小林秀雄「本居宣長」を読む(四)

小林秀雄「本居宣長」を読む(四)
第一章   桜との契り
池田 雅延  
   第一章   桜との契り
 
     
 
 第一章で宣長の遺言書を読み、その遺言書で宣長は自分の墓の設え方まで指示し、墓碑の後ろには「山桜之随分花之よろし木」をよく吟味して植えよと言っていると語った小林先生は、第一章の最後で宣長の桜に対する愛着の烈しさに思いを馳せます。
 終り近くになって遺言書は葬儀の後の墓参とか法事とかに関する事柄に及び、毎年、祥月命日には座敷の床に自分の像掛物をかけ、命日その日でなくてよいから門弟たちが集って歌会を開いてほしいと言っている、と語った後に、先生はこう記します、
 ――ここに、像掛物とあるのは、寛政二年秋になった、宣長自画自賛の肖像画を言うので、有名な「しき嶋の やまとごゝろを 人とはゞ 朝日にゝほふ 山ざくら花」の歌は、その賛のうちに在る。だがここでは、歌の内容を問うよりも、宣長という人が、どんなに桜が好きな人であったか、その愛着には、何か異常なものがあった事を書いて置く。……
 寛政二年(一七九〇)は宣長が還暦を迎えた年で、ここで言われている自画自賛像はその記念として描かれたのですが、
 ――宣長には、もう一つ、四十四歳の自画像がある。画面には桜が描かれ、賛にも桜の歌が書かれている。「めづらしき こまもろこしの 花よりも あかぬ色香は 桜なりけり」、宣長ほど、桜の歌を沢山詠んだ人もあるまい。……
 そう言って、続けます、
 ――宝暦九年正月(三十歳)には、「ちいさき桜の木を五もと庭にうふるとて」と題して、「わするなよ わがおいらくの 春迄も わかぎの桜 うへしちぎりを」とある。桜との契りが忘れられなかったのは、彼の遺言書が語る通りであるが、寛政十二年の夏(七十一歳)、彼は、遺言書をしたためると、その秋の半ばから、冬の初めにかけて、桜の歌ばかり、三百首も詠んでいる。この前年にも、吉野山に旅し、桜を多く詠み込んだ「吉野百首詠」が成ったが、今度の歌集は、吉野山ではなく「まくらの山」であり、彼の寝覚めの床の枕の山の上に、時ならぬ桜の花が、毎晩、幾つも幾つも開くのである。……
 そして、言います、
 ――歌のよしあしなぞ言って何になろうか。歌集に後記がある。少し長いが引用して置きたい。文の姿は、桜との契りは、彼にとって、どのようなものであったか、あるいは、遂にどのような気味合のものになったかを、まざまざと示しているからだ。……
 その歌集の後記を、ここにも先生の文章から引用します。先生は「文の姿」と言っていますが、先生が「姿」と言うときは、文章であっても歌であっても、そこにトーンとなって現れている書き手、詠み手の心持ちを読もうとしているのです、トーンこそが宣長にとって桜との契りはどのようなものであったかを文意以上に伝えていると先生は言っているのです。
 宣長は、こう書いています。
 ――これが名を、まくらの山としも、つけたることは、今年、秋のなかばも過ぬるころ、やうやう夜長くなりゆくまゝに、老のならひの、あかしわびたる、ねざめねざめは、そこはかとなく、思ひつゞけらるゝ事の、多かる中に、春の桜の花のことをしも、思ひ出て、時にはあらねど、此花の歌よまむと、ふとおもひつきて、一ッ二ッよみ出たりしに、こよなく物まぎるゝやうなりしかば、よき事思ひえたりとおぼえて、それより同じすぢを、二ッ三ッ、あるは、五ッ四ッなど、夜ごとにものせしに、同じくは、百首になして見ばやと、思ふ心なむつきそめて、よむほどに、ほどなく数はみちぬれど、此何がしをおもふとて、のどかならぬ春毎の、こゝろのくまぐまはしも、つきすべくもあらで、なほ、とさまかくさまに、思ひよらるゝはかなしごとどもを、うちもおかで、よみいでよみいでするほどに、又しもあまたになりぬるを、かくては二百首になしてむとさへ、思ひなりて、なほよみもてゆくまゝに、又其数も、たらひぬれば、今はかくてとぢめてむとするに、思ひかけざりし、此すさみわざに、秋ふかき夜長さも、わすられつゝ、あかしきぬる夜ごろのならひは、此言草の、にはかに霜枯て、いとゞしく、長きよは、さうざうしさの、今さらにたへがたきに、もよほされつゝ、夜を重ねて、思ひなれたるすぢとて、ともすれば、有し同じすぢのみ、心にうかびきつゝ、歌のやうなることどもの、多くおもひつゞけらるゝが、おのづからみそ一もじになりては、又しも数おほくつもりて、すゞろに、かくまでには成ぬる也。さるは、はじめより、皆そのあしたあしたに、思ひ出つゝ、物にはかきつけつれば、物わすれがちにて、もれぬるも、これかれとおほかるをば、しひてもおもひ尋ねず、たゞその時々、心に残れるかぎりにぞ有ける。ほけほけしき老のざめの、心やりのしわざは、いとゞしく、くだくだしく、なほなほしきことのみにて、さらに人に見すべき色ふしも、まじらねば、枕ばかりにしられても、やみぬべきを、さりとてかいやりすてむこと、はたさすがにて、かくは書あつめたるなり。もとより深く心いれて、物したるにはあらず、みなたゞ思ひつゞけられしまゝなる中には、いたくそゞろき、たはぶれたるやうなること、はたをりをりまじれるを、をしへ子ども、めづらし、おかし、けうありと思ひて、ゆめかゝるさまを、まねばむとな思ひかけそ、あなものぐるほし、これはたゞ、
 いねがての、心のちりのつもりつゝ、なれるまくらの、やまと言の葉の、霜の下に朽残りたるのみぞよ……
 ここまで引いて、先生は言います。
 ――「あなものぐるほし」という言葉は、ただ「をしへ子ども」に掛かる言葉とも思えない。彼にしてみても、物ぐるおしいのは、また我が心でもあったであろうか。彼には、塚の上の山桜が見えていたようである。
 我心 やすむまもなく つかはれて 春はさくらの 奴なりけり
 此花に なぞや心の まどふらむ われは桜の おやならなくに
 桜花 ふかきいろとも 見えなくに ちしほにそめる わがこゝろかな
 「奴」はしもべ、召使い、「おやならなくに」は親ではないのに、「ちしほにそめる」は色濃く染めることを言います。
 
     
 
 桜は、小林先生も好きでした。昭和三十七年(一九六二)六十歳の春、長野県高遠城の「血染めの桜」を見に行ったのが始まりで、毎年、全国各地へ桜の名木を訪ねて花見を楽しみました。高遠城の桜は先生が永年関わった創元社の社長、小林茂氏に誘われてのことでしたが、昭和三十七年といえば「本居宣長」を『新潮』に連載をし始める三年前です。三十五年七月にはその助走ともなった「本居宣長――『物のあはれ』の説について」(「小林秀雄全作品」第23集所収)を書いていました。
 先生自身から聞かせてもらう機会はなかったのですが、先生の桜への思い入れは昭和三十四年か五年の頃、折口信夫氏から受けていた示唆、「本居さんは源氏ですよ」を体翫すべく「本居宣長――『物のあはれ』の説について」を書こうとし、「古事記伝」のほかにも宣長の文章を次々と読みこんだときからではなかったでしょうか。そのとき、「まくらの山」の歌三百首と出会い、後記と出会い、宣長という学者を知ろうとするなら、あの「古事記伝」を三十五年もかけて書いた宣長を知ろうとするなら、宣長が抱いていたこの「異常なまでの桜に対する愛着」、これがわからないでは始まるまい、そう思い当ったときからではなかったでしょうか。高遠城に続いて昭和三十九年には青森県の弘前城、四十年には岐阜県根尾谷の「淡墨桜」と訪ねるうち、先生自身も物狂おしいまでの愛着を覚えていったのでしょう。
 
 しかし、何事もそうですが、桜も一言では語れません。桜というと私たちはほとんど反射的にソメイヨシノの満開を思い浮かべますが、小林先生はそうではありませんでした。まずいちばんに山桜、次いで枝垂れと八重でした。
 ソメイヨシノはエドヒガンとオオシマザクラの雑種で、徳川時代の末に江戸の染井、今日の豊島区駒込の植木屋から出たと言われています。育てるのに手がかからず、花付きもよいところからあっというまに各地に広がり、桜といえばソメイヨシノというほどの繁盛になりましたが、先生はにべもなく、ソメイヨシノは品がないと言っていました。
 昭和四十五年八月、九州の雲仙で行った講演「文学の雑感」(新潮CD「小林秀雄講演」第1巻所収)では、宣長の「しき嶋の やまとごころを 人とはば 朝日ににほふ 山ざくら花」を取り上げ、「山ざくら花」とはどういう花か、それが「におう」とはどういうことかを丹念に語っていますが、その流れのなかでソメイヨシノにふれ、ソメイヨシノは品がないどころか、冗談めかしてではあるものの「俗悪」とまで言っています。
 山桜は、単に山に咲く桜、の意で言われることもありますが、宣長の心をつかんだのは、野生する桜の一品種としての「山桜」です。高さは十メートルにも達し、若葉は赤褐色、春には葉と同時に淡紅色の花をつけます。
 よく知られた名所は奈良県の吉野で、宣長は四十代の初めに吉野の桜を見ましたが、宣長の桜を見る目がこの頃から変ったとも言われ、宣長の地元、三重県松阪市の本居宣長記念館の名誉館長、吉田悦之さんは、著書『宣長にまねぶ』(致知出版社刊)で、この吉野への旅で宣長はあらためて自分と桜との浅からぬ因縁を自覚しただろうと言われています。そして晩年、宣長は随筆集「玉勝間」の六の巻に書いています、「花はさくら、桜は、山桜の、葉あかくてりて、ほそきが、まばらにまじりて、花しげく咲きたるは、またたぐふべき物もなく、うき世のものとも思はれず……」。
 
 私たちの桜に対する誤解は、まだあります、例年、ソメイヨシノの開花は東京では三月下旬ですが、桜の開花と聞けば満開が気になります、しかし先生は言っていました、――花にも見頃というものがある、そういうことを知っている人も少なくなった、花の見頃は七分咲きだ、満開となるともうその年の盛りは過ぎている、花に最も勢いのある盛りの時機、それが七分咲きだ、昔の人は皆それを知っていた……。
 先に引いた宣長の歌を、ここでもう一度、読んでいただければと思います。あの三首は、小林先生が宣長の異常とも言える桜への愛着ぶりを読者に伝えようとして引いているのですが、そこにはもはや宣長に共感しきっている小林先生自身の桜に寄せる愛着、それを宣長に同時に歌ってもらう、そういう思いが重ねられているようにも読めるのです。
 
     
 
 それにしても小林先生は、宣長の「まくらの山」の後記をなぜ、「遺言書」と併せて読者に読んでもらおうとしたのでしょうか。
 先生は、「宣長という人が、どんなに桜が好きな人であったか、その愛着には、何か異常なものがあった事を書いて置く」とだけ言い、そのあとに「物ぐるおしいのは、また我が心でもあったであろうか。彼には、塚の上の山桜が見えていたようである」と言っています。ここから推せば、宣長が墓碑の後ろに山桜を植えよ、それも、花のよい木を選んで植えよと指図したのは、単に景観、景物としての要望ではなかった、宣長は、死んだ後も山桜と一緒にいたかった、墓碑の後ろの山桜は、そのためのたってのねがいだった、時季はずれの秋から冬への夜中にまで山桜を思い、連夜山桜を歌に詠んで倦まなかった宣長にすれば、死んだあとにはもう山桜は見られなくなる、それを思うと居ても立ってもいられない、その「物ぐるおしい」心が墓碑の後ろに塚を築いて山桜をと言わせたのだ、小林先生はそう読んでいるのです。したがって、先生が宣長の歌集の後記から読者に感じ取ってほしいと望んだ姿とは、宣長の何か「異常な愛着心」のトーンだったのです。
 先生は、宣長という人がどんなに桜が好きな人であったか、その愛着には何か異常なものがあった事を書いて置く、と言っているだけですが、「まくらの山」の後記を読んだ先生の脳裡には、おのずと「源氏物語」が、そして「古事記」が浮かんでいたのではないでしょうか。「源氏物語」も「古事記」も、宣長には山桜を見るのと同じように見えていた……、先生にはそう映り、だからこそ宣長の思想劇の幕切れを眺めたと言う第一章の最後に「まくらの山」の後記を置いたのではないでしょうか。宣長の桜に対する愛着には何か異常なものがあったと言われるなら、宣長の「源氏物語」の愛読にも、「古事記」の愛惜にも、明らかに尋常ならざるものが感じられます、そしてそこには、「美」に聡い宣長の天与の気質が感じられます。
 
 「まくらの山」の後記を読み、私はただちに「玉勝間」の、先にも引いた「花はさくら、桜は、山桜の、葉あかくてりて、ほそきが、まばらにまじりて、花しげく咲きたるは、またたぐふべき物もなく、うき世のものとも思はれず」を思い合せましたが、それと同時に「美」の一字が眼前に浮かび、そこに先生の「無常という事」(同第14集所収)が重なりました。
 ――歴史というものは、見れば見るほど動かし難い形と映って来るばかりであった。新しい解釈なぞでびくともするものではない、そんなものにしてやられる様な脆弱なものではない、そういう事をいよいよ合点して、歴史はいよいよ美しく感じられた。……「古事記伝」を読んだ時も、同じ様なものを感じた。解釈を拒絶して動じないものだけが美しい、これが宣長の抱いた一番強い思想だ。解釈だらけの現代には一番秘められた思想だ。……
 そこへさらに、戦後すぐの『近代文学』同人たちとの座談会「コメディ・リテレール」での先生の発言が被さりました、
 ――これから、歴史の合理的な解釈というものが盛んになるでしょう。しかし、伝統というものの尊さが本当に解ることは、そういうことだけでは恐らく駄目でしょう。本居宣長がやったような、歴史に関する深い審美的体験を必要とするでしょう。……
 ――文章の上手下手ということも、深く考えを押し進めて行くと、随分遠くまで行くものだ。思想の正しくないということも深く考えて行くと、文章の上手下手の問題と合致するのだ。美は真を貫く、善も貫くかも知れない。……
 「歴史に関する深い審美的体験」、そして「美は真を貫く、善も貫くかも知れない」……、小林先生はこの「審美的体験」ということと「美は真を貫く」ということ、これを「無常という事」の後を受けて「本居宣長」で本格的に言おうとし、その体現者としての宣長はまず山桜で、次いでは「源氏物語」で、次いでは「古事記」でと、ものの見事に「審美的体験」を貫き徹してみせてくれている、しかもそこには、「美は真を貫く」の確信がみなぎっている、そういう思想劇の幕をも先生は「まくらの山」の後記で開けようとしたのだと私には思えます。
 それというのも、「審美的」という言葉は、小林先生にあっては早くから確と目方のかかった大事な言葉だったのです。「様々なる意匠」を書いて『改造』の懸賞評論に応じ、二席に入って文壇に出た昭和四年の暮、今日風に言えば受賞第一作として発表した「志賀直哉」にこう書いています、
 ――志賀直哉氏の問題は、言わば一種のウルトラ・エゴイストの問題なのであり、この作家の魔力は、最も個体的な自意識の最も個体的な行動にあるのだ。(中略)氏の作品は、チェホフの作品の如く、その作品に描かれた以外の人の世の諸風景を、常に暗示しているが如き氛気ふんきを決して帯びてはいない。強力な一行為者の肉感と重力とを帯びて、すぐれた静物画の様に孤立して見えるのだ。こういう作家の表現した笑は、必然に単一で審美的なのである。……
 そう言い置いて、志賀氏の「清兵衛と瓢箪ひょうたん」の一場面を引きます、「彼は胸をどきどきさせて、『これ何んぼかいな』と訊いて見た。婆さんは、『ぼうさんじゃけえ、十銭にまけときやんしょう』と答えた。彼は息をはずませながら、『そしたら、屹度きつと誰れにも売らんといて、つかあせえのう。直ぐ銭持って来やんすけえ』くどく、これを云って走って帰って行った。間もなく、赤い顔をしてハアハアいいながら還って来ると、それを受け取って又走って帰って行った」
 ここまで引いて小林先生は、
 ――「清兵衛と瓢箪」の笑は、清兵衛とこの世との交錯から生れたのではない。作者の清澄の眼によって、吾々が笑という言葉で御粗末に要約する美の一表情が捕えられているのである。清兵衛は、瓢箪の様な曲線を描いて街を走るのだ。清兵衛は、玄能で、愛する瓢箪を、親父にわられ、瓢箪の様に青くなって黙るのだ。……
 以下、先生の文章を読んでいくと、早い時期から「審美的」という言葉と頻繁に出会います。「審美的判断」、「審美的理由」、「審美的実在」、「審美的希願」、「審美的価値」、「審美的範疇」、「審美的智恵」、「審美的直観」、「審美的機能」、「審美的要求」、「審美的自覚」、「審美的動機」……とたちまち十指に余り、枚挙にいとまがないと言っていいほどです。
 三十代半ばの昭和十三年頃から十年ちかく、先生は自ら狐がついたと言うほど骨董の美に凝り、次から次へと本物まがいの偽物に七転八倒させられた経験を四十八歳になって「真贋」と題した文章(同第19集所収)に書きましたが、五十三歳の末頃に書いた「ほんもの・にせもの展」という文章(同第21集所収)ではこう言っています、
 ――修練をつんだ眼には、ほんものは美しく、にせものは美しくないのである。……
 かくして「本居宣長」を書こうとした頃の先生には、「美は真を貫く」はもはや確信となっていたのです。山桜に見入ることで美の修練をつんだ宣長の眼には、「源氏物語」の文章も「古事記」の表記も、何を措いてもまず美しかった、そして「源氏物語」も「古事記」も、ともに宣長の「審美的直観」に余すところなく応えてくれた、そうと逸早く見てとった先生は、宣長は「源氏物語」を読むにあたって、契沖が言った「定家卿云、可翫詞花言葉(しかことばを もてあそぶべし)。かくのごとくなるべし」を愚直に、真っ正直に実行して「源氏物語」の詞花言葉を賞翫し尽したと第十七章、第十八章で言い、「古事記」については第三十章で、寛政十年九月、「古事記伝」の完成を祝う会のために宣長が詠んだ歌、「古事ふることの ふみをらよめば いにしへの てぶりことゝひ 聞見るごとし」を引き、「『古事記伝』終業とは彼には遂にこのような詠歌に到ったというその事であった。歌は、そのまま、彼が「古事のふみ」をひらいて、己れに課した問題の解答である事を示している」と言っていますが、いずれはこういうことを書くことになるという予感が先生には、宣長の桜に対する異常なまでの愛着に思いを馳せて第一章を閉じようとしていた先生には、すでにあったにちがいないとここで想像してみてもあながち先走りに過ぎるということはないであろうと思われます。
(第一章  了)