小林秀雄「本居宣長」を読む(二十二)

小林秀雄「本居宣長」を読む(二十二)
第十三章
「源氏物語」による開眼
池田 雅延  
         

  第十三章は、 
 ――通説では、「ものゝあはれ」の用例は、「土佐日記」まで溯る。……と書き起され、
 ――宣長は、「あはれ」とは何かと問い、その用例を吟味した末、再び同じ言葉に、否応いやおうなく連れ戻された。言わば、その内的経験の緊張度が、彼の「ものゝあはれ」論を貫くのである。……
 と、小林先生は宣長の「もののあはれ」論の端緒を言い、では「その内的経験の緊張度」とはどういうものであったかです、小林先生は続けて言います、
 ――この言葉の多義を追って行っても、様々な意味合をことごとく呑み込んで、この言葉は少しも動じない。その元の姿を崩さない。と言う事は、とどの詰り、この言葉は自分自身しか語ってはいない。彼は、この平凡な言葉の持つ表現性の絶対的な力を、はっきり知覚して驚くのである。……
 古典の文中や歌中に「あはれ」という言葉が使われている例を見出し、そこで「あはれ」という言葉はどういうふうに用いられているかを丹念に追ってみると、実に多様な意味合に用いられていた、しかしそれらの多様な意味合を眺め渡してみれば、いずれの場合も元来の意味合を確と保って用いられている、そこで宣長は「あはれ」という言葉を歌語の枠から外し、すなわち、「あはれ」という言葉を和歌を詠む人たちの間で用いられていた特殊な言葉や表現のひとつとしてのみ見たり扱ったりすることをやめ、ただ「あはれ」という平語に向って放つ、すなわち「あはれ」という一般社会の日常語と同様に見て考え直す、そういう道を行ったと言える、と話をひろげた後に、先生は、
 ――さて、ここで、「源氏物語」の味読による宣長の開眼に触れなければ、話は進むまい。……
 と、話をさらに展げます。
 この展開は、「あはれ」と聞けば「源氏物語」が思い浮かぶという、国文学の初歩的知識が読者にもあるだろうからと配慮してのことともとれますが、先生自身、『新潮』に「本居宣長」を書き始める五年前、昭和三五年七月に「本居宣長―『物のあはれ』の説について」を新潮社の「日本文化研究」の一冊として出していましたから、先生としては『新潮』に「本居宣長」を書き始めたそのときから、「あはれ」という言葉についてより深く考えなければならない時期に至れば、宣長の「源氏物語」味読を周到に追体験しようと思い決めていたと思われるのです。
 このことについては、前々回の第十九回で第十一章の後半を読んだとき、私は次のように言いました。
 ――ここまで書いて小林先生は、昭和四〇年六月号から始めていた「本居宣長」の『新潮』連載を、四一年一一月号から四二年三月号まで五か月にわたって休みました。こうして「本居宣長」の連載を一時休止し、先生は「源氏物語」の原文を全篇、五か月かけて熟読したのです、しかもその熟読は並大抵の熟読ではなかっただろうと私は今回、あらためて思い当っています。先生は「本居宣長」の第十一章を書くことによって、――卑近なるもの、人間らしいもの、俗なるものに、道を求めなければならないとは、宣長にとっては、安心のいく、もっともな考え方ではなかった。俗なるものは、自分にとっては、現実とは何かと問われている事であった。この問いほど興味あるものは、恐らく、彼には、どこにも見附からなかったに相違ない。……という宣長の「俗」の思想に初めて明確に出会い、それがただちに宣長の「もののあはれ」の説に結びついた、ということがあったのではないでしょうか。……
 かくして「もののあはれ」という言葉についての考察が本格的に始められる第十三章は『新潮』の昭和四二年六月号でしたが、そこには宣長の「安波礼弁あはれのべん」が引かれ、「安波礼弁」にはこう言われていました。――大方歌道ハ、アハレノ一言ヨリホカニ、余義ヨギナシ、神代ヨリ今ニ至リ末世無窮ブキウニ及ブマデ、ヨミ出ル所ノ和歌ミナ、アハレノ一言ニ帰ス、サレバ此道ノ極意ヲタヅヌルニ、又アハレノ一言ヨリ外ナシ、……
 そして、その後に、
 ――伊勢源氏ソノ外アラユル物語マデモ、又ソノ本意ヲタヅヌレバ、アハレノ一言ニテ、コレヲオホフベシ、……
 と言われていることも、小林先生の「源氏物語」に注ぐ目をいっそう新たにしたと思われるのです。   

          

 今回読んでいる第十三章で、
 ――さて、ここで、「源氏物語」の味読による宣長の開眼に触れなければ、話は進むまい。……
 と言ってすぐ、  
 ――開眼という言葉を使ったが、実際、宣長は、「源氏」を研究したというより、「源氏」によって開眼したと言った方がいい。彼は、「源氏」を評して、「やまと、もろこし、いにしへ、今、ゆくさきにも、たぐふべき(匹敵する/池田注記)ふみはあらじとぞおぼゆる」(「玉のをぐし」二の巻)と言う。異常な評価である。冷静な研究者の言とは受取れまい。率直は、この人の常であるから、これは在りのままの彼の読後感であろう。彼は「源氏」を異常な物語と読んだ。これは大事な事である。宣長は、楫とりの身になった自分の問いに、「源氏」は充分に答えた、と信じた、有りようはそういう事だったのだが、問題は、彼自身が驚いた程深かったのである。……
 ――「土佐日記」という、王朝仮名文の誕生のうちに現れた「ものゝあはれ」という片言かたことは、「源氏」に至って、驚くほどの豊かな実を結んだ。彼は、「あはれ」の用例を一つ一つ綿密に点検はしたが、これを単に言語学者の資料として扱ったわけではないのだから、恐らく相手は、人の心のように、いつも問う以上の事を答えたのであろう。ここでも、彼自身の言葉を辿ってみる。――「すべて人の心といふものは、からぶみ(中国の書物/池田注記)に書るごと、一トかたに、つきゞりなる物にはあらず、深く思ひしめる事にあたりては、とやかくやと、くだくだしく、めゝしく、みだれあひて、さだまりがたく、さまざまのくまおほかる物なるを、此物語には、さるくだくだしきくまぐままで、のこるかたなく、いともくはしく、こまかに書あらはしたること、くもりなき鏡にうつして、むかひたらむがごとくにて、大かた人のココロのあるやうを書るさまは、――」という文に、先きにあげた「やまと、もろこし」云々うんぬんの言葉がつづくのである。……
 ――してみると、彼の開眼とは、「源氏」が、人の心を「くもりなき鏡にうつして、むかひたらむ」が如くに見えたという、その事だったと言ってよさそうだ。その感動のうちに、彼の終生変らぬ人間観が定著ていちゃくした――「おほかた人のまことの情といふ物は、女童めのわらはのごとく、みれんに、おろかなる物也、男らしく、きつとして、かしこきは、実の情にはあらず、それはうはべをつくろひ、かざりたる物也、実の心のそこを、さぐりてみれば、いかほどかしこき人も、みな女童にかはる事なし、それをはぢて、つゝむとつゝまぬとのたがひめばかり(「紫文要領」巻下)。だが、そこまで話を拡げまい。これは、いずれ触れなければならない。手近かな所から、話を進める。……
 ――彼は、非常な自信をもって言っている、「此物がたりをよむは、紫式部にあひて、まのあたり、かの人の思へる心ばへを語るを、くはしく聞クにひとし」、「作りぬしの、みづから、すぐれて深く、物のあはれをしれる心に、世ノ中にありとある事のありさま、よき人あしき人の、心しわざを、見るにつけ、きくにつけ、ふるゝにつけて、そのこゝろをよく見しりて、感ずることの多かるが、心のうちに、むすぼゝれて、しのびこめては、やみがたきふしぶしを、その作りたる人のうへによせて、くはしく、こまかに書顕かきあらはして、おのが、よしともあしとも思ふすぢ、いはまほしき(言いたいと思う/池田注記)事どもをも、其人に思はせ、いはせて、いぶせき心をもらしたる物にして、よの中の、物のあはれのかぎりは、此物語に、のこることなし」(「玉のをぐし」二の巻)。宣長は、此の物語をそういう風に読んだ。彼の心のうちで、作者の天才が目覚める、そういう風に読んだ。これは分析の近附き難い事柄だ。むしろ方向を変えて問おう。……

          

 小林先生は、宣長は「源氏物語」の味読によって開眼したと言いました、が、小林先生自身も今また新たに宣長の開眼を追体験することによって開眼していきます。
 ――今日では、文は人なりぐらいの事は誰でも承知しているが、宣長のような経験が、誰にも容易になったとは、決して言えまい。むしろ大変困難になったと言った方がいいかも知れない。文学の歴史的評価という概念は、反省を進めてみれば、反省の重荷には到底堪えられぬ、疑わしい脆弱ぜいじゃくな概念なのであるが、実際には、文学研究家達の間で、お互の黙契の下に、いつの間にか、自明で充分な物差しのような姿を取っている。文学史は、過去の文学作品の成立事情を調査し、作品の歴史的位置を確定するのだが、これによって、作品の魅力、実際に様々に人々を動かす作品の力が、その平均値を得て固定して了う傾向は避け難い。過去の作品に到る道は平坦となって、もはや冒険を必要としないように見えるが、作品にもいろいろある。幾時いつの間にか、誰も古典と呼んで疑わぬものとなった、豊かな表現力を持った傑作は、理解者、認識者の行う一種の冒険、実証的関係を踏み超えて来る、無私な全的な共感に出会う機会を待っているものだ。機会がどんなに稀れであろうと、この機を捕えて新しく息を吹き返そうと願っているものだ。物のたとえではない。不思議な事だが、そう考えなければ、或る種の古典の驚くべき永続性を考える事はむつかしい。宣長が行ったのは、この種の冒険であった。……
 ――言うまでもなく、「源氏」の時代性については、彼は大変鋭敏な人であった。――「皇国みくには皇国、今は今、むかしはむかしなるを、儒者などは、ひたぶるにもろこしの国俗クニブリを本として、物をさだめ、今の人は、今のならはしになれて、昔をあやしむ」(「玉のをぐし」二の巻)、「すべて其時のならひを、よくしるべき事、ものがたりを見る一つの心得也」(同上)、――宣長の「源氏」論が、この「一つの心得」から生れたわけはない。「一つの心得」など超えて行かなければ、「此物語の外に歌道なく、歌道の外に此物語なし」(「紫文要領」巻下)と明言したわけはない。……
 ――だが、この自分の「源氏」経験を、一般的な言葉で言うのは、彼には、大変面倒な事であった。彼は、「紫文要領」のなかで、それを試みているがうまくいっていない。彼は、「物のあはれさへしらば、歌はよまるべし、又歌さへよまば、物の哀はしるべし、しかるに、何とて此物語を見て、歌道の本意をしれとはいふや」という試問を、特に設けて説いている。理窟の上では、誰にも解っている話になる、それが困るというのが、宣長の考えなのである。古人の風儀人情を知らなければ、古歌はわからぬと言えば、それは承知だと言う。古人の風儀人情を知るには、「源氏」が最上の物語だと言えば、それも尤もな事だが、此の物語を読まなくても、古歌をよくよく味えば、古人の風儀人情は、おのずから知られる以上、是非とも見ねばならない物語ではあるまい、特にこれが、歌道の極意を語っている物語とまでは言い切れまい、そういう論になる。「今の歌人は、みなこれなり」と宣長は言っている。そして、仕方がないから、こんなたとえ話をする――「たとへば、よき細工人(職人/池田注記)のつくりたる、めでたき(すばらしい/池田注記)器物あらんに、今一ツそれと同じさまに、つくらんとするに、それを見てつくるがごとし、見たる所は、すこしもたがはね共ども、よくよく心をつけて見、又はつかふて見るときに、さらに同じ物ならず、(中略)此もの語をよく見て、いにしへの中以上の人情風儀を、よくよく心得、その境界に、心をなして、さて其いにしへの歌をよく見てよむ歌は、かの細工人のもとへゆきて、作りやうを、くはしくまなび、とひきゝて、さてかの器物を見て、其かたにつくるがごとし、是、其つくりやうの本をよく考へしりて、作れる故に、はじめのうつはとかはる事なし」……
 ――しかし、宣長のたとえ話を、ただその場の思い附きと考えるわけにはいかない。「紫文要領」を熟読すれば、彼の比喩の奥行は深いのである。彼は、「源氏」を、「めでたき器物」と見た。それ自身で完結している制作物と見た。これは物語としては、比類のない事で、普通、物語と言えば、「ただあやしく、めづらしき事をかける書をのみ好」む、「物の心もしらぬ、愚なる人」が目当てのものだが、此の物語は、そのような読者の娯楽や好奇心の助けをかりて生きてはいない。ただ「なだらかに、哀をみせたる」自身の世界に自足している。しかも、感想文学、日記文学に見られるような、作者の個人的経験の誇示もない。独りよがりの告白や感想に寄りかかり、もたれ掛かる弱さもない。その表現世界は、あたかも「めでたき器物」の如く、きっぱりと自立した客観物と化している。のみならず、宣長を驚かしたのは、この器物をよく見る人には、この「細工人」がその「作りやう」を語る言葉が聞えて来るという事であった。なるほど名歌は、誰の眼にも、「めでたき器物」の自立した姿と映ずるだろうが、この器の極度に圧縮され、単純化された形式は、細工人の作りようを、秘めて明かさない。もし歌の道というものが在るならば、名歌は歌の道を踏んではいようが、歌の道について語りはしまい。「源氏」という名物語は、その自在な表現力によって、物語の道も同時に語った。物語の道という形で、歌の道とは何かと問う宣長に、答えた。言うまでもなく、「源氏」を、そこまで踏込んで読んだ人はなかった。……

 今回の第十三章味読はここまでとし、「『源氏』という名物語が、その自在な表現力によって物語の道も同時に語」る第十三章の大団円部は次回で読むこととします。

         4 付 記 

 先に「『古学』の歴史意識」と題してお読みいただいた「第十一章 」の回と同じく、今回の「第十三章 」も小林先生の文章をほとんど余すところなく引き、私の文言は最小限に留めてお読みいただきました。
 その心は、「第十一章 」の回にも書きましたが、小林先生が「僕は散文を書いているのではない、詩を書いているのだ」と言われていたことに鑑み、先生の文章は所々を抜粋して引用するのではなく、全篇丸ごと読者に読みきってもらい、先生の言葉のすべてを全身で受け止めてもらうのでなければ先生の言おうとされていることは伝わらない、という想いが年々私のなかで強くなっていることがひとつ、そしてもうひとつは、どんな事柄であってもそうですが、とりわけ小林先生に関する事柄を話題にするときは、とにもかくにも「理屈を弄しない」と私が堅く決意しているということです。
 この「理屈を弄しない」についての私の決意は、先生の在世時に相次いで現れた後続批評家たちの小林秀雄論なるものの多くが先生のパラドックスに有頂天となり、銘々勝手に「理屈だらけの理屈」を繰り出しあっていた「観念の絵空事」騒ぎに発しています。小林先生は、批評家としての心構えを「述べて作らず、信じていにしえを好む」という『論語』の言葉に置かれていましたから、先生の文言を気儘に切り取って続々作られた批評家たちの「理屈」は不協和音でしかなく、先生は早い時期からこの種の「小林秀雄論」、すなわち「作られた小林秀雄」には嘆息をもらすだけで目もくれなくなっていたのです。
 小林先生のこの嘆息を、私は二度三度、先生から直に聞かされましたが、先生とは若き日からの同志であった小説家の永井龍男氏も、ある日、私にこう訊かれました、「毎月毎月『小林秀雄論』なるものが雑誌に載るんだが、彼らの言っていることが僕にはさっぱりわからない、君たちにはわかるのかい?」。私は「ようこそ、ようこそおっしゃって下さいました!」と叫びたい気持ちを抑えて答えました、「わかりません、私にもさっぱりわかりません……」、すると永井氏は、「そうか、やっぱりそうなんだな……」と受けられ、続けて言われました、「小林が書いてることはわかるんだよ、僕がまったく知らないことでも実によくわかるんだ、ところが小林の言ってることを捕まえて、批評家連中がああだこうだと言うだろう、これがわからない……」。小林先生より二歳年下の永井氏は、大正九年、十六歳の年から小説を書いていましたが、昭和二年、文藝春秋社に入って『オール読物』『文藝春秋』の編集長まで務め、「カミソリ永井」と恐れられ称えられた人でした、その永井氏が「さっぱりわからない」と言われた小林秀雄論者たちの小林秀雄論がどれほどのものであったかは十分ご想像いただけると思います。
 当時、読書人の間では「小林秀雄は難しい、難解だ」という声が通り相場になっていて、大学生や一般の社会人も私の知るかぎり大半が小林秀雄は難しい、難解だと口を揃えて言っていましたが、私に言わせれば小林秀雄は難しい、難解だ、と思わせたのは小林先生ではありません、「難しい小林秀雄」を何人も作って世に送り出した小林秀雄論者たちです。そして毎年毎年、小林先生の文章を使って国語科の長文読解問題を作り、先生の文章のごく一部を切り取って筆者の言いたいことは次のうちのどれかと選択肢を並べていた大学入試です。先ほどもふれたように、先生は、僕が書いているものは散文に見えるが散文ではない、詩なのだ、と言われ、詩である以上、受け取り方は人それぞれでよく、筆者の言いたいことは次のうちのどれかなどと決めつけて訊くのはお門違いなのだと大学入試の無法にも憤っていました。先生の言われる「詩」は象徴詩です、象徴詩とはどういう詩であるかについてはなるべく早い機会にあらためてお話します。
 しかし今回、私が引いてお読みいただいた「本居宣長」第十三章によって、小林秀雄は小林秀雄の文章そのものを読めば決して難しくはないのだということをご理解いただけたと思います、「小林が書いてることはわかるんだよ、僕がまったく知らないことでも実によくわかるんだ」と言われた永井龍男氏の言葉にもうなずいていただけると思います。 
 そしてもう一点、述べて作らず、信じていにしえを好む、についても付言します、中国文学者の吉川幸次郎氏は、大意、次のように言われています、

 ――「述べる」とは祖述の意である。それに対し、「作る」とは創作の意である。自分は祖述はするけれども、創作はしない。過去の文明は、多くの人間の知恵の堆積であり、創作は自分一個人の恣意におちいりやすい。そうした考えのもとに、この言葉は生まれているであろう。……                
   (中国古典撰3『論語 上』 朝日文庫)       

 ところが、「祖述」という言葉について、『広辞苑』『大辞林』にはそれぞれ次のように言われています。 
 ――師・先人の説をうけついで学問を進め述べること。
 ――先人の学説を受け継いで発展させて述べること。
 現代語としての「祖述」はなるほどこうして『広辞苑』『大辞林』に言われているとおりの語義、語感で流通しているのでしょうが、『広辞苑』の「進め述べること」、『大辞林』の「発展させて述べること」は「述べて作らず」の「作る」に通じます、そこを知ってか知らでか世の小林秀雄論者たちは『広辞苑』『大辞林』に言われているような「進め」「発展させ」を競いあい、「小林秀雄の批評論」なるものを幾通りも「作り」出したように私には思われるということも言っておきたいのです。
 諸橋轍次の『大漢和辞典』では、「祖述」は「遠く前人の道にもとづいてのべる、それを本として受けついで述べる」と言われているだけです。吉川幸次郎氏の言われた「祖述」も『大漢和辞典』に言われている「祖述」であるにちがいなく、小林先生の「本居宣長」は、まさに「遠く本居宣長の道にもとづいて」述べられているだけであり、「本居宣長の道を本として受けついで」述べられているだけであるということが今回の第十三章からもおわかりいただけると思います。

(第二十二回 了)