小林秀雄「本居宣長」を読む(六)

小林秀雄「本居宣長」を読む(六)
第三章  町人心の学問
池田 雅延  
  第三章  町人心の学問
 
     
 
 第一章、第二章と、本居宣長の「遺言書」を読んで宣長の思想劇の幕切れを眺めた小林先生は、第三章に入るや幕開きへ飛び、次のように書き起します。
 ――宣長は松坂の商家小津家の出である。……
 「松坂」は今日の三重県松阪市ですが、この第三章第一行は、単に宣長の出自を紹介しようとしての書き出しではありません。宣長の学問は、「町人の学問」だった、公家や武士の学問とはまったく異なる「町人心の学問」だった……、先生は、何よりもまずそのことを言おうとしているのです。
 日本における学問は、久しく儒学が中心でした、しかもその儒学は公家と僧侶に専有され、僧侶も主には禅僧でした。慶長八年(一六〇三)、徳川家康が江戸に幕府をひらき、後に近世儒学の祖とされた藤原惺窩せいかの周旋によって惺窩の弟子、林羅山を識り、以後、家康が羅山を重用したことで武家にも儒学の一派、朱子学が浸透しました。この「武家の学問」に続いて「町人の学問」も芽をふき、中江藤樹、伊藤仁斎、荻生徂徠と相次いで大学者が出たのですが、彼らを追って宣長が出たのは中江藤樹からでは一〇〇年余りを経た頃でした。
 ――小津家は、代々木綿業者であり、宣長の曾祖父あたりからは、江戸に出店を持ち、松坂で小津党と呼ばれるもののうちでも、最も有力な「とめる家」となっていた。宣長は、享保の生れであるから、西鶴が「永代蔵」で、「世に銭程面白き物はなし」と言った町人時代の立っている組織が、いよいよ動かぬものとなった頃、当時の江戸市民に、「伊勢屋、稲荷に犬の糞」と言われた、その伊勢屋の蔵の中で生れ、言わば、世に学問程面白きものはなし、と思い込み、初心を貫いた人である。……
 「西鶴」は江戸時代の初めに浮世草子で名を馳せた井原西鶴、「永代蔵」は西鶴の代表作のひとつで町人の立身出世譚を集めた「日本永代蔵」ですが、松坂をはじめ伊勢の国から江戸に出て店を構えた商人たちは屋号を「伊勢屋」とし、江戸市民からは一括りに「伊勢屋」と呼ばれもしたのです。
 続けて先生は、宣長晩年の手記「家のむかし物語」に拠って小津家、本居家の有為転変を記します。端的に言えば本居家は本居武秀によって興された武士の家でした、しかし、戦国時代の荒波に呑まれて武秀は討死にし、武秀の妻は懐姙かいにんの身で郷里に帰ると小津村の木綿業者、油屋源右衛門方に身を寄せましたが、源右衛門一家は松坂に移って小津姓を名乗り、武秀の遺子は源右衛門の長女をめとって小津家の別家を立てました。
 ところが武秀の妻は夫のことも先祖のことも秘して洩らさなかったため、本居家と小津家は宣長の代に至るまで互に見知らぬ他人同士でした。この武秀の妻の緘黙かんもくは「ものゝふ(武士/池田注記)のつら」から「商人のつら」に下ったについての外聞に関係したものだったようだと宣長は推定していますが、ここまで宣長の「家のむかし物語」を読んで小林先生は言います、
 ――すると、彼は、外聞をはばかる要もなくなって、百五十年もつづいた新興の商家の出という事になる。彼が承けついだ精神は、主人持ちの武士のものとは余程違う、当時の言葉で言う町人心であったと言ってよい。……
 「町人」とは、江戸時代の身分制度「士農工商」の「工」と「商」を一括した呼び名でしたが、町場の住民一般をさしても言われ、「ちなみに、養子の大平も、松坂の豆腐屋の倅である」と、先生は念を押すように言っています。

     

 さてそこで、小林先生の言う「町人心」です。先生の文脈に沿って言えば、この「町人心」こそは「向学心」という宣長の先天的気質を染めた後天的気質なのですが、先生がそれを言うために「町人」と対置した「武士」を、わざわざ「主人持ちの」とことわって言っていることに心を留めましょう。「主人持ち」の武士が、小林先生の言う「町人心」のありようを逆光で浮き立たせてくれるからです。
 小林先生は、暗に、こう言っているのです。宣長が家系から承けついだ精神、それが「主人持ち」の武士のものであったなら、いま私たちの目の前にある宣長の「源氏物語」研究も、「古事記伝」も、恐らく残されてはいなかっただろう……。「主人持ち」は、何事につけても主人の顔色を読み、主人に忠実であろうとします。そういう気質で学問をすれば、師の説になずみ、師の説を後追いするだけの学者になってしまうでしょう。宣長は、そうではなかったのです。
 
 「家のむかし物語」には、次いでこう言われています。
 ――此ぬし(義兄定治)なくなり給ひては、恵勝大姉(母)、みづから家の事をはからひ給ふに、跡つぐ弥四郎(宣長)、あきなひのすぢにはうとくて、たゞ、書をよむことをのみこのめば、今より後、商人となるとも、事ゆかじ、又家の資も、隠居家の店おとろへぬれば、ゆくさきうしろめたし、もしかの店、事あらんには、われら何を以てか世をわたらん、かねて、その心づかひせではあるべからず、然れば、弥四郎は、京にのぼりて、学問をし、くすしにならむこそよからめ、とぞおぼしおきて給へりける、すべて此恵勝大姉は、女ながら、男にはまさりて、こゝろはかばかしくさとくて、かゝるすぢの事も、いとかしこくぞおはしける、……
 宣長の母、勝は、女丈夫じょじょうぶでした。逼迫した家計と宣長の資質とを照らし合せ、宣長を医者にするという一石二鳥に賭けたのです。
 しかし、宣長の心中は、母の機転を讃えつつも複雑でした。小林先生は、――彼は、堀景山の弟子であった武川幸順に、医術を学び、松坂へ帰ると、小児科医を開業したのだが、「源氏物語」の講義も翌年から始っている。……と言った後、――なるほど、医は生活の手段に過ぎなかったが、これは、彼の言分を聞いた方がよい。……と前置きして「家のむかし物語」から引きます。
 ――医のわざをもて、産とすることは、いとつたなく、こゝろぎたなくして、ますらをのほいにもあらねども、……
 「つたなく」は見苦しく、「こゝろぎたなく」は浅ましく、「ほい」は「本意」です。医者を生業とすることは見苦しく浅ましく、いっぱしの男子が本望とするところではないが、と、宣長は母に敬意も謝意も抱きつつ心の底では医者を生業とすることを恥じていたのです。
 なぜでしょうか、なぜ宣長は医者として生きることを後ろめたく思い、男子たる者の「本意」ではないとまで思いつめていたのでしょうか。このあと小林先生は、宣長の書斎へ読者を案内し、書斎への階段の設え方に注目して宣長の「本意」を汲みます。
 ――宣長は、医というものを、どう考えていたか。「医は仁術じんじゅつ也」という通念は、勿論、彼にあっただろうし、一方、当時、「長袖ながそで」或は「方外ほうがい」と言われていた、この生業なりわいの実態もよく見えていただろう。すると、彼が「ますらをのほい」と言う観念は、どうも不明瞭なものになる、と言ったような次第だ。……
 宣長の時代、公卿や僧侶、神主、医師、儒者などは常に長袖の着物を着ていたところから嘲って「長袖」と呼ばれていました、「長袖」は「ちょうしゅう」とも言われましたが、また彼らは世俗を超えた世界に属する者、の意でやはり嘲って「方外」とも呼ばれていました。彼らは農民や大工のように額に汗して物を作りだすことをしない者であり、そういう意味では口銭、すなわち仲介手数料をとるだけのことをしてその手数料を糊口の資とする商人と同じ、あるいはそれ以下であると見られていたのです。
 宣長が、医を生業とすることは「ますらをのほい」ではない、いっぱしの男子として不本意だと言っているのは、そうした身分社会の偏見を気にしてのこととも思えるのですが、小林先生は強いてそこを突き詰めようとはせず、宣長が「ますらをのほい」と言う観念は、どうも不明瞭なものになるとだけ言って、次のように展開します。
 ――だが、彼の肉声は、そんな風には聞えて来ない。……
 「彼の肉声」とは、「医のわざをもて、産とすることは、いとつたなく、こゝろぎたなくして、ますらをのほいにもあらねども」と言った後に、
 ――おのれいさぎよからんとて、親先祖のあとを、心ともてそこなはんは、いよいよ道の意にあらず、力の及ばむかぎりは、産業を、まめやかにつとめて、家をすさめず、おとさざらんやうを、はかるべきものぞ、これのりなががこゝろ也……
 我が身をよく見せようとして、先祖代々の家を自分ひとりの考えで衰えさせたりしたのではますます道にそむくことになる、力の及ぶかぎり暮らしのための仕事に精を出し、家を荒さず、傾けさせないよう努力する、これが宣長の心である……、
 と、そう言っている宣長の語調からは、
 ――言わば、彼の充実した自己感とも言うべきものが響いて来る。やって来る現実の事態は、決してこれを拒まないというのが、私の心掛けだ、彼はそう言っているだけなのである。そういう心掛けで暮しているうちに、だんだんに、極めて自然に、学問をする事を、男子の本懐に育て上げて来た。宣長は、そういう人だった。彼は十六歳から、一年程、家業を見習いの為に、江戸の伯父の店に滞在した事もあるし、既記の如く、紙商人になった事もあるし、倒産の整理に当ったのも彼だった。……
 「本懐」は「本意」と同意です、ということは、かつて宣長が言っていた「ますらをのほい」は宣長自身にとってもはっきりしないものでしたが、「やって来る現実の事態は決してこれを拒まない」という心掛けで世に処しているうち、次第次第に明瞭になってきた「ほい」は「学問をすること」だった、ということのようなのです。「学問をすること」こそが自分の「本意」であるという予感は早くから宣長にありました。小林先生は次のように言っています。
 ――宣長は、享保十五年(一七三〇年)に生れた。十一歳の時、父定利は、江戸の店で死に、弟一人妹二人とともに母お勝の手で育てられた。十九歳になって、山田の紙商今井田家に養子にやられ、紙商人となったが、二十一歳の時、離縁して家に帰った。「家のむかし物語」には、「ねがふ心に、かなはぬ事有しによりて」とある。ねがう心とは、学問をねがう心であったろう。……
 さらに、宣長を医者にしようと決断した母、勝は、
 ――弥四郎(宣長)、あきなひのすぢにはうとくて、たゞ、書をよむことをのみこのめば……
 と、宣長がもって生まれた向学心という気質を見抜いていました、そしてそのことを、宣長自身も自覚していました。したがって宣長には、早くから「学問をすること」こそが「本意」であったと思われるのですが、当時、医者と同様に学者もまた「長袖」「方外」と呼ばれていましたから、若き日の宣長には「学のわざ」もまた「つたなく、こゝろぎたなくして」という蟠りが少なからずあったと思われるのです。しかしそこも宣長は、「やって来る現実の事態は、決してこれを拒まないというのが、私の心掛けだ、そういう心掛けで暮しているうちに、だんだんに、極めて自然に、学問をする事を、男子の本懐に育て上げて来た」のです。

     

 ――常に環境に随順した宣長の生涯には、何の波瀾も見られない。奇行は勿論、逸話の類いさえ求め難いと言っていい。松阪市の鈴屋遺跡を訪れたものは、この大学者の事業が生れた四畳半の書斎の、あまりの簡素に驚くであろう。……
 小林先生はそう言った後、宣長の小机に目をとめます。
 ――彼は、青年時代、京都遊学の折に作らせた、粗末な桐の白木の小机を、四十余年も使っていた。世を去る前年、同型のものを新たに作り、古い机は、歌をそえて、大平に譲った。「年をへて このふづくゑに よるひると 我せしがごと なれもつとめよ」。勉強机は、彼の身体の一部を成していたであろう。……
 一読したところ、この勉強机の話は、別段どうということもない一老人の身辺整理と映ります。しかし、この逸話をここに配した小林先生には、必ずや然るべき意図があったはずだと思わせられる奥行が感じられるのです。
 先生は、早くから「歴史の瑣事さじ」を重視していました。昭和十五年(一九三〇)一月、三十七歳で発表した「アラン『大戦の思い出』」(『小林秀雄全作品』第13集所収)ではこう言っています。
 ――アランなどを読んでいて、いつも僕が感服するのは、彼の思想の頂と人生の瑣事との間を、一本の糸がしっかりと結んでいる点だ。……
 また、同じ昭和十五年九月の「『維新史』」(同)ではこう言っています。
 ――歴史は精しいものほどよい。瑣事というものが持っている力が解らないと、歴史というものの本当の魅力は解らない様だ。……
 小林先生は、アランに即して言ったことを、宣長についても感じていたのではないでしょうか。アランは、その著「精神と情熱とに関する八十一章」を、若き日、小林先生自身が訳しもした、一九世紀末から二〇世紀前半にかけてのフランスの思想家ですが、ここのアランを宣長に置き換えてみれば、宣長の思想の頂と人生の瑣事、さしあたっては愛用の勉強机を大平に譲ったという瑣事との間を、一本の糸がしっかり結んでいるということになります。事実、宣長が勉強机に添えた歌、「年をへて 此ふづくゑに よるひると 我せしがごと なれもつとめよ」は、この小机にまつわる出来事の前々年、宣長が書いた「うひ山ぶみ」を連想させるのです。
 小林先生は、第六章に至って「うひ山ぶみ」に言及し、学問はどんな方法であってもよい、人それぞれであってよい、肝腎なことは、年月長く倦まず怠らず、励み努めること、これだけである、という弟子への諭しを強い語気で紹介します。これこそはのっぴきならない宣長の思想の頂です。大平に贈った歌の心は、まさに「年月長く、倦まず怠らず励み務めよ」なのです。
 そして「『維新史』」で言っていたことは、「本居宣長」を『新潮』に連載していた当時もしばしば先生の口に上っていました。宣長の全貌に照らして言えば、勉強机のことは紛れもない瑣事です、しかしこの瑣事は、本居宣長という歴史の彫りを、いっそう深くして後世に伝えていると小林先生は見たのです。

 そして先生は、小机を眺めた目を書斎へ上がる階段に移して言います。
 ――物置を改造した、中二階風の彼の小さな書斎への昇降は、箱形の階段を重ねたもので、これは紙屑かみくず入れにも使われ、取外しも自由に出来ている。これは、あたかも彼の思想と実生活との通路を現しているようなもので、彼にとって、両者は直結していたが、又、両者の摩擦や衝突を避けるために、取外しも自在にして置いた。「これのりなががこゝろ也」と言っているようだ。……
 こうしてここで言われる「思想と実生活との通路」、これが第三章最大の眼目です。
「思想と実生活」ということは、小林先生の作品でしばしば顧みられる大きなテーマですが、いま宣長の書斎への階段に見入る先生の眼は、たとえば昭和十年、三十三歳の年に書かれた「私小説論」など、先生の早くからの文学観、思想観に光っていた眼と同じ眼です。その文学観、思想観はとても一言で言うことはできませんし、一言で言えないからこそ先生は六十年にもわたって先生独自の批評文を書き続けたのだとも言えるのですが、ではなぜ先生はここでいきなり「思想」と「実生活」とを並べて言い、両者は直結しながらも摩擦や衝突を起こす関係にあったと言っているのでしょうか、少なくともそこにはふれておかなければなりません、先生が「本居宣長」は思想のドラマを書こうとしたのだと言っていることにも大きく関わるからです。

 昭和十一年、三十四歳の年の年頭から初夏にかけて、小林先生はロシアの文豪トルストイの家出と死をめぐり、作家の正宗白鳥氏と論争しました。
 発端は、同年一月、正宗氏が『読売新聞』に書いた「トルストイについて」でした。一九一〇年一〇月、八十二歳になっていたトルストイは侍医ひとりを伴って家出しました、ところが直後、肺炎に罹り、家を後にしてからわずか十日後に田舎の小駅の駅長官舎で息をひきとりました。日記によれば、彼の家出は妻を怖れたからであるらしい、人生救済の本家のように言われている文豪トルストイが、妻を怖れて家出し、最後は野たれ死にするに至ったと知ってみれば、悲壮でもあり滑稽でもあり、人生の真相を鏡にかけて見るようだと正宗氏は書きました。
 小林先生はただちに「作家の顔」(同第7集所収)を書いて反駁しました。トルストイにかぎらない、偉人や英雄が、その一生をかけた苦しみを通して獲得し、これが人生だと示してくれた思想は、とうてい凡人の獲得できるものではない、せっかくのそういう思想を棚上げし、偉人英雄の一生を凡人並みに引下ろして何になる、と小林先生は詰め寄ったのです。
 ――あらゆる思想は実生活から生れる。併し生れて育った思想が遂に実生活に訣別する時が来なかったならば、凡そ思想というものに何んの力があるか。大作家が現実の私生活に於いて死に、仮構された作家の顔に於いて更生するのはその時だ。……
 「思想」という言葉を小林先生はどういう意味合で用いるか、これについてはこの連載の第一回で、昭和十四年十二月、三十七歳の年に発せられた次の言葉を引きました。
 ――僕の精神は、何かを出来上らそうとして希望したり、絶望したり、疑ったり、信じたり、観察したり、判断したり、決意したりしているのだ。それが僕の思想であり、又誰にとっても、思想とはそういうものであろうと思う。……
 さらに、昭和二十六年、四十六歳の年には、こう言っています、
 ――思想は、現実の反映でもなければ再現でもない。現実を超えようとする精神の眼ざめた表現である。……(「感想<一年の計は…>」<同第19集所収>)
 こうして小林先生の言う「思想」と「実生活(現実)」に即して言えば、トルストイは実生活にあっては最晩年、家出して野垂死のたれじにするという悲惨な最期を遂げました、しかし彼は、その死に至るまでの間に実生活とはまったく別個に築いた作品世界、「戦争と平和」、「アンナ・カレーニナ」、「復活」といった小説家としての思想によって「人生救済の本家のように」言われ、現実の私生活においては死んだ後も仮構された作家の顔において生き返っていたのです。実生活者トルストイと思想家トルストイとはひとりの人間です、したがって両者を切り離すことはできません、しかし両者は共存もできません、なぜなら思想は、現実すなわち実生活を超えようとする精神の眼ざめた表現でなければならないからです、個人個人の実生活を超えて、万人に通底する「人性の基本構造」「人間の変らぬ本性」を指し示す「発見」でなければ説得力はないからです、これが小林先生が言った「あらゆる思想は実生活から生れる。併し生れて育った思想が遂に実生活に訣別する時が来なかったならば、凡そ思想というものに何んの力があるか」の意味するところです。
 これを、宣長の実生活で言えば、こうなります、第三章の最後に書かれています。
 ――宣長の晩年の詠に、門人「村上円方まどかたによみてあたふ、家のなり なおこたりそね みやびをの ふみはよむとも 歌はよむ共」(「石上いそのかみ稿こう」寛政十二年庚申)というのがある。宣長は、生涯、これを怠らなかった。これは、彼の思想を論ずるものには、用のない事とは言えない。先ず生計が立たねば、何事も始まらぬという決心から出発した彼の学者生活を、終生支えたものは、医業であった。彼は、病家の軒数、調剤の服数、謝礼の額を、毎日、丹念に手記し、この帳簿を「済世録さいせいろく」と名附けた。彼が、学問上の著作で、済世というような言葉を、決して使いたがらなかった事を、思ってみるがよい。……
 「家のなり」は暮しを立てるための仕事、家業、「なおこたりそね」は怠るでないぞ、「みやびを」は風雅を愛する者、です。
 宣長は、「学問上の著作で、済世というような言葉を、決して使いたがらなかった」、これこそは、「宣長の思想は、宣長の実生活に訣別していた」ということです。
 小林先生は、他人のであれ自分のであれ、まず実生活を熟視しました、その実生活からどう生きるか、なぜ生きるかの思想を紡ぎ、生涯かけてその思想を実生活の上に位置づけようとしました、そうでなければ人間は生きていけないと見てとっていました。いまここ第三章で、そういう小林先生の思想観をあえて知っておかねばならないということはありません、しかし先生が終始立っていたこういう思索の足場をこの機会に頭にいれておくことは大切です。なぜ人間は、実生活を超えて思想というものを欲するのか、「本居宣長」の最終章、第五十章で小林先生は言っています、
 ――端的に言って了えば、「天地の初発の時」、人間はもう、ただ生きるだけでは足らぬ事を知っていた、そういう事になろう。いかに上手に生活を追おうと、実際生活を乗り超えられない工夫からは、この世に生れて来た意味なり価値なりの意識は引出せないのを、上古の人々は、今日の識者達には殆ど考えられなくなったほど、素朴な敬虔な生き方の裡で気附いていた。これを引出し、見極めんとする彼等の努力の「ふり」が、即ち古伝説の「ふり」である。其処まで踏み込み、其処から、宣長は、人間の変らぬ本性という思想に、無理もなく、導かれる事になったのである。……
 ここで言われている「実際生活」は、それまでの文脈から、死の悲しみ、です。人間は、この世に生れ出た瞬間から死の予感を抱き、その死にどう向きあうかを模索しつづける、それが生きるということだとさえ言える、実生活と思想とはそういう位置関係にある……。「本居宣長」第三章の段階から小林先生はそこまで見通していたと言うのではありません。しかし、先生に直観はあったでしょう、その直観が、「本居宣長」を宣長の遺言書から始めさせたとも言えるのです。
 そして先生が、あの「これのりなががこゝろ也」で結ばれた述懐の文章を、書斎に上がる階段にそっくりだと言ったのは、宣長が実生活で医を生業とすることに後ろめたさを覚えながらもこれを忌避せず、しかしこれこそわが「本意」と見定めた学問には実生活を厳として介入させず、両者をともに立ててしかも両者の摩擦や衝突を避けるための工夫も怠らなかった、そういう宣長の心持ちが、「これのりなががこゝろ也」と結んだ文章にも、書斎に上がる階段にも、よく現れていると言いたいためです。
 にもかかわらずその心持ちを感じとろうとせず、宣長の本意は結局どこにあったのかと、文意を分析的に解読しようとしたのではかえって意味が不明になる、と先生は言います、ということは、そうしてしまったのでは宣長の学問に向かう心の糸筋が辿れなくなる、ひいては宣長の学問の姿が見てとれなくなる、と小林先生は言いたいのです。矛盾は矛盾として、軋轢は軋轢として抱えたまま、強いてそこに整合や調和を求めず、とりあえずできることをする、言えることを言う、それが宣長でした、ここにも宣長の町人気質が窺えるのです。

     

  ――佐佐木信綱氏の「松阪の追懐」という文章を読んでいたら、こんな文があった。「場所は魚町、一包代金五十銅として『胎毒丸』や『むしおさへ』などが『本居氏製』として売り出された。しかし、初めは患者も少なく、外診をよそおって薬箱を提げ、四五百よいほの森で時間を消された。『舜庵先生の四五百の森ゆき』の伝説が、近辺の人の口のにのぼったこともあったという」。出所は知らぬが、信用していい伝説と思われる。いずれ、言及しなければならぬ事だが、開業当時の宣長の心に、既に、学問上の独自な考えがきざしていた事は、種々の理由から推察される。彼は、もう、自分一人を相手に考え込まねばならぬ人となって、帰郷していたのである。恐らく、「四五百の森ゆき」は、その頃は、未だ出来なかった書斎へ昇る階段を、外す事だったであろう。ついでに、彼が、階段を下りて書いた薬の広告文をあげて置く。まぎれもない宣長の文体を、読者に感じて貰えれば足りる。
 ――六味地黄丸功能ノ事ハ、世人ノヨク知ルトコロナレバ、一々コヽニ挙ルニ及バズ、シカル処、惣体薬ハ、方ハ同方タリトイヘドモ、薬種ノ佳悪ニヨリ、製法ノ精麁セイソニヨリテ、其功能ハ、各別ニ勝劣アル事、コレ亦世人ノ略知ルトコロトイヘドモ、服薬ノ節、左而已サノミ其吟味ニも及バズ、レンヤク類ハ、コトサラ、薬種ノ善悪、製法ノ精麁相知レがたき故、同方ナレバ、イヅれも同じ事と心得、曾而カツテ此吟味ニ及バザルハ、麁忽ソコツノ至也、コレユヱニ、此度、手前ニ製造スル処ノ六味丸ハ、第一薬味を令吟味、何れも極上品を撰ミ用ひ、尚又、製法ハ、地黄を始、蜜ニ至迄、何れも法之通、少しも麁略ソリャク無之様ニ、随分念ニ念を入、其功能各別ニ相勝レ候様ニ、令製造、カツ又、代物シロモノハ、世間並ヨリ各別ニ引下ゲ、売弘者也……
 これが、第二章に、
 ――この誠実な思想家は、言わば、自分の身丈みたけに、しっくり合った思想しか、決して語らなかった。その思想は、知的に構成されてはいるが、又、生活感情に染められた文体でしか表現出来ぬものでもあった。……
 と言われていた「知的に構成されてはいるが、生活感情に染められた文体」です。
 
 宣長は、宝暦七年、二十八歳の十月、五年余りにわたった京都遊学から松坂へ帰り、ただちに医業を始めましたが、翌年の夏、「源氏物語」の講義を自宅で始め、以後「伊勢物語」「土佐日記」「萬葉集」「源氏物語」「萬葉集」また「源氏物語」……と死の直前まで続けました。
 ――講義中、外診の為に、屡々しばしば中座したという話も伝えられている。……
 家人の耳打ちを受けて聴講者にことわりを言い、薬箱を提げて出ていく宣長の背中が見えるようです。回を追って胸中には、「町人心の学問」が宣長独自の「ますらをのほい」となって根を張っていったにちがいありません。

(第三章 了)