小林秀雄「本居宣長」を読む(二十八)
第十五章 下 夢の浮橋
池田 雅延
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――説明の補足と言って、ここまで書いて来て、心に思い浮ぶがままに、もう一つ説明の補足めいた事を書こう。……
小林先生はこう言って、第十五章の視線を「源氏物語」全五十四帖の最後の十帖、通称「宇治十帖」に移します。
――それは、浮舟入水のくだりの浮舟評であり、浮舟が「思ひみだれて、身をいたづらになさん」としたのは、「薫のかたの哀をしれば、匂宮の哀をしらぬ也、匂宮の哀をしれば、薫のあはれをしらぬ也、故に思ひわびたる也、かの蘆屋のをとめも、此心ばへにて、身を生田の川にしづめて、むなしうなれり、……
「浮舟」は宇治の八の宮の女で、「薫」は光源氏の次男とされ、「匂宮」は孫とされている男性ですが、「蘆屋のをとめ」は平安時代の歌物語集であり説話集でもある「大和物語」に出る女性で、今日で言えば兵庫県の芦屋市あたりに住んでいた彼女は二人の男性に求婚され、彼らのいずれとも決めかねて生田川に身を投げたと言われています。
――是いづかたの物の哀をも、すてぬといふ物也、一身を失て、二人の哀を全くしるなり、浮舟君も、匂宮にあひ奉りしとて、あだなる人とはいふべからず、これも一身を失て、両方の物の哀を全くしる人也」(「紫文要領」巻下)……
宣長の「紫文要領」のこの見解を受けて、小林先生は次のように言います、
――「物の哀をしる」という意味合についての、恐らく宣長の一番強い発言であるが、これも「玉の小櫛」になると、浮舟評を「あだなる人とはいふべからず」で、とどめ、「一身を失て、両方の物の哀を全くしる人也」という肝腎な言葉は削除される。何故の遠慮であったか、と宣長の下心を推察すれば、やはり「うしろみの方の物の哀」の場合と同じ気味合の事が起ったと考えざるを得ない。ささやかな言葉が、又、はち切れそうになったのである。……
「玉の小櫛」は「源氏物語玉の小櫛」のことで、「紫文要領」の後を承けた宣長の「源氏物語」の註釈書ですが、「うしろみの方の物の哀」については第十五章で言われています、とだけ言い添えて本題に戻ります。
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「源氏物語」の「宇治十帖」とは、こうして光源氏亡き後の宇治を舞台として紫式部が浮舟と薫、浮舟と匂宮の恋の行く立てを描いている「橋姫」「椎本」「総角」「早蕨」「宿木」「東屋」「浮舟」「蜻蛉」「手習」「夢浮橋」の十帖ですが、
――彼は、「夢浮橋」という巻名は、「此物語のすべてにもわたるべき名也」(「玉のをぐし」九の巻)と書いている。……
と、小林先生に言われている「彼」は宣長です。
――但し、古註が考えたように、「世の中を、夢ぞとをしへたるにはあら」ず、「たゞ、此物語に書たる事どもを、みな夢ぞといふ意」であり、その「けぢめ」を間違えてはならぬとはっきり言う。……
――それにしても、「光源氏ノ君といひし人をはじめ、何も何も、ことごとく、夢に見たりし事のごとくなるを、殊に、はてなる此巻の、とぢめのやうよ、まことにのこりおほくて、見はてずさめぬる夢のごとくにぞ有ける」と、当時の物語としては全く異様な、その結末に注意している。……
――だが、宣長がここで言う夢とは、夢にして夢にあらざる、作者のよく意識された構想のめでたさ(見事さ/池田注記)であって、読者の勝手な夢ではない。見はてぬ夢を見ようとした後世の「山路の露」にも、延いては「源氏」という未完の大作を考える最近の諸論にも、宣長の「源氏」鑑賞は何の関係もない。「夢浮橋」という巻名は、物語全巻の名でもある、という彼の片言からでも明らかなように、式部の夢の間然する所のない(非難されるような欠点のない/池田注記)統一性というものの上に、彼の「源氏」論は、はっきりと立っていた。此の物語の一見異様に見える結末こそ、作者の夢の必然の帰結に外ならず、夢がここまで純化されれば、もうその先きはない。夢は果てたのである。宣長はそう読んだ筈なのである。……
紫式部の夢は果てた、宣長はそう読んだにちがいない……、しかし、宣長の夢は果てません、最初に言われていた「宣長がここで言う夢とは、作者のよく意識された構想のめでたさであって、読者の勝手な夢ではない」を確と頭に置いて読んでいきましょう。今一度言います、「構想のめでたさ」の「めでたさ」とは「見事さ」「卓抜さ」ですが、
――「宇治十帖」の主人公が薫であるとは、ただ表向きの事だ。内省家薫と行動家匂宮との鮮かな性格の対比は、誰も言うところで、これには別段読み方の工夫も要るまいが、言わば逆に、二人の貴公子を生き生きと描き分けたのも、性格などはてんで持ち合わさぬ、浮舟という「生き出でたりとも、怪しき不用の人」(「手習」)を創り出す道具立てに過ぎなかった、とそのように読むのには、「式部が心になりても見よかし」と念じて読む宣長の眼力を要する。」……
と小林先生は言い、
――浮舟は、作者の濃密な夢の中に、性格を紛失して了った女性である。薫は匂宮とともに、作者の夢の周辺にいるので、その中心部には這入れない。這入れない薫の軽薄な残酷な感想が、鋭利な鋏のように、長物語の糸をぷつりと切って了う。……
と読者に「式部の夢」の幕切れならぬ幕切れを敢えて見せた先生は、
――宣長は、薫の感想を、さり気なく評し去り、歌を一首詠んでいる。「なつかしみ 又も来て見む つみのこす 春野のすみれ けふ暮ぬとも」(「玉のをぐし」九の巻)……
と言い、
――作者とともに見た、宣長の夢の深さが、手に取るようである。……
と言って段落を変え、次のように言います、
――此の物語の「本意」につき、「極意」につき、もう摘み残したものはない、と信じた時、彼の心眼に映じたものは、式部が、自分の織った夢に食われる、自分の発明した主題に殉ずる有様ではなかったか。私には、そんな風に思われる。「物の哀をしる」とは、理解し易く、扱い易く、持ったら安心のいくような一観念ではない。詮じつめれば、これを「全く知る」為に、「一身を失ふ」事もある。そういうものだと言いたかった宣長の心を推察しなければ、彼の「物のあはれ」論は、読まぬに等しい。……
と、ここまで先生は一息に言って、「だが、」と今度は段落を改めずに言います、
――彼は、そうは言ってみたが、その言い方の「道々しさ」(理屈っぽさ/池田注記)に気附かなかった筈もあるまい。「玉の小櫛」で、「若紫」までの註釈を終えて、彼は、こんな事を言っている。「我身、七十ちかくなりて、いとゞ、けふあすもしらぬ、よはひの末に、むねと物する、古事記のちうさく(註釈/池田注記)などはた、いまだえ物しをへざるうへに、何やくれやと、むつかしく、まぎるゝことどもはた、いと多くてなん、思ひの外に、今しばし、ながらふるやうも有て、心もほけず、いとまもあらば、又々も、おもひおこして、すぎすぎ(次々/池田注記)、しるしもつぎてんかし」――このような心境のうちで、嘗ての「道々しき」評釈は、「なつかしみ 又も来て見む」という穏かな歌に変じた。深読みに過ぎると取られるかも知れないが、私としては、ただ、宣長の僅かばかりの言葉でも、自分の心に、極く自然に反響するものは追わねばならないまでだ。……
ここで私たちも歩みを止め、小林先生の「僅かばかりの言葉」に耳を傾けましょう、「宣長の僅かばかりの言葉でも、自分の心に自然に反響するものは追わねばならない……」、先生はそう言っています、これこそは小林先生の「本居宣長の読み方」の奥義であり、さらには小林先生の「詩人、思想家の言葉の読み方」の奥義です。若き日、一九世紀フランスの詩人ボードレールの詩集「悪の華」によって開眼し、次いでは「ドストエフスキイの生活」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第11集所収)で、究極は「ゴッホの手紙」(同第20集所収)で、深々と極められた奥義です。先生のその奥義が、浮舟の声なき声を聴きとります。
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――薫と匂宮とに契った浮舟は、恋敵同士の争いが烈しくなるにつれ、進退に窮して、死のうと思う。しかし、作者は死なさない。初めから、死ねるような女には描いていないのである。入水を決心はするが、とどのつまりは、われとわが決心に「おどろかされて(胸を衝かれて/池田注記、新潮日本古典集成版「源氏物語」の頭注による)、先立つ涙を、つゝみ給ひて(気になさって/池田注記、同)、物も言はれず」という事で、「浮舟の巻」は閉じられて了う。追いつめられた女には、発狂しか残っていないのだが、読者は、他の登場人物等とともに、浮舟の行方不明を知らされるだけだ。真相は、「手習」に至って、はじめて語られる。宣長が言っているように、「いとおもしろき書ざま」(「玉のをぐし」九の巻)なのだが、これも、作者の構想の必然であって、作者の本意は、読者の興味だけを目指してはいなかったであろう。浮舟は、「物の怪」に抱かれ、さまよい出て、失神するのだが、われに還った彼女の記憶によれば、「物の怪」は、初めて彼女に恋情をよび覚ました、匂宮の姿をしていた。「物の怪」は、彼女自身の内部の深所から現れる。浮舟には、匂宮の肉体の「匂ひ」は、薫の教養の「薫り」より、実は深いものであった。無論、これを知っているのは作者であって、浮舟ではない。……
――彼女は、僧の祈祷で、意識を取戻してみると、「たゞ、いたく年経にける尼七八人ぞ、常の人にてはありける(いつも仕えている人であった/池田注記)」草庵の一室にいる。決して自分で求めた事ではない。「つひに、かくて、生き返りぬるかと、思ふも、くちをし」と嘆く彼女の言葉は、僧都の祈祷も、言ってみれば、彼女の外部の深所から現れた「物の怪」と異ならない、という事にもなろう。なるほど、彼女は、自ら希望して尼となるのだが、その点でも、作者の眼は極めて正確であって、「尼になし給ひてよ。さてのみなむ、生くやうもあるべき(尼になった功徳で、どうにか生きられるかもしれません/池田注記、同前)」と言うのが、浮舟には精一杯のところで、明瞭な、積極的な出家の理由などありはしない。老尼達にしても、天降ったかぐや姫を見つけたように驚きはするが、浮舟に対して働かすものは、浮舟に無関係な、利己心と世間智だけだ、そのように描かれている。庵主の尼は、死んだ娘の婿だった中将と浮舟との間を取りもとうとする。庵主の留守中、中将に執拗に誘われた浮舟は、老衰した大尼君の部屋に、身を避ける。……
――鼾声をあげて寝乱れた老尼達の姿は、この世の人とも思われぬ。「今宵、この人々にや、食はれなん」と恐ろしい。「夜中ばかりにや、なりぬらんと、思ふ程に、尼君、咳きおぼほれて、起きにたり。火影に、頭つきは、いと白きに、黒き物を被きて、この君(浮舟/小林注記)の臥し給へるを、怪しがりて、鼬とかいふなる物が、さる業する、額に手をあてゝ、怪し、これは、誰ぞと、執念げなる声にて、見おこせたる、更に、たゞいま、食ひてん(すぐにも取って食おう/池田注記)とするとぞ、おぼゆる」――「いみじき様にて(あられもないみじめなありさまで/池田注記、新潮古典集成版「源氏物語」の頭注による)、生き返り、人になりて、また、ありし、いろいろの憂きことを、思ひ乱れ、(言い寄る中将を/小林注記)むつかし(どうしたらよいか/池田注記、新潮古典集成版「源氏物語」の傍注による)とも、(鼬の真似をする大尼君を/小林注記)恐ろしとも、物を思ふよ。死なましかば(死んでいたなら/池田注記)、これよりも、恐ろしげなる、物の中にこそは、あらましか(地獄でこれよりも恐ろしい姿の鬼たちに囲まれて責めさいなまれていたことだろう/池田注記)……
――これだけの文章でも、熟視するなら、この全く性格を紛失して了ったように見える浮舟を、生き生きと性格附けているのは、式部の文体そのものに他ならぬと合点するだろう。……と前置きされて言われる次の件に小林先生の言う「式部の夢のめでたさ」を確と読み取りましょう。
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――浮舟が、痛切に明瞭に感じているのは、「生き出でたりとも、怪しき不用の人」という意識なのだが、式部の表現のめでたさが証しているのは、むしろ、小さな弱い浮舟を取って食った、作者の大きな強い意識そのものの姿である。浮舟は、それから逃げられない。こんな女にも生きる理由がある、と作者が信じていなければ、「手習」も「夢浮橋」も書かれた筈がない。浮舟は、この、自分には定かならぬ理由によって、たどたどしい自己表現を強いられるのだが、「手習」という象徴的な題名の示す通り、彼女の述懐も、詠歌も、読経さえ、無心な子供の「手習」の如き形を取らざるを得ない。そして、浮舟自身は何にも知らないが、この「女童のごとく、みれんに、おろかなる」女の情は、世間に生きる理由を、よく心得た大人達の、「情のあるやうを」「くもりなき鏡にうつして、むかひたらむがごと」き姿をとっているのである……。
――薫は、とうとう浮舟の居所を突き止める。彼の煮え切らぬ恋情は、匂宮の激情のようには燃えつきない。浮舟を、出家させた僧都に会い、事情を語り、浮舟との再会の手引を頼む。僧都としては、浮舟の身分も知らず、出家させて了った自分の軽率が悔やまれるし、薫大将から、「心のうちは、聖に劣り侍らぬ物を」と、立派な口を利かれては、拒む事は出来ない。還俗して、昔どおりの夫婦の契りを結ぶよう、浮舟宛の手紙を認めるが、「一日の出家の功徳、はかりなき物なれば、なほ、たのませ給へ」と、これも立派な口は利く。二人の教養人の善意の配慮が、浮舟をめぐる細心な陰謀のような気味合を帯びているのが面白い。尤も、私は、少々ひねくれた物の言い方をしてみるまでで、作者の眼がひねくれていると言うのではない。……
――二人の手紙を託され、使者として、浮舟の弟の何も知らない子供が選ばれる。浮舟は弟の姿を見て、幼時を懐かしみ、会いたいのは母親だけだと思う。薫の手紙には、会って、「浅ましかりし、世の夢語」がしたいとあるが、浮舟は「怪しう、いかなりける夢にか」と思うだけだ。紛うことのない薫りがして、歌が書かれている、「法の師と たづぬる道を しるべにて 思はぬ山に 踏み惑ふかな(仏の道の師として横川に僧都を尋ねたのですが、その僧都の導きで、思いも寄らぬ恋の山にうろうろしていることです。/池田注記、同前)」。浮舟は、少しも人を恨んではいないし、世を疑ってもいないのだが、もう応答する元気が残っていない。茫然として、あらぬ方を眺める彼女の姿を、傍の尼は、「物の怪にや、をはすらむ」と見る。弟は、文字通り子供の使で、手ぶらで還って来る。これを迎えた薫には、これをどう考えていいか見当がつかぬ。確かに小野の里に生きてはいるが、やはり「行方も知らず消えし蜻蛉」なのであった。「人の、かくし据ゑたるにやあらむ」 ――これが、薫には唯一の筋の通った解釈であった。この薫の一と言で、長篇の糸は切られる。薫に切られた事を確めるように、作者の「地の文」が、直ぐつづくのである。――「人の、かくし据ゑたるにやあらむと」(誰かが、浮舟を隠しているのだろうかと/池田注記、同前)、わが御心の、思ひ寄らぬ隈なく、落し置き給へりし習ひに(ご自身がなにもかも慎重にお考えの上、浮舟を宇治のような所に捨ててお置きになっていた、そんなご経験から/池田注記、同前)、とぞ」……
――匂宮という「あだなる人」も、薫という「まめなる人」も、浮舟というあわれな女性の内には這入れない。作者は、浮舟の背後に身を隠し、読者に語りかけるようである。御覧の通りこの女は子供だが、子供は何にも知らないとは、果して本当の事であろうか、と。宣長は、作者の声に応じ、「なつかしみ 又も来て見む」と歌ったであろう。……
第十五章は、こう言って閉じられます。「なつかしみ 又も来て見む」の歌が「つみのこす 春野のすみれ けふ暮ぬとも」と下の句まで引かれた箇所のすぐ前に、次のように言われていました。
――浮舟は、作者の濃密な夢の中に、性格を紛失して了った女性である。薫は匂宮とともに、作者の夢の周辺にいるので、その中心部には這入れない。這入れない薫の軽薄な残酷な感想が、鋭利な鋏のように、長物語の糸をぷつりと切って了う。宣長は、薫の感想を、さり気なく評し去り、歌を一首詠んでいる。「なつかしみ 又も来て見む つみのこす 春野のすみれ けふ暮ぬとも」(「玉のをぐし」九の巻)――作者とともに見た、宣長の夢の深さが、手に取るようである。……
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小林先生は、若き日(昭和四年九月、二十七歳)、文壇に打って出た批評論「様々なる意匠」(「小林秀雄全作品」第1集所収)で、次のように言っていました、
――私には印象批評という文学史家の一術語が何を語るか全く明瞭でないが、次の事実は大変明瞭だ。所謂印象批評の御手本、例えばボオドレエルの文芸批評を前にして、舟が波に掬われる様に、繊鋭な解析と溌剌たる感受性の運動に、私が浚われて了うという事である。この時、彼の魔術に憑かれつつも、私が正しく眺めるものは、嗜好の形式でもなく尺度の形式でもなく無双の情熱の形式をとった彼の夢だ。それは正しく批評ではあるが又彼の独白でもある。人は如何にして批評というものと自意識というものとを区別し得よう。彼の批評の魔力は、彼が批評するとは自覚する事である事を明瞭に悟った点に存する。批評の対象が己れであると他人であるとは一つの事であって二つの事でない。批評とは竟に己れの夢を懐疑的に語る事ではないのか!……
そして、「本居宣長」の第十五章で言われている「夢」は、紛れもなく「様々なる意匠」で言われていた「夢」の延長です、「人の情のあるやう」を、一挙に、まざまざと直知させる世界です、すなわち、小林先生の言う「夢」は、人が実人生とは別個に言葉によって描き出す「もうひとつの人生」です。そしてそういう「夢」のなかでも物語の作者によって見られた「夢」を小林先生は「本居宣長」の第十八章で「詞花言葉の工夫によって創り出された物語という客観的秩序」と言い、第十四章では本居宣長という「大批評家」は「源氏物語」の味読によって紫式部という「大批評家」を発明した、と言っていました。その紫式部という大批評家が、「詞花言葉の工夫によって」「物語という客観的秩序」を創り出している手の内を、小林先生は第十五章の前半部で、次のように言っていました。
――宣長が、「情」と書き「こゝろ」と読ませる時、「心性」のうちの一領域としての「情」が考えられていたわけではない。彼の「情」についての思索は、歌や物語のうちから「あはれ」という言葉を拾い上げる事で始まったのだが、この事が、彼の「情」と呼ぶ分裂を知らない直観を形成した。この直観は、曖昧な印象でも、その中に溺(おぼ)れていればすむ感情でもなく、眼前に、明瞭に捕える事が出来る、歌や物語の具体的な姿であり、その意味の解読を迫る、自足した表現の統一性であった。これは、何度でも考え直していい事なのである。……
――言うまでもなく、彼は、「情」の曖昧な不安定な動きを知っていた。それは、「とやかくやと、くだくだしく、めゝしく、みだれあひて、さだまりがたく」、決して「一トかたに、つきゞりなる物にはあらず」と知ってはいたが、これを本当に納得させてくれたのは、「源氏」であった。その表現の「めでたさ」であったというところが、大事なのだ。彼は、この「めでたさ」を、別の言い方で、「人の情のあるやうを書るさま」、「くもりなき鏡にうつして、むかひたらむがごとくにて」とも言った。この迫真性が、宣長の「源氏」による開眼だったのだが、言葉を代えて言ってみれば、自分の不安定な「情」のうちに動揺したり、人々の言動から、人の「情」の不安定を推知したりしている普通の世界の他に、「人の情のあるやう」を、一挙に、まざまざと直知させる世界の在る事が、彼に啓示されたのだ。……
――彼は、啓示されたがままに、これに逆らわず、極めて自然に考えたのである。即ち、「物語」を「そらごと」と断ずる、不毛な考え方を、遅疑なく捨てて、「人の情のあるやう」が、直かに心眼に映じて来る道が、所謂「そら言」によって、現に開かれているとは何故か、という、豊かな考え方を取り上げた。取り上げれば、当然、物語には「そら言にして、そら言にあらず」とでも言うべき性質がある事、更に進んで、物語の本質は、表現の「めでたさ」を「まこと」と呼んで、少しも差支えないところにある事を、率直に認めざるを得なかったのである。……
ということは、この「そら事」がすなわち小林先生の言う「夢」です。
――「源氏」は、作者の見聞した事実の、単なる記録ではない。作者が源氏君に言わせているように、「世にふる人の有様の、みるにもあかず、聞にもあまる」味いの表現なのだ。そして、この「みるにもあかず、聞にもあまる」という言い方を、宣長はいかにも名言と考えるのである。事物の知覚の働きは、何を知覚したかで停止せず、「みるにもあかず、聞にもあまる」という風に進展する。事物の知覚が、対象との縁を切らず、そのまま想像のうちに育って行くのを、事物の事実判断には阻む力はない。宣長が、「よろづの事にふれて、感く人の情」と言う時に、考えられていたのは、「情」の感きの、そういう自然な過程であった。敢て言ってみれば、素朴な認識力としての想像の力であった。……
宣長は、「源氏物語」によって、人間の心というものはどういうふうにつくられているかをまざまざと、余すところなく知らされたというのです。
――彼は、これを、「源氏」に使われている「あぢはひを知る」という、その同じ意味の言葉で言う。「よろづの事を、心にあぢはふ」のは、「事の心をしる也、物の心をしる也、物の哀をしるなり」と言う。なるほど漠然とした物の言い方だ。しかし、事物を味識する「情」の曖昧な働きのその曖昧さを、働きが生きている刻印と、そのまま受取る道はある筈だ。宣長が選んだ道はそれである。「情」が「感いて、事物を味識する様を、外から説明によって明瞭化する事は適わぬとしても、内から生き生きと表現して自証する事は出来るのであって、これは当人にとって少しも曖昧な事ではなかろう。現に、誰もが行っている事だ。殆ど意識せずに、勝手に行っているところだ。そこでは、事物を感知する事が即ち事物を生きる事であろうし、又、その意味や価値の表現に、われ知らず駆られているとすれば、見る事とそれを語る事との別もあるまい。……
――宣長が、「源氏」に、「人の情のあるやう」と直観したところは、そういう世界なのであって、これは心理学の扱う心理の世界に還元して了えるようなものではない。もっと根本的な、心理が生きられ意味附けられる、ただ人間であるという理由さえあれば、直ちに現れて来る事物と情との緊密な交渉が行われている世界である。内観による、その意識化が、遂に、「世にふる人の有様」という人生図を、式部の心眼に描き出したに違いなく、この有様を「みるにもあかず」と観ずるに至った。この思いを、表現の「めでたさ」によって、秩序づけ、客観化し得たところを、宣長は、「無双の妙手」と呼んだ。……
――だが、彼は詩人として、この妙手の秘密に推参し、これに肖ろうとしたわけではないのだから、「無双の妙手」という言葉で、彼が考えていたのは、むしろ匿名の無双の意識であったと言った方がいいであろう。彼が、学者として、見るにもあかずと観じたのは、子供でも知っている、「みるにもあかず」という言葉の姿であった。もしこの全く実用を離れた、純粋な情の感きが、ただ表現のめでたさを食として、一と筋に育つなら、「源氏」の成熟を得るであろう。「風雅」とは、歌人が、人の情のうちに、格別な国を立てて閉じこもるというような事では決してないのである。「此物語の外に歌道なし」と言った時に、彼が観じていたものは、成熟した意識のうちに童心が現れるかと思えば、逆に子供らしさのうちに、意外に大人びたものが見える、そういう「此物語」の姿だったに違いない、と私は思っている。……
ここで言われている「匿名の意識」の「匿名の」は、「人間誰にもあてはまる」という意味合で言われています。
(第十五章下 了)