かむかふ」→「か・むかふ」→「むかふ」の説を採用していることが分かりました。
 これによって、小林秀雄は「むかふ」→「身交ふ」を『大言海』に拠った可能性があるという風に思い至りました。

 ここで私は、では『大言海』(1937年)の前に大槻文彦が編纂した辞書『言海』(1891年)では「むかう」についてどう記述されているかが気になったため、調べてみたところ、『言海』の「むかふ」の項目の語源欄には「向キ合フ、ノ約」となっていました。
 したがって、「むかう」の語源について、『言海』:「向キ合フ、ノ約」→ 『大言海』:「身交ふ、ノ義」という具合に、語源説の変更がなされていたということが分かりました。

 私は、折角ここまで調べたのだから、『言海』→『大言海』の過程で、編纂者である大槻文彦は何に基づいて語源説を変更したのか、どういう理由で変更したのかを知りたいと思いました。また、「身交ふ」の出典となった文献に当たることができれば、「身交ふ」という言葉の持つ、生きたニュアンスをより感じることができるのではないか、という期待もありました。
 そこで、大槻文彦が語源採取の際によく使用した資料は何かについて図書館で調べたところ、吉田金彦 編「日本語の語源を学ぶ人のために」という本の中に、
 「『和訓栞』『雅言集覧』『古事記伝』の語源説、特に『和訓栞』の語源説は、近代に入って大槻文彦『言海』(明治二二~二四年、一八八九~九一刊) に採用されている」(p.299)
という記述を見つけたため、谷川士清『和訓栞』・石川雅望『雅言集覧』・本居宣長『古事記伝』を図書館の閉架書庫から出してもらい、半日かけて調べてみました。

 ところが、残念ながら「身交ふ」に関して言及されている箇所を見つけることは出来ませんでした。他の近世の語源説の文献(松永貞徳『和句解』・貝原益軒『日本釈名』・荻生徂徠『南留別志』・新井白石『東雅』など)も調べてみたのですが、やはり「身交ふ」に関する言及を見つけることは出来ませんでした。
 しばらく途方に暮れていたところ、ふと、図書館にあった一関市博物館 編集『ことばの海  国語学者 大槻文彦の足跡』という冊子が目に留まりました。読んでみると、岩手県の一関市博物館が、日本の近代的国語辞典の創始者である大槻文彦に関する資料を多数保管されていて、特に『大言海』編纂の元となった語釈メモ的な原稿「大言海底稿」を保管されているということでした。
 また、この『ことばの海……』よると、『大言海』編纂に際し、大槻文彦が「最も力を入れたのは語原の研究」であり、「『言海』以降様々な新著が出ているので、それらとは違った特色を持つ辞書を作りたい、というものだった。そして文彦が思い定めたものこそ語原だった」、「語原を明らかにした辞書を完成させたい、それが文彦の願望でもあった。文彦は語原の大切さを折に触れて語り、また、研究成果を雑誌にも発表するなど老齢を感じさせない精力的な働きをしていた」との記載があり、この「大言海底稿」作成時には、語源研究に関する膨大な蓄積が発揮されていたことがうかがえます。

 私は思い切って、「身交ふ」の出典となった資料について、「大言海底稿」等、大槻文彦が遺した資料に何か記載されているものはないか、一関市博物館に相談をしてみることにしました。
 一週間ほどして博物館から回答があり、「大言海底稿」を調査した結果、「身交ふ」の出典となった資料については記載がないということでした。
 私は残念に思いながら、二、三の追加の質問をしてみましたが、今度は一週間経っても回答はいただけませんでした。私は、自分勝手に面倒な質問をしてしまい、先方に迷惑をかけてしまったのではないかと忸怩じくじたる思いがしていました。

 ところが、一月ほど経ったある日、博物館からメールが届きました。メールの内容は、私の追加質問に対する丁寧な回答とともに、「大言海底稿」の「む」「むかふ」という項目の所に「身」という文字が入っているのを発見したので、「底稿」の当該箇所の画像を提供するとのことでした。この一か月の間、私の相談事項を忘れずに、調査し続けてくださっていたのです。思わず私は博物館からいただいたメールに頭を深く下げていました。
 提供された「大言海底稿」の画像資料を見ると、「むかふ」の欄に大槻文彦の直筆で「身交フ」と記載されており、感慨深いものがありました。
 「身交ふ」の出典についての記載はなかったものの、画像資料からは以下のことを読み取ることができました。

・「」を語源とした例が複数あり、中には「うしろ」の語源として「身後(む+しり)→むしり→うしろ」など、に注目したユニークな語源説も記載されている。
・「むかふ」の語源として、もともと「向キ合フ 約」と記載されていたところが二重線で消されている。
・「むかふ」のメモには「對、華厳音義 敵 牟可布、△向一箇年間、ムク、身交フ、背向」という具合に、「身交フ」がメモの後半になって登場しており、項目欄の「むかふ」の横にも「身交フ」と大書されている。

 これらにより、「大言海底稿」作成時の大槻文彦は、「むかふ」の語源を考えるうえで、以下のような思索過程を経たという推測も成り立つのではないかと思うようになりました。
 一口で言えば、「身交ふ」は大槻文彦の創見ではないかということです。すなわち、大槻文彦は、もともとは『言海』と同様に『大言海』でも「向キ合フ 約」を語源にしようと考えていた。一方で、『言海』→『大言海』への改訂に際して膨大な語源研究をしていく過程で、語源に関する蓄積・感度が豊富になっていた。「底稿」の「むかふ」のメモを作成している途中で、豊富になった語源の蓄積から、ふと「」が語源だと考えられないか、という直観が閃いた、後に続く「交フ」も自然について出てきた。「向キ合フ」よりも「身交フ」の方が、自分の語源感覚に従えば真に迫っている感じがしてきた。そこで、一度書いた「向キ合フ 約」の文言を二重線で消し、項目欄の「むかふ」の横にも改めて「身交フ」と大書した、……。
 むろん、推測の域を出るものではありませんが、もしこの推測が的外れでないとすれば、この「底稿」の画像資料に記載されている「身交フ」の直筆文字は、この言葉が発明されたルーツの可能性がある。そう思うと、感慨深いものがありました。

 私は、再度、小林秀雄が「身交ふ」説を採用したときの心映えを想像してみました。恐らく、『大言海』で「身交ふ、ノ義」という語源を見たときに、「これだ!」と響くものがあったに違いない。「向き合ふ」ではつまらない。向き合っているうちは、対象と私とが分離している。しかし、この「身交ふ」というのはどうだ。対象と私とが一つになっているじゃないか。これはいい。しかし、語源としてこれは正確なのかい? いや、正確かどうかなんてつまらんことじゃないか。自分はこの説を採りたい……そう考えていたのではないか。
 ここで、もう一度、小林秀雄「考えるという事」の一節を振り返ってみます。

 ――「むかふ」の「む」は「身」であり、「かふ」は「交ふ」であると解していいなら、……

 この「解していいなら」の「いいなら」というところに、小林秀雄のわずかな逡巡があるように感じられました。自分は『大言海』の「身交ふ、ノ義」を採用したい、しかし、語源の正確さについては今一つ確信が持てない。それでも、この語源からは豊かな思想が開けてきそうなのだ、さて……という、若干の不安があるように感じました。

 しかし、そんな心事を忖度そんたくしてもつまらないのではないか。それよりも、「向き合ふ」ではなく「身交ふ」に感じ入った時の小林秀雄の心映えに注意を向けた方が有益なのではないか。対象と私とが離れておらず、一つになっているということ……ここで私は、吉川幸次郎氏の『論語』に出てくる文章を思い出しました。

 ――子日わく、之れを知る者は之れを好む者に如かず。之れを好む者は之れを楽しむ者に知かず。
 有名な条であり、人人のよく知る条である。そうして人人が、普通に解しているように解してよろしいであろう。すなわち、「知る」とは、そのものあるいはその事柄の存在を知ることであり、この段階では、対象は、全然自己の外にある。「好む」とは、対象に対して特別な感情をいだくことである。対象はまだ自己と一体でない。「楽しむ」とは、対象が自己と一体となり、自己と完全に融合することである。……
(吉川幸次郎『論語』上巻、角川ソフィア文庫、p.231。1959年)  
 ここで言われている「楽しむ」は、小林秀雄が「身交ふ」に込めた思いと全く同じなのではないか。対象が自己と一体となり、自己と完全に融合すること。それは「好む」の延長線上にあるのだということ。
 この「好む」「楽しむ」について思いを巡らせていると、もう一つ、小林秀雄が、昭和四十年(一九六五)の春から初夏にかけての頃に、ということは、「本居宣長」を『新潮』に連載し始めた時期とほぼ同じ頃に行った講演での言葉が連想されてきました。

 ――考えるとは、ものを計量し分析することではなく、或る対象を、私の身が迎えて交わることです。これはつまり好きになるということと同じだと思います。孔子も「徳を好むこと色を好むがごとくなる者を見ず、やんぬるかな」とか「これを知る者は、これを好む者にしかず。これを好む者は、これを楽しむ者にしかず」とか言っています。一旦ものが好きになると注意が集中して、だんだんそのものが深く見えてきて、楽しむという境地に入る。ものを楽しむようにならなければ、真の認識や知識は得られないと、孔子は思っていたのでしょう。……

 ここまで考えると、私は、「身交ふ」と「好む」「楽しむ」が、一本の線に繋がっていくような感じがしてきました。好きということが根本で、好きで長いこと親しんでいると、だんだん注意が集中してきて、ときどき、対象と私とが一つになる瞬間がある。その時、漠然としているけれども非常に明瞭な感動と発見がやってくる。そこから始めること。それが「身交ふ」の意味ではないか、と。
 好きであることがよく考えるための出発点である、そういう意味合いも「身交ふ」には含まれていると言ってよい気が、今はしています。

 「身交ふ」のルーツを索めてみて、はっきり断定できることは何も分かりませんでした。しかし、その言葉を採用した大槻文彦と、その言葉に感じ入りそこから(恐らく大槻文彦が思いもしなかった)豊かな思想を紡いでいった小林秀雄、二人の言わば合作が、いま私の感じている「身交ふ」という言葉のすがたになっているということは、言ってもいい気がしています。
(了) 
 (筆者注)
 本稿の最後に引用した「――考えるとは、ものを計量し分析することではなく、或る対象を、私の身が迎えて交わることです。……」は昭和四十年(一九六五)七月、『俳人協会会報』に掲載された「小林秀雄<講演要旨> 文芸雑感」からの抜粋ですが、表題に<講演要旨>とあるとおり、この講演録は講演会の主催者によって文章化され、小林秀雄の検分を得て公表されましたが、小林秀雄自身による加筆修整は行われていないと思われますので読者にはその旨をお含みおき下さるようお願いします。