小林秀雄「本居宣長」を読む(三十六)
第十八章 下 詞花言葉を翫ぶべし、宣長の実践 その二
池田 雅延
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前回、私は最後に次のように言いました。
――では、宣長が、契沖の意を体して会得しようとした「翫詞花言葉」境地とはどういう境地だったのでしょうか、そしてなぜ契沖は、「源氏物語」を読むのであれば「詞花言葉」を「翫ぶがよい、翫べ」と言ったのでしょうか。……
こう言い置いて私は、第十八章で「詞花言葉」という言葉が取り沙汰されている件を五個所、抜粋しましたが、その五個所の中には「詞花言葉」の説得力、浸透力を逸早く感取して駆使した「源氏物語」の作者、紫式部の言語感覚に対する宣長の直観が次のように言われていました。末尾の( )内は新潮社刊「小林秀雄全作品」第27集の当該頁、文中に下線を引いたのは私、池田です。
*宣長は「源氏」を「歌物語」と呼んだが、これには彼独特の意味合があった。「歌がたり」とか「歌物がたり」とかいう言葉は、歌に関聯した話を指す、「源氏」時代の普通の言葉であるが、宣長は、「源氏」をただそういうもののうちの優品と考えたわけではない。この、「源氏」の詞花の執拗な鑑賞者の眼は、「源氏」という詞花による創造世界に即した真実性を、何処までも追い、もし本質的な意味で歌物語と呼べる物があれば、これがそうである、驚くべき事だが、他にはない、そう言ったのである。(200)
*彼が歌道の上で、「物のあはれを知る」と呼んだものは、「源氏」という作品から抽き出した観念と言うよりも、むしろそのような意味を湛えた「源氏」の詞花の姿から、彼が直かに感知したもの、と言った方がよかろう。彼は、「源氏」の詞花言葉を翫ぶという自分の経験の質を、そのように呼ぶより他はなかったのだし、研究者の道は、この経験の充実を確かめるという一と筋につながる事を信じた。(202)
*詞花の工夫によって創り出された「源氏」という世界は、現実生活の観点からすれば、一種の夢というより他はない。質の相違した両者の秩序の、知らぬうちになされる混同が、諸抄の説の一番深いところにある弱点である事を、宣長は看破していた。「源氏」が精緻な「世がたり」とも見えたところが、人々を迷わせたが、その迫真性は、作者が詞花に課した演技から誕生した子であり、その点で現実生活の事実性とは手は切れている。(203)
*作者は、「よき事のかぎりをとりあつめて」源氏君を描いた、と宣長が言うのは、勿論、わろき人を美化したという意味でもなければ、よき人を精緻に写したという意味でもない。「物のあはれを知る」人間の像を、普通の人物評のとどかぬところに、詞花によって構成した事を言うのであり、この像の持つ疑いようのない特殊な魅力の究明が、宣長の批評の出発点であり、同時に帰着点でもあった。(204)
*この、宣長の「源氏」論の、根幹を成している彼の精神の集中は、研究の対象自体によって要請されたものであった。それは、詞花言葉の工夫によって創り出された、物語という客観的秩序が規定した即物的な方法だったので、決して宣長の任意な主観の動きではなかった。(205)
こうしてここまで見てくれば、「『源氏物語』は詞花言葉を翫ぶべし」と端的に言った契沖は、「源氏物語」には紫式部が巧みに駆使した詞花言葉の文や含みによって人間というものの像が新たに認識されている、さらには人間界というものの秩序が新たに提示されている、だから「源氏物語」はその詞花言葉を翫ばなければ意味がない、宝の持ち腐れになる、そう言ったのだと思えるのですが、今日では単に「持って遊ぶ」「いじる」と解されて玩具や趣味の世界が連想されがちな「翫」の字は諸橋轍次著『大漢和辞典』にはこう言われています、――もてあそぶ。手にとって心ゆくまでたのしむ。反覆して心ゆくまでする……、だとすれば「詞花言葉を翫ぶべし」の「翫ぶ」も契沖は単に「持って遊ぶ」「いじる」に留まらず「手に取って心ゆくまでたのしむ」「反覆して心ゆくまで味わう」の意で言ったと思われるのですが、小林先生は第十八章の初めでこう言っていました。
――「定家卿云、可翫詞花言葉。かくのごとくなるべし」という契沖が遺した問題は、誰の手も経ず、そっくりそのまま宣長の手に渡った。宣長がこれを解決したと言うのではない。もともと解決するというような性質の問題ではなかった。なるほど契沖の遺したところは、見たところほんの片言に過ぎない。事実、真淵のような大才にもそう見えていた。「源氏」は物語であって、和歌ではない、これを正しく理解するには、「只文華逸興をもて論」じてはならぬ、という考えから逃れ切る事が出来なかった。宣長は、言わば、契沖の片言に、実はどれほどの重みがあるものかを慎重に積ってみた人だ。曖昧な言い方がしたいのではない。そうでも言うより他はないような厄介な経験に、彼は堪えた。「源氏」を正しく理解しようとして、堪え通してみせたのである。……
2
では宣長の、「厄介な経験」の「堪え方」は、どうであったか、です。引き続き小林先生の言われるところを聴いていきます。
――専門化し進歩した「源氏」研究から、私など多くの教示を得ているのだが、やはり其処には、詞花を翫ぶというより、むしろ詞花と戦うとでも言うべき孤独な図が、形成されている事を思わざるを得ない。研究者達は、作品感受の門を、素速く潜って了えば、作品理解の為の、歴史学的社会学的心理学的等々の、しこたま抱え込んだ補助概念の整理という別の出口から出て行って了う。それを思ってみると、言ってみれば、詞花を翫ぶ感性の門から入り、知性の限りを尽して、又同じ門から出て来る宣長の姿が、おのずから浮び上って来る。出て来た時の彼の自信に満ちた感慨が、「物語といふもののおもむきをばたづね」て、「物のあはれといふことに、心のつきたる人のなきは、いかにぞや」(「玉のをぐし」一の巻)という言葉となる。……
この文中の、「詞花を翫ぶ感性の門から入り、知性の限りを尽して、又同じ門から出て来る宣長の姿」は、続いて次のように示されます、
――「源氏ヲ一部ヨクヨミ心得タラバ、アツパレ倭文ハカヽルヽ也。シカルニ今ノ人、源氏見ル人ハ多ケレド、ソノ詞一ツモ我物ニナラズ、(中略)源氏ニカギラズ、スベテ歌書ヲ見ルニ、ソノ詞一々、ワガモノニセント思ヒテ見ルベシ」。これは「あしわけ小舟」の中にあった文だが、早くから訓詁の仕事の上で、宣長が抱いていた基本的な考えであった。彼の最初の「源氏」論「紫文要領」が成った頃に、「手枕」という擬古文が書かれたという事実は、看過する事が出来ない。……
「擬古文」とは、『大辞林』によれば「古い時代の作品の文体をまねて作った文章」であり、「江戸中期から明治にかけて、主に国学者・歌人たちが平安時代の和歌や文章を範として書いた文章」のことで、ここで言われる「手枕」は、「源氏物語」の「空蝉」の巻と「夕顔」の巻との間にあってよいはずの行く立てでありながら、「源氏物語」のどの伝本にも見当らないとして宣長が私的に書き加えた創作です。
そしてその行く立てとは、こうです、「源氏物語」の登場人物のひとりに六条御息所がいますが、この六条御息所は「夕顔」の巻で突然、生霊の姿で登場しています、小林先生は言います、
――周知のように、六条御息所という女性は、「物の怪」の役をふられて、「物語」の運びに深く関係して来る登場人物であるが、彼女は、「夕顔の巻」で、光源氏の枕上に、突然「いとをかしげなる女」の姿で坐る。読者は勿論、源氏自身にも、その正体はわからない。物語は、そういう風に書かれている。この女君と源氏との間にあった過去の情交については、何も書かれていない。もし作者の省筆を補うなら、「空蝉」と「夕顔」との間に、もう一巻挿入出来るであろうという想像が、宣長の「手枕」となった。宣長は、「夕顔」の唐突な書き出しに不審を抱いたわけではない。物語には、今は伝わらぬ欠巻が存したかも知れぬというような考えは、彼にはなかった。恐らく、彼の眼には、作者の省筆が、類まれなる妙手にして、はじめて可能であった物語の趣向と映っていたに相違ないのであって、「手枕」は、彼自身には、上梓の意など少しもなかった純然たる戯作と見るより他はない。言葉を代えれば、「手枕」をものした彼の動機は、ひたすら「源氏」の詞花言葉を翫ばんとしたところにあったのであり、事実、その詞を我物にした宣長の姿を、これを読む者は納得せざるを得ない。「源氏」の詞に熟達しよう、これを我物にしようとする努力を自省すれば、そこから殆ど自動的にどんな意味が生じて来るか、それが彼が掴んだ「物のあはれといふ心附き」である。彼の「源氏」理解という経験は、享受と批評という人為的な区別を、少しも必要とはしていなかったのである。……
宣長が「手枕」を書いた動機と目的は原作の空白を補おうとしてではなく、あくまでも「源氏物語」の詞花言葉を「ワガモノニセン」とする悲願から出ていたのであり、その悲願達成のための手段として宣長は紫式部という妙手が意図して設けていた省筆箇所を利用したと小林先生は見るのですが、そうであるなら「詞花言葉を翫ぶ」の「翫ぶ」とはまず「魅せられて」「親しみを深め」、自家薬籠中のものとなるまで「使い慣れて」「使いこなす」、そこまでを契沖は言ったにちがいない、宣長はそう解して「手枕」を試みたと言えるでしょう。
ここで今一度、宣長の「あしわけ小舟」から引きます。
――源氏ヲ一部ヨクヨミ心得タラバ、アツパレ倭文ハカヽルヽ也。シカルニ今ノ人、源氏見ル人ハ多ケレド、ソノ詞一ツモ我物ニナラズ、(中略)源氏ニカギラズ、スベテ歌書ヲ見ルニ、ソノ詞一々、ワガモノニセント思ヒテ見ルベシ。……
こうして成った「手枕」に目を細め、小林先生は言います、
――「手枕」をものした彼の動機は、ひたすら「源氏」の詞花言葉を翫ばんとしたところにあったのであり、事実、その詞を我物にした宣長の姿を、これを読む者は納得せざるを得ない。……
そうであるなら私たちも、「手枕」を知識として受け取るだけではすまないでしょう、「手枕」を直に読み、宣長が敢えて挑んだ「厄介な経験」の片端なりと追体験するのでなければ、「今ノ人、源氏見ル人ハ多ケレド、ソノ詞一ツモ我物ニナラズ」と言った宣長の苛立ちをいっそうかきたてることになるでしょう、だからここに……と「手枕」の全文を引いておきたい衝動に駆られるのですが、「手枕」の文字数は六千字に近く、四百字詰の原稿用紙で言えば約十五枚です、と言うことは、もうこれだけで小誌『身交ふ』の一号分に迫ってしまいますから、ひとまず今回は以下のとおり、岩波書店刊『本居宣長全集』別巻一(昭和五一年八月刊)から「手枕」の起筆部を宣長の自筆本で引くに留めます。しかし早くも『源氏物語』の詞一々、ワガモノニセント思ヒテ」気負い立った宣長の息づかいが聞こえます。
――前坊と聞えしは、うへの御ンはらからにおはしまして、大方の御ンおぼえはさる物にて。内々の御ありさまもいとあはれに、やむごとなくおもほしかはし給ひ。世の人も、[つぎのみかどがねと。になう心よせつかふまつりて]。行末めでたく。あかぬことなき御ン身を。いかなる御心にか有けむ。世をあぢきなき物におもほしとりて。つねはいかでかうくるしく所せき身ならで。いけるよのかぎり心やすくのどやかに。思ふことのこさず。心のゆくわざして。あかしくらすわざもがなとのみ。おぼしわたりけるほどに、つひに御ンほいのごと、春宮をもじし聞えさせ給ひて。六條京極わたりになんすみ給ヒける、……
(つづく)