小林秀雄「本居宣長」を読む(三十五)
第十八章 上 詞花言葉を翫ぶべし、宣長の実践
池田 雅延
1
第十八章は、次のように言われて始まります。
――余談はもうこの辺で切り上げようと思うが、必ずしも道草を食ったわけではない。賢明なる読者には、余談にかまけた、私の下心は既に推察して貰えたと思うが、「定家卿云、可翫詞花言葉。かくのごとくなるべし」という契沖が遺した問題は、誰の手も経ず、そっくりそのまま宣長の手に渡った。宣長がこれを解決したと言うのではない。もともと解決するというような性質の問題ではなかった。なるほど契沖の遺したところは、見たところほんの片言に過ぎない。事実、真淵のような大才にもそう見えていた。「源氏」は物語であって、和歌ではない、これを正しく理解するには、「只文華逸興をもて論」じてはならぬ、という考えから逃れ切る事が出来なかった。宣長は、言わば、契沖の片言に、実はどれほどの重みがあるものかを慎重に積ってみた人だ。曖昧な言い方がしたいのではない。そうでも言うより他はないような厄介な経験に、彼は堪えた。「源氏」を正しく理解しようとして、堪え通してみせたのである。宣長の「源氏」による開眼は、研究というよりむしろ愛読によった、と先きに書いた意味もここにつながって来る。……
ここで言われている「文華逸興」の「文華」は詩文の華やかさ、「逸興」は興趣が深いさまですが、宣長の師であった賀茂真淵は、「源氏物語」は和歌とはちがって物語である、物語を正しく理解するには和歌を理解するときのように「文華逸興」だけを見て事足れりとしてはいけない、表面の「文華逸興」以上に作者は何を言おうとしているか、訴えようとしているか、そこを和歌よりも深く、広範に読み取らなければ物語は読んだことにならない、という建前に凝り固まり、契沖が「源氏物語」を読むにあたっての心得として残した「定家卿云、可翫詞花言葉。かくのごとくなるべし」という諭しも片言だと嘯いてすませるなど、真淵はこの局面においても宣長の反面教師でした、しかし、こういう尊大な真淵とは一線を画して……、と、小林先生は言うのです、もう一度引きます、
――宣長は、言わば、契沖の片言に、実はどれほどの重みがあるものかを慎重に積ってみた人だ。そうでも言うより他はないような厄介な経験に、彼は堪えた。「源氏」を正しく理解しようとして、堪え通してみせたのである。……
さらに小林先生は、契沖の意を酌んだ宣長の意を酌んで続けます。
――「源氏」という物に、仮りに心が在ったとしても、時代により人により、様々に批評され評価されることなど、一向気に掛けはしまい。だが、凡そ文芸作品という一種の生き物の常として、あらゆる読者に、生きた感受性を以て迎えられたいとは、いつも求めて止まぬものであろう。一般論による論議からは、いつの間にか身をかわしているし、学究的な分析に料理されて、死物と化する事も、執拗に拒んでいるのである。作品の門に入る者は、誰もそこに掲げられた「可翫詞花言葉」という文句は読むだろう。しかし詞花言葉を翫ぶという経験の深浅を、自分の手で確かめてみるという事になれば、これは全く別の話である。……
と、ここまで言い置いて、先生は観点を変えます。
2
――坪内逍遥は、「小説神髄」で、欧洲の近代小説の発達に鑑み、我が国の文人ももう一度小説の何たるかを反省するを要すると論じた。文学史家によって、我が国最初の小説論とされているのは、よく知られている。作家は、小説の作意を、娯楽、或は勧懲に発する、という長い間の迷夢から醒め、「畢竟、小説の旨とする所は、専ら人情世態の描写にある」事を悟るべきである。その点で、「玉のをぐし」にある物語論は、まことに卓見であり、「源氏」は、「写実派」小説として、小説の神髄に触れた史上稀有の作である。この意見は有名で、「源氏」や宣長を言う人達によって、屡々言及されるところだが、逍遥が、「源氏」や宣長の著作に特に関心を持っていたとは思えないし、ただ小説一般論に恰好な思い附きを出ないのだが、逍遥の論が、文学界の趨勢を看破した上でのものだった事には間違いはないのだから、思い附きも時の勢いに乗じて力強いものとなった。ここでは、大ざっぱに言って置けば足りるので、大ざっぱに言うのだが、写実主義とか現実主義とか呼ばれる、漠然とはしているが強い考えの波に乗り、詩と袂を分った小説が、文芸の異名となるまで、急速に成功して行く、誰にも抗し難い文芸界の傾向のうちに、私達はいる。……
そういう「写実主義」とか「現実主義」とか言われる近代の文芸思潮、すなわち、紫式部はもちろんですが、定家も契沖も知らなかったどころか夢にも思わなかった文芸思潮の跋扈によって「源氏物語」は多大の迷惑を蒙りました、小林先生は続けます、
――「源氏」の詞花が、時が経るに従い陳腐となり、難解となる、と皆他人事のように考えているが、実は、そうなる事を、私達が先ず欲していなければ、決してそうなりはしない。「源氏」は、逍遥の言うように、写実派小説でもなければ、白鳥の言うように、欧洲近代の小説に酷似してもいないが、そう見たい人にそう見えるのを如何ともし難い。鷗外によって早くも望まれた、現代語訳という「源氏」への架橋は、今日では「源氏」に行く一番普通な往還となったが、通行者達は、街道が、写実小説と考えられた「源氏」にしか通じていない事を、一向気に掛けない。これは、わが国の古典の現代語訳、西洋文学の邦訳の今日に於ける効用性とは、一応切離して考えられる事であり、もし詞より詞の現わす実物の方を重んずる、現実主義の時代の底流の強さを考えに入れなければ、潤一郎や白鳥に起った、一見反対だが同じような事、つまり、どんな観点も設けず、ただ文芸作品を文芸作品として自由に味わい、動かされていながら、その経験の語り口は、同じように孤独で、ちぐはぐである所以が合点出来ない。私は、ここで、時の勢いをとやかく言っているのでもないし、自分流の「源氏」論を語ろうとするのでもない。ただ、「源氏」の理解に関して、私達が今日、半ば無意識のうちに追込まれている位置を意識してみる事は、宣長の仕事を理解する上で、どうしても必要だと思っているだけなのだ。……
では、宣長が、契沖の意を体して会得しようとした「翫詞花言葉」とはどういうことだったのでしょうか、そしてなぜ契沖は、「源氏物語」を読むなら「詞花言葉」を「翫べ」、「翫ばなければならない」と言ったのでしょうか。
契沖の思いの底を読み取って、小林先生は言っています、
――凡そ文芸作品という一種の生き物の常として、あらゆる読者に、生きた感受性を以て迎えられたいとは、いつも求めて止まぬものであろう。……
文芸作品という生き物が、ということはその作品の作者が読者に求めて止まない「生きた感受性を以て迎えられたい」という希い、これに読者が「生きた感受性」を以て応えるには、文芸作品ならではの「詞花言葉を翫ぶ」ことこそが第一でしょう、否、それに尽きるとまで言えるでしょう。
こうして第十八章で提示された「詞花言葉」の問題は、第十八章の随所でまだまだ次のように言われています。各項末尾の数字は「小林秀雄全作品」第27集の頁です。
宣長は「源氏」を「歌物語」と呼んだが、これには彼独特の意味合があった。「歌がたり」とか「歌物がたり」とかいう言葉は、歌に関聯した話を指す、「源氏」時代の普通の言葉であるが、宣長は、「源氏」をただそういうもののうちの優品と考えたわけではない。この、「源氏」の詞花の執拗な鑑賞者の眼は、「源氏」という詞花による創造世界に即した真実性を、何処までも追い、もし本質的な意味で歌物語と呼べる物があれば、これがそうである、驚くべき事だが、他にはない、そう言ったのである。(200)
彼が歌道の上で、「物のあはれを知る」と呼んだものは、「源氏」という作品から抽き出した観念と言うよりも、むしろそのような意味を湛えた「源氏」の詞花の姿から、彼が直かに感知したもの、と言った方がよかろう。彼は、「源氏」の詞花言葉を翫ぶという自分の経験の質を、そのように呼ぶより他はなかったのだし、研究者の道は、この経験の充実を確かめるという一と筋につながる事を信じた。(202)
詞花の工夫によって創り出された「源氏」という世界は、現実生活の観点からすれば、一種の夢というより他はない。質の相違した両者の秩序の、知らぬうちになされる混同が、諸抄の説の一番深いところにある弱点である事を、宣長は看破していた。「源氏」が精緻な「世がたり」とも見えたところが、人々を迷わせたが、その迫真性は、作者が詞花に課した演技から誕生した子であり、その点で現実生活の事実性とは手は切れている。「源氏」という、宣長の言う「夢物語」が帯びている迫真性とは、言語の、彼の言う「歌道」に従った用法によって創り出された調べに他ならず、この創造の機縁となった、実際経験上の諸事実を調査する事は出来るが、先ずこの調べが直知出来ていなければ、それは殆ど意味を成すまい。「源氏」が作者不詳の作であっても、その価値に変りはないし、作者の「日記」も、作に照らされなければ、その意味を完了しまい。(203)
作者は、「よき事のかぎりをとりあつめて」源氏君を描いた、と宣長が言うのは、勿論、わろき人を美化したという意味でもなければ、よき人を精緻に写したという意味でもない。「物のあはれを知る」人間の像を、普通の人物評のとどかぬところに、詞花によって構成した事を言うのであり、この像の持つ疑いようのない特殊な魅力の究明が、宣長の批評の出発点であり、同時に帰着点でもあった。(204)
この、宣長の「源氏」論の、根幹を成している彼の精神の集中は、研究の対象自体によって要請されたものであった。それは、詞花言葉の工夫によって創り出された、物語という客観的秩序が規定した即物的な方法だったので、決して宣長の任意な主観の動きではなかった。彼は、「源氏」を、漠然と感動的に読んだのではない。(205)
そこには宣長独自の創意工夫がありました。
次回はその宣長の創意工夫を目の当りにします。
(つづく)