小林秀雄「本居宣長」を読む(二十一)

小林秀雄「本居宣長」を読む(二十一)
第十三章
もののあはれの論の来た道
池田 雅延  
         

 前章の第十二章で、小林先生は言っていました。
 宣長は、宝暦十三年、三十四歳の年、賀茂真淵の門に入ったが、宣長の学問の独特な性格である「もののあはれ」の論の基本はそれより前に出来上がっていた。二十三歳の年から二十八歳の年まで京都に遊学した宣長が、その間の思索を記し留めた稿本「あしわけ小舟」に「もののあはれ」の論はもう顔を出していて、「歌ノ道ハ、善悪ノギロンヲステテ、モノノアハレト云事ヲシルベシ、源氏物語ノ一部ノ趣向、此所ヲ以テ貫得スベシ、外ニ子細ナシ」と断言され、後の「紫文要領」にまっ直ぐ進めばよいという、はっきりした姿が見られるのである。……
 そして先生は、最後にこう言いました、
 ――「あしわけ小舟」は、問題を満載していた。ここまででは、どうなるものでもない。文学の本質につき、出来る限り明瞭な観念を規定してみる事、歌の大道を、徹底的に分析したなら、その先きに、新しい展望は、おのずから開けるに違いない。宣長は、「ものゝあはれ」論という「あしわけ小舟」のかじを取った。……
 こうして宝暦七年、京都遊学から松坂へ帰った宣長は、宝暦十三年六月、「源氏物語」を論じた「ぶん要領」を書き上げ、歌を論じた「石上私淑言いそのかみささめごと」も同じ年に書き上げたと見られ、この両書によって「あしわけ小舟」以来の「もののあはれ」論を本格的に打ち出したのです。賀茂真淵に門下となることを許されたのはその年の十二月でした。

         

 第十三章は、これを承けて、次のように書き起されます。
 ――通説では、「ものゝあはれ」の用例は、「土佐日記」までさかのぼる。……
 と先生はまず言い、
 ――鹿児かこの崎を船出しようとして、人々、歌をみかわし、別れを惜しむ中に、「かじとり、ものゝあはれも知らで、おのれし酒をくらひつれば」とあるその用法で、貫之つらゆきが示したかったのは、「ものゝあはれ」と呼べば、歌の心得ある人は、誰も納得すると彼が信じた、歌に本来備わる一種の情趣である。……
 と言います。
 いまこうしてこの私記を書いている平成六年六月からでは五十年近く前になりますが、昭和五十二年(一九七七)の一月から九月にかけての時期、先生の『本居宣長』刊行を十月に控えて校正刷の閲読に取り組んでいた私は、第十三章で先生の言われている、
 ――「かじとり、ものゝあはれも知らで、おのれし酒をくらひつれば」とあるその用法で、貫之つらゆきが示したかったのは、「ものゝあはれ」と呼べば、歌の心得ある人は、誰も納得すると彼が信じた、歌に本来備わる一種の情趣である。……
 を、以下のように読んでいました、すなわち、紀貫之が「土佐日記」を書いた平安時代の中期、「もののあはれ」という言葉はすでに歌を詠む人々の間では常套語となっていて、「もののあはれ」とは「歌に備わる一種の情趣」のことであると彼らの誰にも受け取られていた、そしてこの「もののあはれ」という言葉は、言い換えれば歌や物語を歌や物語らしく読ませる美趣や雅趣のことであり、そういう受け取り方が時代が下るにつれて一般人の間にも広がり、宣長が歌に目覚め、歌をたしなむようになった頃には人々の固定観念ともなっていたが、宣長は、そこに一石を投じた、「もののあはれ」は歌や物語に備わっている情趣にはちがいない、だが、「もののあはれを知る」とはその情趣を解するというには留まらず、人間誰もが持ち合わせている心のはたらき、その微妙さに気づいて得心する、それが「もののあはれを知る」ということなのだと説いて平安時代の歌や物語に生身の人間の息づかいを甦らせた、こうして「もののあはれを知る」という言葉の面目を一新させた宣長の思索が第十三章で語られている……、と読んでいました。
 
 当時、私は三十歳、高校時代、大学時代を通じて聞き知った「もののあはれ」という言葉の含みを、歌や物語に備わっている美趣や雅趣のことと一方的に思い込んだまま先生の言われる「貫之(つらゆき)が示したかったのは、『ものゝあはれ』と呼べば、歌の心得ある人は、誰も納得すると彼が信じた、歌に本来備わる一種の情趣である」を読み、以来、出版社勤めという仕事の上でも私的読書の面でも、なんら支障は覚えなかったのです。
 ところが今回、第十三章を何度目かで読み始めるや、「土佐日記」で言われている「ものゝあはれも知らで」の「ものゝあはれ」は、歌に備わる美趣や雅趣だけを指してのことではないのではないか、小林先生の言われる「歌に本来備わる一種の情趣」も、先生は一般に受け取られているような「美」や「雅」の情感、情趣をさして言われているのではないのではないかと思えてきたのです。
 
「土佐日記」は、平安時代随一の歌人であり歌学者であった紀貫之きのつらゆきが、土佐守とさのかみの任を終えて土佐の国(現在の高知県)から京都に帰る五十五日間の船旅の模様を、「男もすなる日記にきといふものを、女もしてみむとて、するなり」と女性に仮託して仮名文字で印した日記ですが、小林先生がここで言っている「鹿児かこの崎を船出しようとして、人々、歌を詠(よ)みかわし、別れを惜しむ中に……」のくだりは、「土佐日記」の原文では次のように書かれています、新潮日本古典集成の「土佐日記」(木村正中氏校注)から引きます。
 ――鹿児の崎といふところに、かみ兄弟はらから、またこと人これかれ、酒なにと持て追ひ来て、磯におりゐて、別れがたきことをいふ。守の館の人々のなかに、この来たる人々ぞ、心あるやうには、いはれほのめく。
 かく別れがたくいひて、かの人々の、口網くちあみもろちにて、この海辺にてになひ出だせる歌、
   をしと思ふ 人やとまると あしがもの うち群れてこそ われは来にけれ
     (お別れするのが名残惜しいお方が、みんなでお願いすれば、留まってくださるかと、私たち大勢連れだってきました。/木村氏訳)
といひてありければ、いといたくでて、行く人のよめりける、
   さをさせど そこひも知らぬ わたつみの 深き心を 君に見るかな
     (棹をさしてもどこまでも底知れない海のように、深いご厚意をあなたがたに感じます。/同)
とあるうちの「口網も諸持ちにて」は、頭注に「心を合わせて送別の歌を合作詠唱し、またうやうやしく貫之に捧げたさまを、海岸の漁師たちが力を合わせて網を担ぎ出した風情に喩えて面白く表現した」と言われ、「行く人のよめりける」の「行く人」は土佐を後にする貫之自身か貫之の同行者で、こうして詠み交わされた二首、「をしと思ふ 人やとまると あしがもの……」と「さをさせど そこひも知らぬ わたつみの……」の歌の直後に、
 ――といふ間に、かぢりもののあはれも知らで、おのれし酒をくらひつれば、はやくいなむとて、「潮満ちぬ。風も吹きぬべし」と騒げば、船に乗りなむとす。……
 と言われているのです。
「といふ間に」は、「……と貫之たちが歌を詠み交わしている間に」ですが、この句は「楫取りもののあはれも知らで」を挟んで「おのれし酒をくらひつれば」に続いています。「楫取り」は船頭、和船の船長ですが、こういう句と句の続き具合から照らし返せば、「楫取りもののあはれも知らで(もののあはれも知らないで/池田注記)」は「おのれし酒をくらひつれば(自分自身それこそたっぷり酒を飲んだので/木村氏傍注)」に直接かかる挿入句であり、その前に言われている「をしと思ふ 人やとまると あしがもの」という歌と、「さをさせど そこひも知らぬ わたつみの」の歌の贈答を受けて言われていると言うよりも、ひたすら「おのれし酒をくらひつれば」を強調せんがために言われていると読めるのです。
 ここをさらに読みこめば、この船頭は、「もののあはれも知らで」「おのれし酒をくらひつれば」「はやくいなむとて(早く船出しようと言って/池田注記)『潮満ちぬ。風も吹きぬべし』と騒げば、船に乗りなむとす」、と容赦なく畳みかけられています、この文勢から推せば、ここでの「もののあはれも知らで」は、「歌の情趣のわからぬ男で……」というよりも、「その場に見合った気遣い気配りなどまるでできないやつで……」とでも訳せるような意味合であり、貫之たちと別れを惜しもうと何人かの人たちがもってきた酒、その酒を呆れたことに誰より先に船頭がたっぷり飲んでしまってというような始末で……、と読め、ここでの「もののあはれ」は、「歌の心得ある人は、誰も納得すると彼(貫之/池田注記)が信じた、歌に本来備わる一種の情趣」であるよりは、貫之たちとの別れを惜しむ土佐人たちが「磯におりゐて、別れがたきことをいふ。守の館の人々のなかに、この来たる人々ぞ、心あるやうには、いはれほのめく」と言われている「心あるやう」に対応し、また貫之側の歌にある「深き心」とも対応していると解されます。そこをさらに踏み込んで言えば、人と人、人と物との間で誰もが自ずと覚える感慨、いまこの場に即して言うなら人と人との別れの感傷ですが、そういう哀しみの感慨だけでなく、出会いの歓喜といった悦びの感慨を覚えることなどもがおしなべて「もののあはれを知る」と言われるようになっていたのではないでしょうか。そういう、詰まるところは歌人の専有語とは言えない「もののあはれを知る」という言葉の来た道を、宣長は「紫文要領」で次のように言っています。
 ――人の哀れなることを見ては哀れと思ひ、人の喜ぶを聞きてはともに喜ぶ、これすなはち人情にかなふなり、物の哀れを知るなり。人情にかなはず、物の哀れを知らぬ人は、人の悲しみを見ても何とも思はず、人の憂へを聞きても何とも思はぬものなり。かやうの人を悪(あ)しとし、かの物の哀れを見知る人をよしとするなり。……
     (新潮日本古典集成「本居宣長集」(日野龍夫氏校注)による)
 しかも宣長は、「土佐日記」の「かぢりもののあはれも知らで」の「もののあはれ」も、歌人の狭義の歌語に留まるものではないと早くに見てとっていたと思われるのです。第十三章を読んでいくと、宣長が京都遊学から松坂に帰った年の翌年に書き始めた「安波礼弁あはれのべん」が引かれます、小林先生が言われた、「貫之が示したかったのは、『もののあはれ』と呼べば、歌の心得ある人は、誰も納得すると彼が信じた、歌に本来備わる一種の情趣である」の「情趣」も、「人の哀れなることを見ては哀れと思ひ、人の喜ぶを聞きてはともに喜ぶ、これすなはち人情にかなふなり」という意味合においての情趣であったと今では私にもはっきり読み取れるのですが、そこをそうと宣長に気づかせて、「安波礼弁」を書かせたのも恐らくは紀貫之でした。

         

 紀貫之は、既述のとおり、日本で初めて書かれた仮名日記の作者として名を残しましたが、それ以上に史上初の勅撰和歌集『古今和歌集』の中心撰者として、またその仮名序の筆者としても名を残しました。小林先生は、
 ――周知のように、貫之の「古今集」序は、「ひと麿まろなくなりにたれど、歌の事、とどまれるかな」という自信に溢れた、歌の価値や伝統に関する、わが国最初の整理された自覚である。当然、宣長は、「ものゝあはれ」論を書く起点として、これを選んだ。……
 と言って、宣長の歌論書「石上私淑言いそのかみささめごと」から引きます。
 ――「古今序に、やまと歌は、ひとつ心を、たねとして、よろづのことのはとぞ、なれりける、とある。此こゝろといふがすなはち物のあはれをしる心也。次に、世中にある人、ことわざしげきものなれば、心に思ふ事を、みる物きく物につけて、いひいだせる也、とある、此心に思ふ事といふも、又すなはち、物のあはれをしる心也。上の、ひとつ心をといへるは、大綱をいひ、こゝは其いはれをのべたる也。同真名まな序に、思慮易遷、哀楽相変といへるも、又物のあはれをしる也」(「石上私淑言」巻一)
 そして続けます。 
 ――言うまでもなく、これは論の起点であって、これだけでは何も言わぬに等しいのだが、引用によって、私が、読者の注意をうながしたかったのは、他でもない、宣長が取りあげた「ものゝあはれ」という言葉は、貫之によって発言されて以来、歌文に親しむ人々によって、長い間使われて来て、当時ではもう誰も格別な注意も払わなくなった、極く普通な言葉だったのである。彼は、この平凡陳腐な歌語を取上げて吟味し、その含蓄する意味合の豊かさに驚いた。その記述が、彼の「ものゝあはれ」論なのであって、漠然たる言葉を、巧妙に定義して、事を済まそうとしたものではない。ひたすら自分の驚きを、何物かに向って開放しようと願ったとは言えても、これを、文学の本質論の型のうちに閉じ込めようとしたとは言い難い。……
 これを承けて、さらに言います、
 ――宣長は、「あはれ」とは何かと問い、その用例を吟味した末、再び同じ言葉に、否応いやおうなく連れ戻された。言わば、その内的経験の緊張度が、彼の「ものゝあはれ」論を貫くのである。この言葉の多義を追って行っても、様々な意味合をことごとく呑み込んで、この言葉は少しも動じない。その元の姿を崩さない。と言う事は、とどの詰り、この言葉は自分自身しか語ってはいない。彼は、この平凡な言葉の持つ表現性の絶対的な力を、はっきり知覚して驚くのである。私は、勝手な思い附きを述べるのではない。宣長自身の言うところを聞いた方がいいだろう。……
 そして先生は、宣長の『安波礼弁』を読みます。
 ――「恋せずば 人は心も なからまし 物のあはれも これよりぞ知る」という俊成の有名な歌につき、或る人が宣長に、この「あはれ」と言うのは、如何いかなる義かとたずねた。質問者は、語をつづけ、「物ノアハレヲ知ルガ、即チ人ノ心ノアル也、物ノアハレヲ知ラヌガ、即チ人ノ心ノナキナレバ、人ノ情ノアルナシハ、タダ物ノアハレヲ知ルト知ラヌニテはべレバ、此ノアハレハ、ツネニタヾ、アハレトバカリ心得ヰルマヽニテハ、センナクヤ侍ン」と言った。宣長わく、「予、心ニハサトリタルヤウニ覚ユレド、フト答フベキ言ナシ、ヤヽ思ヒメグラセバ、イヨイヨアハレト云言ニハ、意味フカキヤウニ思ハレ、一言二言ニテ、タヤスク対ヘラルベクモナケレバ、重ネテ申スベシト答ヘヌ、……
『安波礼弁』は、ここからが肝心です。小林先生の言う「この言葉の多義を追って行っても、様々な意味合をことごとく呑み込んで、この言葉は少しも動じない。その元の姿を崩さない。と言う事は、とどの詰り、この言葉は自分自身しか語ってはいない。彼は、この平凡な言葉の持つ表現性の絶対的な力を、はっきり知覚して驚くのである」は、『安波礼弁』の原文では次のように言われています。
――サテ其人ノイニケルアトニテ、ヨクヨク思ヒメグラスニ従ヒテ、イヨイヨアハレノコトバハ、タヤスク思フベキ事ニアラズ、古キ書又ハ古歌ナドニツカヘルヤウヲ、オロオロ思ヒ見ルニ、大方其ノ義多クシテ、一カタ二カタニツカフノミニアラズ、サテ、レ古キ書ドモヲ考ヘ見テ、ナヲフカクアンズレバ、大方歌道ハ、アハレノ一言ヨリホカニ、ナシ、神代ヨリ今ニ至リ、末世無窮ブキウニ及ブマデ、ヨミ出ル所ノ和歌ミナ、アハレノ一言ニ帰ス、サレバ此道ノ極意ヲタヅヌルニ、又アハレノ一言ヨリ外ナシ、伊勢源氏ソノ外アラユル物語マデモ、又ソノ本意ヲタヅヌレバ、アハレノ一言ニテ、コレヲオホフベシ、孔子ノ、詩三百一言以蔽之曰ク思無邪トノ玉ヘルモ、今コヽニ思ヒアハスレバ、似タル事也」(「安波礼弁」)。……
 小林先生はここまで読んで、「『安波礼弁』は宝暦八年(宣長二十九歳)に成った稿本である」と念を押すかのように最後に言い添えています。筑摩書房の『本居宣長全集』では『安波礼弁』は第四巻に収められていて、その解題で大野晋氏は次のように言っています。
 ――「安波礼弁」とは、アハレという語の語義を『古事記』『日本書紀』以下の諸書に例を求めて考究した小冊子にすぎないが、このアハレに関する研究は、宣長の文芸観の成長において極めて重要な意味を持つ。そこにすでに『紫文要領』『源氏物語玉の小櫛』等の思想の原型が鮮やかに示されているからである。……
 宣長は、「あはれ」という言葉の語義を、『古事記』『日本書紀』以下の諸書に用例を求めて手広く考究しました、その目論見は最初から壮大でした、小林先生は言っています、
 ――貫之にとって、「ものゝあはれ」という言葉は、歌人の言葉であって、かじとりの言葉ではなかった。宣長の場合は違う。言ってみれば、宣長は、楫とりから、「ものゝあはれ」とは何かと問われ、その正直な素朴な問い方から、問題の深さを悟って考え始めたのである。……
「宣長は、楫とりから、『ものゝあはれ』とは何かと問われ」は言葉のアヤです、貫之に「楫とり、もののあはれも知らで」と日記に書かれた楫とりの身になってみれば、もしもこの言葉が貫之の口をついて出ており、それがその場で楫とりの耳に入っていたとしたら、楫とりは聞きとがめ、「もののあはれって、何です」と貫之に食ってかかっていたかも知れない、小林先生はそういう楫とりの反感を想像してみて「宣長は、楫とりから『ものゝあはれ』とは何かと問われ」と言い、「その正直な素朴な問い方から、問題の深さを悟って考え始めたのである」と言っているのです。したがって、「その正直な素朴な問い方から、問題の深さを悟って考え始めた」のは宣長であるとともに、小林先生なのです。
 と言うことは、宣長自身、「土佐日記」のこのくだりを読むなり、「楫とり、もののあはれも知らで」の「もののあはれ」は、歌人たちが口にする歌語の「もののあはれ」であると同時に、歌人たちによって歌語にされてしまう前の素朴な日常語としての「もののあはれ」なのではないかと直覚し、そしてこの「もののあはれを知る」という言葉は、そもそもは誰にとっても身近な日常語だったのではないかという思いの奥行の深さを悟って真正面から考え始めた宣長、そういう宣長の思索の経緯を小林先生は脚色して辿り始めているのです。
 さきほど、私が、「楫とり、もののあはれも知らで」の周りを、「おのれし酒をくらひつれば」を杖にして尋ね歩いた小道は、宣長が「もののあはれを知る」という言葉の来た道を辿り返した経路を私なりに思い出してみてのことだったのです。
 ――彼は、「古今集」真名序の言う「幽玄」などという言葉には眼もくれず、仮名序の言う「心」を、「物のあはれを知る心」と断ずれば足りるとした。この歌学の基本観念が、俊成の「幽玄」、定家の「有心うしん」という風に、歌の風体論の枠内で、いよいよ繊細に分化し、歌人の特権意識のうちに、急速に、衰弱する歴史が見えていたが為である。それも、元はと言えば、自分は楫とりに問われているので、歌人から問われているのではないという確信に基く。「あはれ」という歌語を洗煉せんれんするのとは逆に、この言葉を歌語の枠から外し、ただ「あはれ」という平語に向って放つという道を、宣長は行ったと言える。貫之は「土佐日記」で、「楫とり、ものゝあはれも知らで」と書いたが、一方、楫とり達の取り交わす生活上の平語(日常語/池田注記)のリズムから、歌が、おのずから生れて来る有様が、鮮やかに観察されている。だが、貫之は、この問題の深さに、特に注目しなかった。……
「土佐日記」には、合せて六十首の歌が散りばめられていますが、その一首一首についてそれらの歌が生まれた場面が語られています。先に引いた「をしと思ふ 人やとまると あしがもの うち群れてこそ われは来にけれ」「さをさせど そこひも知らぬ わたつみの 深き心を 君に見るかな」にもその実例を見ていただくことができますが、ここで小林先生が「楫とり達の取り交わす生活上の平語のリズムから、歌が、おのずから生れて来る有様が、鮮やかに観察されている」と言われている場面と歌を、手近なところで具体的に見ておきましょう。
 貫之たちが鹿児の崎を発ったのは承平四年の十二月でしたが、二十九日、大湊に碇泊ていはくしてそのまま新年を迎え、一月六日まで風波やまずに過ぎた翌日です、
 ――七日になりぬ。おなじ港にあり。今日は白馬(あをむま)を思へどかひなし。ただ、波の白きのみぞ見ゆる。
かかる間に、人の家の、池と名あるところより、こいはなくて、ふなよりはじめて、川のも海のも、こと物ども、長櫃ながびつになひ続けて、おこせたり。若菜わかなぞ今日をば知らせたる。歌あり。その歌、
 あさ芽生ぢふの 野辺のべにしあれば 水もなき 池に摘みつる 若菜なりけり
いとをかし(まことに風情がある/木村氏傍注)、この池といふは、ところの名なり、[その送り主は/同]よき人の(身分のある女性で/同)、をとこ(夫/同)につきて下りて、住みけるなり。……
 文中の「白馬」は「一月七日、左右馬寮から出した白馬を天皇が御覧になり、後、諸臣に宴を賜う節会せちえ」で、「若菜ぞ今日をば……」は「今日が七種ななくさの若菜を摘む人日じんじつであることを思い起させてくれた」です。
 最後の「いとをかし」以下は、貫之の評語で、貫之はこの歌でも「人々の取り交わす生活上の平語のリズムから、歌がおのずから生れて来る有様を鮮やかに観察」しています、しかし貫之は、この、「人々の生活上の平語のリズムから歌がおのずと生れて来る」という不思議にはどの歌の場合も思いを馳せていません、宣長は、『古今集』の仮名序であれほどまでに歌というものの真髄に迫った貫之にして……、ともどかしさを覚え、宣長は独自に歌の生れ出るところに思いを致すことになったと小林先生は言っているのです。
(第二十一回 了)