交差点 ——参加者交流コーナー 令和五年三月以前刊行号掲載分


 交差点  ——参加者交流コーナー 令和五年三月以前刊行号掲載分
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 令和五年三月以前刊行号掲載分

●金森 いず美
 令和五年(二〇二三)二月十六日
 「オリムピア」
   (『小林秀雄全作品』第13集所収)

 二月の「小林秀雄と人生を読む夕べ」は「オリムピア」でした。今月も池田塾頭、ほかの受講者の皆さんに支えられ、作品を深く読む喜びを感じることができました。心から感謝をしております。
 スポーツを楽しみ、熱心に取り組んでいらした小林先生。ベルリンオリンピックの記録映画「オリムピア」をご覧になられた新鮮な感動が、作品の冒頭から伝わってきます。

 「オリムピア」という映画を見て非常に気持ちがよかった。近頃、な事である。
 健康というものはいいものだ。肉体というものは美しいものだ。映画の主題が、執拗しつように語っている処は、たったそれだけの事に過ぎないのだが、たったそれだけの事が、何んという底知れず豊富な思想をはらんでいるだろう、見ていてそんな事を思った。出て来てもそんな事を考えていた。

 ご講義では、池田塾頭がベルリンオリンピックが開催された背景についてもお話しされ、レニ・リーフェンシュタール監督の美意識が作り出した映像の素晴らしさにも触れられました。現代のように録画やDVDなどのなかった時代、映画館で観るたった一度きりの映像が、小林先生の目で鮮やかに写し取られます。砲丸投げの選手は、冷たく固い「鉄のたま」を掌と首筋との間で捏ねるようにして、来るべき瞬間を目指して念じます。張り詰めた緊張から解放され、引き裂かれていた精神と肉体がひとつになる瞬間、美しく力強い映像が私の心に飛び込んでくる気がしました。小林先生の目が記憶した、肉体の輝きの誕生の瞬間は、生命力溢れるままに私たちに向かって投げかけられます。

 小林先生はさらに、映画の主題が内包する思想へと思いを廻らせます。目標に向かって、無心のうちに、精神と肉体とが一体となる感覚、私にも確かに身に覚えがあるこの感覚は、スポーツに限らず、実は私たちが言葉を発するときにも同様に得られるのだと、この作品を読み、あらためて気づかされました。「詩人にとっては、たった一つの言葉さえ、投げねばならぬ鉄の丸であろう」と小林先生は書かれています。言葉の姿を感じている小林先生が、ご自身を語っていらっしゃるようにも感じました。

 小林先生は作品の結びで、ギリシアから変わらない美しい人間の肉体を思い浮かべ、肉体を失ってしまった群衆に視線を移し、電光ニューズを見て、ただの布切れになってしまった国旗に思いを馳せます。私は、自分が抱いている「鉄の丸」の手触りを確かめるべく、自分に問いかけました。私は、肉体から生まれた言葉の、ありの儘の姿を捉えているだろうか。その感触にひるまず、肉体と精神が一体となる瞬間を自分の目で見届けているだろうか。止まらず心に浮かんでくる問いに、「健康というものはいいものだ。肉体というものは美しいものだ」という、きっぱりとして簡潔な声が、作品の奥底から聞こえてきます。少し時間を置いて、この作品を読めば、また新たな問いが生まれ出て来るのだろうと思います。読書の楽しみはまだまだ続きます。


●千頭 敏史
 令和五年(二〇二三)二月十六日
 「オリムピア」
   (『小林秀雄全作品』第13集所収)
「信じるという言葉」

 「オリムピア」
 ベルリンオリンピックの記録映画「オリムピア」を観られた小林先生が、砲丸投げの選手がたまを投げる姿を精細に描写されていることについて、池田塾頭は、小林先生がこの映画を観られた頃は今日のような録画・再生の機器などなく、先生は劇場で一回観られただけで書かれているのに注意を促され、また、自分の肉体と精神とに想いを重ね、選手になりきって書かれていると、説き起こされました。
 小林先生は文学や、絵画や、音楽を批評する際、何よりもそれを制作した作者に迫ろうとされますが、ここでも同じ批評眼が、選手に注がれているように思います。
 焦点が当てられるのは、選手が一番自分に集中している瞬間、それは「心が本当にむなしくなる瞬間」であり、「精神が全く肉体と化する瞬間」なのです。
 それはまた、選手の「精神と肉体との間にって来た」砲丸という物から解放される瞬間、「鉄の丸の語る言葉を聞こうとする様な眼附き」で烈しく念じて、己れの物として自在を得る瞬間でもあるのです。
 
 「信じるという言葉」
 「信じる」とは、自分を託するものをしっかり持っているという、本来の魂の構造に沿った行為であり、内発的な智慧がたたえられている、そういう言葉と伺いました。それでこそ、溌溂として、躍動する、柔らかい心の基盤となるのでしょう。
 本居宣長は遊学時代、友人への手紙に、興味を寄せているものすべてについて「之ヲ好ミ信ジ楽シム」と書き送りました。長年「好ミ」「楽シム」だけで満足して来た私には、「信ジ」を加える必要性、加えた意味合いが、腑に落ちないままでした。今回のご講義の「信じるという言葉」は、「好・信・楽」に於ける「信」と、その根幹のところで軌を一にするものと思われました。
                          

●冨部 久
 令和五年(二〇二三)二月九日
 <新潮日本古典集成で読む『萬葉』秀歌百首>
ゆふされば 小倉をぐらの山に 鳴く鹿しかは
   今夜こよひは鳴かず ねにけらしも
   (舒明天皇/巻第二 秋雑歌 1511番歌)

 最初にこの歌を読んだ時は、恥ずかしながら素朴で簡明な歌だという認識しか思い浮かばなかった。しかし、池田塾頭は、「この歌は『萬葉集』中最高の名歌の一つ」であるとする伊藤博先生の言葉を皮切りにその理由を述べられた。いつものことであるが、池田塾頭の講義により、「萬葉」秀歌の深い味わいに目覚めさせられていく。
 まずは舒明天皇の「萬葉集」での位置付けを教えて頂いた。即ち、「萬葉集」の時代の人々の間には萬葉歌の時代は舒明天皇の時代から始まるという認識があり、その認識によって巻第一の巻頭に第二一代雄略天皇の歌を古代国家を代表し象徴する君主の御製として置いたあとの第二番歌には舒明天皇の歌が置かれていたが、巻第八「秋雑歌」の第一番に舒明天皇の「夕されば」の歌が置かれているのも同じ理由によってであるという。
 そしてこの「夕されば」の歌は、斎藤茂吉をして「此御歌は『萬葉集』中最高峰の一つとおもふ」と言わしめている。その理由を説明しようとしても、「この歌は渾一体の境界にあってこまごましい剖析をゆるさない」と言い、これを伊藤博先生は「歌そのものを心ゆくまで朗誦する以外に真価を知るすべのないような品格がある」と述べられている。そう言われて、この歌を何度か自ら読んでみると、不思議なことにこの歌の世界がどんどん深く、また広がりを持つようになってくる。
 茂吉は第四句で「『今夜は鳴かず』と、其処に休止を置いた」効果を述べている。確かにその休止によって、読む側も一瞬思考を巡らせる微妙な間を与えられ、そして結句へと誘われる。例えば、「今夜鳴かずは 寐寝にけらしも」などと言ってしまえば、暗闇の中で揺蕩たゆたうせっかくの余韻が損なわれてしまうだろう。
 それと、私がこの歌を読んで思い起こしたのは、与謝蕪村の半生を描いた「夜半亭」という石月正広氏の小説である。この中で、芭蕉は、「古池や 蛙とびこむ 水の音」という句で、描写しないことによって、描写する以上の表現を行っているというくだりがある。即ち、蛙が古池に飛び込んだ水の音だけを歌っているのに、その姿が、景色が、ありありと目に浮かぶというのである。
 ところが、この「夕されば」の歌はその音さえも消していながら、それでいて二頭の鹿の情景を浮かび上がらせるだけでなく、そこに深い慈愛とも言うべき豊かな感情をも湧き起こらせている。それを技巧と見せず、簡明な言葉で表している、実に見事な一首である。
 ちなみに、伊藤博先生はこの歌の境地に参入したい心から、京都高雄の奥山に、鹿の声を聞きにおもむいたそうである。それは、全山を響かせてこう聞こえたという。「カーヒョ――」。
 塾生の坂口さんからは、正倉院展の行われる秋の夕暮れ、奈良公園に行くと、その声が聴けると教わった。私も伊藤博先生に倣って、その哀調を帯びているという鳴き声を是非ともこの耳で聴いてみたいと思った。


●千頭 敏史
 令和五年(二〇二三)二月二日
 <小林秀雄「本居宣長」を読む>
 第二十七章(上)/心余りて言葉足らず
   (『小林秀雄全作品』第27集所収)

 令和五年二月二日には「小林秀雄『本居宣長』を読む」第二十七章<心余りて言葉足らず>のご講義を賜り、有難うございました。
 第二十七章での「言霊」という言葉は、逆境に雄々しく立ち向かう人物であるかのように書かれていると伺い、予め本文を読んだ時の、この言葉に覚えた親しい感じを一言で言い表して下さいました。
 萬葉歌人によって、初めて使い出された「言霊」という言葉は、「母国の言葉という意識、これに寄せる歌人の鋭敏な愛着、深い信頼の情から、先ずほころび出た」ものでした。
 言霊は、平安遷都とともに始まった、極端な唐風模倣という逆境にあって、自力で己れを掴み直し、「環境と折合をつけて、己れの姿を整えて行く」過程を辿ります。
 和歌は長い間、「生活のただ中に落ちて沈黙し、そこから再び出直」しますが、それは「一と言で言ってみるなら、到頭、反省と批評とを提げて出て来る事になった」のです。これを承けて池田塾頭は、「批評」とは、まず本質を直観して、その本質を洞察し、そして洞察した手応えを自分の言葉に捉えて認識することだと言われます。批評は褒めることにあるという小林先生の批評の、言わば表舞台に対して、その楽屋を、批評が生み出されてくる現場を示して下さったように思います。

 貫之は「古今」の「仮名序」で、業平の歌に「月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ わが身ひとつは もとの身にして」をあげて、「心余りて、言葉足らず」と評しました。小林先生は、これを名評とされ、「この歌の評釈には、契沖も宣長も、貫之の評を引いている」のを指摘されます。そして、「『月やあらぬ』の歌は、やはり、「『古今』で読むより『伊勢』で読んだ方がいいように思われる」と言われ、「『心余りて』物語る、その物語の姿を追った上で、歌に出会う」という、「微妙な歌物語の手法」へと導いて行かれます。「契沖が激賞した業平の代表作」である、「つひに行く 道とはかねて 聞きしかど 昨日けふとは 思はざりしを」の歌についても、「叙事でも、抒情でもない、反省と批評とから」生れている歌であり、「『心余りて』という姿には見えるだろう」と今一度、この名歌の鑑賞を促されます。
 「『萬葉』秀歌百首」のご講義を拝聴して一年近くなりますが、常々、萬葉歌を鑑賞する際には、歌を朗誦するよう勧められます。朗誦する萬葉歌を、歌っている歌と捉えて良いのなら、それに対して、業平の歌は「歌っているというよりむしろ物語っている」歌であると、しかと感じ取れるのです。


●小島 由紀子
 令和五年(二〇二二)十一月二十四日
 <新潮日本古典集成で読む『萬葉』秀歌百首>
  あしひきの やまがはの瀬の 鳴るなへに 
    弓月が岳に 雲立ちわたる
    (人麻呂歌集 巻第七 1088番)

  おおうみに 島もあらなくに うなはらの
    たゆたふ波に 立てるしらくも
    (作者未詳 巻第七 1089番)

 今回の二首は、伊藤博先生が「萬葉集」巻第七からお撰びになった歌で、いずれも「雲」を詠み込んでいる。だが、池田塾頭はご講義の冒頭でこう仰った。
 「題詞に『雲を詠む』とあるから、なんだ雲の歌か、と思われるかもしれませんが、そんな単純なものではありません。まず巻第七の巻頭まで遡ってみましょう」
 早速、「新潮日本古典集成 萬葉集二」を開くと、頭注に次のような説明があった。
 一 巻七は、雑歌・歌・挽歌の三部立からなる。ほとんど作者や作歌事情・作歌時期について記さないが、大体、持統朝から聖武朝頃までの歌が集められている。
 二 巻七の詠物歌は、天・地・人の順序に並ぶ。中国の 『李嶠りきょう百廿詠』などの配列順に示唆を受けたものといわれる。

 さらに雑歌の詠物歌は「天・地・人」の順で、次のような題詞に分類されているという。
 ・「天」…「天」「月」「雲」「雨」
 ・「地」…「山」「岡」「川」「露」「花」「葉」「こけ」「草」「鳥」
 ・「人」…「故郷」「井」「倭琴」

 「これらは萬葉人にとって、単なる自然や事物を表す言葉ではありません。彼らの身近な生活空間にあるもの、彼らが思いを寄せ続けたものばかりです」
 池田塾頭はそう仰ると、今回の第一首目(1088番歌)の直前にある歌(1087番歌)を先に読まれた。
 いずれも柿本人麻呂の歌といわれ、奈良三輪山の東北にある巻向山の最高峰「弓月が岳」と、その山沿いを流れる「穴師川」を詠んでいるという。

  穴師川あなしがわ 川波立ちぬ 巻向まきむくの 
    弓月ゆつきたけに くも立てるらし 
    (1087番歌)
  あしひきの 山川の瀬の 鳴るなへに 
    弓月が岳に 雲立ちわたる   
    (1088番歌)

 1087番歌は、穴師川に立つ川波を見て、弓月が岳に雲が湧き起こってくる気配を察知した瞬間が、1088番歌は、山川の瀬音の高まりを聞き、まさに弓月が岳に雲が湧き上がる様子を目にした瞬間が描かれている。
 すぐに山と川と雲の絵画的なイメージが浮かんできたが、池田塾頭は、「伊藤博先生の解説で二首を続けて味わうと、ただ雲の様子を描いているだけではないことが感じられてきます」と仰り、「萬葉集釋注 四」の1087番歌の箇所を読まれた。
 「作者は川波を見つめている。川波は風によって起こる。吹きわたる一陣の風の中で、作者は川波に見入っている。その川波の光景から、山雨まさに至らんとする弓月が岳の気配を確信している…」
 途端に、先ほどの山と川と雲の絵画的なイメージの中に、さっと吹き抜ける風と、山の木々が鳴る音が響き始めた。「山と川とが呼応して動き出した一瞬の緊張を荘重な響きの中に託した見事な歌である」という伊藤博先生の言葉によって、その音は耳の中でいつまでも鳴り止まないように感じられてきた。

 池田塾頭は、続けて次の1088番歌の解説を読まれた。
 「前歌で川波を見下ろしていた作者は、ここで山雲を見上げている。響きわたる川音を耳にしながら山雲の湧き立つのを見ている。作者は、穴師の川をさらに遡って、弓月が岳に近く迫っているのであろう…」
 伊藤博先生が人麻呂の身体に乗り移って、穴師の川沿いの山道を一歩一歩登っていく姿が浮かんでくる。次第に、先ほどの山と川と雲の絵画的なイメージが平面から立体になっていくような感覚を覚えた。
 「伊藤博先生は、『萬葉集』の歌を読みながら、いつも絵を描くように言葉を写し取っています。この二首では、さらに川の波立つ音や山雨の音など、自然の音の響き合いまで聴き取り、音楽を奏でるように言葉を紡いでいます。作者がその時どういう音を聴き、どういう音楽を奏でようとしているかに集中して、歌が発するさまざまな音を聴き取っています。こういう読み方はなかなかできるものではありません。さらに、目や耳だけでなく、作者の歩き方、足の向け方まで追体験しています。目を閉じて、耳を澄ませ、作者と同じ境遇に身を置いて『萬葉集』を読まれているのです」
 伊藤博先生はこの1088番歌を「人麻呂歌集」ではもちろん、「萬葉集」でも最もすぐれた歌の一つとされ、「一気呵成、鳴り響く声調の中に山水の緊張関係はさらに深められ、躍動するその自然の力は神秘でさえある。弓月の山水はこうして永遠の命を確立した」と、荘厳な響きを感じさせる解説も添えられている。
 この「永遠の命」について、池田塾頭は力強く言葉を重ねられた。
 「川に立つ波は一瞬にして消えます。その形は残りませんが、歌人が言葉として写し取ったものは永遠に残ります。歌人にそこまでの意識がない場合でも、永遠に歌として残っていくのです」
 歌にどのようにして命が宿るかを、刻一刻と目の前で見せていただいたようなたいへん貴重なご講義であった。

 続いてこの日の二首目に入ったが、作者は不明だという。だが、左注に「右一首、伊勢従駕作」とあり、持統六年(六九二)以後、天平十二年(七四〇)までの四度の行幸のいずれかに従賀した者による歌であるようだ。

  大海に 島もあらなくに 海原の 
    たゆたふ波に 立てる白雲

 実はこの歌も一度読んだだけでは、海と波と雲の絵画的なイメージしか湧いてこなかった。
 だが、今回のご講義で、萬葉人にとって「雲」は「霊魂の象徴」で「離れた人を偲ぶよすが」であったこと、また、彼らが「雲」は「島や山の上に立つ」ものと考えていたことを知った途端、波に揺れる船の中で、ひたすら雲を見上げる男性の切ない表情が目の前に迫ってきた。
 池田塾頭は、この男性の思いと、萬葉人の思いを次のように語ってくださった。
 「広々とした大海原には島影一つ見えず心細い。島がないのだから、雲が立つわけはないのに、波の上に白い雲が立ち上ってきた……。彼はこの意外な出来事によって、故郷にいる親や妻子を思い出し、会いたいのに会えない、家族を偲ぶよすがが雲の他には何もないと、絶望感を覚えたでしょう。萬葉人にとって『雲』とは感情の波をかき立て、一番大事な人を思い出させるものでした。近代の山村暮鳥の詩にも『おうい雲よ』と呼びかける詩があり、現代の私たちも雲に心を慰められたり、雲を見て涙したりすることがありますが、飛行機も新幹線もない時代に、萬葉人がひたすら歩いて、どれだけさまざまな雲を目にしたか、雲に誘われ追いかけていったか、その思いをもって『雲』の歌を読み味わってください」

 さらに池田塾頭は、伊藤博先生が「この歌の調べに奈良朝の歌とも思えないような気高さがある」と指摘されていることについて言及された。
 「これは五十年以上、『萬葉集』を読み続けた伊藤先生だからこそ分かることです。奈良朝以前の歌には独特の品格と弁えがありました。ところが、奈良朝以降は文化が活気に満ちてきた反面、歌は気品に欠け、粗雑、粗野なものとなっていきました。この歌は奈良遷都より以前のものとされていますが、読み継がれているうちに奈良朝の歌とされています。それでも、雲の神秘、雲に寄せる厳粛な思いが感じられ、奈良朝以前の気品を湛えた歌となっています」

 歌の品格を見て取り、聴き取る感性を養うには、自分はまだまだ程遠い……。
 だが、池田塾頭の「まずは目にする景色に感動したら、その時しか聴こえない微妙な音にも耳を傾けてください。風の音、鳥の鳴き声など二つ以上の音が響き合って聴こえるはずです。萬葉人ならばそれをどう聴き取ったか、どう感じて歌に詠んだかに思いを馳せてみてください」という言葉に惹かれ、ご講義後しばらくして、奈良の山辺の道を訪れた。
 三輪の大神神社から北上していったが、冬の頃で日が落ちるのが早く、地図も見ずに道を急いだ。桧原神社を過ぎてしばらくすると、山道がどんどん暗くなり、途中で全く反対の山頂方向に進んでいることに気付いた。その時、ざーっという滝のような川音が聴こえていたが、怖くてひたすら山道を下り、後でそれが巻向川(穴師川)だったことに気付いた。
 今も耳には、ざーっという単音しか残っておらず、張り切って出かけたのに恥ずかしい限りだが、人麻呂には巻向付近に愛する女性がいて、「人麻呂歌集」にも巻向を詠んだ歌が多いとのことで、次回はゆっくりと風景を見て、耳を澄ませて歩いてみたいと思っている。

●千頭 敏史
 令和五年(二〇二三)二月九日
 <新潮日本古典集成で読む「萬葉」秀歌百首>

 ゆふされば 小倉をぐらの山に 鳴く鹿しかは 
   今夜こよひは鳴かず ねにけらしも
      (舒明天皇/巻第八 秋雑歌 1511番)

 泊瀬川はつせがは ゆふ渡り来て  我妹子わぎもこが 
   家のかなに 近づきにけり
      (人麻呂歌集/巻第八 相聞 1775番)
                 
                  
令和五年二月九日には、「『萬葉』秀歌百首」のご講義を賜り有難うございました。

 夕されば 小倉の山に 鳴く鹿は 
   今夜は鳴かず 寐ねにけらしも

 この歌は、今回の講座で初めて知りましたが、舒明天皇のこの歌と伊藤博先生の釋文とが渾然一体となって今も耳に響いています。
 ご講義の前にこの歌を一読して、気に入りました。伊藤先生は、釋注に、「万葉最高の名歌の一つとして、諸注に絶讃されている」と書かれています、すんなりと心に入る名歌の魅力というものを想いました。
 伊藤先生は、「この歌の境地に参入したい心から、昭和三十四年の秋、京都高雄の奥山に、一夜の宿りを取って鹿の声を聞きにおもむいた」、その情景を語られます。このくだりは、池田塾頭が幾度か指摘された伊藤先生の釋注の名文の中でも、際立っているように感じます。
 「山小屋をめぐって連なる奥深い山々は森閑として暗く物音一つ聞こえない。そのうち、十時近くなって全山を響かせて鳴く鹿の声を聞いた。『カーヒョーーー』。長く尾を引き、澄んで高いその声は哀調を帯び余音を残しつつ、一声だけで終わる。そして、四分ばかりの間を置いて鹿はまた『カーヒョーーー』の高鳴りをしみ入るように響かせた。その間隔は規則的で寸分の狂いもない。」
 この「実験」で、「舒明天皇の聞かれた鹿の音の様態がほぼ知られ」、「しかも、その声がすこぶる遠くてしかも澄んで高く響くというのも参考になった」と言われます。
 さらに、「大和の都は、今日以上に山ふところに深く包まれ」ており、「舒明天皇が鹿の哀韻に心を動かした経験の持ち主であった」ことを付言されて、この名歌の調べの背景を示されました。表の歌意では鳴かない鹿の声が、舒明天皇の心のうちで余韻を残して響いている、そのように感じられます。
 また、「歌そのものを心ゆくまで朗誦する以外に真価を知るすべのないような品格がある」という釋文と、伊藤先生が激賞された斎藤茂吉の「この歌は渾一体の境界にあってこまごましい剖析ぼうせきをゆるさない」という評言を、これから歌を、特に名歌を鑑賞する際には、心に刻んでおこうと思いました。


●小島由紀子
 令和五年(二〇二三)一月十九日
 <小林秀雄と人生を読む夕べ>
 「人生の謎」
 (『小林秀雄全作品』第12集所収)
「学ぶということ」
 この日の第二部「小林秀雄 生き方のしるし」のご講義は「学ぶということ」でした。
 その冒頭で、池田先生は、紙に「學」という字をご自身で書かれ、見せてくださいました。その麗しいご筆跡には、よく見ると、一画一画に緊張感が漲っていて、はっと驚き、思わず姿勢を正しました。

 この「學」という字については、「本居宣長」(「小林秀雄全作品」第27集所収)第十一章で、小林先生が、「『學』の字の字義は、カタドナラうであって…『学問』とは、『物まなび』である。『まなび』は、勿論もちろん、『まねび』であって、学問の根本は模傚もこうにあるとは、学問という言葉が語っている」と説明されています。 
池田先生はこの箇所を読まれ、さらにその後の内容を、次のように解説してくださいました。  

 中江藤樹、伊藤仁斎、荻生徂徠たちは、「論語」を読み、ひたすら孔子を信じて模倣した、つまり自身の日常生活で孔子の生き方を実践していった。
 そこには、自ずと古書(模傚すべき手本、ここでは「論語」)と自己との対立が現れ、その緊張した関係そのものが、彼等の学問であった。
 頭の中では孔子のように生きようとする、が、自身の劣っている点に気づいて自己嫌悪に陥ったり、どうしても自分というものが出てきて軋轢を感じたりする。
 だが、ひたすら自分を無にして、徹底的に模倣に努めると、いつしか完全に模倣することはできないと気づくに至る。
 そこで初めて、己の個性というものを知り、それをどう生かすかと考えた時に、自分の独創性というものが生まれることになる。
 誰かを模倣してみないで、模倣できないもの、すなわち自分というものに出会えるわけがない。

 この池田先生の熱いお声を拝聴しながら、池田先生の「學」の字に漲る緊張感が、脳裏に蘇ってきました。
 それでは、自分は…と、ふと我が身を省みると、ただうつむくのみでしたが、池田先生のご講義の締め括りのお言葉が、すっと姿勢を正してくださいました。 

 「私たちの≪私塾レコダl’ecoda≫の正式名称は、『小林秀雄に学ぶ(江古田)塾』です。『小林秀雄を学ぶ(江古田)塾』ではありません。つまり小林先生についての知識を学ぶ塾ではなく、小林先生に人生の生き方を学ぶ塾です。小林先生に学んで、そこから、自分は日常生活で何をすべきか、天から授かったこの命をどうすべきか、これからどう生きていくべきか、ということを自分に問いかけていってください」

 小林先生、池田先生、いつも支えてくださり、本当にありがとうございます。


●金森 いず美
 令和五年(二〇二三)一月五日
 <小林秀雄「本居宣長」を読む> 
 第二十六章/やまとだましひなる人 
 (新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集所収)

 二〇二三年の「小林秀雄『本居宣長』を読む」は、第二十六章から始まりました。年末年始をはさんで、あらかじめ深く読み込めていないままの受講となってしまいましたが、受講後、池田塾頭のお話を思い出しながら、第四章から第七章と、第二十六章とを、行きつ戻りつして、契沖から宣長へ、二人の歩いた道を辿りました。
 宣長が得た「やまと魂」という言葉の姿は、古言と直に向き合い、誰かのためでも、誰かの目に触れさせたいがためでもなく、「文事」の限りを尽くし、「文辞の麗しさ」に我が身を浸す経験のうちに掴んだものでした。
 青年期、はじめて「歌まなびのすじ」について教えられた契沖を、宣長は「やまとだましひなる人」と呼び、やがて七十になる頃に、契沖への賛辞の文章を記します。
 「古今集に、やまひして、よわくなりにける時よめる、なりひらの朝臣あそん、つひにゆく 道とはかねて 聞しかど きのふけふとは 思はざりしを。契沖いはく、これ人のまことの心にて、をしへにもよき歌也。後々の人は、死なんとするきはにいたりて、ことごとしきうたをよみ、あるは道をさとれるよしなどよめる、まことしからずして、いとにくし。たゞなる時こそ、狂言綺語きごをもまじへめ、いまはとあらんときにだに、心のまことにかへれかし。此朝臣は、一生のまこと、此歌にあらはれ、後の人は、一生の偽リをあらはして、死ぬる也といへるは、ほうしのことばにもにず、いといとたふとし。やまとだましひなる人は、法師ながら、かくこそ有けれ。から心なる神道者歌学者、まさにかうはいはんや。契沖法師は、よの人にまことを教へ、神道者歌学者は、いつはりをぞをしふなる」(「玉かつま」五の巻)(『小林秀雄全作品』第27集「本居宣長」p.295)
 病を得て死期をさとった業平が、死の際に至って、偽りや飾りのない、思いがけない心の動揺を詠んだ歌を、契沖は、「これ人のまことの心にて、をしへにもよき歌也」と評します。死が目の前に迫ってもなお、他者にとらわれた「さとりがましきいつはりゴト」をするのは「まこと」ではない。契沖にとって、詠歌は「わが心を見附ける道」であり、それは宣長にとっても同じことでした。誰かのためでも、誰かの目に触れさせたいがためでもなく、ありのままの自分の正直な心を詠むのが歌の本当の「姿」である、と文章の奥から宣長の声が聞こえてくるように感じます。「やまとだましひなる人」契沖の歩いた「まことの心」の道をひとり歩み続ける宣長の想いを、小林先生が強い言葉で語られているのが深く心に残りました。
 ご講義の後半では、「詞花言葉を翫ぶ」という言葉について、池田塾頭がお話されました。定家の「詞花言葉を翫ぶ」という美意識が、定家から契沖へ、契沖から宣長へとしっかりと手渡されていることを知ったのと同時に、宣長が生涯に渡り、歩みを止めることなく実践した「歌まなび」は、生まれて授かった美意識を働かせて、「いかに生きるべきか」を考え続けることだったのではないだろうか、とあらためて思いを廻らせることができました。


●岡本 文一
 この「交差点」に投稿なさっている皆さんの文章を読むと、いずれも小林秀雄、本居宣長、萬葉集などについての関心が高く、池田さんの講義とはまた別に、深い考察が示されているのに驚いております。

 私は現在、「小林秀雄『本居宣長』を読む」「小林秀雄と人生を読む夕べ」「『萬葉』秀歌百首」の三つの講座を受講しております。もちろんこれらの講座のテーマに関心があるからですが、なによりも池田さんの講義自体が聴きたくて受講している理由の方が大きいことを申し上げたくて投稿しました。
 皆さんが池田塾頭、池田先生と書かれているのに、池田さんという書き方をすると、親しさを誇っているかのようで恐縮ですが、池田さんとは学生の頃から五十年近いお付き合いになるので敬称についてはご寛恕をお願い申し上げます。

 池田さんの講義を聴き始めたのは、神楽坂の新潮社に隣接する建物で開催されていた「新潮講座」からです。久しぶりに池田さんとお話する機会があった時に、鎌倉で開かれている小林秀雄についての講座のお話をしてくださり、同時に「新潮講座」のことも伺いました。それで「新潮講座」に通うようになり、その後オンライン形式の≪私塾レコダl’ecoda≫の講座も引き続き受講するようになりました。

 池田さんがまだ二十代の気鋭の若手編集者として活躍なさっている頃、池田さんの職場、新潮社でアルバイトをしていました。もちろん池田さんだけではなく他の編集者のお仕事も同時にお手伝いしていましたが、池田さんのお手伝いが楽しかったのは、仕事中の会話や、仕事後に他の編集者の方たちとともに夕食(主にお酒でしたが)のお供をさせていただいたことです。
 当時から池田さんとの会話で驚いていたのは、お話の内容とともに、その話し方でした。大学の講義は、気難しい雰囲気の教授が講義ノートを見ながら、学生の理解など関係ないかのような超然としたスタイルで語ることが多かったので、聴いていて内容のイメージが明確に浮かび、さらに興味が広がるという点では、池田さんの話し方は独特でした。
 話題も専門的なことから巷談まであちこち飛ぶ雑談ですから、当然ですが、あらかじめ用意された原稿を語っているわけではありません。ところが、その全てが洗練された語り口や正確な言葉遣いなども含め、聴く者が引き込まれる魅力的な場でした。まるで落語や講談の名人の話を聴いているかのようでした。
 
 これは池田さんの講座を受講されている方々が同様に感じていらっしゃると思いますが、池田さんのお話には余計なフィラーや間投詞が入らず、かといって聴く方の理解が追いつかないほど話が流暢すぎるというわけでもなく、理解できている自分の頭がよいかのような錯覚を起こさせるほど巧みなお話です。
 講義に際し、池田さんが事前に窺い知れないほどの準備をなさっていることは容易に想像できますが、準備をしたからといって、受講者が充分理解し、聴きながらイメージが膨らむように語るというのは、並大抵の力ではないと思います。
 また、細かいことを書くと、「新潮講座」の時と≪私塾レコダl'ecoda≫とで同じテーマの回があっても、語る視点が異なるので、まるで初めてそのテーマの講義を聴くかのような新鮮な発見があります。その背景には、永年にわたる池田さんの研鑽と思考の積み重ねがあることは言うまでもありません。
 
 小林秀雄の著書は学生の頃から読んでおり、「全集」「全作品」も買い揃えるほど気になる存在である一方、独特の文章なので、一読してすぐに理解できるという類いの批評ではありませんでした。「何となくわかったつもり」というのが実情でした。
 池田さんの講義を聴いて驚いたのは、過去に読んだ小林秀雄の文章の読み取り方はもちろん、込められた深い意味や、小林秀雄自身の私的な場での言動も含め、発見の連続だったことです。まさに蒙を啓かれる思いでした。

 また、小林秀雄論も数多く刊行されていて、そのうちの何点かは読んだことがありましたが、正直なところ難解なものが多く、「なるほど」と思うものは少ないと感じていました。こちらの理解力がないためだと諦めていましたが、池田さんの講義を聴き、こちらの理解が及ぶ内容と語り口に、これは極めて稀な講義だという思いも新たにしました。池田さんが小林秀雄の本の編集担当者であったことも大きいのはもちろんですが、池田さんが小林秀雄の著作と人物を誰よりも理解していることが背景にあるのが最大の要因だとも思います。
 小林秀雄講座の受講から始まり、その後「本居宣長」と「萬葉集」の受講もしているのは、小林秀雄や伊藤博先生の視点だけでなく、池田さんご自身の慧眼と、上述のように聴く者に明確なイメージを抱かせる話術に魅了されているからです。

 それに加えて池田さんの講座の魅力は、池田さんご自身のお人柄の魅力でもあることも申し添えておきたいと思います。
 池田さんがすでに大家であった小林秀雄の本の編集担当者に若くして抜擢されたのも、その卓越した編集能力だけではなく、お人柄も大きかったのだろうと拝察しております。
 相手が誰であっても、まずは相手の存在や言葉を余計な先入主を持たずに受け容れるという態度は、おそらく持って生まれた資質や性格にあり、それに加えてずば抜けた理解力と知的好奇心の強さが、相手への深い理解に繋がっているのだろうなと僭越ながら想像しております。
 講義以外でも池田さんとお話をしていて楽しいのは、膨大な知識や経験がありながら、稚拙なこちらの言葉や表現を受容してくださることです。そのような資質と態度は相手にとっても心地よいばかりでなく、池田さんが信頼される大きな要因にもなっていると思います。
 今後とも数少ない刺激と安堵の場として、池田さんの講義を楽しみにしております。

 貴重な投稿欄にもかかわらず講座の内容に触れず申し訳ありませんが、講師である池田さんの魅力をお話ししたくて書き込みました。場違いで失礼がございましたらご海容をお願い申し上げます。


●千頭 敏史
 令和五年(二〇二三)一月五日
 <小林秀雄『本居宣長』を読む>
 第二十六章/やまとだましひなる人 
   (『小林秀雄全作品』第27集所収)
    
 令和五年一月五日には、「小林秀雄『本居宣長』を読む」第二十六章のご講義を賜り、ありがとうございました。
 「伊勢物語」受容の歴史のなかで、作者の特定という問題を超えるほどに、在原業平の存在がいかに大きなものであったかを知ることができました。
 また、業平が、自分の死の近いことを覚って詠んだという歌、「つひにゆく 道とはかねて 聞しかど きのふけふとは 思はざりしを」を、業平の「一生のまこと、此歌にあらはれ」と「勢語臆断」で評した契沖、その「勢語臆断」に出会って驚き、「やまとだましひなる人は、法師ながら、かくこそ有けれ」と契沖を称賛した本居宣長、その宣長の演じた思想劇を心血を注いで辿った小林秀雄先生、……と、三百年近くにもわたって受け継がれた、いわば「やまとだましひなる人の学脈」をお示し下さったように感じます。
 「伊勢物語」、「古今集」、「源氏物語」が、鎌倉・室町時代から歌の三大古典として捉えられてきたこと、それに則って「勢語臆断」、「古今余材抄」、「源註拾遺」が著されたと契沖の学問の背景に言及され、また契沖の「萬葉代匠記、初稿本」の「代匠」には「心友、下河辺長流になり代って」の意が、「萬葉代匠記、精撰本」の「代匠」には「水戸義公になり代って」の意が、同じく「百人一首改観抄」の「改観」には「下河辺長流の説の敷衍」の意がこめられているとも言われると伺い、契沖の学問の素地と人となりの一端に触れる思いでした。


●金森 いず美
 令和四年(二〇二二)十二月十五日
 「読書について」
   (『小林秀雄全作品』第11集所収)
「文化という言葉 教養という言葉」

 二〇二二年の締めくくりの「小林秀雄と人生を読む夕べ」は「読書について」でした。 色々な出来事があった一年、私自身は、小林先生の作品を読み、さまざまな問いや気づき、感動と学びを、自分のなかに蓄えることができました。読書の楽しみを支えてくださった池田塾頭、講義の時間をともに過ごしたほかの受講者の皆さんには心から感謝をしております。
 
 年末、帰省していた大学生の長女が、「お母さんはいつも同じ本を読んでいるの?」と尋ねてきました。春も夏も同じように私の傍に置いてあった「小林秀雄全作品」を見て、不思議に感じたのでしょう。「同じに見えるけど同じじゃないんだよ」と曖昧に答えながら、私は、小林先生が「読書について」のなかで取り上げたサント・ブウヴの言葉、「人間をよく理解する方法は、たった一つしかない。それは、彼等を急いで判断せず、彼等の傍で暮し、彼等が自ら思う処を言うに任せ、日に日に延びて行くに任せ、遂に僕等の裡に、彼等が自画像を描き出すまで待つ事だ。故人になった著者でも同様だ。読め、ゆっくりと読め、成り行きに任せ給え。遂に彼等は、彼等自身の言葉で、彼等自身の姿を、はっきり描き出すに至るだろう」、この言葉の深さを思っていました。

 宣長が「源氏物語」を読んだように、純真な愛読者でありたい。語り手の傍に、聞き手として親しく寄り添い、もし、語り手の姿を掴めたなら、それを守る覚悟で向かい合いたい。「はっきりと眼覚めて物事を考えるのが、人間の最上の娯楽だからである。」と小林先生が書かれているように、「最上の娯楽」を味わいたい……。帰省した子供たちの賑やかな声を聞きながら、静かに意を固めた年の暮れでした。新しく始まる二〇二三年、これからも小林先生の作品を手元に置いて大切に読み重ねていきたいと思います。


●大江 公樹
 令和四年(二〇二二)十二月十五日
 「読書について」
   『小林秀雄全作品』第11集所収)
 「文化という言葉 教養という言葉」

 締め切り間近の小林先生が、カンヅメにされてゐたときのある夜、執筆に苦しんで、頭を掻きむしり、畳の上を這ひ回ってゐたといふお話が非常に印象に残りました。私も何かを書くために文章を読んでゐて、行き詰まることが多々ありますが、小林先生の苦しみ方に比べれば大したものではない、文章を書く際は苦闘してよいのだし、もつとさうすべきである、と思ひました。また、「読書には忍耐力が必要」といふお話も、やはり自分が普段味はつてゐる苦しみを肯定してくれると同時に、自分を叱咤するものとして響いてきました。
 毎回のことながら、生きるための力を頂ける二時間となりました。次回の講座も楽しみにしてをります。


●磯田 祐一
 令和四年(二〇二二)十一月十七日
 「作家の顔」
(『小林秀雄全作品』第7集所収)
 「微妙ということ」

 池田塾頭が、この作品を長きに渡り愛読されたお話を伺い、正宗白鳥という新たな作家に出逢うことができました。また、文学や思想と実生活について考える契機となりました。ご紹介頂いた対談、「大作家論」は、小林秀雄の情熱と正宗白鳥の老獪な人生ツマラン主義が織りなす、独特な味わいが感じられます。
  
 小林 僕が思想というようなことをしきりに言ったらば、正宗さんは、思想なんて何でもない、トルストイの実生活、その殺生石のようなにおいの方が大事だとおっしゃった。当時、僕にはまだはっきりしていなかったことなんですが、殺生石は正宗さんの憧れだったんですな。あれは、正宗さんの思想だ。 
 正宗 悩みというものに対して? 
 小林 ええ。実生活的な悩みというものに対して、ですね。 
 正宗 わからんな。自分のことはわからんな。……
      (「大作家論」、講談社刊『小林秀雄対話集』所収 /新潮社刊『小林秀雄全作品』第16集所収)

 長崎の雲仙で開催された国民文化研究会の講義では、学生が、本居宣長の信仰と罪悪意識について質問した折に、小林秀雄は、次のように答えています。
 「昔は、僕は文学なんかも、わりに大切に思っていた。文学のために死のうなんて熱情は持っていなかったが、ともかく今よりは大切に思っていた。だけど、僕が経験を重ねてきた今、そんなに大切には思っていないです。」
 「……だが、平凡で、世に知られていなくて、しかし真理をつかんでいる人もあるだろうと考えるようになったな。僕は、自分では宗派的な宗教を持っていないけれど、少しずつそんなふうに自分で考え始めたな。」
      (「講義『現代思想について』後の学生との対話」、新潮社刊『学生との対話』所収)

 私が二十代にこの文章に接した時、生活にとってちょうどいい湯加減の文学を想像していました。文学よりも友人を増やす、就職する、生活を楽しむことが大事という漠然とした理解に落ち着いていました。
 小林秀雄の言葉には、年齢を重ねることによって生じた、文学と人生の間の微妙な隙間を感じます。トルストイの家出をめぐる論戦相手の正宗白鳥は「文学は絵空事」と言い、やはり、文学に信頼を寄せているとは言いがたいのです。二人の文学への姿勢には、類似点があります。文学を軽んじていないし、重んじてもいない。愛読者に言わせれば、それは、うわべだけに過ぎないと言われそうです。しかし、小林秀雄は、真撃な学生からの質問に、心を開いて対話しているはずです。また、「宗派的な宗教を持っていないけれど」という言葉は、何かしらの信仰があることを示しているのでしょうか。

 「わが靑春の夢が肉慾脫却、自己淨化であつたと空想するのは、醜惡なる過去の現實を斷片的に思出すよりも現在の我には快いのである。さうなると、文學も藝術も、有るに甲斐なきものとして消󠄁滅するのであらうが、それを徹底すると、文學藝術以上のものを感得するやうになりはしないか」
      (「空虚なる靑春―素通りの人生回顧―」、新潮社刊『正宗白鳥全集 第十二卷』所収) 

 白鳥は、聖書を手本とした生活を送ることができれば、文学は無用になるではないかと、自分に確かめています。無用にならなかったところを見ると、白鳥には、終生、書くことを止められない理由があったようです。
 今回の後半の講義「微妙ということ」で、池田塾頭は小林秀雄が池田塾頭に話した「微妙ということ」、すなわち、「文学を読んでいるだけでは微妙ということがわからない、音楽を聴いたり、絵を見たりしているうちにわかってくる」を最初に紹介されましたが、この「微妙」ということと同じように、白鳥にも文学の先にあると感じていた何かがありそうです。  
 私は、文学ではわからない「微妙」や「生きる」についての疑問がさらに深くなりました。作家が物を書くという行為が、何故に生きていることに繋がるのか。文体というものに、心と体を繋ぐ働きがあるからではないでしょうか。作家にとって、言葉による文体が、肉体の一部であるように、演奏家にとっては音色を出す楽器が、画家には線と色彩の分量を計る絵筆が、体の一部となって仕事をする。精神は、生きるための新しい宿主を探しているように見えます。

 「『精神は文体を持たぬ』、これは、文芸の道を最も逆説的に洞見したヴァレリイの名言である。……文体をもつものは肉体だけだ。芸術の秘密は肉体の秘密である。人々は、泉鏡花氏の作品に、今日最も忘れられた、肉の匂いを、血潮の味を認めないか』
    (「文学と風潮」、新潮社刊『批評家失格―新編初期論考集―』所収 / 新潮社刊『小林秀雄全作品』第2集所収)

 小林秀雄は、十八歳の時、最初に読んだ鏡花の作品が、「高野聖」であったと話しています。(文藝春秋刊「小林秀雄の思ひ出」郡司勝義著)
 そして、鏡花の文体に「肉体の秘密」を感じ、最高の芸術に出会ったと絶賛しています。

 作品が、文体という肉体を所有していることに、今さらながら驚きを感じます。作品を創ることによって、精神は文体というもう一つの体を獲得し、成長していく。命とは何か、私達の肉体には、どんな秘密が隠されているのか、生まれた時に与えられる能力は、小さな身体一つに過ぎません。
 芸術家という職業に限らず、人びとは、めいめいが平然と生きるために働きながら、本人が自覚しないまま、固有の生活臭がある生き様を他人に見せていないだろうか。「文学はつまらない、人生はつまらない」と言いながら考え続けた白鳥の思想は、芸術家の思想ではなく、生活者の具体性が生んだ思想です。死を前提とした悩みなのです。
 白鳥の作品は、時には冷酷に、淡々と日記を付けるように、足されていきます。毎朝、牛乳を受け取りに行くため、軽井沢の雑木林を歩くような日々の習慣が書かせたものです。

 白鳥は、鏡花のように鮮やかな夢を見ることなく、胃弱の肉体が夢みることを文学で否定しながら、人間が思想の外に出てしまった、己を知ることから信じることの真理に到達した数少ない作家であると、小林秀雄は認めていたのではないでしょうか。確かに、「凡庸な生涯であった」と白鳥のように私も言えればよいのですが。


●小島 由紀子 
 令和四年(二〇二二)十月二十七日
 <新潮日本古典集成で読む『萬葉』秀歌百首>

  をのこやも むなしくあるべき よろづに 
     語りぐべき 名は立てずして
         (山上憶良/巻第六 雑歌 978番歌)

  一つ松 いくぬる 吹く風の 
     おとの清きは 年深みかも
         (市原王/巻第六 雑歌 1042番歌)

 十月の一首目は、山上憶良が「ちんの時(病いに沈んだ時)に詠んだといわれるもので、池田塾頭は、まずその歌と左注を静かに読み上げられた。

  士やも 空しくあるべき 万代に 語り継ぐべき 名は立てずして

   ――男子たるものは、為すこともなしに世を過してよいものか。万代までも語り継ぐに足るだけの名というものを立てもしないで。

  右の一首は、山上憶良臣が沈痾の時に、ふぢはらのあそつかかはへのあそあづまひとを使はして、めるさまを問はしむ。ここに、憶良臣、こたふることばる。しまらくありて、なみたのご悲嘆かなしびて、この歌を口吟うたふ。

 そして、池田塾頭は「左注にこれほど歌の背景が書かれているのは珍しいことです」と仰り、伊藤博先生の「萬葉集釋注」の解説を読まれ、その場面を描き出されていった。
 それは天平五年(七三三)、憶良が七十四歳の時のこと、重い病いのため病床に伏せっていると、使いの若者が見舞いに訪れた。病状を尋ねられた憶良は、公式の礼儀上、それに答える。だが、その後、しばらく沈黙し、流れる涙を拭って、悲しむ。関節が痛んで、身体が動かない、筆を執って書くことができない、その辛さの中、この歌を詠じた……。
 左注の行間から、「しまらくありて」という沈黙の深さ、「涕を拭ひ悲嘆しびて、この歌を口吟ふ」、その声の震えが蘇ってくる。
 
 「伊藤博先生の釋注は文学作品です。その釋注は歌と一体の物語です。『源氏物語』の中に散りばめられた名歌が、背後にある物語と一体となっているように、伊藤博先生も『萬葉集』の歌の背後に広がる物語を描いてくださっています」
 池田塾頭はそう仰って、伊藤博先生が歌の奥に感じられた、人生と重なる憶良の思いをさらに読み上げられた。 
 それによると、憶良を見舞う使者となって訪れた藤原朝臣八束とは、藤原不比等の孫、藤原房前の三男という名門の御曹司で、まだ十九歳の若者であった。その八束に、かつて四十代で遣唐使少録(書記)として渡唐し、中国思想に詳しく漢詩に熟達した憶良が、士大夫思想(男たるもの、名を立てるべきという思想)をはじめとして漢詩、歌についての教えを授けており、憶良と八束とは師弟関係にあったという。
 よって、憶良が詠んだ歌は、「士」たるもの、「名」を「立」てるのが本懐なのだ、という士大夫思想が踏まえられているのだが、中国では「文章は経国の大業」で、国政を司る役人は文章の達人であるべきとされていたので、憶良はこの歌に、「歌人」としても「名」を「立」てるべきであったのに……、という思いも込めたと考えられるという。
 その一方、「士やも 空しくあるべき」という反問の裏には、良い家柄ではなく、文官として恵まれなかった憶良の不満や反発も感じられるという。
 
 「伊藤博先生はさらに深く読み込んで、この歌は、七十四歳の憶良が、十九歳の八束に贈った激励、訓戒ではないか、そして、憶良の悲痛な『志』は、後に優れた政治家となった八束の上に転身して果たされ、血を承け継ぐものだけが子孫ではない、ここに人間の一つの幸福というものがある、と仰っています。まさに憶良は、国家のために人材を育成する責任感をもって、これぞと見込んだ八束を堂々たる人物に仕上げるべく、最後にこの歌を贈ったのかもしれません」
 池田塾頭はそう仰ると、この憶良の歌に追和した大伴家持の長歌(4164番歌)と短歌(4165番歌)を紹介してくださった。そのどちらにも、憶良の歌の言葉が引かれている。その短歌は……
 
  ますらをは 名をし立つべし 後の世に 聞き継ぐ人も 語り継ぐがね (4165番歌)
   ――ますらおたる者は、立派な名を立てなければならない。後の世にそれを伝え聞く人も、後の後まで語り伝えてゆくように。
 
 憶良と、その思いを後の世に語り伝えようとする家持の唱和の声が聴こえてくるようだ……。
 
 ご講義後、「新潮日本古典集成 二」で、再び憶良の辞世の歌を読み、その直前に綴ったといわれる「沈痾自哀文」のページを開いた。これは「病いに沈み自ら悲しむ文」という意味で、原文はすべて漢文で書かれているという。十年以上も身体の痛みに苦しんできた憶良の悲痛な思いが畳みかけるように綴られ、読むのが辛くなるほどだ。
 だが、池田塾頭は、ご講義で力強く、こう仰っていた。
 「これは憶良が自分の人生を回顧した作品です。憶良は人生というものに対して非常に自覚的で、一瞬一瞬、生きるとは、ということを自分に問いかけて、歌に刻みつけていきました」
 このお言葉を思い出し、「沈痾自哀文」に続く、漢詩と七首の倭歌も読んでみた。どの歌にも苦悶が滲み出ているが、憶良が子供たちに注ぐ慈愛の眼差しも感じられてくる。そして、最後の七首目の歌に、はっと胸を衝かれた……
 
  しつたまき 数にもあらぬ 身にはあれど とせにもがと 思ほゆるかも (903番歌)
 
 「……千年も生きていたいと思われてならない」、その憶良の言葉が耳の中で響き続け、憶良が歌の中に今も生きている、と確かに感じられた。
 
 二首目は、天智天皇の五世孫にあたる市原王が、宴席で詠んだ歌であった。題詞には「……一株の松の下に集ひて飲む歌」と書かれている。
 
  一つ松 幾代か経ぬる 吹く風の 音の清きは 年深みかも (1042番歌)
  ――この一つ松は幾代を経たことであろうか。吹き抜ける風の音がいかにも清らかに聞えるのは、幾多の年輪を経ているからなのであろう。
 
 「この歌は、天平十六年(七四四)正月の十一日に、当時の行楽地であった、きょう付近のいくの岡で詠まれました。市原王は、その宴の場に聳え立つ、神さびた老松に讃嘆し、松風がたいへん清らかに吹いていることを『音の清き』と詠みました。しょうらいの清らかさをとらえた集中唯一の作品です」
 池田塾頭はこう仰って、伊藤博先生の釋注を読まれ、詳しい解説を加えてくださった。
 それによると、この老松のように、風の中に立つ孤高の松は、「孤松」として漢詩の題材となっていて、聴覚に関して「清し」という表現も、中国の詩文で音楽を表す時によく使われるという。だが、市原王の歌は、単なる真似ではない。彼の歌は漢詩文の年来の教養に洗礼されて導かれ、その教養はこの歌において消化されている。つまり、借り物という感は全くない。学びの成果を消化できず、幼さや荒さが残る歌ではない。学びとったことを応用し、完成させている。正月の宴歌として賀の心を込めた歌だが、清冽な思想のようなものさえ響きわたっている、と。
 そして、池田塾頭は、この市原王の歌に続く、大伴家持の歌を読まれた。
 
  たまきはる いのちは知らず 松がを 結ぶ心は 長くとぞ思ふ (1043番歌)
   ――人間の寿命というものはわからないものだ。私がこうして松の枝を結ぶ心のうちは、ただただ命長かれと願うばかりである。 
 
 「市原王が幾代も年を重ねてきた老松を讃嘆し敬意を抱いていることを、家持は敏感に感じ取っています。『松が枝を結ぶ』とは、無事や安全を祈る当時の風習ですが、伊藤博先生は、家持の思いを汲み取って、『この松のごとく長寿は保ちえないにしても、せめて、その松が技を結ぶ互いのきずなは不変でありたい』と言いたげであると仰っています。家持は「萬葉」末期に活躍し、無常感というものを自ずと感じ取っていた歌人ですから、上二句で『人の寿命というものは分からないものだ』と詠み、でも、だからこそ同志的に結ばれた我々の絆はいつまでも変わらずに……、と願ったのでしょう。この二首の組み合わせから、彼らの詩的感性そのものを、心静かに味わっていきたいものです」
 池田塾頭はそう仰ると、家持の後年の名歌「がやどの いささむらたけ 吹く風の 音のかそけき このゆふへかも」(4291番歌)も紹介された。
 そして、「萬葉集」約四千五百首の中で、風の音を主題にした歌は、市原王の歌とこの家持の名歌の二首しかないこと、伊藤博先生が、この家持の名歌は、市原王の歌が糧の一つとなっているだろうと仰っていることを教えてくださった。  
 
 今回、市原王と家持の二首について、最初に題詞だけを読んだ時は、宴席での歌ということで、先の憶良の辞世の歌とは全く趣きが異なるように思われた。
 だが、いずれの歌も、命というもの、生きるということに直かに向き合わせてくれる歌であると強く感じた。
 そして、歌と歌とが響き合い、人と人の心を結び、自ずと生きている、その姿が見え始めたように思えてきた。
 池田塾頭のこれまでのご講義と、今回のご講義での、「『萬葉集』は物語です。一つ一つの歌を台詞のように味わい、『萬葉集』という物語に身をゆだねて読んでいきましょう」というお言葉のおかげであって、あらためて心からありがたく思っている。

                         
●千頭 敏史
 令和四年(二〇二二)十二月一日
 <小林秀雄「本居宣長」を読む> 
 第二十五章(後半部)/姿は似せ難く、意は似せ易し
   (新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集所収)

 十二月一日には「『本居宣長』第二十五章(後半部)/姿は似せ難く、意は似せ易し」のご講義を賜り有難うございました。
 第二十五章後半の核心となる「姿は似せ難く、意は似せ易し」を標題として、さらに、その中の「姿」の一語に焦点を絞り、小林先生の文章の引用によって、いかに「姿」を感じ取ってもらえるか、に集中したご講義であったと拝聴致しました。
 古典の現代語訳では、古語なるが故の「姿」が伝わらないという問題に移り、宣長が「古今集遠鏡」で「古今集」を俗語(サトビゴト)で訳した意味合について、「古今集」自体が当時の日常生活で生まれた、その詠まれた現場を再現したのだと伺ったのが印象深く、「古今集」を再読する際の視座を与えてくださいました。


●千頭 敏史
 令和四年(二〇二二)十一月十日
 <小林秀雄「本居宣長」を読む> 
 第二十五章(前半部)/大和魂と大和心
   (新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集所収)

 私塾レコダでの「小林秀雄『本居宣長』を読む」の講座には令和四年四月から参加できるようになりました。「本居宣長」の精読は緒に就いたばかりですが、毎回、新たな発見があり、読みが深まる喜びを感じています。
 十一月十日は、「本居宣長」第二十五章前半を「大和魂と大和心」と題してのご講義でした。
「大和魂」という言葉について、現在では、主にスポーツの分野で使われているが、「源氏物語」が初見とされる平安時代の元の意味とはかけ離れていると、説き起こされました。この言葉の変容は賀茂真淵に始まり、平田篤胤によって勇武の意味に逸脱します。さらに、幕末の吉田松陰、新渡戸稲造の「武士道」を経て、旧日本軍の軍国主義に適う標語とされた歴史を振り返って、アジテーターによって歪曲される言葉の危うさについて、現代の私達への警鐘とされました。
 一方、「大和心」については平安朝以後、歴史の表舞台から消えていたのを、宣長が赤染衛門の歌によって再発見し、意味がはちきれんばかりに育てあげました。その宣長が還暦を迎えて詠んだ、「しき嶋の やまとごゝろを 人とはゞ 朝日にゝほふ 山ざくら花」の歌に焦点が当てられます。
 小林先生は昭和四十五年、雲仙での「全国学生青年合宿教室」に参集した青年への講義の中で、この歌について言及されます。そこでは、一見普通とも見えるこの歌が難しい事、今では山桜を知っている人は殆どいないが、山桜を知らないでは、この歌の味わいを鑑賞することはできない事、そして、山桜花を形容する「匂ふ」について、この言葉は視覚や触覚、嗅覚など多義にわたる豊かな意味合いを含んでいると、小林先生の講義を織り込みながら指摘されました。
 そこから一歩踏み込んで、宣長は「大和心」の意を「匂ふ」の一語に見ていたのではないか、小林先生もそう受け取られていたと考えてよいふしがあると、お話されたのが特に印象に刻まれました。
 ここに想いを馳せると、紫式部が「源氏物語」の冒頭で光源氏の誕生を、「世になくきよらなる玉の男御子」で、「この御にほひには並びたまふべくもあらざりければ」と、光源氏のめでたさの限りを「にほひ」で表しているのに肯かされます。また、「宇治十帖」で浮舟を巡る二人の貴公子の名は、「匂宮」と「薫」で、共に「匂ふ」に繋がります。「源氏物語」を熟読し、「古事記伝」で「神の名について綿密な注釈」をして、名前を大事にした宣長の着目した処であったろうと思われます。
 さらに、第三句の「人問はば」について池田塾頭は、単に人に問われたからの報告ではない、自分で得心するための自問自答である、と説かれ、何気なく読んでいた「人問はば」の持つ意味合いを考えさせられました。「あしわけ小舟」や「紫文要領」で、問いを設定して答えるという形で思索を深めた宣長は、歌でも自ずと同じ「問う」形となったのではないでしょうか。
 「本居宣長」第一章で詳述される遺言書には、「毎年祥月、年一度の事でいいが、妙楽寺に墓参されたい」、「家では、座敷床に、像掛物をかけ、平生自分の使用していた机を置き」と指示しています。「像掛物とあるのは、寛政二年秋になった、宣長自画自賛の肖像画を言う」のですが、宣長には、肖像画の賛に在るこの歌に、遺言で指示する程の特別な思いがありました。
 池田塾頭は『好・信・楽』に連載されている「小林秀雄『本居宣長』全景」三十四の「大和心という言葉」で、この歌について述べられ、根幹をなす言葉、「大和心」と「にほふ」と「山桜」の互いの微妙な響き合いを、その微妙な表情のままに写し取ってくださり、他の言葉では言い換えられない、歌の姿というものを示されました。
 今回のご講義でも、考えるヒントを豊富にお示しいただき、ありがとうございました。


●金森 いず美
 令和四年(二〇二二)十一月十日
 <小林秀雄「本居宣長」を読む> 
 第二十五章(前半部)/大和魂と大和心
   (新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集所収)
 令和四年(二〇二二)十二月一日
 <小林秀雄「本居宣長」を読む> 
 第二十五章(後半部)/姿は似せ難く、意は似せ易し
   (新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集所収)

 「小林秀雄『本居宣長』を読む」は、第二十五章に入り、十一月に「大和魂と大和心」、十二月に「姿は似せ難く、意は似せ易し」と題して二回に分けて池田塾頭がお話されました。
第二十五章の前半では、王朝文学に現れた「大和魂と大和心」の用例が挙げられます。この章を読み、ご講義で池田塾頭がその用例を一つひとつお話してくださるのを聴いても、これらの言葉がしっくりと身に入ってこず、もどかしい気持ちでした。講義後にまた小林先生の文章を読み返し、何度目かのときにはたと気がつき、真っ新な気持ちで宣長の心に近付いてみようと、目を閉じて、小林先生の文章を思い出しながら、宣長の姿を想像してみました。
 宣長は「源氏」と向き合い、言葉の生きた姿に心を重ねながら、さらに上代にまで遡って思いを寄せ、日本人としての心のありようを身に染み込ませています。小林先生の文章を辿るうちに、生き生きとした言葉の鼓動が聴こえるような不思議な気持ちになりました。上代に命を宿した大和魂、大和心という言葉が、平安期に生きた女性たちの手によって、「才」に対抗するように、ふくよかにやわらかに育てられ、王朝文学の崩壊ののちも、時代の陰、「才」の陰にそっと息を潜めて身を隠し、宣長との出会いをずっと待っていたのではないだろうか……。そんな姿を心に描きながら、大和魂、大和心を拾い上げた宣長の思いを想像すると、「うひ山ぶみ」で宣長が繰り返し強調した「やまとだましひをくすべきこと」という言葉、宣長が詠んだ「しき嶋の やまとごゝろを 人とはゞ 朝日にゝほふ 山ざくら花」の歌も、一層深く、強く心に響いてきます。

 第二十五章の後半は、宣長の「姿は似せ難く、意は似せ易し」について、池田塾頭が小林先生の文章の大事な箇所を引用され、さらに、「姿」という言葉がこの作品に出てくる箇所を一つひとつ教えてくださいました。池田塾頭が小林先生の作品にどのように接しておられるかを直かに学ぶことができた貴重な時間でした。私は、「姿は似せ難く、意は似せ易し」という奥の深い大きなテーマに気持ちが押され、気がつけば頭の中で言葉を捏ね回して、考え込んでしまっていたのですが、講義後、頭の中のものは一度置いて、素直にこの「姿」という言葉にってみようと心を正し、第二十五章後半を読み返しました。
 そうして見えてきたのは、万葉人の心に寄り添い、その声にひたむきに一心に耳を傾ける宣長の姿でした。「古事記」にい、太安万侶の苦心と稗田阿礼の息遣い、上代の人々の生活と経験とを直に心に感じて「古事記」を辿った宣長の姿もだんだんと心に浮かんできます。一途に想い、心に映じた像は、そのまま他人が真似できるものではない。その像こそが、「姿は似せ難く、意は似せ易し」と宣長が言う「姿」なのだと、感じました。

 「文辞の麗しさ」を味識する経験とは、言ってみれば、沈黙に堪える事を学ぶ知慧の事であり、これさえしっかり摑めば、「言のよさ」に「たぢろく」心配はない。宣長は、それを「やまと魂」がまりさえすれば、と言う。「やまと魂」という言葉を、彼も「ザエ」に対して使っているのである。(『小林秀雄全作品』第27集「本居宣長」p.288) 

 「姿」を感じたいのなら、真っ新な気持ちで目を閉じて、小林先生の文章を思い出しながら、宣長の姿を想像してみればよい。宣長の心、小林先生の言葉、池田塾頭の声に後押しされて、私はまた最初に戻り、「本居宣長」という作品に今日も静かにっています。


●金森 いず美
 令和四年(二〇二二)十一月十七日
 「作家の顔」
   (新潮社刊『小林秀雄全作品』第7集所収)
 「微妙ということ」

 十一月の「小林秀雄と人生を読む夕べ」は「作家の顔」でした。この作品と合わせて、「思想と実生活」「文学者の思想と実生活」、この三つの作品は、作家の思想と実生活をめぐる、小林先生と正宗白鳥氏との論争ではありますが、論じられているのは、小林先生が、敬愛する正宗白鳥氏の胸を借りて、さらには大作家トルストイ翁の胸を借りて語る、「人生いかに生きるべきか」なのだと感じました。
 実生活で生ききれなかった作家が、希望したり絶望したりを繰り返して、ついにたどり着いた己れの思想。その思想がそのまま実生活を乗り越し、思想そのものが作家の顔となり、作品となり、自ずと立っている。はっきりと力強く、美しい、作品の立ち姿が、まざまざと心に映じてくるようです。

 池田塾頭がご講義の後半「小林秀雄 生き方のしるし」でお話してくださった「微妙ということ」が、私の心に映じたその立ち姿と静かに響き合い、「生まれて授かった自分の能力に感謝をして、微妙を感じとる能力を日頃から磨き、姿が美しい人との人生での出会いを逃さないようにすることが大切なのです」との池田塾頭のお話に、思わず涙がこぼれそうになりました。小林先生の作品には、「人生いかに生きるべきか」を大いに考え続けてよいのだということをいつも教えられます。池田塾頭や他の受講者の皆さんのお力を借りながら、これからも時間をかけて小林先生の作品に身交い、学び続けたいと思います。


●齋藤 崇宏
 令和四年(二〇二二)十一月十七日
 「作家の顔」
   (新潮社刊『小林秀雄全作品』第7集所収)
 「微妙ということ」

十一月十七日の、「小林秀雄と人生を読む夕べ」にはじめて参加させていただきました。
私はzoom講座とは思えないほど、情熱と熱量に圧倒されました。ありがとうございました。
池田先生のお話を聞きながら、今までの僕を思い出して、意気地のない僕はこれからはこうした方がいいのではないかと考えたり、でも僕は覚悟ができていないのではないかと立ち止まったりしていました。杉本圭司さんのことは存じ上げませんでしたので、「小林秀雄 最後の音楽会」(新潮社刊)の本を購入するきっかけもいただき、充実した二時間でした。
これからも勉強させてください。よろしくお願い致します。


●大江 公樹
 令和四年(二〇二二)十一月十日
 <小林秀雄「本居宣長」を読む>
 第二十五章(前半部)/大和魂と大和心
   (新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集所収)

 第二十五章で小林先生は、「大和魂」が「どういう意味の言葉であったか」について、「猶、才を本としてこそ、大和魂の世に用ひらるゝ方も、強う侍らめ」という、「源氏物語」における唯一の用例を引いて、述べられてゐます。この引用の直後から、「——才は、広く樣々な技芸を言うが、ここでは、夕霧を元服させ、大学に入学させる時の話で」、と始まり、「才が、学んで得た智識に関係するに対し、大和心の方は、これを働かす智慧に関係すると言ってよさそうである」と結ばれる叙述は、読んでゐると「源氏物語」における「大和魂」がどういふ意味の言葉であつたか、自然に浮かび上がつてくるやうで、感銘を受けました。
 しかし、読み進めるうちに知らず識らず、「どういう意味の言葉であったか」といふことではなく、「どういう言葉の意味であったか」と考へるやうになつてをりました。講義の最後で「やまと心」と「やまと魂」の違ひは何かと質問した際、池田先生から、その思考が単なる賢しらにつながつてしまふことをご指摘頂き、学問に対する姿勢を正されたやうで、はつと致しました。普段大学院でイギリス文学を研究してをりますと、論文を書くにあたり何かと言葉を厳密に定義する思考が求められます。その思考を「本居宣長」を読むにあたつても何も考へずに持ち込んでしまつたわけで、如何に自らが「かたまらない」まま「から書」ならぬ「洋書」を読み「まどはされ」てゐるか、宣長の戒めが身に染みて感じられました。
 講義では小林先生、宣長の述べる「やまと魂」、「やまと心」が、今日一般にイメージされるやうな勇武とは、いかに違ふかといふことを、丁寧に解説して頂きました。「本居宣長」を通して、「やまと魂」、「やまと心」といふ言葉本来の姿を感じ取れるやうに努めて参りたく存じます。

 
●金森 いず美
 令和四年(二〇二二)十月二十日
 「私小説論」
   (新潮社刊『小林秀雄全作品』第6集所収)

 十月の「小林秀雄と人生を読む夕べ」は「私小説論」でした。講座の冒頭で池田塾頭が、この作品は、小林先生の「人生いかに生きるべきか」が論じられているのです、と話されました。日本で生まれた「私小説」のその土壌には、ルソー、フローベル、モーパッサン、ジイドらが対峙した「社会」と「私」との対決、冷静だが烈しい自意識の苦闘の歴史が地層のように幾重にも積み重なっています。社会との闘いで一度死んだ「私」が作品の中で再び生きるその姿が、小林先生の心にどのように映り、どのように小林先生の「人生いかに生きるべきか」という問いに重なっていったのか……、講座のあとも、手探りでこの作品を読み返しています。池田塾頭の講座を受講して、毎回心から感謝していることは、ほかの受講者の皆さんもきっと同じ思いではないかと思うのですが、ふむふむ分かったぞと安直に自己解決するのではなく、何度も読んでまた自問自答してみたいという思いが次々湧き出すように、池田塾頭が背中を押してくださることです。

 今回の講座で池田塾頭が紹介された、「文学界の混乱」(新潮社刊『小林秀雄全作品』第5集所収)のなかの一文、「僕は今ドストエフスキイの全作を読みかえそうと思っている。広大な深刻な実生活を活き、実生活に就いて、一言も語らなかった作家、実生活の豊富が終った処から文学の豊富が生れた作家、而も実生活の秘密が全作にみなぎっている作家、而も又娘の手になった、妻の手になった、彼の実生活の記録さえ、嘘だ、嘘だと思わなければ読めぬ様な作家、こういう作家にこそ私小説問題の一番豊富な場所があると僕は思っている。出来る事ならその秘密にぶつかりたいと思っている。」小林先生のこの力強い想いに近づくよう、「人生いかに生きるべきか」という問いを自分自身に照らして、これからもまた小林先生の作品を大切に読み重ねていきたいと思います。十一月の講座「作家の顔」も楽しみにしています。


●磯田 祐一
 令和四年(二〇二二)九月十五日
 「カヤの平」
   (新潮社刊『小林秀雄全作品』第5集所収)

 「カヤの平」の講話ありがとうございました。読後感を投稿いたします。
四十年ほど前に大学生の私は、信州松本で、上高地や乗鞍高原へ通じる路線バスの車掌のアルバイトをしていた。車掌は、停車駅の指示と運賃の精算のほか、周辺の観光案内をマイクで行う。
バスは、麓の駅を出ると、梓川の渓谷を右に左に曲がりを繰り返す。奈川渡ダムのトンネルを抜けると、前川渡で上高地線と別れ、北アルプス南端の乗鞍へと分岐する。小林秀雄は、上高地ではなく、乗鞍高原を訪ねている。

 「旧友交歓 小林秀雄対談集」(求龍堂刊)という本の巻頭に「著者近影 昭和54年10月 乗鞍にて」と記された先生の白黒写真が掲載されている。私は、その写真をとても気に入り、スマホの壁紙にしている。先生は、スーツ姿のまま穏やかに微笑み、カメラに構える風もなく、ごく自然に景色に溶け込んでいる。しばらくぼんやりと写真を眺めていると、木々は、黄色や赤や橙に発色を始め、紅葉の真っ盛りである。雲の切れ間から乗鞍岳が、頭を覗かせている。私は、その場所に車掌の制服のまま、御一緒しているようである。

 私が、大切に持ち歩いている一枚の写真に、先生の「しるし」が表われている。「しるし」とは、先生の顔の表情とか、動作、姿勢等々である。果ては光とか山や雲の形であるとか、まるで、魂の燐光が反射しているようだ。私を捉えているのは、姿であり、人間の完璧性すら感じられる。欠点のない人とか、悟った聖人という意味ではない。完結している姿が美しい。完全と言ってしまえば、それはカミになるだろうが、美しい姿に出逢えば、古人のようにカミが表われると言っても良いかもしれない。「小林秀雄は批評の神様である」この言葉と同類に解して欲しくない。先生は、山で最後の花見をされたのではないか。

 そろそろ、「カヤの平」の感想に移ろう。
先生の登山熱のきっかけは、ご自身が中学三年生の頃、雲取山で遭難しかけたことが発端とある。(「スポーツ」、日本経済新聞 昭和三十四年一月一日号 / 新潮社刊『小林秀雄全作品』第23集所収)(「山」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第7集所収)
 遭難という命の危険が、山の魅力をふんだんに教えてくれたというのである。
 
 カヤの平は、出発前夜から、緊張が高まって行く。無理に参加しなくてもと思うのに、とうとう最後は自ら墓穴を掘るということになる。文中には軽快に弾む独特のテンポがあって、先生の足の運びは、素人ではないのだが、「事実は小説より奇なり」という日常がある。先生は、隊列の後ろから、心配されているとわかると余計に腹が立ってくる。金づちが犬かきをしている状態となる。出発前からこの落差の予感に、観客は笑うタイミングを計っている。転ぶたびに可笑しい。体の緊張がほぐれて行く。ラッセルで荒くなる呼吸やスキー板に纏わり付く重たい雪、必死に仲間の後を追う不安と後悔、まさに山は事件の巣窟である。読者にとって他人の失敗談ほど愉快なことはない。次回の山行も「先生は、必ず同じ失敗を繰り返すはずだ」という不謹慎な期待である。その通りに、次回を待たずに、下山後の平地でもう一回転んで見せている。私を緊張させ、笑わせる「カヤの平」は、山のリアリズム小説である。

   
●M.I.
 令和四年(二〇二二)三月十七日
 「ルオーの版画」/「ルオーの事」
   (新潮社刊『小林秀雄全作品』第28集所収)
 
 いつも小林秀雄先生の作品を通じて、日常に豊かな光を与えてくださるお話を聞かせていただき感謝いたしております。今年三月の「美を求める心」シリーズ、「ルオーの版画」/「ルオーの事」のお話の感想をお送りさせていただきます。タイミングを逸して半年以上過ぎての投稿となりますが、ご一読いただけましたら幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。

 三月、小林先生の愛するルオーのお話を取り上げて下さり、彼の作品とじっくり向き合う時間をいただきました。初めてルオーという画家を知ったのは十代の頃、母と出かけた西洋美術展の時です。当時も静かな微笑みを浮かべるピエロの絵でしたが、絵の具を分厚く塗り重ねた面白い油絵という素っ気ない印象だけでその作品の前を通過しました。数日経って展覧会の図録を眺めていると、母が「この絵なぜか好きだわ」と、丁度めくっていたページに現れたルオーのピエロを指差し囁いてきました。この野太く荒々しい描線の作品のどこが良いのだろう。母の言葉の真意を知れば、大人の機微をわかるようになるのだろうか。眩いような何とも表現しがたい感情が溢れ出し、以来転じてルオーは私にとり気になる画家になりました。

 小林先生のエッセイに登場する絵皿のピエロ。その作品に「絶対的な、異様な吸引力に捕えられた」先生の観察眼と心象描写は実に豊かでお見事でなりません。「叩きつけられた絵具が作る斑点と、顔料を分厚く盛り上げて引かれる描線との対照は、いかにも荒々しく烈しいものだが、其処に、極めて繊細な和音が発生し、皿全体が鳴るのに気附いて驚く。これに聞き入っていると、こういう美しい物が生れて来る、創り出されて来る、その源泉とも言うべきものに向って誘われて行くような、一種の感覚を覚えるのである」。そして「ルオーの絵と共に在る」ことが至上の幸福であるが如く、その絵皿を背景に少しはにかみ、澄んだ笑みを浮かべていらっしゃる小林先生のお姿はまるで全てを許し温めて下さる暖炉のようです。

 また御多分に洩れず「ルオーの事」に登場する女将のお話も心に留まりました。かつて日本にこれほどまでにルオーに魅了された市井の人がいらしたなんて。しかもそこに描かれている人影がキリストであると知ってか知らずかのまま。女将はどんな人生を歩み、なぜその作品に惚れ込んだのだろう。あの台所に立つキリストと思しき人物をどのように捉えていたのだろう。その答えについて知るよしもなく、勝手な憶測だけが膨れ上がります。小林先生は「画面に向いた私の眼は、キリストの姿はここにはない事を確めるようであった。」とおっしゃる。けれども、やはりこの言葉に戸惑い、「あの方はキリストではありませんか?」と思わず問い直したくなる。しかし、仮にもし女将にキリストという固有名詞を差し出したら、その時点で女将との会話になにか淀みが生じてしまうのでしょう。その人物は確かに「必然の人」で、女将の思い入れある「誰か」なのだ。そういうことなのだろう。もし女将がルオー、そして小林先生と対談されるとしたら、彼らは何を語り合うのだろう。むしろ、そのような想像を膨らますことで蟠りが溶け、温かな気持ちが湧いてきました。

 ルオーは画家を志す以前、ステンドグラス職人だったということも興味深い事実でした。ステンドグラスは、自然光にさらなる生命を吹き込み、活気付け、瞑想を促し、そして、敬虔に宗教を受容する空気を日常にもたらすガラス工芸です。それは誰に対しても分け隔てなく注がれる光を創り出すアート。だから彼の作品には分け隔てなく届く暖かな光が込められている。ルオーは人の心に灯火をもたらすアルチザンであり、それ故に誰もがきっと人の心奥にある普遍的な原風景に向ける彼の眼差しの力に心を奪われるのでしょう。母が当時ピエロの絵をどんな風に観ていたのか、訊ねてみようと思っています。


●小島 由紀子
 令和四年(二〇二二)九月二十二日
 <新潮古典集成で読む『萬葉』秀歌百首>

  み吉野の さきやまの ぬれには 
    ここだもさわく 鳥の声かも
       (山部赤人/巻第六 雑歌 924番歌)

  ぬばたまの けゆけば ひさふる
    清きはらに 千鳥しば鳴く
       (山部赤人/巻第六 雑歌 925番歌)

 今回は、伊藤博先生が「萬葉集」巻第六からお撰びになった、山部赤人の「吉野讃歌」についてのご講義であった。この巻はすべて雑歌で、宮廷行事の場で詠まれた歌ばかりが収められている。
池田塾頭は、まず時代背景について説明してくださった。
 「巻第六は、奈良朝聖武天皇の時代の歌が中心で、当時の人々にとっては『現代の歌を集めた巻』という存在でした。それに対して、巻第一や巻第二は、天武天皇や持統天皇の治世で、柿本人麻呂が活躍した時代でしたから、すでに数十年も経ち、古き良き時代、崇め奉るべき時代の巻ととらえられていました」
かなり隔世の感があるようだが、巻第六の山部赤人の長歌は、巻第一の柿本人麻呂のそれと非常によく似ている。むしろ人麻呂の方が荘厳に詠い上げ、より秀歌にふさわしいのではと感じるほどだ。

 なぜ伊藤博先生は、「吉野讃歌」に赤人の歌を撰ばれたのか。
 そのお話の前に、池田塾頭は「吉野」という地について詳しく語ってくださった。
「今では吉野といえば桜の名所ですが、万葉人にとっては清らかな川辺の美しさを思い描く聖なる地でした。六五六年には斉明天皇によって吉野離宮が造営されました。六七二年に勃発した壬申の乱では、大海人皇子が吉野の地で挙兵を決意し、兄である天智天皇の息子の大友皇子と皇位継承を巡って戦い、勝利を収めました。天武天皇として即位後は、皇后の鸕野うのの讚良さらら(のちの持統天皇)と六人の皇子たちと再び吉野を訪れ、次の二首を詠んだといわれています」

  み吉野の みみみねに 時なくぞ 雪は降りける なくぞ 雨は降りける…思ひつつぞし そのやまみちを
    (25番歌/一部抜粋)

 ――思えば吉野の耳我の嶺に、時となく雪は降っていた。絶え間なく雨は降っていた。…物思いに沈みつつやって来た。その山道を。

 壬申の乱の挙兵前、陰謀を避けて吉野に逃れる途上で、自身の運命を思い悩んだことを回想して詠んだという。雪と雨がみぞれとなって降り続ける音と冷たさが、身に心に沁み込んでくるようだ。 

 もう一首は、六人の皇子たちに向けて詠んだ歌である。

  よき人の よしとよく見て よしと言ひし 吉野よく見よ よき人よく見  (27番歌)

 ――昔のよい人がよい所だとよくぞ見てよいと言った吉野をよく見よ。今のよい人よ、よく見よ。

 「天武天皇は、この『よき地』である吉野で、皇子たち六人に、母親は異なるものの、結束するように誓わせました。『吉野の盟約』といわれますが、結局は天武天皇と皇后の実子である草壁皇子が、正式な後継者となりました。天武天皇の死後は、人望のあった大津皇子が謀殺され、翌年には草壁皇子も亡くなりました。その後、残された皇后は持統天皇として即位し、天武天皇との思い出の地である吉野に、三十一回も行幸したのです」
 即位前年、六八九年頃の行幸では、従駕した柿本人麻呂が、次の「吉野讃歌」を詠み、後に巻第一に収められた。

  やすみしし 我がおほきみの きこしめす あめしたに 国はしも さはにあれども やまかわの 清き河内かふちと こころを 吉野の国の 花散らふ あきに 宮柱 ふときませば ももしきの おほみやひとは ふねめて 朝川渡り ふなぎほひ 夕川渡る この川の 絶ゆることなく この山の いやたからす みなそそく 滝のみやは 見れどかぬかも  (36番歌)

  見れど飽かぬ 吉野の川の とこなめの 絶ゆることなく またかへり見む  (37番歌)


 そして、三十数年の時を経て、神亀二年(七二五)五月、持統天皇の曾孫である聖武天皇が吉野離宮を訪れ、従駕した山部赤人が、次の三首の「吉野讃歌」を詠み、巻第六に収められた。

  やすみしし おほきみの たからす 吉野の宮は たたなづく あをかきごもり 川なみの 清き河内かふちぞ 春へは 花咲きををり 秋されば きり立ちわたる その山の いやしくしくに この川の 絶ゆることなく ももしきの おほみやひとは 常にかよはむ  (923番歌)

  み吉野の さきやまの ぬれには ここだもさわく 鳥の声かも  (924番歌)
  
  ぬばたまの けゆけば ひさふる 清きはらに 千鳥しば鳴く  (925番歌)


 この反歌二首を、伊藤博先生は「萬葉」秀歌百首にお撰びになったわけだが、長歌には人麻呂との重複が多く、同じような情景が浮かぶばかりで、反歌もそれほど印象深く感じなかった。
  「たしかに赤人の長歌は、人麻呂の歌を踏まえた手堅い歌とはいえ、新しさは感じられないかもしれません。後世には、長歌と反歌は緊密な関係が結ばれていないという低い評価も受けました。でも、それは大間違いです。赤人の長歌をもう一度よく見てください」  
 池田塾頭はそう仰って、伊藤博先生の「萬葉集釋注」の解説を読まれた。
 それによると、まず、吉野の宮の「山」(たたなづく 青垣隠り)と「川」(川なみの 清き河内ぞ)との繁栄を対句で示し、次に、その青い「山」に春は花が咲きほこり、その清い「川」に秋は霧が立ち込める、と対比を重ね、春も秋も自然が躍動するさまを描く。そして、その「山」の重なりのように幾度も、その「川」の流れのように絶えることなく、と対句式尻取形式で承けて、「天皇に仕える大宮人はいつの世にも変りなくここに通うことであろう」と盛り上げ、大君讃美の主題へと結んでいるという。

  「山川対比を整然と布置し、一糸の乱れも見せないのが長歌である」
 池田塾頭は、伊藤博先生のこの言葉を、特に強く読み上げられた。
 これに導かれ、もう一度、赤人の長歌を読むと、人麻呂の長歌よりも、「山」の青さ、「川」の清らかさが際立って感じられた。
それだけで十分満ち足りた、聖なる吉野の地、その清明な景色が見えてくると、反歌の924番歌からは朝の「山」が、925番歌からは夜の「川」が見えてきて、そこに茂る樹木から鳥の声が響き、耳の中で反響し続けるように感じた。
 「赤人は人麻呂の『吉野讃歌』を踏まえつつ、長歌での『山』と『川』の整然とした対比を、反歌でも受け、それぞれに自然の躍動感を詠み込んで、新たな試みを成し遂げました。巻第一や巻第二の時代は、長歌と反歌は緊密な関係にありましたが、巻第六の時代になると反歌のみが鑑賞の対象となって、赤人の歌も後世では反歌二首の評価ばかりが高くなったわけですが、長歌と反歌を続けてしっかり読むと、非常に緊密な関係があり、赤人の強い野心さえ感じられます」

 池田塾頭はこう仰ってから、伊藤博先生が、人麻呂と赤人との共通点にも言及されていることを教えてくださった。
 それは、長歌の冒頭が、人麻呂は「やすみしし 我が大君の」、赤人は「やすみしし 我ご大君の」と、ほぼ全く同じで、「あまねく天下を支配されるわが天皇が」という意味の、天皇賛美の伝統的な言葉であるということだ。
 しかも、巻第六には他にも次のような「吉野讃歌」があるが、赤人以外の歌人はこの言葉を冒頭に据えていないという。
 
 【養老七年(七二三)五月、元正天皇の行幸(翌年の聖武天皇即位の予祝のため)】
 ・かさの(あ)そみかなむら(907~909番歌、その初案910~912番歌)
 ・くるまもちそみとせ(913~914番歌、その初案915~916番歌)
 【神亀二年(七二五)五月、聖武天皇の行幸】
 ・かさのかなむら(920~922番歌)
 左注には、笠朝臣金村と赤人の歌(923~924番歌)はどちらが先に詠まれたか明確でないとあるが、同じ場で歌を詠む時は、宮廷歌人として先輩である笠朝臣金村が先で、次いで車持朝臣千年、赤人の順で詠まれたという。

 ご講義の後に、これらの歌を読んでみたが、たしかに赤人が掲げた「やすみしし 我ご大君の」という言葉が冒頭にあるほうが、公的な場の第一声として力強く、歌全体が引き締まるように感じた。

 「赤人だけが人麻呂から受け継いだこの言葉を使い、しかもこの『吉野讃歌』を含む宮廷讃歌六群のうち、五群に用いています。伊藤博先生は、文章の性格は、その第一行によって決まるとして、赤人が『やすみしし 我ご大君の』という伝統的な言葉を冒頭に置いたのは、それを承ける最後の一行まで組み立てられていたゆえといわれています。そして、赤人の宮廷歌は『大君』さんぎょうの伝統的な精神によって、一様に貫かれていると仰っています」

 赤人は宮廷歌人として、人麻呂の時代からかなりの年月を経たものの、しっかりとその伝統を守り続けた。だが、人麻呂が天皇讃歌を主としたのに対して、赤人は離宮讃歌に徹し、吉野の地の清らかさと自然の繁きさまを、その感動を、目に耳に実感させてくれるように詠み上げた。だからこそ、そこに誰もが自ずと惹かれて……。
 そう感じた瞬間、伊藤博先生が、赤人の吉野讃歌こそを「萬葉」秀歌百首に撰ばれたことと、池田塾頭が、小林秀雄先生の「美を求める心」の、菫の花と赤人の歌「の浦ゆ うちでて見れば しろにぞ 富士のたかに 雪はふりける」についてを、さまざまなご講義で話してくださることが、繋がった気がした。そして、赤人という歌人に、初めて出会えたような気持ちになった。

 この日、池田塾頭は、さらに赤人の「吉野讃歌」を紹介してくださった。それは今回の二首の後に続く、次の歌群である。

  やすみしし おほきみは み吉野の あきの 野のうへには ゑ置きて み山には 立て渡し あさがりに 鹿おこし ゆふがりに 鳥踏み立て 馬めて かりぞ立たす 春のしげに  (926番歌)

あしひきの 山にも野にも かりひと さつ矢ばさみ さわきてありみゆ  (927番歌)

 「長歌に『春の茂野に』とあるので、先ほどの歌(923~925番歌)の前年、神亀元年(七二四)三月、聖武天皇の即位後初の吉野行幸に、赤人が従賀して詠んだ歌といわれています。本来『御狩』は、獲物の肉付きが最もよい初冬に行われるので、春は季節外れですが、天皇が人々の食生活の豊かさを祈るために、率先して行うべき重要な任務でした。吉野行幸を『御狩』に見立て、天皇の威勢を讃えたと思われます。この長歌では、「野」と「山」という空間の対比だけでなく、「朝狩」と「夕狩」という時間の対比もなされ、反歌も「野」と「山」の対比を承けていて、また緊密な関係が見られます」
 池田塾頭のお言葉に、吉野の地を巡る赤人の、澄みやかでいて時に力強い眼光が宿る目と、その横顔が浮かんできた。その目と耳が捉えたものを見たい、聞きたい、その場所を訪れてみたいと感じた。

 その後、吉野について調べたところ、平成三十年(二〇一八)に宮滝遺跡で、聖武天皇の頃の吉野離宮跡が発掘されたことを知った。その動画を見ると、吉野川から約二十メートルという、川辺にほど近い平地に宮殿の跡があった。そして、林の先の川向こうを見上げた位置には、たしかに象の形に似た象山がある。
その山の木々の濃い緑も、川の水音の絶え間のない響きも、すでにもう、赤人に、そして伊藤博先生と池田塾頭に導かれ、知っている、と思えた。


●田中 佐和子
 令和四年(二〇二二)十月二十七日
 <新潮日本古典集成で読む『萬葉』秀歌百首>

 一つ松 いくぬる 吹く風の 
   おとの清きは 年深みかも
       (市原王/巻第六 雑歌 1042番歌)
                 
 「新潮日本古典集成で読む『萬葉』秀歌百首」の十月のご講義で、中野区江古田の講義室でのオンライン配信任務を無事に終えた私は、帰途についた新江古田駅までの道すがら、その日の鑑賞歌であった「一つ松 幾夜か経ぬる」の一首が、じわじわと身に沁み入ってくる実感を覚えた。
 ふと、前日の仕舞の稽古中に、お能の師匠に指摘された言葉が頭に浮かんだ。
「これでは動きがロボットだよ」
 師匠は手を緩やかに持ち上げて見せながら、一連の動きの流れのなかに、風に吹かれて羽衣がふわりと舞う姿を、観る人に感じてもらえるか想像しなさいと言い放ち、一喝された。
 私は初めて人前で舞わねばならない使命感のあまり、正しく型を間違わないように舞うことに意識をとられ、一番大切なことを置き去りにしていた……。

 池田塾頭の「一つ松」の歌のご講義を拝聴しながら、この老木は松以外に考えられないと直覚した。
この歌が詠まれた天平十六年(七四四)という年は、同十二年(七四〇)に九州で起こった戦乱がきっかけとなり、都は平城京から京に遷都するが、わずか数年の後、難波京や紫香楽宮と呼ばれる都へと転々とする世情不安を抱えていた時代だった。
 久邇京に都があった束の間の閏正月に、久邇京付近と思われる当時の行楽地であった岡に登り、一株ひともとの松の下で市原王が、この松に直に感じて詠んだ歌とされる。
 市原王は、幾年もの年を重ねた老松の枝葉から風が通り抜けるさまを、「音の清き」という言葉で表した。年輪を刻み、風あたりの厳しい世を生き抜いてきた老松に「松風の清らかさ」を見る市原王の心映えがめでたい、すばらしい。

この市原王の歌のめでたさに、大伴家持が心を動かされた歌が連なる。

 たまきはる いのちは知らず 松がを 
   結ぶ心は 長くとぞ思ふ  (1043番歌)

 老松が鳴らす「音の清き」めでたさに重ねて、長い年月を生き延びた生命力あふれる松に、いつどうなるか分からない自分の身の安全を祈る人間の姿を歌う。この二首を通して、古代の人の心映えがいかにかたちを成して受け継がれ、今日まで残っているかを想う。
 松は古来より、常磐の松といわれ、一年を通して緑の枝を茂らせるため、生命力がある樹として、神様が宿る木、「依代よりしろ」とされてきた。そのため、古く神社で能が舞われた時代は、境内の松に向かって舞っていた。時とともに、舞台で舞うようになった能は、舞台の前に立っている老松を鏡写しに描き出す「鏡板」を生み出した。
 これはあくまでも私の憶測に過ぎないのだが、常盤の松として神の依代となったのは、市原王や大伴家持の確かな実感によるものが始まりだったのではないか。それが今日まで、毎年正月に演じられる「翁」という演目として残り、今の能のかたちを成す以前から、天下太平と国土安全を願う神事として続いてきたのかもしれない。
古代の人が残してくれた心映え、そして生きるなかで味わうめでたさを蘇らせられる、悠久のひとときを、舞う側と観る側とともに想像できるか。仕舞の醍醐味を思わぬかたちで学ぶ日となったことに感謝したい。


●千頭 敏史
 令和四年(二〇二二)十月二十七日
 <新潮日本古典集成で読む『萬葉』秀歌百首>

 をのこやも むなしくあるべき 万代よろづよに 
   語りぐべき 名は立てずして
       (山上憶良/巻第六 雑歌 978番歌)

 一つ松 幾代いくよぬる 吹く風の 
   おとの清きは 年深みかも
       (市原王/巻第六 雑歌 1042番歌)

 二〇二二年十月二十七日には、「『萬葉』秀歌百首」のご講義を賜り有難うございました。
「源氏物語」の歌は、その背景にある物語と一体となっている、その同じ関係が、萬葉歌と伊藤博先生の釈文との間にも当てはまると伺ったのが印象深く残りました。
 萬葉歌に次いで、左注を、そして伊藤博先生の釈文を読み、ご講義を拝聴しますと、萬葉歌に本来の命が吹き込まれていくようです。
 憶良の978番歌については、左注の「こたふることばる。」に続く、「しまらくありて、なみだのごしびて、この歌を口吟うたふ。」を読み上げて頂いた時に、憶良が使者へ返答した後、翻って、自分に向き合い、自身の性のままに詠みだした歌と思われました。「一生のまこと」の歌として、見当違いかもしれないのですが、業平の「つひにゆく 道とはかねて 聞きしかど」の歌に通じるものを感じました。

 二首目の1042番歌では、「飲む歌」という表現が気に入りました。と同時に、「一株ひともとの松のしたに集ひて飲む歌」での市原王の感性と、その歌の「気持ちを敏感に汲み取った」家持の、「こころの交流」の機微に感銘をうけます。
 伊藤先生が、市原王の歌の魅力を「清冽な思想のようなものが響きわたる」とされた表現、そして、後年の「家持の最高の歌境を拓いた」風の音の歌を紹介して、「集中、風の音を主題にした歌はこの二首を除いては、ない。」という、釈文の引き締まった末尾にも感じ入りました。      


●溝口 朋芽
 令和四年(二〇二二)十月二十七日
 <新潮日本古典集成で読む『萬葉』秀歌百首>

 をのこやも 空しくあるべき 万代よろづよに 
   語りぐべき 名は立てずして
       (山上憶良/巻第六 雑歌 978番歌) 
                     
 十月の新潮萬葉講座は、978番歌、山上憶良の辞世の歌をよみました。
この歌には、かなり詳しい左注がついています。そこには、病に沈む憶良のもとに、二人の若い使いが見舞いに来たことが記されています。この使いの一人、藤原ふぢはらの朝臣あそみ八束やつかという人物に注目するよう池田塾頭から説明がありました。かの藤原不比等の孫にあたる十九歳のこの青年は、憶良から士大夫したいふ思想(中国思想で、男たるもの、名を立てること)としての教え、文章や歌に関する教えを受ける師弟関係にあったようです。
八束が訪れたそのあと「しまらくありて(しばらく間があって)」と続き「なみだを拭ひ悲嘆かなしびて、この歌を口吟うたふ。」と書かれています。深い悲しみのただ中でこの歌が歌われたことが伝わってきます。

  をのこやも むなしくあるべき 万代よろづよに 語りぐべき 名は立てずして  (978番歌)
 ――男子たるものは、為すこともなしに世を過してよいものか。万代までも語り継ぐに足るだけの名という
   ものを立てもしないで。

 憶良ほどの人物でも、まだまだ本意が満たされない嘆き、悲しみが辞世の歌にここまで込められていることが私には、意外な気さえしました。なぜなら、私にとっての憶良は、これまで触れてきた素朴な微笑ましい印象を与える歌の作り手、というイメージが大きかったためです。この歌の自己への厳しさからくる、未練がましいとさえよめる悲しみのかぎりが表現されているところが憶良の歌として大変異質な印象を受けたのです。
 講座の最後に、そのような質問を池田塾頭に投げかけました。すると塾頭は次のようにお話くださいました。
 憶良は、病に伏せっていたものの、当初はまだ死ぬとは思っていないし、筆をとって文字を書くこともできていたが、病がいよいよ重くなり、生死のせめぎ合いの中で、自分が名を残していない、現状にまだまだ満足していない、人には言えない思いが高まり、切羽詰まった末にこの歌をよんだ。これまでの憶良の歌とはまた別のものである、と。
 憶良のこの時の心情をより深く味わうために、巻第五に収録されている憶良の掉尾をかざると言われている「ちんあいぶん」や、憶良のこの歌に対して大伴家持が詠んだ追和歌を参照した上で、あらためてこの歌を読んでみたいと思います。


●大江 公樹
 令和四年(二〇二二)十月二十日
 「私小説論」
   (新潮社刊『小林秀雄全作品』第6集所収)
 「見るということ、聴くということ」

 「私小説論」には、未読の作家が多く出て参りました。そのため文章の理解が不十分にならざるを得ず、隔靴掻痒の感を覚えました。それでも時たま顔を覗かせる、小林先生の人間観、例へば「他人が僕について作る像が無数であるに準じて、僕が他人について、或は自分自身について作る切口は無数である」といふ言葉を始めとする箇所に、惹きつけられました。このやうな人間通小林先生の目は恐らく、「私小説論」に出てくる大作家の目と通じるものではないかと思ひます。講義では池田先生が「私小説論」といへども、その中心にあるのは「私小説」ではなく「私」といふ問題であることを始めに述べられ、読みの姿勢を正される思ひでした。
 講義の後半では「見るということ、聴くということ」をテーマにお話し頂きました。「梅原龍三郎さんの目」のお話が印象的で、「美を求める心」の味はひが一段と深まつたやうに感じてをります。
 次回の講座もどうぞ宜しくお願ひ致します。


●冨部 久
 令和四年(二〇二二)十月二十日
 「私小説論」
  (新潮社刊『小林秀雄全作品』第6集所収)
「見るということ、聴くということ」

 前半の小林先生の作品についての講義後、後半の「小林秀雄 生き方のしるし」では、今回、池田塾頭は「見るということ、聴くということ」をテーマにお話をされました。
 これに関連した作品として、昭和三十二年(一九五七)、小林先生が五十四歳の時に書かれた「美を求める心」を取り上げられました。小中学生でも分かるようにということで平易な言葉で語られていますが、小林先生の、二十歳から八十歳までの六十年間の執筆活動における、ほぼ中間地点の作品で、前半三十年間に大人に向けて言い続けたことのエッセンスであるとともに、後半三十年間のすべての作品の芽が詰まった、小林秀雄の初心者がまず読むべき作品だと言われました。
 その中にある、すみれの花の話をされたあと、少し面白い実験をされました。まず、十円玉でも百円玉でも、絵の描いてある面を一分間見るようにと言われたので、そのようにしました。
 そのあと、「今、皆さんは、頭で見ていませんか? 次はもう一分間、今度は目で見てください」と言われました。すると、参加者の中からは、目で見ると、花の絵が立体的に見えた、屋根や瓦の隅々が見えた、等々の声が上がりました。池田塾頭によると、過去同じことをやって、建物が月明かりに照らされているのが見えた、扉が開こうとするのが見えた、桜の色が見えた、などの声もあったそうです。
これらすべてが正解で、大事なのは目を働かせること、そして、小林先生の、自分は凡人だから、五感を磨く訓練(鍛錬)をしているという話を引き合いに出されました。そして、見ることから、観ることに高めるための心眼の話をされました。

 帰りに同席していたYさんと寿司屋で一杯やりながら、「あの実験は以前にも受けたことがあり、その時は二回目に、確かに、一回目と違って絵が立体的に浮かび上がったという記憶があるけど、今回は一回目も二回目も、同じように立体的に見えた」という話をすると、Yさんも、「私も三回くらい受けたけど、そう言えば、一回目も二回目もそれほど変わらなかった」と言われたので、これはやはり池田塾頭の指導で、我々の、ものを目で見る力が少し付いたのではないかという結論となり、お酒の味もいっそう旨く感じられました。
 ちなみに、私は今回、五百円硬貨を用いたのですが、桐以外に動物が見えました。老眼のせいかもしれませんが、皆さんも試しに「見て」ください。


●金森 いず美
 令和四年(二〇二二)十月六日
 <小林秀雄「本居宣長」を読む> 
 第二十四章(下)/「事」の世界は「言」の世界
 (新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集所収)

 「私塾レコダ l’ecoda」の新しいホームページ「身交ふ(むかう)」に、引き続き「交差点」のページが設けてあり、とても嬉しく思います。十月の「小林秀雄『本居宣長』を読む」で池田塾頭からもご案内がありましたので、拙い文章ですが、また投稿をしたいと思います。

 家の本棚にしまったままになっていた「本居宣長」上下の二冊。手に取って読みかけては、踏み入れ難い深い森のように思われ、独りでは到底読めそうになく、また本棚に戻して、ずいぶん月日が経っていました。四月より新しい講座「小林秀雄『本居宣長』を読む」が始まるとのご案内をいただき、池田塾頭や他の受講者の皆さんの後について歩けば、私もこの作品のなかに入っていけるかもしれないと、再挑戦の一歩を踏み出しました。

 「万葉集」の歌も「源氏物語」も、学校で習った古文の授業以来で、「古事記」は直に触れた経験がほとんどありません。途中途中で躓き、最後まで読み通せるか不安になりながらも、まずは独りでどうにか読了。四月の第一回の講座の日をむかえました。第十九章、第二十章、第二十一章、第二十二章と池田塾頭に道を照らしていただきながら、「本居宣長」と初めてしっかりと向き合い、第二十三章、第二十四章へ。言霊の働き、心の働かせ方について、宣長の思いを慈しむように繰り返し語る小林先生の言葉の内を、池田塾頭が丁寧にゆっくりと歩いてくださり、もう一回、もう一回と読み重ねるうちに、暗かった森に少しずつ光が射し、靄のかかった視界がだんだん明るくなっていくのを実感しました。

 第二十四章では、小林先生の語る言葉から、私達と言葉との間の「あるがまま」の関係、その生きた姿が見えてきます。

 古学の目指すところは、宣長に言わせれば、「古言を得ること」、あたかも「物の味を、みづからなめて、しれるがごと」き親しい関係を、古言との間に取り結ぶことであった。それは、結ぼうと思えば、誰にでも出来る、私達と古言の間の、尋常な健全な関係なのである。(『小林秀雄全作品』第27集「本居宣長」p.270)

 我が子がまだ幼かった頃、初めて与えた桃のひとかけのその甘さにびっくりして、果肉がいっぱいに付いた小さな手を幾度も口に入れてみては、今のは何? と無垢でまん丸な笑顔で私を見ていたことが思い出されます。宣長と古言との関係を思い浮かべるとき、心を開いて信頼し、素直に、おおらかに、古言と語らっている宣長の姿、古言のなかに身を浸し、その生き生きとした感触に身も心も預けて、古言と直なやりとりを交わす姿が、私にも見えてくるような気がしました。
 小林先生はまた、宣長の源氏経験について第二十四章で語っています。

 「源氏」に接するのに、彼は一切の先入主を捨ててかかった。ただこの比類のない語り手の語るところに、耳を傾け、その自在な表現力に対する、正直な驚きを、「大かた人のココロのあるやう」を「くもりなき鏡にうつして、むかひたらむがごとく」という言葉で現したのであった。(『小林秀雄全作品』第27集「本居宣長」p.275) 

 「大かた人の情のあるやう」を語るこの物語に、身も心もすべて預けた素直な宣長の姿が、ここでもまた私の心に浮かび、宣長と「源氏」との関係は、「女童子めのわらわの持つようなヨコシマのない心」で満たされて、「さかしらな心」はどこにもないことを、池田塾頭のお話から知ることができました。私は、この「本居宣長」という作品に接して、知識がないことをずっと不安に感じていましたが、それこそが「さかしら」を気にしているということであって、宣長が「源氏」を読んだように、私も五歳の子供の心で、この「本居宣長」という作品に身を浸してゆけばよいのかなと、いま、この文章を書きながら我が身に照らしてみています。
今回の講座で池田塾頭が繰り返し読んでくださり、一番印象に残ったのは、第二十四章後半のこの一文でした。

 「見るにもあかず、聞にもあまる」ところを、誰も「心にこめがたい」(『小林秀雄全作品』第27集「本居宣長」p.276) 

 宣長に言わせれば、ただ「心にこめがたい」という理由で、人生が語られると、「大かた人のココロのあるやう」が見えて来る、そういう具合に語られると言うのである。人生が生きられ、味わわれる私達の経験の世界が、即ち在るがままの人生として語られる物語の世界でもあるのだ。宣長は、「源氏」を、そう読んだ。(『小林秀雄全作品』第27集「本居宣長」p.276~277) 

 誰かと話をするとき、相手の言葉だけでなく、目や顔の表情、体の動き、声の調子を感じながら、言葉の背後にあるその人の気持ちを読み取ろうと、自分の心も自然にスイッチが入ります。大切な相手であればなおさら心を向け、例えば、相手が発した「大丈夫」の言葉がどういう具合の大丈夫なのか、本当に大丈夫かもしれないし、実は大丈夫でないのかもしれないと、心を出来るだけ澄まして、相手の気持ちを感じ取ろうとします。私達の生きてきた様々な心の経験が言葉の後ろに繋がって生きていることを、私達は自然に知っているからだと思います。宣長が歩いた「源氏」の世界への扉、「心にこめがたい」在るがままの気持ちを乗せた「言葉」の物語への扉は、私達にも自然に開かれているのだと、池田塾頭の読んでくださったこの一文から感じとることができました。
 小林先生は第二十四章をこう結びます。

 この「マコト」の、「自然の」「おのづからなる」などといろいろに呼ばれている「事」の世界は、又「コト」の世界でもあったのである。(『小林秀雄全作品』第27集「本居宣長」p.277) 

 私達の「主観的な生活経験の世界」はすべて「喜怒哀楽に染められ」ています。私達はそれぞれにただ一度きりの自分の人生を生きてきて、各々の心の経験をもとに、互いに言葉を交わしています。この「有るがままの世界」を素直に生きることが、言葉と直に交わる「尋常で健全な」唯一の道なのだと、小林先生のこの第二十四章結びの文章に、古から未来まで、一筋に、真っ直ぐに続いていく「コト」の道、宣長が歩いた道の姿が見えてくるような気がしました。


●大江 公樹
 令和四年(二〇二二)十月六日
 <小林秀雄「本居宣長」を読む> 
 第二十四章(下)/「事」の世界は「言」の世界
  (新潮社刊『小林秀雄全作品』第27集所収)

 今回読みました第二十四章は、言語とは何かといふことを、生活における実感といふレヴェルから、問ひかけてくるものでした。我が身を顧みれば、日中の大半を占める労働時間において、言語は「有効に生活する爲に」使ふ「便利な道具」となつてしまつてゐます。しかし少ないながらも家族や友人と過ごす時間において、言語は「生まの現実」が変じて「意味を帯びた」ものとなり、話し手の性格を生き生きと表します。
 小林先生は、「私逹は、話をするのが、特にむだ話をするのが好きなのである」と書いてをられました。「合理化」の名の許、「むだ」をなくさなければと焦らされる現代において、人間味を取り戻させてくれる言葉であるやうに感じます。そして言語とは何かといふ問ひは、我々が「むだ話をするのが好きなのである」といふ地点から、考へ始めなければならないものだと思はされました。


●大江 公樹
 令和四年(二〇二二)九月十五日
 「カヤの平」
  (新潮社刊『小林秀雄全作品』第5集所収)

 「カヤの平」は、読んでゐて大いに笑ひました。小林先生の遭はれた災難のエピソードが可笑しいのは勿論のことですが、同時に、簡潔に綴られてゐるスキー場から眺めた街の夜景、山の冷気、傷の痛みをはじめとする描写が、読者の身体的感覚に訴へかけてくるやうで、それがこの文章がもたらす笑ひを確かなものにしてゐるやうに思ひます。

講義で特に印象に残りましたのは、「カヤの平」が「」の役割を果たしてゐる、といふお話です。日本の伝統的な笑ひの文化に連なるものとしての「カヤの平」といふ、新たな側面を知ることが出来ました。
次回の講義もどうぞよろしくお願ひ致します。


●冨部 久
 令和四年(二〇二二)九月十五日
 「カヤの平」
  (新潮社刊『小林秀雄全作品』第5集所収)

 池田塾頭の紹介では「全篇これ喜劇の趣き、最後は抱腹絶倒」とあり、確かに、随所で笑いを誘われる紀行文で、小林先生にしては文章も読みやすく、すらすらと頭の中に入って、それでも随所にちりばめられた風景描写のうまさに感嘆しながら、読み終えることができました。しかし、やはりそれだけではありませんでした。
 池田塾頭の紹介文にあるように、この作品は柳田國男氏によって、昭和二十九年(一九五四)、全文が高校二年生の国語の教科書に載せられたとのことです。普段は自分の作品の一部だけが教科書に載ることが多い小林先生にとって、全文が載せられたということがまず嬉しかったという話をのちに書かれています。しかし、それから遡ること十六年前、小林先生が創元社の編集顧問を務めていた時に、柳田氏の著作を出版されているのです。また、柳田氏には、「不幸なる芸術・笑の本願」という著作があり、「嗚滸ヲコ(道化のようなもの)を絶滅させるような風潮は阻止するという柳田氏の言葉を池田塾頭は引用されました。「カヤの平」での小林先生の役割はまさに道化そのもので、また互いに尊敬しあう間柄でもあり、小林先生の「カヤの平」を柳田氏が教科書に採用した背景にある深いいきさつを教えて頂きました。さらに、ベルグソンにも笑いをテーマにした著作があり、道化と言えば、小林先生が特に愛された画家ルオーの絵の題材としてもよく取り上げられているとのお話もありました。
 いつものことですが、この講義を聴かせて頂いたからこその深い学びを得ることができました。


●小島 由紀子
 令和四年(二〇二二)八月二十五日
 <新潮古典集成で読む『萬葉』秀歌百首>

 つね知らぬ 道の長手ながてを くれくれと 
   いかにかかむ かりてはなしに
       (山上憶良/巻第五 雑歌 888番歌)

 若ければ 道き知らじ まひはせむ 
   黄泉したへ使つかひ 負ひて通らせ
       (山上憶良/巻第五 雑歌 905番歌)

 今回の二首の作者は、前回(巻第五 雑歌 798番歌)と同じく山上憶良であったが、池田塾頭は「一首目は、旅の辛さを嘆いた歌で、一見誰にでも詠めそうに思えるかもしれません」と前置きをされた。

 つね知らぬ 道の長手ながてを くれくれと いかにかかむ かりてはなしに  (888番歌)
 ――見たこともない果て知れぬ道だというのに、おぼつかないままどのようにして行ったらよいのか。食糧も持たずに。

 たしかに防人歌にも似た歌がありそうに思えたが、池田塾頭は「なぜ伊藤博先生はこの歌を『萬葉』秀歌百首に選ばれたのか。この一首だけを読み、現代語訳を知っただけでは、けっして歌の魂には到達しません。『新潮萬葉』ならではの味わい方で、歌の前後に目を配っていきましょう」と力強く仰り、次のように、歌群の構成と、「熊凝くまごり」という青年について説明された。
 ・題詞/「熊凝くまごりのためにその志を述ぶる歌に敬和する六首 あはせて序 筑前国守山上憶良」
 ・序/(熊凝という若者とその死について)    
 ・歌六首/長歌一首(886番歌)、短歌五首(887〜891番歌)
「熊凝は肥後(熊本県)出身の十八歳の若者で、奈良の都に、相撲使すまひのつかひ(宮中行事の相撲の節会に参加する力士を各地から引率する役人)の従者として旅立ちましたが、安芸(広島県)で病に倒れ亡くなりました。死んでしまった熊凝はもう歌を詠めません。憶良は熊凝になり代わって歌を詠んだのです。『序』はすべて漢文で、最初は人の世の無常が綴られますが、故郷の父と母への思いも述べられていきます」
池田塾頭は、『序』を読まれた後、その思いの連なる長歌と短歌を静かに読まれた。

 …国にあらば 父とり見まし 家にあらば 母とり見まし…  (886番歌/一部抜粋)
 たらちしの 母が目見ずて おほほしく いづち向きてか が別るらむ  (887番歌)
 つね知らぬ 道の長手ながてを くれくれと いかにかかむ かりてはなしに  (888番歌)
 家にありて 母がとり見ば なぐさむる 心はあらまし 死なば死ぬとも  (889番歌)
 でて行きし かぞへつつ 今日けふ今日けふと を待たすらむ 父母ちちははらはも  (889番歌)
 一世ひとよには ふたたび見えぬ 父母を 置きてや長く が別れなむ  (890番歌)

 「この歌群の中で、伊藤博先生が『萬葉』秀歌百首に選ばれた888番歌を読むと、この歌の『道』とは、行ってまた帰って来られる道ではなく、一度行ったら二度と帰れない冥界への道であることが分かってきます。熊凝は『見たこともない果てしれぬ道だというのに、おぼつかないままどのように行ったらよいのか』という気持ちで亡くなっていっただろう、と憶良は深く思いを至らせたのです」
 池田塾頭は、この歌群の前には、麻田あさだの陽春やすという太宰府の役人による、熊凝の思いを詠んだ歌が二首あり(884、885番歌)、それに憶良が敬和してこれらの歌を詠んだという背景も教えてくださった。
 また、憶良の長歌(886番歌)と短歌(888~891番歌)の結句には、その際に詠んだ初案が添えられていて、憶良が死に直面した熊凝の気持ちをその後も思い続け、推敲を重ねた証であることも説明してくださった。
 そして、新潮日本古典集成「萬葉集 二」では、伊藤博先生たちが「以上熊凝歌は、死者が一貫して親を思う点に特色がある。これには憶良の儒教倫理が下地にあろうが、他に子に先立たれた悲痛な体験もあったかもしれない」と、憶良の心奥にも思いを至らせた解説を付記していることも教えてくださった。

 「悲しみに触れ、悲しみが重なり……」
 池田塾頭のお言葉に、熊凝の悲しみを思う心が歌を生み、その悲しみを感受する人の心は、古代から現代にわたって変わらず、歌に触れるたびに、その悲しみが波紋のように揺れ続けるさまが浮かんでくる。
「憶良は四十代で遣唐使少録(書記)として渡唐を経験し、唐で学んだ漢詩に熟達し、前回の歌(巻第五 雑歌 798番歌)でも、大伴旅人になり代わり、その悲しみを漢詩と和歌を組み合わせて歌い上げ、萬葉集に新たなジャンルを打ち立てました。単に知性があるだけではなく、貧しい人たちにも目を向け、ヒューマニズムに根ざした優しさに溢れる歌や優美な抒情詩も作れる大歌人でした。人生を観ずる思想家といえるでしょう」
 池田塾頭の敬愛の思いがこもったお言葉を聞きながら、新潮日本古典集成「萬葉集 二」のページをめくると、有名な「貧窮びんぐう問答ものだふの歌」があり、「沈痾ちんあ自哀じあいぶん」という、憶良が病に苦しんだ時に書いた長大な文章が目に入った。その後には子供を思う歌が続き、巻第五の最後は、題詞に「ふる」という幼い男の子の名前が書かれた歌が三首(長歌一首、反歌二首)続いている。
 今回の二首目は、その反歌の一首目である。

 若ければ 道き知らじ まひはせむ 黄泉したへ使つかひ 負ひて通らせ  (905番歌)
 ――まだ年端もゆかないので、どう行ってよいかわかりますまい。贈り物は何でも致しましょう。黄泉の使いよ、どうか背負って行ってやって下さい。

 この歌も、憶良が知人になり代わって詠んだといわれているが、やはり一首だけ読んではその意図さえ分からない。池田塾頭は、その知人が幼児の『古日』を亡くしたこと、そして憶良が長歌(904番歌)にその悲嘆をどのように表現したかを詳しく説明してくださった。そして、特に注目すべき箇所として、とうとう古日の息が絶えてしまった、次の場面をお読みになった。

 ……たまきはる いのち絶えぬれ 立ちをどり 足すり叫び 伏し仰ぎ 胸うち嘆き 手に持てる が子飛ばしつ 世間よのなかの道  (904番歌)

 「一般的に、地団駄を踏んで泣き叫ぶことは、単に悲しみを表現する行為としてとらえられています。ところが、この前に『たまきはる 命絶えぬれ』という語句があります。これは神々に祈ったのに、命が絶え果てた子の魂を揺り動かすという『たまふり』の行為であることを表しています」
 新潮日本古典集成「萬葉集 二」には、「『仁徳前紀』に、胸を打ち叫び哭き、かつ髪を解き屍に跨って死者を活かしたという記事がある」という解説も添えられている。

 「憶良は漢籍をふまえた悲しみの述べ方も知っていましたが、古代人が死者の魂を蘇らせるために行った、日本古来の伝統のあり方を描いて、悲哀の切実さ、如何ともしがたいその深さを表現したのです。また、それは中国の『礼記』にも共通することで、憶良は、人の死に直面した者は、本能的に同じ行為をするということを見て取り、そこをしっかりと歌い上げました。これは、弱い者、死んでゆく者への思いやりがひときわ深い、人間愛のある憶良だからこそ読める歌です」
 池田塾頭のお言葉によって、905番歌に、最愛の古日を亡くした親の、涙を湛えた心から、古日の冥途への道行きをただただ案じる思いが溢れ出てくる。
 905番歌をもう一度読んでみよう、

 若ければ 道き知らじ まひはせむ 黄泉したへ使つかひ 負ひて通らせ 
 ――大人でも初めての冥途の道は難儀なのに、まだ幼い子がたった一人で旅していくのです。黄泉の使いよ、どうか無事に送り届けてください、御礼をしますから。

 池田塾頭は、このように訳を重ね、「『賄はせむ(御礼をしますから)』と、人に何かを頼む時の通俗的な言い方をしているのは、まだ本当に死んだとは思えないという思いの表れで、この憶良の着想の卓抜さが、悲しみの激しさをより伝えてきます」と仰った。 
 きっとその悲しみが、次の歌を生んだのであろう。

 布施ふせ置きて 我れはむ あざむかず 直に率行ゐゆきて 天道あまぢ知らしめ  (906番歌)
 ――布施を捧げて私はひたすらお願い申し上げます。あらぬ方に誘わずにまっすぐに連れて行って、天への道を教えてやって下さい。

 この歌の後には、「右の一首は、作者いまだつばひらかにあらず。ただし、裁歌さいかたい山上やまのうへさうに似たるをもちて、このつぎてす。」と左注がある。
 憶良作とは確定できないが、憶良の歌の趣きに似ているので905番歌の歌に並べたという。
 「悲しみに触れ、悲しみが重なり……」と、池田塾頭が、一首目の歌を解説された時の言葉が思い出される。
 左注を書いた編者もきっとこのように感じたのであろう。


●大江 公樹
 令和四年(二〇二二)八月十八日
 「故郷を失った文学」
  (新潮社刊『小林秀雄全作品』第4集所収)

 今回も小林先生の作品と直に向き合はせるお話を、有難うございました。
 「自分の思い出が一貫した物語の体をなさない」、自己の生活に「具体性というものが大変欠如している」といふ小林先生の言葉には、私自身の、地に足のつかない人生の空虚を照らし出されるやうでした。
 講義では、人間世界には未知のものがあると訴へかける純文学と、忠臣蔵のやうに結末が予め分かつてゐる物語である大衆小説といふお話をして頂き、ぼんやりとして理解してゐた文学の区分けをはつきりとさせることができました。講義の後、改めて「故郷を失った文学」を読み返すに、結局「故郷」無きこの人生を「故郷」として生きて行く他あるまいと思はされました。
次回の講義も楽しみにしてをります。

                                    
●小島 由紀子
 令和四年(二〇二二)七月二十八日
 <新潮日本古典集成で読む『萬葉』秀歌百首>

 夕闇は 道たづたづし 月待ちて 
   ませ我が背子 そのにも見む 
       (巻第四「相聞」709番歌)

 妹が見し あふちの花は 散りぬべし 
   我が泣くなみた いまだなくに 
       (巻第五「雑歌」798番歌)

 「新潮日本古典集成で読む『萬葉』秀歌百首」のご講義で、いつも池田雅延塾頭は、萬葉人の心の声を、音楽を奏でるように響かせ、彼らが懸命に生きたその姿を、眼の前に蘇らせてくださる……。
 二〇二〇年八月のご開講から丸二年を経た、二〇二二年七月のご講義では、まさにそのことをあらためて強く実感することとなった。

 この日の一首目は、豊前国の大宅女(おほやけめ)と書かれている遊行女婦(うかれめ)と思われる女性が、宴の場から退席しようとする大伴旅人に詠んだ歌だった。

 夕闇は 道たづたづし 月待ちて 
   ませ我が背子 そのにも見む 

 池田塾頭は、この歌の新潮日本古典集成の現代語訳、「夕闇は道が暗くて心もとのうございます。月の出を待ってお出かけなさいな、あなた。その間だけでもこうしてお顔が見とうございます」に続いて、「男を引き留める歌として圧巻。甘えと媚びの中に女のやさしい心根が充ちており、現代にも通用する歌であろう」という伊藤博先生が新潮日本古典集成の後に集英社から出された『萬葉集釋注』の一節を読んで聞かせられ、まるでついさっきまで遊行女婦や旅人と会って話しをされていたかのように二人の心の動きを描き出していかれた。
 瞬時に眼の前に、賑やかな宴席が広がり、艶やかな頬と知的な眼差しを輝かせる遊行女婦と、深みのある笑みをたたえた旅人の表情が浮かんでくる。
 大事な客人であり気心の知れた存在でもある旅人への遊行女婦の気働きと、それを細やかに察知する旅人の思いやり……。池田塾頭は、新潮日本古典集成の先生方に学んで萬葉人の心の動きに思いを馳せ、歌を通じて彼らが育んだものが、人と人とが生きる上で肝要であることを教えてくださる。

 この日の二首目からは、「新潮古典集成『萬葉集』二」の巻第五「雑歌」に入ることとなった。
 池田塾頭は、まずこの巻第五の冒頭に、大伴旅人の漢詩文と倭歌(793番歌)が並べて掲出されていることを示され、これらを読み上げて、漢詩文の格調高くも硬く冷たい響きと、倭歌のしなやかに流れ行く馴染み深い響きを体感させてくださった。 
 このように漢詩文と倭歌を並べて掲出する形式は、旅人が新たに生み出したもので、『萬葉』の歌に新風を送り込んだといわれている。
 そして、山上憶良もこれに刺激され、続けて下記のような構成で連作を詠んでいる。
  ・漢詩文
  ・長歌 日本挽歌一首(794番)
  ・反歌 五首(795〜799番)
 だが、憶良は単に旅人の形式だけをなぞったのではない。旅人が身内を続けて亡くし、その悲しみを、漢詩文と倭歌にして詠んだという思いを汲み、旅人になりきって自分も連作に臨んだのだ。

 池田塾頭は、憶良の連作をすべて読まれ、さらに、憶良が漢詩文と倭歌で内容を書き分けていること、また、それは単なるテクニックではなく、旅人の悲しみに思いを寄せ続け、どのように詠めば、彼を励ますことができるだろうかと、ひたすら考えてのことであると話してくださった。

 そしてこの日の二首目は次の歌で、憶良はこれを「反歌」の第四番目に据えている。
  
 妹が見し あふちの花は 散りぬべし 
   我が泣くなみた いまだなくに 
       (巻第五「雑歌」798番歌)
 
 この歌もどの歌からも、まさに涙が溢れ出てくるようで、どうにも言葉にならないが、ただ一人、歌と向き合っていると、次第に歌に包まれていくような感覚になってくる。

 萬葉人の心と言葉、彼らが懸命に生きた時間は今も確かにそこに在ることを、今回あらためて実感し、このことを教えてくださり、導き支えてくださる伊藤先生と池田塾頭に、心より感謝をお伝えしたく、投稿させていただきました。
 これからもどうぞよろしくお願い申し上げます。


●大江 公樹
 令和四年(二〇二二)七月二十一日
 <小林秀雄山脈五十五峰縦走> 第四回
 「Xへの手紙」
  (新潮社刊『小林秀雄全作品』第4集所収)

 今回も、小林先生の文章と直に向き合はせる講義を有難うございました。
 講義に向けて、「Xへの手紙」を何度か読みましたが、難解な場所が多く、未だ文章全体を透徹してみることは出来てをりません。ただ、「和やかな目」、現実からの抵抗を受ける言葉、清潔な抽象と現実との関係など、幾つかの断片が、確かな音として響いてきました。また、文章が小林先生ののつぴきならぬ宿命の上に立つてゐる、といふ感覚も覚えてをります。

 講義では「Xへの手紙」の大きなテーマとして、自己解析気質、抽象気質、懐疑気質、他者願望気質といふ四つの大きな見方を教へて頂きました。これらは、「Xへの手紙」を読む際は勿論、青年小林秀雄を理解する上での大切なキーワードであると思ひました。「Xへの手紙」は勿論、初期の小林先生の作品を読む際に、手がかりとしてみたく存じます。

 また講義の最後では、書きまくつた後に、今度は徹底的に削つてゆく、といふ小林先生の原稿作成術を伺ひました。文章を書いてゐると、思ひ通りにならず、弱音を吐きたくなることも多々ありますが、物を書くとはそれだけ苦労するものだと、叱咤された思ひでした。
 次回の講義も楽しみにしてをります。


●冨部 久
 令和四年(二〇二二)七月二十一日 
 <小林秀雄山脈五十五峰縦走>第四回
  「Xへの手紙」
  (新潮社刊『小林秀雄全作品』第4集所収)

 今回、池田塾頭は、この作品は四部から成っていて、それぞれに小林先生の1.自己解析気質 2.抽象化気質 3.懐疑気質 4.他者願望気質が現れていると言われ、それらの重要なポイントをテキストを読まれながら詳しく説明されたので、縦横無尽に駆け巡る主人公(=小林先生)の思考のドラマが、非常にすっきりとした形で頭の中に入りました。ただ、最後に池田塾頭が話された、「この作品の発表当時からXは誰が想定されているかという議論があった、池田は今回読み直してみて、小林先生の脳裏にはドストエフスキーもその一人としてあったかと思った」という説は、自分にとっては思いも寄りませんでしたが、ドストエフスキー研究者でもある福井勝也さんも我が意を得たりというようなお話をされたので、もう一度Xとは誰か真剣に考えてみようと思いました。

 本文を読むと、Xとは、俺に入用なたった一人の友であり、困難を聞いてくれる友であり、他人から教わらず他人にも教えない心を持った人間であり、尊敬はしていないが、好きだというだけで俺にはもう十分に複雑な気持ちにさせる人間であり、旅から帰って来るのを主人公が待っている人間です。いや、それだけではありません。大事なのは、この思考のドラマ全体を聞いてもらいたいと思っている、たった一人の友、それがXという人物なのでしょう。ただ、主人公は、それが仮に君だとするなら、と付け加えているので、一人の人間だと限定はできません。

 ドストエフスキーかもしれない、具体的な小林先生の友達かもしれない、あるいは自分自身かもしれないなどと、様々な可能性を頭の中で巡らせましたが、最後に思い浮かんだのは、Xとは読者ではないか、それも自分の思いを正しく受け止めて理解してくれる読者ではないかという、誰でも思いつきそうな考えでした。しかしながら、そういう読者に是非ともなりたいと切望しています。


●片岡 久
 令和四年(二〇二二)五月十九日 
 <「小林秀雄山脈五十五峰縦走」シリーズ> 第二回
 「『悪の華』一面」
  (新潮社刊『小林秀雄全作品』第1集所収)

 この文章を読んで驚いたのは、小林先生はこの文章を書かれた二十五歳の時点で、すでに生涯をかけたテーマを認識されており、その解読に取り組まれていたことです。

 象徴は生きた記号であり、生きているとは意味と存在が未分離であることだとされています。それは芸術という形式が形態と意味を切り離せないことに同じであると記されています。その文章は、晩年の「本居宣長」で、「もののあはれ」は感情ではなく認識であるとして、その認識を支える言霊を、ふりと意味を分けない、記号のあり方と捉えられたことに、つながっているのだと理解しました。

 万物照応に共感し続ける詩人は、生きた虚無に彷徨い、万物の体系を静止させて分析する思索家は、論理整合とともに死した実体を得る、この基本的な二つの認識のモードが、批評家としての小林秀雄氏のやむことのない活動の原点にあるのだと思いました。
とても素晴らしい文章を読ませていただき、ありがとうございました。


●大江 公樹
 令和四年(二〇二二)五月十九日
 <「小林秀雄山脈五十五峰縦走」シリーズ> 第二回
 「『悪の華』一面」
  (新潮社刊『小林秀雄全作品』第1集所収)

 今回も講義を有難うございました。
  「『悪の華』一面」は今回初めて読みましたが、「様々なる意匠」と重なる部分があるといふ意外な発見がありました。しかし、逆を言へば理解できたのはそれ位のことで、後の部分は殆どわかりませんでした。

 講義では、サンボルの意味をはじめ、「『悪の華』一面」を理解する上でのヒントを幾つも教へて頂きました。しかし、最大の学びは池田塾頭が冒頭に仰つた「この文は何度読み返しても難しい」といふ趣旨の言葉でした。今回の講義で学んだヒントを以てしても、依然として難解な文章として我々の前に立ちはだかるであらう「『悪の華』一面」について、それが難解であると素直に認めること、その上で小林先生の思ひを受け止めやうと努力することの大切さを、塾頭の言葉から教はりました。

 今回の講義は、「『悪の華』一面」がわかるやうになるといふよりは、「『悪の華』一面」から今後一つでも多くのものを感じ取れるやうになる姿勢(例へば、小林先生が「僕は散文ではなく、詩を書いてゐる」といふ言葉を踏まへておくことなど)について、学べたやうに思ひます。その意味で、理解を深めるといふこと以上に、未来の読書体験を豊かにするやうな講義になりました。今回学んだことを活かし、「『悪の華』一面」、またそれ以外の文章を読んでまいりたく存じます。

 後半の「天寿を磨くといふこと」も、井伏先生の飲み方についての話をはじめ、大変面白く拝聴致しました。
 また次回も宜しくお願ひ申し上げます。


●大江 公樹
 令和四年(二〇二二)四月二十一日
 <「小林秀雄山脈五十五峰縦走」シリーズ> 第一回
 「一ツの脳髄」
  (新潮社刊『小林秀雄全作品』第1集所収)

 今回も駆け抜けてゆくやうな、爽快な講義を有難うございました。
 事前に読んだ「一ツの脳髄」からは、自己の意識と向き合ひ苦闘する青年小林秀雄の姿が浮かび上がりました。池田塾頭の講義では、若き日の小林先生について話して頂き、小林先生が小説家から批評家へと、自分の道を見出してゆく様子を知ることができました。

 後半の講義では「歳月をかけること」といふテーマで講義を頂きました。私事ですが、今日の「学問」界にをりますと、短期での成果を求められ、こちらもつい忙しなくなつてしまひます。しかし塾頭のお話を聴き、やはり時間がかかることには時間をかけて良いし、さうあるべきなのだといふことを思ひ出しました。塾頭のお話がまさに私にとつてのユニバーサルモーターとなつた訳です。
 次回の講義もどうぞ宜しくお願ひ致します。


●冨部 久
 令和四年(二〇二二)三月十七日
 <「美を求める心」シリーズ> 第六回
 「ルオーの版画」/「ルオーの事」
  (新潮社刊『小林秀雄全作品』第28集所収)/(同第22集所収)

 池田塾頭による「美を求める心」シリーズの講義、最終回は小林先生が特に晩年、愛されたルオーのお話でした。
最初に取り上げられたルオーの版画について、小林先生はこう描写されています。

 日の出と言うより、この画家は、太陽が毎朝、地球という惑星を照らすところをモデルにしていると言った方がいい。地球は地層を剥き出し、荒寥たる姿だが、よく見ると、鳥が一羽、敢て明烏とも呼びたいような優しい姿で舞っている。人間達はもう沢山生れていて、地表の何処かに隠れているように見えて来る。
(『小林秀雄全作品』第28集所収/「ルオーの版画」)

 天体規模の、スケールの大きいわくわくするような描写であり、この「ミセレーレ」の中の絵がどういうものか是非とも見たいと思ってインターネットで検索すると、オークションサイトに出品されている画像が出てきました。題名は「朝の祈りを歌え、陽はまた昇る」で真作とありましたが、価格は思ったより安い。今のところ入札者はいませんが、オークション終了時間まであと二時間と表示されています。さて、どうしようかと思って悩んでいたところ、池田塾頭が、美術品は展示会で眺めるだけのものではなく、身近に置いて肌で感じるものだとおっしゃる。その美術品を買いたいという所有欲が大切だとも話され、講義を聴きながら、次第に心に火が点いてきました。

 その後の講義では、小林先生が表はピエロ、裏は花が描かれたルオーの皿の表裏が見えるような壁の造作をされて、これを毎日眺められていたという話をされました。
そこまで愛されたルオーのことを、自分はキリストの事が分からないからと言って、書くことを躊躇われていた小林先生が、ある時、ルオーの「霊感は、『死せるキリスト』よりむしろ『自然』から直かに来た」(「ルオーの事」/『小林秀雄全作品』第28集所収)という言葉などから、ルオーについて本格的に書く意欲を持たれたというお話に感銘を受けましたが、残念ながらそれは実現されませんでした。

 さて、講義が終わってオークションのページに戻ると、終了まであと一時間で、未だに入札者はなしとあります。…どうしたらよいか?

 話は変わりますが、昨今は印刷技術が格段に進歩して、本業である木目の美しさを売る仕事においても、本物か、印刷物か分からないことがあります。ただ、木の場合は、厳密に言えば同じ色柄のものは一つとしてないはずなのに、印刷物だと同じ色柄が繰り返されることにより、本物ではないことが分かってしまいます。目は騙されても、頭は騙されないわけで、偽物だと思うと、つまり繰り返しを見つけてしまうと、頭も目もいつの間にか低い評価に揃ってしまいます。
 しかし、今回の絵は銅版画(エッチング)ということで、基本的には真作でも同じものが何枚も刷り上がりますし、印刷技術が精巧であれば、限りなく真作に近いものが出来上がってしまうことでしょう。

 池田塾頭による「美を求める心」シリーズの中で語られた、小林先生の骨董における真作と贋作の問題、ゴッホの絵の本物と複製画の問題、そして、絵を単に目で見るだけでなく、それを所有して、言わば体全体で見るということの大切さ、それらの問題が最後は大きなうねりとなって自分の心の中に押し寄せてきて、身を持って自らの鑑賞眼や価値観を試される、大変貴重な講義となりました。


●大江 公樹
 令和四年(二〇二二)三月十七日 
 <「美を求める心」シリーズ> 第六回
 「ルオーの版画」/「ルオーの事」
  (新潮社刊『小林秀雄全作品』第28集所収)/(同第22集所収)

 今回も小林秀雄先生の世界が開けてゆく講義を有難うございました。
 ルオーについての小林先生の文章を初めて読んだ時は、解るところもあれば、よく解らない部分もあり、正に「デトランプで」書かれてゐるやうに感じてをりました。しかし池田塾頭の、版画の意味合ひについて等の解説を聴き、徐々に文章の色合ひが判つてきた気が致しました。

 また講義後半で登場して頂いた坂口さんのお話しは、事前に気になつて何度も読み返してゐた箇所について、「さういふことだつたのか」と納得させられるものでした。坂口さんがこの読みに辿り着くまでの持続する関心と努力に敬意を抱くと同時に、そのやうな坂口さんの姿勢を小林秀雄の一読者として是非見習ひたいと感じてをります。
 来月からも引き続き、宜しくお願ひ致します。


●栗原 哲太
 令和四年(二〇二二)二月十七日
 <「美を求める心」シリーズ> 第五回
 「梅原龍三郎」・「梅原龍三郎展」/「地主さんの絵Ⅰ・同Ⅱ」
  (新潮社刊『小林秀雄全作品』第14集所収)(同第28集所収)/(同第26集所収)

 複製(真贋)について、小林秀雄が現在のネットの状況を予見していたかのような、自由な考えを持っていたことに驚きました。
 写真製版印刷による絵画複製、レコードによる音楽複製、翻訳による文学複製、近代日本が海外の芸術文化を享受しえたのは、これら複製技術の進歩があってのことだったのでしょう。
 真贋の区別さえつきかねる、現代の精緻を極めた複製に比べれば、当時の複製は未熟なものだったかもしれません。けれども、海外に行くことも原本を見ることも今より困難だった時代に、印刷された絵だけを見てゴッホを論じ、後に実物の絵の色を見た時に印刷の色の方がいいと言ったという逸話は、小林秀雄の思い切りの良い確信に触れた思いがしました。

 梅原龍三郎の絵を見てモデルの顔が、絵のような顔とは誰も思わないでしょう。絵を見ることは、現実のモデルの複製を見ることではなく、梅原龍三郎の眼を通して描かれたモデルを見るという体験であれば、印刷物を通してその体験は可能であると言っているように思いました。
 現在のネットの状況下では、無数の作品が透過光の画面を通して見ることが可能です。小林秀雄がスマホの画面でゴッホの絵を見て何と言うか聞いてみたいと思いました。
 「本居宣長」の表見返しと裏見返しに山桜の絵が左右逆版で使われているという話も、複製について何かを示唆しているようでした。絵画作品の左右反転使用など、画家はまず許可しないでしょう。奥村土牛の度量の深さと小林秀雄の遊び心の裏にある複製についての独自の考え方を感じました。
 朝日新聞令和四年(二〇二二)二月二十三日の文芸時評(鴻巣友季子氏)が、翻訳版を先に出版し「作者特権の放棄を示すことでオリジナル(本物)vs.派生物(紛い物)という図式や権威主義を突き崩そうとする戦略」の翻訳作品を紹介しています。まさに時代が小林秀雄の発想に追いついてきたのかと思いました。


●金森 いず美
 令和四年(二〇二二)二月十七日
 <「美を求める心」シリーズ> 第五回
 「梅原龍三郎」・「梅原龍三郎展」/「地主さんの絵Ⅰ・同Ⅱ」
  (新潮社刊『小林秀雄全作品』第14集所収)(同第28集所収)/(同第26集所収)

 前回の講義後に初めてこの交差点に投稿をしました。いっぱいに散りばめられた思いをゆっくりと言葉にすることで一回の貴重な講義がより深く、形になって心に残ることを感じ、今回の「梅原龍三郎」の感想もまた投稿をいたします。

 梅原龍三郎という画家を知ったのは高校二年の春。授業を抜け出して電車に乗り、人気の少ない美術館で見た梅原龍三郎の絵は、しんとした展示室の空気を破るかのように、命を持った色と色とが額のなかから溢れ出し、強く端的な生命力が有無を言わさずこちらへ迫ってくるようでした。
 先の見えない混沌とした心にドスンとぶつかってきたあの絵、あの時間。私の中にある梅原龍三郎の絵を辿りながら、耳を凝らして今回の講義に臨みました。小林先生は梅原龍三郎そしてその作品に何を見ておられたのか、今回の講義で池田塾頭は「梅原龍三郎」「梅原龍三郎展」のなかのどの言葉に目を向けられるのだろうか…。

  「画家の唯一の方法は、色だという単純な真実の深さに、いつも立還り自問自答しているこの純血種にあっては、色調という言葉は、どうも尋常な意味を抜いている様に思われてならないのである。」

 講義のあいだも、ご案内文にあったこの言葉を繰り返し思い起こしていました。生まれながらの純粋な目を持った画家が色を音楽のように視覚によって捉え、美しい風景に立ち合えばそこに音楽が鳴るかのごとく色彩が鳴るのを聴き、その色彩の音調を決して聴き逃さぬようひたすら目を凝らして、色が目の前に現れるのを待ち続けている。梅原龍三郎の豊かで力強い色調のなかに、誰もが美しいと思える色調の平常性、純粋で原始的な命に向かおうとひたむきに生きる人間の平常な姿を見るような思いでした。

 講義を終えて数日後、NHKのアーカイブ映像で見た梅原龍三郎の短いインタビュー映像には、煙草を口にくわえてキャンバスに向かう姿が映し出されていました。その姿は作品と同じ力強さで、感動をこの手でつかまえたいという強い思いが全身から溢れ出ているように見えました。


●大江 公樹
 令和四年(二〇二二)二月十七日
 <「美を求める心」シリーズ> 第五回
 「梅原龍三郎」・「梅原龍三郎展」/「地主さんの絵Ⅰ・同Ⅱ」
  (新潮社刊『小林秀雄全作品』第14集所収)(同第28集所収)/(同第26集所収)

 今回もご講義を有難うございました。池田塾頭のお話を拝聴してをりますと、画家の方とお話しをしたり、展覧会を訪れたりしてゐる小林先生が目の前にゐるやうな気が致しました。
 講座の最後にあつた質疑応答では、小林先生が、高く評価する梅原龍三郎さんの作品について、原画ではなく「北京作品集」で満足してゐるといふことが、話題となりました。
 この小林先生の姿勢は、今回の講義で梅原龍三郎さんと並んで扱はれた地主悌助さんが、絵の題材と向き合ふ姿勢と似てゐるやうに感じました。「地主さんの絵 Ⅰ」の中で小林先生は地主さんの画論について、「自然は在るがままで充実していて、これに修正を加えるなどという事は出来るものではない。そういう自然に寄せられた信頼感が地主さんの画論の変わらぬ中心をなしている。」と述べてゐます。
 一方で、何故小林先生が「北京作品集」に満足できるかを考へると、それは「『自分が出会つた芸術作品、そして出会つたといふ宿命そのもの』は在るがままで充実してゐて、これに修正を加へるなどといふ事は出来るものではない。」といふやうな、芸術作品と己が宿命に寄せられた「信頼感」がその根底にあるやうに思ひました。


●冨部 久
 令和四年(二〇二二)一月二十日
 <「美を求める心」シリーズ> 第四回
 「ヴァイオリニスト」/「蓄音機」
  (新潮社刊『小林秀雄全作品』第19集所収)/(同第22集所収)

 令和三年(二〇二一)十月より始まった、「美を求める心」をテーマとしたシリーズ、小林先生が経験した様々な美を、時間軸に沿って、池田雅延塾頭が講義されています。
 今回は音楽にスポットを当てた二作品でしたが、小林先生が音楽を聴く態度として、耳だけでなく、五感で聴く、時として体を動かして体で聴くというお話が大変印象に残りました。つまりは、音楽を体全体に取り込んで、作者の気持ちと一体になって聴く。そうすれば、そこに自分の輪郭もおのずから立ち上がってくる、自分という存在が見えてくる。骨董や絵画においても、ただ見るだけでなく、それを所有したいという欲望が生じますが、これもまた、その骨董や絵画の中に少しでも入り込んでいきたい、あるいは逆にそれらを自分の内部に少しでも深く取り込みたいという気持ちの表れなのでしょう。
 ところで、今回の作品、「蓄音機」(『小林秀雄全作品』第22集所収)の中で、大変考えさせられる一文がありました。

 オランダの展覧会で、ゴッホの本物三百余点に接する機会が到来した折、そのうち一枚の本物は、「ゴッホの手紙」を書く動機となった私の持っている一枚の複製画の複製と見えた。

 また、「近代絵画」(『小林秀雄全作品』第22集所収)のゴッホのところで、小林先生はこういうふうにも書いています。

 私の持っている複製は、非常によく出来たものだが、この色の生ま生ましさは写し得ておらず、奇怪な事だが、その為に、絵としては複製の方がよいと、私は見てすぐ感じたのである。

 この堂々とした、自らの美に対する眼力の自信を小林先生が感じたのは、昭和二十八年の五月です。ここで思い出されるのは、以前の講義にあった、小林先生が骨董に夢中だった昭和十年代の後半、呉須赤絵の見事な大皿を買った時のエピソードです。それを青山二郎に贋作だと言われ、どう見ても美しいが、「壺中居」に売ってしまいます。その時、店の主人にはこれは本物だと言われるのです。
 この二つの話を重ね合わせると、やはり美を見る力というのは、ただひたすら見ることによって、研ぎ澄まされていくということではないでしょうか。「芥川龍之介の美神と宿命」(『小林秀雄全作品』第1集所収)で、小林先生はこう言っています。

 あらゆる芸術は「見る」という一語に尽きるのだ。

 その「見る」という鍛錬を重ねた上での、前述のゴッホの絵を見る目をもってして、呉須赤絵の大皿を見ていたとするなら、恐らく、青山二郎に何を言われようが、小林先生はその美しさに対する自信を揺るがせなかったように思えてなりません。
 この「美を求める心」というシリーズは、時間軸に沿って、様々なジャンルの美が重層的に交差し、また共鳴し合って、回を追う毎に新たな地平が見えてきたり、より魅惑的な旋律が聞こえてきたりするように感じています。あと二回でさらにどのような広がりと深淵が待っているのか、池田塾頭のお話を全身全霊で聴くことを楽しみにしております。


●青山 純久
 令和四年(二〇二二)一月二十日
 <「美を求める心」シリーズ> 第四回
 「ヴァイオリニスト」/「蓄音機」
  (新潮社刊『小林秀雄全作品』第19集所収)/(同第22集所収)

 その生涯にわたって音楽を愛した小林秀雄。「ヴァイオリニスト」と「蓄音機」の二編はどちらも短い文章ながら、音楽を聴くという行為の本質を衝いた意味深い内容でした。音楽も蓄音機(オーディオ)もどちらも大好きな私にとって、池田塾頭がどのようなお話しをなされるのか、とても楽しみにしながら当日を迎えました。そこで解き明かされた音楽を巡るエピソードの数々に驚きを感じると共に、小林秀雄の音楽に対する姿勢をひとことで表わす、「音楽は耳で聴くものであり、頭で聴くものではない」という言葉に感銘を受けました。

 また、この日、思いがけず、作曲家・桑原ゆうさんのお話しが聞けたことも大きな収穫でした。作曲家から見たヴァイオリニストという存在についての印象の数々は大変興味深く、楽器と演奏家の邂逅の必然性というものに深く想いを巡らす機会となりました。また、楽器が演奏者を選ぶのは本当なのだという気がしました。技巧が手段ではなく目的になったパガニーニや作曲家の知性を備えた超絶技巧のリスト。小林秀雄の音楽に対する思いを、音楽を生み出す側から受け止め、深めていこうとされていると感じました。

 楽器と身体の間には一定の距離が有り、演奏家は絶え間ない訓練と緊張によって、楽器の構造が与える試練と対峙します。弦楽器においては、弦の振動が響胴などの共鳴部に伝わり増幅され、更に空気を振動させることで、演奏会場に響き渡り、人々の着ている服の素材までが吸音材としての影響を及ぼしつつ、我々の鼓膜に届くというプロセスがあります。

 もちろん、音が私たちの「耳に届く」ことと「音楽を聴く」ことは同義ではありません。芸術体験全般にいえることですが、感動や意味深い体験は常に訪れることはなく、あるとき、ある瞬間に恩恵のように私たちの心を打ちます。聴く人が、同じ環境下で同じものに接したからといって、同じように体験できるとは限りません。ゴッホの複製画のエピソードにもあるとおり、私たちの人生や心の奥にあるものとの本当の邂逅がなければ、一切は虚しいと言えるのかもしれません。

  「寧ろ、僕は、或る一つの巨きな眼に見据えられ、動けずにいた様に思われる。」
(「ゴッホの手紙」/『小林秀雄全作品』第20集所収)

 音楽を聴いて心から感動するとき、その音の中にある作曲家や演奏家の魂が、私を見据えているのかも知れないと思うことが何度もあります。乱暴な飛躍かも知れませんが、私は単に音楽を受け身で聴いているのではなく、音楽が作り出す世界と一体になることで、「音楽が私を聴いている」という感覚に陥ることがあります。
 音楽は瞬時に消えていき、常にその音を聴いている我々の現在を更新し続けます。発せられた一瞬の音の背後には膨大な過去が堆積し、未来の音を未だ誰も聴いたことがありません。ただ、記憶の彼方から顕れる音は時間の経過から自由になって、それはあらかじめ夢の像のように時間を超越した「全体」として存在しています。

 音楽を聴くという行為の真髄を衝く「記憶」、そして演奏家に対する「視覚」という要素について、目を開かれる思いがしました。鳴らないヴァイオリンに苦闘するメニューインの姿やグールドの演奏風景を語る小林秀雄の様子が、池田塾頭のお話しによって、生き生きとしたイメージで呼び起こされ、眼前に甦るようでした。

 音楽は記憶の襞の中から湧き出るようにして、意識の裡にある音の連なりを呼び覚ますことがあります。作家の平野啓一郎氏は、自分は音楽好きであるが、外出先で、イヤホンで音楽を聴くことがほとんどない。脳内再生で十分足りているからだ、という旨の発言をされています。演奏家は楽譜を見て、その視覚情報を指先に伝えているように見えるのですが、実は演奏家の脳内では、演奏するときすでに完璧な音楽が鳴っていて、それがその時の感情や観客のエモーショナルな動きを反映しつつ、身体を通じて発顕してくるものだろうと想像できます。そして、音楽の記憶は事実よりもしばしばその体験の印象の強度に左右されるものであることを感じます。記録を超えて、私たちの耳に届く音楽の魂・・・。

 音楽は聴こえてくるものであると同時に、私たちが聴き取ることで体験として成立します。記憶が私の内部で音楽を響かせるとき、その体験は記憶を媒介とした、私自身の創造行為でもあるのだと、いうことが、池田塾頭のご講義によって理解できるようになりました。

 質疑応答でも話題が出ましたが、ベルグソンは「記憶」を、「存在が事物の流れのリズムから自由になって、より過去を促持することによって、未来にますます強く影響を与えることを可能にするある内的な力」と規定しています。圧縮された個の感情や想いが自由に発露する場としての記憶。進化や発展への寄与、科学的合理性や整合性という桎梏から解き放された広大な意識圏に通ずる道がそこに見いだされます。

  「記憶のシステムというものは、やはり鳴るものであるという事に、大きな興味を寄せている。」
(「蓄音機」/『小林秀雄全作品』第22集所収)

 音楽体験といえるレベルまで深く心に響かせようとすると、どうしても意識や無意識という、いわば感受する主体の深まりが必要となり、受け手側の問題が大きくなります。ここまでくると、音楽体験とは、極めて内的な体験であることが分かります。

 音楽会やライブで聴衆のひとりとして音楽を聴くとき、各自の聴くという体験自体が空間の中で音と共に共鳴し、一種の共体験となることが起こります。演奏家の体の動きや楽器の存在に加えて、聴衆の気構えが演奏家の心理に反映し、場所が生き物のように動き始める瞬間があります。
 演奏に偶然性が入ることを嫌った天才グレン・グールドは、昭和三十九年(一九六四)の早い時点でコンサートからの撤退を宣言し、レコードを仕上げる際には、テープ編集(良い部分をつなぎ合わせる)を駆使していたと言われています。

 いわゆるレコード体験と音楽会・ライブ体験は、聴く環境によって様々に影響されますが、感受する主体から言えば、形式こそ違えども、「音楽体験」であることに違いはないといっても差し支えないと思います。ライブであろうと、レコードであろうと、また、脳内に湧き上がるものであろうと、それらは音楽を聴くという行為に関して、それぞれの特性を有しつつ、音楽体験としてのきっかけを与えてくれる機会になると私は考えます。

   「小まめで神経質なレコード・ファンは、実際、呆れる程いい音を聞いているものである。」
(「ヴァイオリニスト」/『小林秀雄全作品』第19集所収)

 蓄音機(つまりオーディオ機器)で音楽を聴く体験とはいったいどのような体験なのか。

ステレオ音源が登場するまではモノラル、つまり音源がひとつしかなかったのですが、左右別々の音が出る2チャンネル・ステレオが映画用に開発され、ステレオ・レコードが世界で初めて市販されたのが昭和三十二年(一九五七)頃。小林秀雄の「蓄音機」が書かれたのは昭和三十三年(一九五八)なので、この時すでに、次の時代の大衆的オーディオ時代の到来と、密室で「いい音」と対峙することの危うさを予感されていることに驚きを隠せません。

  「音楽を文化として聴いていない。音として考えている。ステレオさえよければ、快い音を与えてくれる、音楽をそういう音として扱っているとしたら、こんな傲慢無礼なことはないよ。」
(「音楽談義」/『小林秀雄全作品』第26集所収)

 蓄音機やオーディオシステムを構成する要素として、カートリッジ等の音の入口から、増幅するアンプと音を空気振動に変換するスピーカー及びその振動の特性を引き出すエンクロージャー(箱)などがあります。音の良さ(何をもって良いとするかは別にして)を追求していくと、音を聴いて音楽を聴かず、という状態に容易に陥ります。つまり、悪い音が耳に付くようになると、音楽を聴くという目的を忘れ、池田塾頭がお話しになったとおり、ハイファイという妄想に踊らされ、「雑音」を聴いてしまうことになります。バスタオルはつまり私の意識の上にかかっていた・・・。

  「耳は原音をなぞるものではない。耳はカートリッジではないという事が言いたいまでです。巨大な音の世界というものが存在します。これについては、僕らはほんの僅かの事しか知らない。僕等の意識は、その巨大な自然の音の世界のほんの一部で、共鳴を起こしながら生きている。そして音を発見し、創造もしている。それが耳の智慧だろう。」
(「音楽談義」/『小林秀雄全作品』第26集所収)

  「好・信・楽」(「小林秀雄に学ぶ塾同人誌」)での杉本圭司氏の連載「ブラームスの勇気」を読んで驚いたことがあります。それは「その時レコードのごく一部だけを手元に残し、あとは長らく使用したオーディオ装置と一緒に、ラックごと『山の上』に置いていったのだった。」というくだりでした。私は亡くなられてから、「山の上」の家に移動されたものとばかり思い込んでいました。鶴岡八幡宮の近くに移り住まれた家にも別のオーディオ装置はあったと考えられますが、長年愛用していたテレフンケンのオーディオ装置や多くのレコードが残されたことについて、間違っているかも知れませんが、こんな風に考えてみました。
  「物理的に記録された音」としての音楽は、その頃の小林秀雄には、もう以前ほどには必要がなくなったということなのだろうか、と・・・。

 これまでの「小林秀雄と人生を読む夕べ」の池田塾頭のご講義を通じて、小林秀雄の本質を直感する力、垂直に立ち上がる思考の鋭さは比類なく、ものごとを見る目の厳しさと確かさは時代を超えているのだ、という想いを今回も強くしました。
 池田塾頭、ありがとうございました。


●金森 いず美
 令和四年(二〇二二)一月二十日
 <「美を求める心」シリーズ> 第四回
 「ヴァイオリニスト」/「蓄音機」
  (新潮社刊『小林秀雄全作品』第19集所収)/(同第22集所収)

 令和四年(二〇二二)最初の講義は「ヴァイオリニスト」と「蓄音機」でした。初めて参加した中原中也の回から数えて十回目の参加で、毎回ご案内をいただいて喜び勇んで予約をするものの、自営業と子育ての果てしなく続く雑務に追い立てられ、時間どおりにパソコンの前に座れるか、毎度毎度ヒヤヒヤしながらの受講です。

 今回、フリートークの時間で、数ヶ月前にお尋ねした問いに池田塾頭が時間を割いて丁寧にお答えくださいました。「美の行脚」のなかで自分一人ではっきりと読み込めなかった小林先生の言葉に、池田塾頭が道筋をつけてくださって、またあらためて読み返してみる楽しみをいただきました。
  「蓄音機」で書かれたゴッホの複製画のくだりは、小林先生の他の作品にも度々あり、大事なことが含まれていると感じながら、でもまだ自分でははっきりとつかめずに読んでおりましたが、今回、池田塾頭のお話で、心のリアリズムのことを言われているのだと分かりました。岡潔先生との対談「人間の建設」にもやはりこの複製画の話がありましたので、また読み重ねてみたいと思っています。

 これまで、小林先生の作品を読み、一人考える時間が学びであり、積み重なった生活の隙間を縫って、小林先生の作品を読む時間が自分と向き合う唯一の静かな時間でした。昨年春に池田塾頭のご講義をオンラインで受けられることを知り、私にも学びの門が開かれているのだと思い切って申し込みをしてからもうすぐ一年。どの回も重厚で深く、講義の終わった夜は胸が一杯になり、なかなか眠りにつけませんが、次の回までまた新たな気持ちで小林先生の作品に向き合おうと枕元に本を重ねて次の一か月を楽しみに待っています。

 今回、池田塾頭からこの交差点という場のお話をされていましたので、書くことはあまり慣れていないですが、学びへの感謝の気持ちを込めて投稿をいたしました。フリートークでは、受講者の方々と池田塾頭の対話にたくさん力をいただいています。そして、毎回貴重なお話を聞かせてくださいます池田塾頭に心から感謝を申し上げます。


●大江 公樹
 令和三年(二〇二一)十二月十六日
 <「美を求める心」シリーズ> 第三回
 「鉄斎Ⅰ・同Ⅱ・同Ⅲ・同Ⅳ」/「雪舟」
  (新潮社刊『小林秀雄全作品』第15集・第17集・第21集・第21集所収)/(同第18集所収)

 今回読んだ中では「鉄斎Ⅱ」に興味を覚えました。特に惹きつけられたのが、最後にある「鉄斎は行儀の大変やかましい人で、家人が膝でも崩すと、恐ろしい眼で睨んだ。当人は、客の前でも平気で膝小僧を出していたそうである。」といふ部分です。かういふ鉄斎のあり方は、現代の我々からすれば一貫性を欠いてゐて非常識だと映ります。しかし小林先生の描く鉄斎は仮にそれを指摘されても、きつとどこ吹く風で平然と膝小僧を出し続けるでせう。「登って案出した形」をした富士や、「志などから嘗て何かが生れた例しはない」といふ鉄斎を描写した小林先生の言葉も、我々の常識、つまりは西洋近代から得た写実や合目的性といふ思考の枠組みを、次々に壊してゆきます。西洋近代の常識から大きく足を踏み出して存在する鉄斎の姿に、感銘を受けました。

 講座では池田塾頭が、富士の大屏風について説明した小林先生の文章について、「これは小林先生が言葉で以て絵を写し取つた模写」であり、安易に絵を見ることは無く、まづは小林先生の言葉を味はふべきとの旨を仰りました。富士の大屏風がどんなものか知らない無教養を幸ひに、講座後は小林先生の言葉から富士の大屏風を想像して、頭の中で自由に楽しんでをります。
 今回も小林先生の文章の魅力を伝へる講義をして頂き、有難うございました。


●大江 公樹
 令和三年(二〇二一)十月二十一日
 <「美を求める心」シリーズ 第一回>
 「慶州」/「ガリア戦記」
  (新潮社刊『小林秀雄全作品』第12集所収)/(同第14集所収)

 長年読まなければと思つてゐた「ガリア戦記」を、今回講座に合はせて読みました。カエサル自身の決断と行動を、そこに至るまでに辿つた筈の膨大な思考の形跡を排して、簡潔に記した文章に大いに感銘を受けました。
 確かに本書はカエサルによる政治的宣伝といふ側面があるのかも知れません。しかし本書には、今日見られる単なる政治的プロパガンダの枠をはるかに超えたものがあるやうに感じました。一例を挙げれば武勇の扱ひで、本書中ローマ軍兵士の勇敢な戦ひぶりが度々描かれますが、それと同様ガリア人兵士たちの勇敢さも度々描かれます。武勇そのものを称へるといふ筆致が、本書を単なるプロパガンダといふ次元から直立させてゐるやうに感じました。

 講座では池田塾頭に「慶州」、「ガリア戦記」といふ、小林先生が美を求める道を歩んで行かれる上での大きな転換点を表した作品について解説して頂きました。小林先生の文章から、そして池田塾頭の解説から、美の表現者たらうとする小林先生の美に対する情熱の深さを感じることができたやうに思ひます。特に仏国寺で仏像を見た瞬間、かつて一流のミケランジェロの彫刻を見てゐた経験が小林先生の目を開かせたのではないか、といふお話しに興味を持ちました。有難うございました。次回からは骨董を始めとして、自分には馴染みのないテーマが続きますが、今回の講座で得ることの出来た感覚を踏まへて、読み進めて参りたく存じます。


●冨部 久
 令和三年(二〇二一)九月十六日
 <「小林秀雄と作家たち」シリーズ その一> 第六回
 「『罪と罰』についてⅠ」/「『罪と罰』についてⅡ」
  (新潮社刊『小林秀雄全作品』第5集所収)/(同第16集所収)

   「罪と罰」を初めて読んだのは、まだ大学生の頃でした。青春という言葉を口にするのがまだ恥ずかしくなかった時代、ラスコーリニコフとソーニャ、そしてラズミーヒンとドゥーニャの愛の行方に一番関心を持ち、幾多の障害を乗り越えてそれぞれが幸せに結ばれることを願って読み進んでいました。
 再読したのは、四十代の頃でした。この時は、以前、単なる悪人としてしか認識していなかったスヴィドリガイロフに感情移入してしまい、その最後がもっとも印象に残りました。品行に問題があり、奥さんを殺したかもしれないこの男に同情の余地はないかもしれません。しかし、ドゥーニャを策略により部屋に閉じ込めたあと、抵抗されて拳銃で撃たれようとした際にも防御せず、ドゥーニャが拳銃を捨てたあと、力ずくで自分のものにもできたはずなのに、「愛してくれないんだね?」と尋ねたところ否定され、そのままドゥーニャを逃がしてしまい、そのあと拳銃自殺してしまいます。歪んだ形ではあるかも知れませんが、これは自分の命まで賭けた、真に一途な愛以外の何物でもないと思い、その結末に胸を痛めました。

   そして、今回、還暦をとうに過ぎた年齢で、l‘ecodaでの講義に合わせて再々読を行いました。そのあと池田塾頭のお話を拝聴しましたが、今まで理解不足だった小林先生の「『罪と罰』について」の評論に関して、より深く掘り下げることが出来ました。
例えば、大江公樹さんもご投稿で言及されている「観念と行為(可能的行動と現実的行動)の算術的差」の問題です。以前は読み過ごしていたこの言葉を、特にその算術的差が大きくなる、複雑な心理と観念を持ったラスコーリニコフのような青年の根本的な問題として感得できました。それと「罪と罰」が人間心理の極限を描いた小説であることを認識したうえで、そこから最終的にはドストエフスキーの心の中に飛び込み、人間、どう生きるべきかをドストエフスキーと共に問い続けるべき小説(小林先生曰く、「如何に生くべきかを問うた或る『猛り狂った良心』の記録なのである。」)であるということも理解することができました。

  なぜそういった小説なのか? 「『罪と罰』についてII」に出てくる、兄に送ったドストエフスキー十七歳の時の手紙文を引用します。
  「・・・パスカルは言った。哲学に反抗するものは自身が哲学者だ、と。傷ましい考え方です。――僕には新しい計画が一つあります。発狂する事です・・・」
 そして、小林先生は当時のドストエフスキーの心に残ったはずの、パスカルの別の言葉を引用されます。
「真の雄弁は雄弁を否定する、真の道徳は道徳を否定する」
 つまり、ラスコーリニコフは単なる創作上の人物ではなく、ドストエフスキーの大切な一部なのです。
 
 自分がいかに甘い読み方をしていたかを悟った今、またいつか再々々読に挑戦したいと思っています。もちろん、小林先生の「『罪と罰』について」を併せ読むことは必須です。その未来のいつかに向けて、この先どう生きるべきかを考えることの大切さを、改めて教えて頂いた素晴らしい講義でした。


●大江 公樹
 令和三年(二〇二一)九月十六日
 <「小林秀雄と作家たち」シリーズ その一> 第六回
 「『罪と罰』についてⅠ」/「『罪と罰』についてⅡ」
  (新潮社刊『小林秀雄全作品』第5集所収)/(同第16集所収)

 講座に合はせて、大学二年生時以来、十年ぶりに「罪と罰」を読み直しました。当時は、ラスコーリニコフが次から次へと吐く理論に振り回されてゐましたが、今回は己が宿命・生の実感を求めて彷徨する青年ラスコーリニコフの姿が強く印象に残りました。そして物語の所々で、この十年のうちに読んだトルストイ、シェイクスピア、三浦哲郎が、ある時は重なるやうに、ある時は対称を為すやうに思ひ起こされました。

  「罪と罰」を読んで得た興奮が冷めやらぬ中で「罪と罰Ⅰ」、「罪と罰Ⅱ」を読むと、「罪と罰」といふ本から作者ドストエフスキーの方へ、云はば地平から垂直方向へ、首根つこを掴まれて引つ張り上げられるやうで、これまた圧倒されました。

 池田塾頭のお話しでは、「電磁的な「場」の発見」、「観念と行為の算術的差」について、身近な出来事を例に解説して頂きました。小林先生の文章の内容がより実感を以て読むことができるやうになつたと感じてをります。また「罪と罰」を読む小林先生の姿勢が、作者の心中に飛び込むといふ点で、「源氏物語」を正しく読み直した宣長の姿勢に重なるといふお話しにも感銘を受けました。今回も小林先生の世界へと深く引き込む話をして頂き、有難うございました。


●青山 純久
 令和三年(二〇二一)七月十五日
 <「小林秀雄と作家たち」シリーズ その一> 第四回
 「菊池寛論」/「菊池寛」
  (新潮社刊『小林秀雄全作品』第9集所収)/(同第21集所収)

 今回、大衆文学の大家、実業家、ジャーナリストなどの顔を持つ菊池寛について、小林秀雄がその人物と作品をどのように捉えていたのか、また池田塾頭がどのような切り口でお話しになるだろうかと、期待を込めて拝聴しました。
 今ではまったく違うものとなった芥川賞・直木賞の創設の成り立ちから、菊池寛と芥川龍之介との関係、純文学と大衆文学という偏狭な分類から抜け出した菊池寛の思想、自ら通俗小説と呼んだ、人間的興味による数々の逸話の発見と創作への発展等々。生計あっての文学という菊池の思想に共感し、その教えを拳々服膺して文学者としての人生を全うした小林秀雄。菊池寛が見たというお化けの話から、人間の魂に深く関わる霊魂の存在に至るまで、池田塾頭のお話は縦横無尽に展開し、紹介される逸話のすべてが面白く、最後まで興味高く拝聴しました。
 小林秀雄が心底敬愛した菊池寛という文学者を通して、文学的意匠に惑わされぬ自由な発想力とその人間的魅力を知ることができました。

  「私には、小説を書くことは、生活の為であった。――清貧に甘んじて、立派な創作を書こうという気は、どの時代にも、少しもなかった」
 菊池の「半自叙伝」から引用されたこの言葉に、ある種の信念に基づいた作家の意志を感じると同時に、成功者の逆説と捉えることもできます。
  「ここに彼の信念があったと見るべきだ。つまり、創作の動機は、生活上必至な様々な動機のうちの一つであり、この動機が何か特別に高級な動機と思い込むのは、感傷的な考えである。という信念である。」と小林秀雄は書く。

  「菊池寛文学全集解説」を読み進んでいくと、菊池寛について書かれた文章でありながら、いったいどこからが菊池寛の言葉で、どこまでが小林秀雄の言葉なのか、混乱して読み返すことが度々ありました。後日、池田塾頭のご講義内容を辿る中で、菊池寛という人物に対する小林秀雄の敬愛と共感を支える心情には、大学卒業後、文筆活動で生計を支えなければならなかった、若き小林秀雄の切実な人生経験が重なっているのではないだろうか、と思いを巡らせました。

 京都の学生時代の自身をモデルにした「無名作家の日記」にはこのように書かれています。
  「一人の天才が選ばれるためには、多くの無名の芸術家が、その足下に埋草となっているのだ」
 溢れ出る才能や天才としての創造の源泉に恵まれ、表現という手足が活発に働いて、時代の風がそれを後押しする。このような複雑な過程を前提として、いったい何人の芸術家が経済的な道を得る運に与れるのか。この問題においては、当然ながらその作品の善し悪しに関係なく、無名の埋草となる運命を孕むことを意味しています。たとえば、私の青年期の妄想を顧みても、長い夢から覚めなかった時期があり、畢竟今もまだ覚めやらぬ夢の中にいるのかもしれない、と思ってみたりします。

  「菊池氏の鋭敏さは志賀氏の鋭敏さと同様に当代の一流品だと思っている。鋭敏さが端的で少しも観念的な細工がないところが類似している」 
 (「菊池寛論」/『小林秀雄全作品』第9集所収)

 文学を忘れた生活、生活を忘れた文学。どちらも人生における大切な仕草が欠けている。とすれば、読者の人生全体から考えると、文芸的価値よりも、生活体験において文芸作品を判断し、また評価することの方がより自然、と考えることができます。

  「一般に文芸とは何かを論ずるより、実際、今日、わが国に於いて、文芸作品はどのように鑑賞されているか、どのように経験されているか、という事実の方が、余程大事なことだったのである。現に経験されている事実に注目せよ。これが菊池寛が本当に言いたかった事なのだ。」
 (「菊池寛文学全集」解説/『小林秀雄全作品』第23集所収)

 つまり、大衆の生活を描いて生活に流されない思想の軸を、自らの方法論の中で意識的に確立していた菊池寛においては、文学青年の憂鬱が語るように、純文学としての高い志を持たない作家は、大衆に迎合することで堕落するという強迫的な予断を越えていました。エンターティメントは芸術たり得るか、という、未だに繰り返される古くからの命題を立てても、大衆と芸術という二つの観念は永久に並立することになります。

  「有能な実行家は、いつも自己主張より物の動きの方を尊重しているものだ。現実の新しい動きが看破されれば、直ちに古い解釈や知識を捨てる用意のある人だ。物の動きに順じて自己を日に新たにするとは一種の無私である」
 (「無私の精神」/『小林秀雄全作品』第23集所収)

 池田塾頭のお話は後半に入って、愈々この日の白眉ともいえるエピソードに遷っていきます。菊池寛が見たおばけの話からはじまり、小林秀雄が若い頃に泉鏡花を愛読したこと、柳田国男について語った「信じることと知ること」の講演、そして、ベルグソン論「感想」の出だしに書かれた蛍の話。現実には見ることが出来ないが、魂には見ることができる。そして、魂で見ることができない限り、本当の体験にはならないのだ、と私の勝手な理解は進んでいくのでした。
  「信じることと知ること」の講演を随分前にレコードで聴いて、柳田国男の「故郷七十年」を引きながら語られる、おばあさんの蠟石の話と炭焼きの親子の話がいつまでも私の記憶に残りました。特に信心深くもない私ですが、その時、魂について語る小林秀雄に、なぜか無条件の信頼を感じたのでした。科学や哲学が、普段はなかなか目に見えない魂というものに、その直接的な経験でさえ、科学的合理性のもとに排除してしまうことについて、どんなに頭の良い人であっても、その人の思想の限界を見るような気がしたものでした。
 魂や霊魂というものは、個人を成り立たせている高度の要素であって、本当の世界や永遠とつながるために必要な絶対的な存在と思えたからでした。それがなければ、決して美や真実へと至ることができないという想いが、私の中に予感のようにありました。
 小林秀雄という高名な文学者は合理主義者に違いないと思い込んでいた当時の私は「柳田さんはおばあさんの魂が見えたんです」と言い切るその迫力にまず圧倒され、そういうことが分からないんだね、馬鹿には、と切って捨てる啖呵の切れ味に、背中がぞくぞくしたことを憶えています。

  「小林先生が、今まさに皆さんに会いに来て下さっているというくらいの思いで、皆さんをお迎えしています」と、冒頭に池田塾頭がおっしゃったことが、その夜、お話を聞いている間中、私の心の中で静かに波打っていました。最後の「感想」の蛍のお話に至ると、まさに其処に、小林秀雄の魂が、塾頭の肩越しに見え隠れするように感じたことを記し、私の拙い感想を終えることといたします。


●冨部 久
 令和三年(二〇二一)七月十五日
 <「小林秀雄と作家たち」シリーズ その一> 第四回
 「菊池寛論」/「菊池寛」
  (新潮社刊『小林秀雄全作品』第9集所収)/(同第21集所収)

 今回の「小林秀雄と人生を読む夕べ」の対象は菊池寛。 
  池田塾頭はまず菊池寛が持つ様々な顔について紹介されました。小説家はもとより、文藝春秋を創刊し、芥川賞・直木賞を設立し、日本文藝家協会を設立した人物。これだけでも並みの文学者ではないことが窺えますが、さらに調べたら、文化学院文学部長、東京市会議員、大映社長などの経歴もあり、趣味は将棋、麻雀、競馬と実に多才な人間像が浮かび上がって来ました。
 そんな菊池寛の小説家としての矜持を示す言葉を池田塾頭は紹介されました。

  「私には、小説を書くことは生活の為であった。――清貧に甘んじて、立派な創作を書こうという気は、どの時代にも、少しもなかった。」

 そして、この言葉と見事に呼応するような、小林秀雄氏が新潮社八十周年に寄せて書かれた新聞広告の一文を、池田塾頭が取り上げられました。

  「若い頃からの、長い売文生活を顧みて、はつきり言へる事だが、私はプロとしての文士の苦楽の外へ出ようとしたことはない。生計を離れて文学的理想など、一つぺんも抱いた事はない。書いて来たのは批評文だから、その形式上、高踏の風を装つた事はあったが、私の仕事の実質は、手狭で、鋭敏な文壇の動きに接触し、少数でもいゝ、確かな読者が、どうしたら得られるかという努力の連続であった。」

 実はこの新聞広告、まだ二十代だった頃に切り抜いて、今も大切に保管しています。その後半の文章も実に味わい深いものがあるので、ここに引用させて頂きます。

  「近頃は、殆ど「新潮」にしか書いてゐないが、新潮社の仕事の中心をなして来たこの雑誌の創刊が明治三十七年と聞くと、何時会つても丈夫でゐる人を見るやうだし、又、その人が、文学の理想は、絶えず実地に試してゐないと生きて行けないものだ、と言つてゐるやうにも思はれる。」

  「新潮」に敬意を表しながらも、自らの生き方をそこに重ね合わせて語っている、つまり、前半の文章の内容を絶えず実践しているという、小林秀雄氏の強い自負が感じられます。
 そして、菊池寛の代表作として、池田塾頭が「父帰る」の内容をかいつまんで話されましたが、最後まで帰ってきた父を許さなかった長男が、父が出て行ったあと、「―お父さんを呼び返して来い」と言ったあと、幕が下りることになるくだりは、胸にじんと来る深い余韻が残り、それだけでも菊池寛が庶民の心を掴むうまさが凝縮されていると感じました。ちなみに、恐らく偶然ではなく、小林秀雄氏は昭和二十七年(一九五二)の文士劇において、この長男役で出演しています。
 さらに、池田塾頭は菊池寛の帽子や入れ歯などに関する様々な逸話を取り上げられ、それらはほんの氷山の一角で、逸話の大家とも言える菊池寛の人間性が、自我を乗り越えて、そこに本当の人生がある大衆小説の優れた書き手としての成功をもたらしたというような話をされました。

 講義のあと、菊池寛という人物像に大変興味を抱き、いろいろと調べていたら菊池寛の遺言というのが目に留まったので、引用させて頂きます。

  「私は、させる才分なくして、文名を成し、一生を大過なく暮しました。多幸だつたと思ひます。死去に際し、知友及び多年の読者各位にあつくお礼を申します。ただ国家の隆昌を祈るのみ。— 吉月吉日 菊池寛」

 自らの人生を振り返って、最低限とも言える骨格のみを述べた遺言ですが、本来そこにあったはずの膨大な逸話や、作家としての思いや主張や自負などの血肉を削ぎ落とした、簡潔にして完璧な遺言だと感じ、これこそ菊池寛の思想の神髄だという気がしました。
    池田塾頭に菊池寛という人物の本質に迫るお話をお聞かせ頂き、では自分はどう生きるべきかと、今回もまた自分の人生を見詰め直す機会を与えて下さったことにひたすら感謝しています。


●令和三年(二〇二一)七月十五日
 <「小林秀雄と作家たち」シリーズ その一> 第四回
 「菊池寛論」/「菊池寛」
  (新潮社刊『小林秀雄全作品』第9集所収)/(同第21集所収)
匿名希望
 今回のご講義後半で、菊池寛氏が講演旅行の宿泊先で幽霊に出会った話(「菊池寛」/『小林秀雄全作品』第21集所収)を池田頭がお聞かせくださいました。
 口から血を流す幽霊に襲われながらも、「君は、いつから出ているんだ?」と聞く菊池寛氏。その経緯を聞き、克明に描く小林先生。

 霊というもの、その確かな存在。そういう在り方を固く信じていた小林先生……。
 池田塾頭のお声が今も耳の中で響いております。
  「信ずることと知ること」、「感想」をこの夏また読み返してまいります。


●青山 純久
 令和三年(二〇二一)六月十七日
 <「小林秀雄と作家たち」シリーズ その一> 第三回
 「志賀直哉」
  (新潮社刊『小林秀雄全作品』第1集所収)

 六月の池田塾頭のご講義「志賀直哉」は、実に示唆に富んだ奥深いものでした。

 志賀直哉については、これまで「城の崎にて」くらいしか読んだことがなく、谷崎潤一郎が「文章読本」の中で取り上げた名文、という程度の浅い理解でした。
 当時の文壇に絶大な影響力があり、評価が高かった作家故に、戦後の価値観が混沌とする時期に、主に無頼派と呼ばれた作家(太宰治・坂口安吾・織田作之助など)から、批判の対象とされたことに目を奪われていました。

 かつて、若さの中で読んだ「城の崎にて」。
 療養先の兵庫県城の崎で見た、生きものの死をめぐる印象と自分自身の死を目詰める視線とが交差する良くできた小品、という以上の印象を持ち得ませんでした。

 宿を出て、小川の流れに沿って坂道を登っていくと、いつの間にか眼下にあった家々はすっかり見えなくなり、夕暮れが迫りくる頃、流れの石の上にいるいもりを見る・・・。

 ここで、いもりとやもりの印象が語られますが、この部分を読んだときのことは昨日のことのように憶えており、私には可愛らしく丸い足先を持つやもりは好ましい生きものであるのに、どうしてこの作家はやもりが最も嫌いなのだろう、と不思議に思い、さらに蜥蜴が何よりも嫌いな私にとっては、この作家の眼が捉えた様々な印象の強さだけが記憶に残りました。

 今回の池田塾頭のご講義を拝聴し、小林秀雄の批評を通して、数十年ぶりに読み返してみると、作品の印象が大きく変化していました。

 よく見る、という事は、ものごとに向かうとき当然のように必要とされる態度ですが、見うとするのではなく「見えてしまう」という作家の宿命的な眼。このことは、ものごと自体の成り立ちを見てしまうことに繋がるといえます。

 壺法師と云われた東大寺観音院の上司海雲師とともに骨董にも親しんだ作家は、古陶磁に対しても外観上の形だけではなく、素材そのものの成り立ち、つまり造形物の奥に潜む「そのもののいのち」が見えたのではないかと思われます。
 作家が現実を捉える眼は文章の活き活きとした形成力に連接していると考える事ができます。
 まさに、叩けば音のする文章・・・。

  「見ようとすれば無駄なものを見て了う」
  「氏の印象の鮮明は記憶による改変を許さない」
  「氏の魂は劇を知らない」
  「氏の苦悩は樹木の成長する苦悩である」

 このようなことを「様々なる意匠」の後、評論二作目の若き小林秀雄が見事に書き得たという事実に圧倒されます。
 見ることと見えることは違い、見えるということは形あるもの、つまり一瞬毎に変容する現実の向こう側にある実在の本質を、その造形において掴まえる意思であり、もはやそれは「行動」と同じ、という感慨を強くしました。
 このような考えが、池田塾頭のご講義に刺激を受けて、次々と湧き上がってきました。

 私は奈良を歩くことが好きで、高畑の志賀直哉旧居や、若き小林秀雄が滞在した割烹旅館江戸三、毎日のように通ったという二月堂の煤けた茶店(現在は休憩所)のあたりを何度も巡るうちに、小林秀雄や志賀直哉が過ごした古い奈良が、失われし時間の切れ間からふいに現れる瞬間を体験することがあります。

 小林秀雄が着の身着の侭に関西に向かったのは昭和三年の五月。大阪、京都などとの行き来を交えて奈良に長く滞在します。それは高畑の志賀直哉邸が完成する前年にあたり、当時は奈良教育大近くの幸町に家があり、小林秀雄が最初に訪ねたのはこちらの住まいであったことをずいぶん後になってから知りました。廿年ぶりの二月堂の眺望からはじまる、奈良の印象が綴られた「秋」という随筆の中の、次のくだりに心打たれます。

  「私が信じているただ一つのものが、どうしてこれ程脆弱で、かりそめで、果敢なく、又全く未知なものでなければならないか。空想は去り、苦しく悲しい感情が胸を満たした」
(「芸術新潮」掲載/『小林秀雄全作品』第17集所収)

  「ものごと」について考えるとき、他人あるいはもの自体から発して、自分自身の反射として還ってくるものの中に、見いだすべき自分がいる、という感覚が生じることがあります。内と外との出会いです。
 逆に自分という存在を掘り下げていくと自分にあたる、という意味において、まさに自分自身に「あたって」しまい、ものそのものが見えない地点に押しやられていることもよく起こります。
 いったい自意識や観念の過剰がものの本当の姿を曇らせることに気が付くまでに、どれくらいの人生の時間が必要だろうかと…。

 事実がその人の「真実」たり得るかどうか。こういうことを考えもしないで、字面だけを追っているどんな読み方も、魂の抜け殻のようなものになってしまう。
 抜け殻であるかないか、そういう見る目を養うことが諸君の勉強だな、といわれているような気がします。

 何かが見えた果てに、再び自分自身の人生に還ること。そのようなことを考えた、実に意味深い「小林秀雄と人生を読む夕べ」でした。


●令和三年(二〇二一)六月十七日
 <「小林秀雄と作家たち」シリーズ その一> 第三回
 「志賀直哉」
  (新潮社刊『小林秀雄全作品』第1集所収)
匿名希望
 今回のご講義「志賀直哉」も無事に拝聴することができ、池田塾頭にまたいろいろと学ばせていただきました。
 どうもありがとうございました。

 終了後のアフタートークで、池田塾頭が参加者の方のご質問にお答えになった際、「相手をほめることと出来の良い批評がイコールで結べることを小林先生が発見された」という旨のお話をなさいましたが、翌日、ある本を読んでいたところ、そこに引用されていた「論語」の一節に、小林先生の発見に近いものを感じました。  

 子曰わく、君子は人の美を成す。人の悪を成さず。小人は是れに反す。
  「顔淵 第十二」

 次回以降の、菊池寛、正宗白鳥、ドストエフスキーのご講義もぜひ参加させていただきたく存じます。
 どうぞよろしくお願いいたします。


●令和三年(二〇二一)六月十七日
 <「小林秀雄と作家たち」シリーズ その一> 第三回
 「志賀直哉」
  (新潮社刊『小林秀雄全作品』第1集所収)
匿名希望
  小林先生が二十七歳の時に発表された評論「志賀直哉」。
  「様々なる意匠」とともに私にとっては本当に難解ですが、小林先生が「志賀直哉」の中で指摘されている三つの点を、池田塾頭が示してくださいました。

一 ウルトラ・エゴイストである
 自分がこの世に生まれて授かった個性を肯定し、自分が選んだ行動を描いていく。
二 古典的人間、古代人である
 近代人よりはるかに鋭敏な神経をもっていて、どう行動するかに全神経を集中して書いていく。
三 見ようとしないでも、見えてしまっている
 見えているものそのものが、小説の表現になる。

 池田塾頭が、本文で挙げられている志賀氏の作品を語りながら説明してくださり、志賀直哉氏、小林先生、池田塾頭の眼と言葉が重なっていると感じ、引き込まれていきました。
 これからのご講義も心して拝聴いたしますので、どうぞよろしくお願いいたします。


●森原 和子
 令和三年(二〇二一)五月二十日
 <「小林秀雄と作家たち」シリーズ その一> 第二回
  「芥川龍之介の美神と宿命」
  (新潮社刊『小林秀雄全作品』第1集所収)

 今回のご講義の前に、「鼻」「歯車」を読みましたが、芥川の作品は、また読み返したいという気が起こらず、何か不快な印象が残るのです。 
 次いで、小林先生の「芥川龍之介の美神と宿命」を読みましたが、言葉に引っかかり理解できません。「自殺的宿命」「神経のみを持っていた作家」「逆説的真理の定着」「逆説的触覚」「逆接的測鉛」「彼にとって人生とは彼の神経の函数としてのみ存在した」「人生を自身の神経をもって微分した」等々。 
 当日はお手上げ状態で参加しました。

 ところが池田塾頭のご説明で「美神」「宿命」「逆説的心理」「主調低音」等の意味が分かりだすと俄然面白くなってきました。 
 そして、小林先生の仕事の基本姿勢は、本居宣長と同じだということに気が付きました。作品の中に飛び込み、心を動かすものを掴むまで彷徨し、心が語りだすまで対象に向き合うということです。自身の言葉が語りだして初めて仕事の対象になりえるのです。

 難しくて、近づきがたい小林秀雄作品ですが、池田塾頭のご案内で、固い鉄の扉が私の前で少しずつ開いて来るのを感じるのが喜びです。


●令和三年(二〇二一)五月二十日
 <「小林秀雄と作家たち」シリーズ その一> 第二回
 「芥川龍之介の美神と宿命」
  (新潮社刊『小林秀雄全作品』第1集所収)
匿名希望
 「芥川龍之介の美神と宿命」は、これまで学んできた小林秀雄先生の核心がいくつも散りばめられていると感じながらも、読めば読むほどに不明に陥り、池田塾頭のご教示にすがる思いで受講しました。 
 結果、私がつまずいていたところを全て、池田塾頭が言葉を置き換え、あるいは補足し解きほぐしてくださいました。

 神楽坂ラカグでのご講義から参加していますが、学び始めの頃はご講義に参加していても、また小林先生のご著書を読んでいても、そこに小林先生のお姿を見ることはありませんでした。数年の歳月を要した後、ふと、遠くにおぼろげながら小林先生を拝見したように感じた時がありました。その後、小林先生は徐々に近く、大きくなってきましたが、そのお姿は透き通るほどに薄い一葉のお写真のようでした。 
 しかしながら最近は、小林先生が血・肉をまとわれた目方のあるお姿として感じられることがあります。前回の「中原中也の思い出」の本文、そして今回の「おっかさん」という池田塾頭のお声に小林先生のご存在を感じ涙を禁じえませんでした。

 私の頭の中は相変わらず取り散らかっていますが、小林先生が実体を持った存在として私の中にも息づき始めていらっしゃるように思っております。 
 「小林秀雄と人生を読む夕べ」のシリーズが池田塾頭の深いご洞察によって構成され、毎回先生の全身全霊を傾けられたご講義があってこその小林秀雄先生の理解と痛感し、心より感謝申し上げる次第です。


●青山 純久
 令和三年(二〇二一)四月十五日
 <「小林秀雄と作家たち」シリーズ その一> 第一回
 「中原中也の思い出」
  (新潮社刊『小林秀雄全作品』第17集所収)

 このたび、オンライン講座に初めて申込みをいたしました。
 参加して良かったと心から思いました。

 事前に、今回の「中原中也の思い出」について、池田塾頭のご案内文を読ませていただいたことで、より理解が深まることにもつながりました。
 いつも真摯なお言葉をありがとうございます。 

 画面の向こう側でしたが、お話しされる池田塾頭のお人柄に惹かれました。
 居ずまいを正して話されるその気迫といいますか、塾頭の純粋な想いが、極めて抑制された口調の中に、ふつふつと湧き上がるような情感を伴われていて、非常に印象に残りました。 
 それらは、小林秀雄という批評家の人間的な魅力と思想の大きさに直結していることを改めて認識いたしました。 

 中原中也と小林秀雄。人生に抗いながら、表現の高みにおいて「宿命」を我がものとした彼らの気高い詩魂が、池田塾頭の語りによって呼び醒まされ、塾頭のお話を拝聴する間、中原中也や小林秀雄の魂がまるでそこにいるような感覚に陥り、池田塾頭の声の響きと相俟って、まさにその言葉が音楽のように聞こえて、時折涙が滲みました。 

 池田塾頭は「宿命」という言葉を使われましたが、まさに教養のための文学では決してない、ある懸命に生きた人間の跡を辿っている気がしてなりませんでした。
 現実の人と人の魂の距離に比べると、死と生という時間軸を隔てていても、震える魂同士の結びつきの方がより近い、という思いさえしてくるのでした。

 小林秀雄があの文章の中で、自分の魂の中に錘のように存在する中原中也への複雑な思いを、そして悲しみを、敢えて突き放すかのような表現で書かれていることに対して、批評家としての厳粛な矜持を見る思いがします。 

 ある人と運命のように出逢い、共に時間を過ごして様々な体験を共有し、その関係が密接であればあるほど、分かる部分と分からない部分の明暗がはっきりとしだします。
 人を愛するという行為の中には、背中合わせに理解し難い気持ちが内包している事が多いですが、その距離感が独りであることの悲しみに繋がり、人としての、あるべき孤独を完成させるのではないか。
 つまり、他者はいつでもその深奥において謎であり、他者ばかりではなく、自分自身も謎でしかない。答えを求めると逃げていくのだが、しかし、真剣に向き合うことで対象自身がその秘密を語り出す瞬間がある・・・。 
 そのような考えが、池田塾頭のご講義を聞いた後も心の中で渦巻いていました。

 「時間」というものの不思議を感じました。
 昭和初期に生きていた魂が、どうしてこれほどの想いを現在の私たちに想起させるのだろうと・・・。
 未来から流れくる時間と過去の時間が常に出会い続ける場所がある気がしてなりません。

 いくつもの想いが湧き上がり、とりとめのない想いを文字にしていると、どこからか声が聞こえてきます。

夜空の星を見給え。
 そこには美しい秩序の裡に古代の人々が見た神々の姿がある。
 ひときわ輝く星があるなら、それが詩人の魂である。
 地上において宿命的な働きをする孤独な魂は、天上において何と美しいことだろう。
 たとえ、科学が何と云おうと、幾千万の澄み切った光跡が我々のこころに真っ直ぐに差し込む!


●令和三年(二〇二一)四月十五日
 <「小林秀雄と作家たち」シリーズ その一> 第一回
 「中原中也の思い出」
  (新潮社刊『小林秀雄全作品』第17集所収)
匿名希望  
 このたび、池田塾頭の「中原中也の思い出」のご講義を拝聴することができました。
 まことにありがとうございました。
 
 事前に旧字体の『小林秀雄全集』で「中原中也の思ひ出」を読み、そして、池田塾頭の朗読を拝聴し、二度、じっくりと作品の深みを味わいました。
 池田塾頭の朗読と講義は、作品に対する愛情がこもっていて、心に深く沁みました。

 中原中也については、ゆかりの人々がその人物像を描いていますが、小林秀雄の描き出す「中原中也」がその中でも最も美しく、完璧な造形であることに、あらためて思い至りました。

 今後のご講義も時間が許す限り参加させていただきたく存じます。
 どうぞよろしくお願いします。


●令和三年(二〇二一)四月十五日
 <「小林秀雄と作家たち」シリーズ その一> 第一回
「中原中也の思い出」
  (新潮社刊『小林秀雄全作品』第17集所収)
M.I
 新年度初回の「中原中也の思い出」を受講させていただきました。どうもありがとうございました。とてもよかったです。

  「この作品は詩であり音楽なのです」という池田塾頭のお言葉と、そして、通しで朗読くださったこと、最初はどういうことかしら?と少し驚きました。 
 しかしながら、小林先生の、中原氏とのわだかまりの感情とそれを乗り越えようとする友情とオマージュを、それはお見事に表現されている作品だということを教えていただき、またご講義の後、小林秀雄の作品に初めて出会った時の、池田塾頭の貴重なエピソードのご紹介もあり、再度作品を文章を味わってみようと思いました。

 次回の「芥川龍之介の美神と宿命」のご講義も心待ちにいたしております。毎回、学ばせていただくこと限りなしです。


●令和三年(二〇二一)四月十五日
<「小林秀雄と作家たち」シリーズ その一> 第一回
 「中原中也の思い出」
  (新潮社刊『小林秀雄全作品』第17集所収)
匿名希望
 「『中原中也の思い出』という作品は、小林先生の作品の中で、頂点を極めています」という池田塾頭のお言葉、そして、鎌倉妙本寺の海棠の、満開の時の木も、その見事な花も、そして突然枯死したことも、すべて中原中也を……というお話に、さらに悲しく胸が痛くなるが、「最も力をこめて、最も愛情をこめて、中原中也の宿命というものを描き出した」という池田塾頭の力強いお声も蘇ってくる。何度も読み返していきたい。


●令和三年(二〇二一)四月十五日
 <「小林秀雄と作家たち」シリーズ その一> 第一回
 「中原中也の思い出」
  (新潮社刊『小林秀雄全作品』第17集所収)
匿名希望
 池田塾頭が高校一年生の時、学校の図書室で初めて読んだ小林先生の作品が、この「中原中也の思い出」であり、まさに池田塾頭の一生を決めることになり、そして、今回のこのご講義が……。参加できたことを、心からありがたく思っています。


●森原 和子
 令和三年(二〇二一)一月二十一日
 <「講演文学」シリーズ> 第六回
 「信ずることと知ること」
  (新潮社刊『小林秀雄全作品』第26集所収)

 今回のご講義の中での「山人」の話は、いままでの自分、そしてさまざまな繋がりを振り返る良い機会となりました。

 椋鳩十の狩猟の本から「山人」の暮らしを知り、常念岳、屋久島へ憧れ、山歩きを二十余年してきました。
 柳田国男とも繋がり、「遠野物語」の話を現地の言葉で聞きたくて、訪ねもしました。
 また、たまたま見た掛軸が気に入り、画家の名前を確認したところ松岡映丘でした。調べてみると、柳田国男と兄弟です。とても驚き、大事にしたいと思いました。

 こんな繋がりもあって柳田国男は、私にとって特別な人です。小林先生が柳田を特別な方と思われるについて、私なりに合点がいきます。本質を直感で見抜かれることが共通しています。

 最近の気候変動、災害について、資本主義の行き詰まり論が言われていますが、柳田は、社会的共通資本を活かすことが大事だと当時から主張していたのですね。格差解消に必要だと。先見の明に頭が下がりました。


●その他(オンライン講座について)
匿名希望
 令和元年(二〇一九)十月開催の広島塾に初参加以来、次回開催を楽しみにしておりましたが、コロナ禍で延期。
 webで参加できるようになってからは、娘とともに受講し、孫の子守りもしつつ、自然に耳に入る池田塾頭のお話に、ついつい引き込まれ聴き入ってしまい、まるで、つまみ食いのような受講ですが、コロナ禍がくれた贈り物と思っております。
 このような姿勢で受講させて頂くことは、池田塾頭に大変失礼になるのでは?と申し訳ない思いですが、度々心に響く言葉が見つかる喜びに、ただ聴こえてくるだけで満足しております事をお許し頂ければ幸いです。

 私のこれまでの人生では、死ぬまで聴くことがなかったであろう小林先生のお声を、人生を賭けて届けてくださる池田塾頭のお姿に感動し感謝しております。
 まだ入り口にも立てていない私ですし、文学とか勉学とは縁遠い人生を歩んできました。しかしながら、娘を介して、このようなご縁を頂けたことは、厚かましくも喜びでいっぱいです。
 遅い歩みですがこれからも私なりに学ばせて頂きたいと思っております。


●令和二年(二〇二〇)十二月十七日
 <「講演文学」シリーズ> 第五回
 「生と死」
  (新潮社刊『小林秀雄全作品』第26集所収)
匿名希望
 今回は特に誰にでも関わってくる死ということがテーマのご講義ということで、大変楽しみにしておりました。

 青年期には誰もがと言ってよいほど死にたいということを考えるのではないでしょうか。私は躁鬱病ということもあり、また、実生活上の不安もあって、いつもと言ってよいほど死にたいということにとらわれている状態です。それほど死について考えていながら、実際は怖くて死ねないということもまたわかりきっていると言ってよいのが、この死にたいという病の特徴でもあります。

 どう虚勢を張ろうと、やはり死というものは怖い。獅子文六さんが、自分が間もなく死ぬということを知って、自殺しようという衝動に駆られる気持ちは私にはとてもよくわかります。私自身、身につまされるものがあるからです。ところが、獅子さんは、牡丹を見て、牡丹に感じ入り、頭を下げ、牡丹が朝日を浴びる時に花唇を開くのを見て一と息に書く。そこで新しい自分を知るというのは本当に感動的なものがありました。 

 私も、病気からくるものの他に将来的なことへの不安からも、本当に憂鬱になることも多いです。しかし最近では、池田塾頭のご講義を受ける機会も多くなり、そのための勉強をすることや、また将来、池田塾頭のように小林先生の「本居宣長」の解説を書きたいという目標を持つことによって、生きる意味を改めて感じることが出来るようになってきました。本当に感謝しております。まさに、小林秀雄先生と池田塾頭は私にとって、獅子文六さんの牡丹でもあります。 

 とりとめもない感想になり申し訳ございません。池田塾頭には、これからもどうぞ長生きされて、人生の先輩としてもご先導、ご指導ご鞭撻をよろしくお願い致します。


●冨部 久
 令和二年(二〇二〇)十月十五日
 <「講演文学」シリーズ> 第三回
 「私の人生観」
  (新潮社刊『小林秀雄全作品』第17集所収)

 令和二年(二〇二〇)十月の「私の人生観」の講座で思ったこと。
 「観の目強く、見の目弱く見るべし」という武蔵の言葉を聞いて、「姿は似せ難く、意は似せ易し」という本居宣長の言葉を思い出しました。
 「見の目」―常の目、普通の目の働き方、敵の動きとか局所的な見方。「観の目」―相手の存在を全体的に直覚する目、心の中にある目、こちらが大事だと武蔵は言っている。
 いっぽう、「意」は言葉そのものから出てくるもので口真似しやすいもの。「姿」は、その言葉が作り上げている全体の姿、心にはまざまざと映ずる像、本居宣長はこちらが大事だと言っている。
 片や剣の道、片や歌の道なので、混同するのは危険ですが、心の中で全体をとらえること、心の目で物を見ることの大事さを、小林秀雄氏が伝えようとしている点では同じではないでしょうか?


●令和二年(二〇二〇)二月二十日
 <「無常という事」シリーズ> 第六回
 「実 朝」
  (新潮社刊『小林秀雄全作品』第14集所収)
匿名希望
 令和元年(二〇一九)九月から令和二年(二〇二〇)の二月に「無常という事」のシリーズ(「当麻」「無常という事」「平家物語」「徒然草」「西行」「実朝」)を受講しました。
 今読み直すと、より言葉が強く響いてきます。
 特に「実朝」の、「吾妻鏡」での不穏な実朝横死事件の語り、実朝の悲しく美しい歌、実朝の眼と魂に迫る小林先生の言葉。歌のように反響し合う響きがあり驚いています。


●冨部 久
 令和二年(二〇二〇)一月十六日
 <「無常という事」シリーズ> 第五回
 「西 行」
  (新潮社刊『小林秀雄全作品』第14集所収)

 新型コロナ禍で、三月に続き四月も残念ながら休会となり、他にも新潮講座や鎌倉の塾など、ほぼ毎週のように池田塾頭の謦咳に接していた私は、聊か禁断症状が出始めております。
 こんな時はどうしたらよいかと言えば、宣長さんの「詮ずるところ学問は、ただ年月長く倦まずおこたらずして、はげみつとむるぞ肝要」という言葉や小林先生の「頭の良し悪しは、思考を継続できるかどうかにかかっている」という言葉に倣って、講義の有り無しに関わらず勉強し続ける事でしょう。

 ということで、週末、令和二年(二〇二〇)一月に講義のあった「西行」を当時のメモとともに読み直してみました。「新古今和歌集」約二〇〇〇首の中に、何と九十四首と最多入集歌人である西行は、心理詩ではなく思想詩、その歌の骨格は意志で出来ていると言うべき孤高の歌人だということ。その背景には、恋する高貴な人とは結ばれない絶望や、鳥羽院と崇徳院との争いにおける西行の複雑な立場などがあり、そういった中での西行の心の疼きが歌となっていったとのこと。

 また、もう一度読み直してみて一番感心したのは、小林先生の引用歌の選び方の完璧さです。最初の「心なき…」に始まって、その後も、五十首以上の歌が引用され、最後に、「風になびく…」から「願はくば…」で終わる、その一大思想劇を見るような流れは、西行の二三〇〇首をすべて頭の中に入れて、そこから「西行」という批評を書くにあたっては、ここはこの歌しかない、そういう完璧さで歌を選んで書かれているということを改めて感じました。


●亀井 善太郎
 その他(講座全体について、小林秀雄氏の著作について、など)の感想

 学びの場を得るというのはほんとうに貴重なことです。ふとしたきっかけで毎月通うことになったこの塾も、今となってはかけがえのないものとなりました。日々の暮らしや仕事のことを顧みる、大切な句読点です。
 小林秀雄が遺した言葉、そして、この塾の講師である池田雅延さんから聞く言葉は、いまの自分を気付かせてくれる鏡です。忙しくてそのまま通り過ぎてしまえばなんとも気付かなかったであろうことも、この塾があることで、ふと立ち止まり、しばし考える時間をもらうことができるように感じています。
 ときに気付かされ、ときに励まされ、そして、深く考えさせられる、そういうきっかけをこの塾にいただいています。

 この塾では、毎回、小林秀雄の作品を一つ取り上げ、これを題材に池田雅延さんがお話してくださいます。長いものもあれば、短いものもあります。この作品を池田さんはどう読むのかなあと想像しながら、事前に読むのも愉しい時間です。当日、実際に塾でお話を聞いてみますと、よい意味で裏切られることばかりです。文章に接しながら、深く感じ、考えるというのはこういうことなのだなあと体感することばかりです。

 この塾のもうひとつのあじわいは、小林秀雄の言葉、そして、池田雅延さんのお話に魅入られて、集まる同志の皆さんの顔ぶれです。性別、年齢、お仕事もさまざまですが、それぞれに思いを寄せて、毎月楽しみに通う方たちです。そうした皆さんからいただく示唆もたくさんあって、お互いに学び合う本来の塾というのはこういうものなんだろうなあと感じています。

 この塾は、いつも開かれています。毎回の作品は違いますから、どこから入ってきても構いません。僕もそうでした。新しい人にも、そして、時間を重ねた人にも、それぞれに深い学びを得ることができる、そんな場だと思います。少しでも興味のある方はぜひお越しになってはいかがかと思います。


●松浦 逸郎
 その他(講座全体について、小林秀雄氏の著作について、など)の感想

《私のベルクソン体験》
 小林秀雄を読み始めて三年ほど経った頃(池田塾頭の講義を聞いて三年経過の頃)、小林秀雄をより深く理解するためにはベルクソンを読む必要があると考えました。
 哲学書を読んだ事の無い私には、ベルクソンは難しすぎるとも思いましたが、ともかく簡単そうな小論文から読んでみる事にしました。
 最初に買った本が、中公クラシックスの「哲学的直観ほか」という本です。
比較的短い論文が五つあります。
 その最初に「形而上学入門」という論文があり、更にその最初の小項目に「分析と直観」があります。六ページほどの短くて読みやすい文章です。
 この冒頭の文章から初めてベルクソンを読み始めました。
 偶然ですが、これが私にとって最高のベルクソンとの出会いでした。
 ベルクソンの「分析と直観」は、まさに小林秀雄が繰り返し強調している「頭で分かったつもりになるな。無私になれ。五感を研ぎ澄ませ。」と全く同じ認識論を哲学的に主張しているものでした。

 おおよそ次のような内容です。認識の方法は分析と直観の二通りがあり、
 ①(分析)対象の周囲を回るという性質を含んでおり、我々がとる見地と表現に用いられる記号とに依存する。相対のうちにとどまる認識である。
 ②(直観)対象の内部に入り込むという事を意味している。見地というものを考えず、記号に頼らない方法である。それが可能な場合は絶対に到達する認識である。
実証的科学の普通の機能が分析(①)である事は分かりやすい。従って実証的科学はなかんずく記号を使って作業をする。
 ②の直観とは、対象そのものにおいて独自的であり、従って言葉をもって表現しえないものと合一するために、対象の内部へ自己を移そうとするための共感を意味している。

 ここを読んで私は、真っ先に小林秀雄の「美を求める心」を思い出しました。
「今日の様に、知識や学問が普及し、尊重される様になると、人々は、物を感ずる能力の方を、知らず識らずのうちに、疎かにするようになるのです。物の性質を知ろうとする様になるのです。物の性質を知ろうとする知識や学問の道は、物の姿をいわば壊す行き方をするからです。……花の姿の美しさを感ずる時には、私達は何時も花全体を一と目で感ずるのです。」
(新潮社刊『小林秀雄全作品』第21集所収)
 ここで小林秀雄は、ベルクソンの認識①ではなく②で美を感じなくてはいけないと強調しています。
 例えば「歴史の魂」でも同様な思想が見られると思います。
「歴史を記憶し整理する事はやさしいが、歴史を鮮やかに思い出すという事は難しい、これには詩人の直覚が要るのであります。」
(新潮社刊『小林秀雄全作品』第14集所収)

 他にもたくさんあると思います。
もし、まだ読んでいないのであれば、ベルクソンのこの部分を是非読んで下さい。
小林秀雄が絶賛していたベルクソンの思想の原点がここにあるように思います。
またベルクソンは哲学でフランス語の翻訳なので、色々な例を出して論じていますが、あくまで哲学論文です。
小林秀雄は、ベルクソンの哲理を見事に美しい日本語で語りかけてくれます。
さすがです。


●令和元年(二〇一九)十二月十九日
 <「無常という事」シリーズ> 第四回
 「徒然草」
  (新潮社刊『小林秀雄全作品』第14集所収)
M.I
  「徒然なる儘に、日ぐらし、硯に向かひて」この有名な冒頭の一節がなんとも好きである。硯に向かい徒然に思いを巡らす作者兼好の姿を空想する。墨の匂いが無性に懐かしくなり、ゆったりと仮想の時空間を彷徨える一節。

 しかし昨年末、池田塾頭のご講義で小林秀雄の作品に触れ、随所で胸中騒然する事となった。「物が見え過ぎる眼を如何に御したらいいか、これが「徒然草」の文体の精髄である」。なんときっぱりと定義したお言葉だろう。
 「怪しうこそ物狂ほしけれ」とは、紛れるどころか眼が冴えかえって、いよいよ物が見え辛さを意味しており、そして兼好の言葉を引用して「よき細工は、少し鈍き刀を使ふ、といふ。妙観が刀は、いたく立たず」と、鋭い批判の毒を吐かず、真意を明かさぬ兼好の態度を「名工」と喩えている。
 ひたすらに人生の機微を感受し至った「物が見え過ぎる心境」とは如何なるものか、改めて兼好の人物像に興味を抱いたが、それと共に、鈍刀のふりというこの手加減の振る舞いに、兼行の気高い品性を感じ、底知れぬ強い憧れを抱いてしまった。突き抜ける様な厳しさや清々しさと共に、そこに何かを隠すことをよしとする優しさと賢明さの美学。その「見える」と「隠す」の間に生じる感性や感情、思索とはどの様なものなのか。
 小林秀雄の作品を学びたい理由の一つに、塾頭の言葉を通じて、日本の文化とはどの様な人々によって継承されてきたのかを知り、教養を深めたいという思いがある。

 急に日本料理の話に転じるが、確か「匙加減」や「あえる」と言う料理技術は、作り手の感性で、各食材の素材の素晴らしさを存分に活かす為にあるもので、日本料理ならではの表現だと聞いたことがある。今回の名工の喩えと何か底通するものがあるのではと思った。
 感性を優位とする日本文化は、非常に高度なものでありながらも、一方で、あまい解釈で捉えると、大きな誤解を孕んだ扱われ方をされてしまう。
 「徒然草」そして小林秀雄の作品を少しずつ読み進めながら、日本の姿について、様々な方面から探究してみたいと思う。


●令和元年(二〇一九)十二月十九日
 <「無常という事」シリーズ> 第四回
 「徒然草」
  (新潮社刊『小林秀雄全作品』第14集所収)
匿名希望
 今、これまでのご講義のノートを読み返している。特に、この回の「徒然草」の言葉に胸を衝かれた。 
「人間に授けられた、人生を見る眼力。ひたすらそこに身を置いていくと、普段は気付かない人生の機微に気付く……」
 そして、小林秀雄先生は、兼好の「ものが見え過ぎる眼をいかに御すべきか」という苦しみと、「古く美しい形をしっかりと見る」こと、「人々が受け継いできた安らかですなおなもの」への思いを、「徒然草」の中に読み取っていかれる。
 見え過ぎるがゆえに、いかに抑えたか……。
 まさに「徒然草」には、いったい何を伝えたかったのかという文章がある。だが、「兼好がいかに書きたいことを我慢したか、それは読者一人一人の心、二つとない自分の心の中で生まれてくるもの。姿、形を思い浮かべて読んでみてください」という、池田塾頭のお言葉を胸に、いつか全編読まねばと思いながら挫折していた「徒然草」を、今こそ少しずつ読んでいきたい。


●冨部 久
 令和元年(二〇一九)十二月二十日
 <「無常という事」シリーズ> 第四回
 「徒然草」
  (新潮社刊『小林秀雄全作品』第14集所収)

 十二月二十日のl‘ecodaで取り上げられたのは「徒然草」。最後の六行の謎めいた文章について、池田塾頭はまず吉田凞生氏の説を話された。
 即ち、米の類は人間の手で育てられたものだが、栗は人間の手が加わっていない、これは娘が人間嫌いであるということを示唆していて、だから嫁には行かせられないのだ、と。
 続いて、池田塾頭は、その前の段落の「無下に卑しくなる時勢とともに現れる様々な人間の興味ある真実な形」の象徴として、栗しか食べない娘を小林秀雄氏は取り上げられたのではないかとおっしゃり、さらには、他の段の兼好法師の言葉、例えば第一段の、いくら容貌がよくても中身がなければ駄目だという話から、だから、そんな娘は嫁に出せないと入道は言ったのではないかと説得力のある分析をされた。
 しかしそのあと、これは様々ある解答の一つで、正解という訳ではない、大事なのは皆さん方読者が自分の心を駆使して、自分なりの正解を出すことだと言われた。

 そのあとの懇親会では、この正解探し?で盛り上がった。X氏は、「そういう栗しか食べない面倒な娘は、親としては嫁に行ってもらった方が清々するのではないか」と言われ、対して私は、「最初は異様な娘を嫁に出したら、相手に迷惑が掛かるから、相手のためを思って出せないのだと思ったが、これが実際、自分の娘だったらと想像してみると、実の娘だから我慢して一緒に暮らしているが、他人のところに行けば、必ず問題を起こす、それなら今まで通り一緒に暮らしていくのが良いと、むしろ娘のためを思って嫁に出さなかったのではないか」と言った。すると、Y氏は、「それだけ容貌が優れた娘なら、男も我慢できるはずだ、そういった例は今でも昔でもたくさんある」と言われた。うーん、確かにその通りかもしれない、とその時は思った私。
 その後も様々な意見が飛び交い、l‘ecodaの夜はいとおしく更けて行くのであった。


●令和元年(二〇一九)十一月二十一日
 <「無常という事」シリーズ> 第三回
 「平家物語」
  (新潮社刊『小林秀雄全作品』第14集所収)
匿名希望
 私は関東育ちではないので、今まで、源氏は攻めて来るものだと思っていました。今回、反対側からまた違う平家物語を見た気がしました。


●令和元年(二〇一九)十一月二十一日
 <「無常という事」シリーズ> 第三回
 「平家物語」
  (新潮社刊『小林秀雄全作品』第14集所収)
匿名希望
  「平家物語」が無情にも着せられてきた、「無常観という湿気た着物」は、池田塾頭のお言葉であっという間に吹き飛ばされ、武者と馬と鎧と刀と、汗と涙の光るさまが、ぎらぎらと眼前に迫って、合戦の声や音が聴こえてくるようで、驚きました。
 そして、「平家物語」を語る人、聴き入る人々が、確かに存在していた過去の時空と、会場の時空が重なった感覚がして、ぐらっと体が揺らめく感覚を覚えました。
 さらには、ご講義でずっと伝え続けてくださっている、私たちを真に支えてくれる、最も肝要であることを、今回もお聞かせいただき、あらためてありがたく思っております。


●令和元年(二〇一九)十月十七日
 <「無常という事」シリーズ> 第二回
 「無常という事」
  (新潮社刊『小林秀雄全作品』第14集所収)
匿名希望
 お話の後に、たまたま、吉永小百合を特集するテレビ番組をみる機会がありました。
 その中では、自分をプロと思ったことはない、素人のようにありたい、と言いながら役作りをしているのですが、それを見て「上手に思いだす」のはどういうことか、再び考える機会になりました。
 その流れで、地道で綿密な調査の後に作られた「この世界の片隅に」という映画が、知らない場所の生まれる前の話なのに、なんでこんなに懐かしかったのか、考えてみました。
 上手に思いだすこと、とはどんなものかまだよくわからないのですが、これを深く考えてみたいという、きっかけをいただきました。


●令和元年(二〇一九)十月十七日
  <「無常という事」シリーズ> 第二回
 「無常という事」
  (新潮社刊『小林秀雄全作品』第14集所収)
匿名希望
 「無常という事」は、読む度に、水晶玉のように覗き込むと引き込まれ……という感覚がありながら、その奥底にあるものは、いくら覗いてもつかめず……。
 さらに、ご講義を拝聴して、「無常」の意味を自分はまったく取り違えていたことに気づき、愕然としています。
 ただ、ご講義をお聞きして、水晶玉の奥底にあるものがやっとほんの少しその姿を見せてくれたような感覚を得られました。これからも、読んで、読んで、そして、またもう一度ご講義をお聞きしたいです。


●令和元年(二〇一九)九月十九日
<「無常という事」シリーズ> 第一回
「当麻」
  (新潮社刊『小林秀雄全作品』第14集所収)
M.I
 当麻は、あの有名な一節「美しい『花』がある、『花』の美しさという様なものはない」が登場する作品ですが、心に清らかに響くこの言葉の真相を知りたく、江古田のご講義に臨みました。
池田塾頭より、その答えは世阿弥の「風姿花伝」にあるとのご解説を頂き、その明瞭さを得た満足感と共に、作品そのものに静かに魅かれました。
 雪景色の夜道の中、緩やかに、また大胆に巡る小林先生の心象風景。そこに綴られる日本ならではの美彩色や音色、そして「仔猫の死骸めいた」とつづられる奇異な形容。
何度か読み返すうち、何故か決して意図的ではない流れだと確信するや、その景色が心に淡く薄っすら立ち現れては、親しむ様になりました。

  「中将姫のあでやかな姿が、舞台を縦横に動き出す。それは、歴史の泥中から咲き出た花の様に見えた」

 果たしてどの様な永遠を紡ぎ出したのだろう。どうしても知りたくてグーグル検索に頼っていた時、ふと脳裏を過ぎったのが、山口小夜子さんの姿でした。
 一九七〇年代以降、世界を虜にしたファッションモデルです。ショーでひときわ艶やかにウォークする小夜子さんは、中将姫の舞姿と重なる、まさに息をのむ程の「美」を体現していました。
 奇しくも、彼女はとあるインタビューで、幼少期の最も強く記憶している思い出が、夏祭りに観た能神楽の舞台だと語っています。

 また「貴女にとって、着るとはどういう事ですか?」との問いに印象的な答えを返されています。「服がどうやってきて貰いたいのか、声が聞こえてくるのです。人はどんなものでも着ることが出来ると思っています。服だけでなく、風も土も水も、そして缶やコンクリートさえも人は着ることが出来ると思っています。私たちの身体だってそう、魂が身に纏っているものと信じています」と。
 また、表現者として心掛けていることを尋ねられると「意図的なものを一切排除します。若しくは自分を無くする、本質に近づくと言う事でしょうか」との応え。
 淀みのない、一種神がかった言葉に、日本美の本質を垣間見た気がしました。胸中時を超え、何か日本のミューズ達の願いがはっきりと符号した瞬間に思えました。


●令和元年(二〇一九)九月十九日
<「無常という事」シリーズ> 第一回
「当麻」
  (新潮社刊『小林秀雄全作品』第14集所収)
匿名希望
 茶話会で「なぜ能面をかけるのか」話し合いました。そして、能面をつけると現代のテレビドラマのように、俳優がイケメンだとか、そんなことを言わなくても済むということになりました。そういうのも、秘するが花かなと、ちょっと思いました。


●松浦 逸郎
 令和元年(二〇一九)九月十九日
 <「無常という事」シリーズ> 第一回
 「当麻」
  (新潮社刊『小林秀雄全作品』第14集所収)

 池田塾頭の小林秀雄講座を初めて聴いたのは、平成二十七年(二〇一五)五月の「様々なる意匠」(神楽坂「ラカグ」にて)でしたから、池田塾頭の生徒になって四年半になります。
 講座に参加する都度、要旨を出来るだけ細かくメモに残しています。
 平成三十年(二〇一八)九月には、矢来能楽堂で「当麻」の講座に参加しました。
 いつも通りこの時も、小林秀雄の心の動きと思想の流れ、時代背景などを掌を指すが如く分かり易い講義をしていただき、僅か四ページの文章にこれだけの内容が読み取れるか……と感服しました。

 今回江古田で「当麻」の講座に参加することになりましたが、僅か一年前にあれだけ完成度の高い講義をなさったので、一年前のメモを見てこれとほぼ同じ講義になる……と予想して参加しました。
 ところが聴いて驚きました。
 前回より明らかに進化・深化(熟成)していました(どうも生徒の分際で生意気な表現で申し訳ありません)。感服しました。
 池田塾頭ご自身が、「五十年間『当麻』を読んでようやく人に語れるまでに理解が進んだ。昨年より進化した」とおっしゃっていました。

 小林秀雄の文章には、「○○○とは×××の事である」という断定文(決め台詞)が時々出て来ます。
 この文が出てくる度に「これは小林秀雄の思想の凝縮された結論だ」と思って前後を丁寧に読む事にしています。
 小林秀雄は、冗長な文章を極端に嫌い、文章を削って削ってぎりぎりに切り詰めたという事です。

 当日の池田塾頭の講義にも同様な思い切った断定的な表現が多くありました。
 例えば、
 世阿弥の「花」は
   (風姿花伝では)演技の魅力、面白さの事である。
   演技の魅力とは、身体の動き(舞)の事である。
   言葉で表現出来るものではない。
   だから「世阿弥の「花」は秘められている確かに」

 小林秀雄の「花」
   人の身体の美しさである。
   人の身体でしか表せない人生の意味である。
   人の生死に関する思想(死生観)である。
   人の身体の動きでの表現(美しい「花」)には、訓練が必要である。
   観念での表現(「花」の美しさ)に訓練は要らないし、軽薄で真実には遠いものである。
   だから「美しい『花』がある、『花』の美しさという様なものはない」

 池田塾頭は、五十年かけて読み込んで初めて自信を持ってこうした断定的な結論に到達されたと思います。
 二回目の「当麻」を聴講して良かったと思っています。
七十歳を越えて進化熟成する池田塾頭に感服した次第です。


●令和元年(二〇一九)九月十九日
<「無常という事」シリーズ> 第一回
「当 麻」
  (新潮社刊『小林秀雄全作品』第14集所収)
匿名希望
 能舞台を前にして、この文章そのものの演目を見ているような気持ちになりました。


●令和元年(二〇一九)七月十八日
<秀峰六峰シリーズ> 第五回
「近代絵画」
  (新潮社刊『小林秀雄全作品』第22集所収)
匿名希望
 セザンヌのお話を伺った後、展覧会に行き、絵に眼が捉われる、動かされるという感覚がして驚きました。