小林秀雄「本居宣長」を読む(五)

小林秀雄「本居宣長」を読む(五)
第二章  生きた個性の持続
池田 雅延  
   第二章  生きた個性の持続
 
     
 
 「本居宣長」第二章で言われる大事なことのいくつかは、すでに第一章を読むなかでも引きました、次のようにです。
 ――彼は、遺言書を書いた翌年、風邪をこじらせて死んだのだが、これは頑健な彼に、誰も予期しなかった出来事であり、彼の精力的な研究と講義とは、死の直前までつづいたのであって、精神の衰弱も肉体の死の影も、彼の遺言書には、先ず係わりはないのである。動機は、全く自発的であり、言ってみれば、自分で自分の葬式を、文章の上で、出してみようとした健全な思想家の姿が其処に在ると見てよい。遺言書と言うよりむしろ独白であり、信念の披瀝と、私は考える。……
 ここで言われている「遺言書と言うよりむしろ独白であり、信念の披瀝と私は考える」は、第一章で言われた「これは、ただ彼の人柄を知る上の好資料であるに止まらず、彼の思想の結実であり、敢て最後の述作と言いたい趣のものと考える」と対をなしていると言ってよく、その披瀝された「信念」がどのようなものであるかも第一章で語られましたが、ではなぜ小林先生は、この「信念の披瀝」「最後の述作」を「本居宣長」の劈頭へきとうに置いたかについては第二章で言われているとして次のくだりを引きました。
 ――要するに、私は簡明な考えしか持っていない。或る時、宣長という独自な生れつきが、自分はこう思う、と先ず発言したために、周囲の人々がこれに説得されたり、これに反撥したりする、非常に生き生きとした思想の劇の幕が開いたのである。この名優によって演じられたのは、わが国の思想史の上での極めて高度な事件であった。この文を、宣長の遺言書から始めたのは、私の単なる気まぐれで、何も彼の生涯を、逆さまに辿ろうとしたわけではないのだが、ただ、私が辿ろうとしたのは、彼の演じた思想劇であって、私は、彼の遺言書を判読したというより、むしろ彼の思想劇の幕切れを眺めた、そこに留意して貰えればよいのである。……
 そして、先生が、「宣長という独自な生れつきが、自分はこう思う、と先ず発言したために、周囲の人々がこれに説得されたり、これに反撥したりした、非常に生き生きとした思想の劇……」と言っている「劇」は、第二章に入るやただちに、それも最大の山場が示されます。「宣長の家学を継いだ養嗣子大平おおひらは、『日記』にこう書いている」と言って、先生は本居大平の日記から引きます。
 ――去々(寛政十一未のとし)秋之頃、故翁私語候、愚老墓地を見立度候間、近日之内山室之妙楽寺の辺へ歩行致度候。其節、外に社中之内一両輩被参候ハヾ、同道可申など物語られ候。其時、吉事もなき事なれ如何いかんとも返答も不申、しばらく黙して居申候。さて私申候ハ、うつそみ之世之人無き跡の事思ひはかり申置候ハ、さかしら事にて、古意に背き可申哉など答へ居申候。さて九月十六日之夜、講釈後、被語候ハ、明日天気く候ハヾ、山室へ参可申候間、社中之内被参候人あらバ、明五時、出かけられ候様ニと被申候付、其夜講席ニ出居候外も、さそひ合、翌十七日十二三輩同道仕候、右山室之山内て、よき地所見立被申候……
 寛政十一年ひつじの年、ということは、宣長七十歳の年で、「遺言書」を書いた寛政十二年七月の前年、死去した享和元年九月二十九日の前々年だが、その寛政十一年の秋、宣長は大平にこう言った、「私の墓地を見立てたいので、近々山室の妙楽寺のあたりへ行ってみようと思う、その折は門人の一人か二人、一緒に行ってもよい」……、しかしこれは縁起のよい話ではないから、どうとも返辞はせずにしばらく黙っていた、そして私は言った、この世に生きている人間が死後のことに思いを巡らせておくのは小賢しいことで、古意に背くのではありませんか……。そうこうするうち九月十六日の夜、講義の後で、明日、天気がよければ山室へ行こうと思う、門人のなかに同行する者がいれば、午前八時頃に出発するようにと言われたので、その夜の講義には来ていなかった門人も誘いあわせて翌十七日、十二、三人がお供して山室山のなかにここぞという地所を見立てられた。……
 これが小林先生が引かれた大平の日記文の趣意ですが、大平が宣長に言った「古意」については、村岡典嗣つねつぐ氏の「本居宣長」第弐編「宣長学の研究」第四章に書かれている「古道説」から推し量ることができます、村岡氏はこう言っています、
 ――古道とは、宣長に於いては、古典の解釈を通じて為した、古文明の闡明せんめいで、同時に一々それら古典上の事実を規範として説いた世界観、人生観、社会観、宗教観、道徳観等にわたれる綜合的見解である。……
 さらに、
 ――古道とは何ぞ。そは、天地万国を通じてただ一すぢなるまことの道で、(中略)人間が究理作為の結果になった道理道徳の類でなく、ただこれ、わが国の古典に伝えられた神代の事実である。……
 ここから推せば、「古意」とは、古代の人々誰もが自ずと遵奉していた生き方の軌範と解してよいでしょう。大平の記した「古意」を承けて、小林先生は言います。
 ――大平の申分はもつともな事であった。日頃、彼は、「無き跡の事思ひはかる」は「さかしら事」と教えられて来たのである。大平の「日記」は、彼の申分が、宣長に黙殺された事を示している。無論、大平は知らなかったが、この時、既に遺言書(寛政十二年申七月)は考えられていたろう。妙楽寺の「境内に而、能キ所見つくろひ、七尺四方ばかり之地面買取候而、相定可申候」としたためたところを行う事は、彼にとって「さかしら事」ではなかったのだが、大平を相手に、彼に、どんな議論が出来ただろうか。彼は、墓所を定めて、二首の歌を詠んだ。「山むろに ちとせの春の 宿しめて 風にしられぬ 花をこそ見め」「今よりは はかなき身とは なげかじよ 千代のすみかを もとめえつれば」。普通、宣長の辞世と呼ばれているものである。これも、随行した門弟達には、意外な歌と思われたかも知れない。……
 これが、小林先生が「宣長という独自な生れつきが、自分はこう思う、と先ず発言したために、周囲の人々がこれに説得されたり、これに反撥したりした思想の劇……」、と言っている「劇」の最も象徴的な場面です。
 常々、宣長は、死後のことを思い悩んだり、死後の準備をしたりするのはさかしらというもので、古意に背く、と門人たちに説いてきていました、その宣長が、唐突に自分の墓地を探しに行く、一緒に行きたい者は来るがよいと言って実際に出かけていったのです。大平はもちろん、門人たちも驚いた、という以上に狼狽したでしょう、今日の言葉で言えば宣長の言行不一致を訝っただけではすまず、この言行不一致を自分のなかでどう整合させようかと戸惑ったでしょう。しかし宣長は、これを言行不一致とも自己矛盾とも思っておらず、仮に門人たちが宣長の言行不一致を衝いて敬問に及んだとしても、宣長は黙して語らなかったか、その問いこそさかしらというものだと一言返すだけだったでしょう。そこを小林先生はこう言っています。
 ――妙楽寺の「境内に而、能キ所見つくろひ、七尺四方ばかり之地面買取候而、相定可申候」としたためたところを行う事は、彼にとって「さかしら事」ではなかったのだが、大平を相手に、彼に、どんな議論が出来ただろうか。……
 ここで言われる「彼に、どんな議論が出来ただろうか」は、先に第一章を読んで出会った小林先生の次の一行を思い出させます。 
 ――この人間の内部には、温厚な円満な常識の衣につつまれてはいたが、言わば、「申披六ヶ敷筋もうしひらきむつかしきすじ」の考えがあった。……
 常日頃、ひたすら古意を得ようと必死になり、死後のことを思い煩うのは古意に背くと門人に言い聞かせていた宣長が、ある日突然、自分の墓地を見立てに行くと言い出し、実際に行って意に適った墓地を確保できた宣長に、大平や門人が言行不一致ではありませんかと問い質しても、自己矛盾ではありませんかと詰め寄っても、宣長は黙して語らなかったでしょう、と私が言うのは、この山室に墓地を見立てるという一件も、宣長にとっては「申披六ヶ敷筋」の考えだったと思われるからです。
 したがって、墓所を定めて詠んだ二首の歌、
 ――山むろに ちとせの春の 宿しめて 風にしられぬ 花をこそ見め
 ――今よりは はかなき身とは なげかじよ 千代のすみかを もとめえつれば
にも「申披六ヶ敷筋」の考えが歌いこまれています。この二首は宣長の辞世と呼ばれている歌ですが、門人のみならず後続の世人もまた宣長の「言行不一致」、「自己矛盾」に戸惑い、「一致」と「整合」を求めてさかしらに陥っています。
 小林先生は言います。
 ――川口常文つねぶみの「本居宣長大人うし伝」には、「此歌、大人の自ら書き給へるを、今も妙楽寺に所蔵せり。さて人死れば、霊魂の往方は其善きも悪きも、なべて夜見よみなりと、古事記伝玉勝間等に云れ、また歌にもよまれたるが、此頃にいたりて、其説等の非説なるを、さとられつれど、其を改めらるゝいとまなくして、はたされつるにて、其は此御歌もて証しとすべく、其御意のほど炳焉へいえんたらん、なお詳しくは、平田翁の「霊能真柱たまのみはしら」を参照せよ、とある。言うまでもなく、平田篤胤あつたねは、鈴門の第一者を以て自ら任じていた人だ。この熱烈な理論家には、宣長の辞世が、自身の思想の不備や矛盾を自覚し、これを遂に解決したものと映じた。しかし、この意味での辞世ほど、宣長の嫌ったものはない。山室山の歌にしてみても、辞世というような「ことごとしき」意味合は、少しもなかったであろう。ただ、今度自分で葬式を出す事にした、と言った事だったであろう。その頃の彼の歌稿を見て行くと、翌年、こんな歌を詠んでいる、――「よみの国 おもはばなどか うしとても あたら此世を いとひすつべき」「死ねばみな よみにゆくとは しらずして ほとけの国を ねがふおろかさ」、だが、この歌を、まるで後人の誤解を見抜いていたような姿だ、と言ってみても、らちもない事だろう。私に興味があるのは、宣長という一貫した人間が、彼に、最も近づいたと信じていた人々の眼にも、隠れていたという事である。……
 小林先生の「本居宣長」の執筆意図は、この、宣長に最も近づいたと信じていた人々の眼にも隠れていた「宣長という一貫した人間」と出会いたい、では、どうすれば出会えるか、なのです、まさにこれは「やってみなくては成功するかしないか見当のつき兼ねる企て」(第一章)でした。
 
     

 小林先生は、続けてこう言います。
 ――この誠実な思想家は、言わば、自分の身丈みたけに、しっくり合った思想しか、決して語らなかった。その思想は、知的に構成されてはいるが、又、生活感情に染められた文体でしか表現出来ぬものでもあった。この困難は、彼によく意識されていた。だが、傍観的な、あるいは一般観念に頼る宣長研究者達の眼に、先ず映ずるものは彼の思想構造の不備や混乱であって、これは、彼の在世当時も今日も変りはないようだ。……
 ――村岡典嗣氏の名著「本居宣長」が書かれたのは、明治四十四年であるが、私は、これから多くの教示を受けたし、今日でも、最も優れた宣長研究だと思っている。村岡氏は、決して傍観的研究者ではなく、その研究は、宣長への敬愛の念で貫かれているのだが、それでもやはり、宣長の思想構造という抽象的怪物との悪闘の跡は著しいのである。……
 ――私は、研究方法の上で、自負するところなど、何もあるわけではない。ただ、宣長自身にとって、自分の思想の一貫性は、自明の事だったに相違なかったし、私にしても、それを信ずる事は、彼について書きたいというねがいと、どうやら区別し難いのであり、その事を、私は、芸もなく、繰り返し思ってみているに過ぎない。宣長の思想の一貫性を保証していたものは、彼の生きた個性の持続性にあったに相違ないという事、これは、宣長の著作の在りのままの姿から、私が、直接感受しているところだ。……
 ここを読んで、まずは、「宣長の思想構造という抽象的怪物との悪闘」という言葉、そして「宣長の思想の一貫性」という言葉、そして「彼の生きた個性の持続性」という言葉に注意しましょう。小林先生にあって「一貫」と「持続」という言葉は格別の重みを持っています。わけても「持続」は、「私の人生観」(「小林秀雄全作品」第17集所収)にはこういう文脈で現れていました。
 ――宮本武蔵の「独行道どつこうどう」のなかの一条に「我事に於て後悔せず」という言葉がある。(中略)これは勿論一つのパラドックスでありまして、自分はつねに慎重に正しく行動して来たから、世人の様に後悔などはせぬという様な浅薄な意味ではない。今日の言葉で申せば、自己批判だとか自己清算だとかいうものは、皆嘘の皮であると、武蔵は言っているのだ。そんな方法では、真に自己を知る事は出来ない、そういう小賢しい方法は、寧ろ自己欺瞞に導かれる道だと言えよう、そういう意味合いがあると私は思う。昨日の事を後悔したければ、後悔するがよい、いずれ今日の事を後悔しなければならぬ明日がやって来るだろう。その日その日が自己批判に暮れる様な道を何処まで歩いても、批判する主体の姿に出会う事はない。別な道が屹度あるのだ、自分という本体に出会う道があるのだ、後悔などというお目出度い手段で、自分をごまかさぬと決心してみろ、そういう確信を武蔵は語っているのである。……
 そして、ここからです、
 ――それは、今日まで自分が生きて来たことについて、その掛け替えのない命の持続感というものを持て、という事になるでしょう。そこに行為の極意があるのであって、後悔など、先き立っても立たなくても大した事ではない、そういう極意に通じなければ、事前の予想も事後の反省も、影と戯れる様なものだ、とこの達人は言うのであります。行為は別々だが、それに賭けた命はいつも同じだ、その同じ姿を行為の緊張感の裡に悟得する、かくの如きが、あのパラドックスの語る武蔵の自己認識なのだと考えます。……
 小林先生が、こういうふうに用いる「持続」という言葉は、「小林秀雄全集」の随所に見られますが、こうした「持続」という言葉の指し示すところはベルグソンに、小林先生が批評家としてだけでなく、人間として生きる人間観の多くを負っていると自ら言っている一九~二〇世紀フランスの哲学者、ベルグソンに拠っています。ベルグソンと「持続」、と言えば、その著『時間と自由』が思い浮かびますが、小林先生は数学者、岡潔さんとの対話「人間の建設」(同第25集所収)では「持続と同時性」を引いてこう言っています。
 ――ベルグソンという人は、時間というものを一所懸命考えた思想家なんですよ。けっきょくベルグソンの考えていた時間は、ぼくたちが生きる時間なんです。自分が生きてわかる時間なんです。そういうものがほんとうの時間だとあの人は考えていたわけです。……
 このあたり、集英社の『世界文学大事典』の「ベルクソン」の項には次のように記されています。
 まずは「哲学の方法―直観」と見出しを立てて言われます、
 ――ベルクソンは、真の実在を知るための学問としての哲学を科学との対比によって明らかにする。ものを知るには2つの方法がある。1つは対象を外からとらえる方法、もう1つは対象を内からとらえる方法である。外からの認識とは分析であり、それが科学の方法である。内からの認識とは直観であり、それが哲学の方法である。……
 次いで「意識―持続と自由」と見出しを立てて言われます、
 ――ベルクソンは時間の実態を求めて、それを意識の内的持続のなかに見いだした。意識の中に介入物なしにとらえられた持続すなわち純粋持続durée pureとはいかなるものか? それはメロディーの構成音におけるように、先行する諸状態と現在の状態とが浸透し合いながら生きもののように変化してゆく質的変化の継起以外のものではない。そのような継起の、区別なき多数性は、等質的空間の中に諸要素を同一の単位とみなして並置することによって成立する数的多数性とは根本的に異なる質的多数性とも呼ぶべきものである。……
 続けて、
 ――時間の実体とはそのような質的多数性としての持続である。ふつう時計は時間を計測するものであると信じられているが、時計の上で時間が流れたと認識されるのは、持続している意識が記憶しているからであって、時計が計測しているのは、おのおのの時刻の同時性simultanéitéの数にすぎない。真の時間は時計の上ではなく意識の中にある。……
 こうしてここで言われている「時計の上ではなく意識の中にある」時間、それを小林先生は「ベルグソンの考えていた時間は、ぼくたちが生きる時間なんです。自分が生きてわかる時間なんです」と言ったのですが、「宣長の思想の一貫性を保証していたものは、彼の生きた個性の持続性にあったに相違ない」と言っている「持続性」の「持続」は、やはりここで言われている「意識の中に介入物なしにとらえられた持続」であり、それは「メロディーの構成音におけるように、先行する諸状態と現在の状態とが浸透し合いながら生きもののように変化してゆく質的変化の継起以外のものではな」く、したがって、死後のことを思い悩んだり、死後の準備をしたりするのはさかしらで古意に背く、と門人たちに説いてきていた宣長と、自分の墓地を探しに行くと言って実際に出かけていった宣長とは言行不一致でもなければ自己矛盾でもなく、この両者は「意識の中に介入物なしにとらえられた持続」であって、「先行する諸状態と現在の状態とが浸透し合いながら生きもののように変化してゆく質的変化の継起」以外のものではなかったようなのです。

     

 そして先生は、自ら感受した「宣長の思想の一貫性を保証していたものは、彼の生きた個性の持続性にあったに相違ないという事」、その確信に立って言います、
 ――宣長の述作から、私は宣長の思想の形体、或は構造をき出そうとは思わない。実際に存在したのは、自分はこのように考えるという、宣長の肉声だけである。出来るだけ、これに添って書こうと思うから、引用文も多くなると思う。……
 この「引用文も多くなる」は、先ほど言った「宣長に最も近づいたと信じていた人々の眼にも隠れていた宣長という一貫した人間」と出会いたい、何としても出会いたいという先生の決意の引き締めをも語っています。晩年、先生は「批評は引用に尽きるのだ、原文のここという箇所が的確に引用できたら、評家の言など一言も要らないのだ」と言っていました。「本居宣長」で言われている「引用文も多くなる」はそれと同じ意味合で言われています。この言わば「批評の極意」を、小林先生は昭和二十三年、四十六歳の年から二十七年、四十九歳の年まで「ゴッホの手紙」を書いて体得しました。「ゴッホの手紙」の最後に言っています、
 ――私は、こんなに長くなる積りで書き出したわけではなかった。それよりも意外だったのは書き進んで行くにつれ、論評を加えようが為に予め思いめぐらしていた諸観念が、次第に崩れて行くのを覚えた事である。手紙(ゴッホの手紙/池田注)の苦しい気分は、私の心を領し、批評的言辞は私を去ったのである。手紙の主の死期が近付くにつれ、私はもう所謂「述べて作らず」の方法より他にない事を悟った。読者は、これを諒とされたい。……
 しかも、先生の言う「引用」は、原文を自分の論旨の根拠や補強として示すためではありません、原文の姿を読者にも見てもらい、自分の批評文では写しきれない原文筆者の心持ちを汲みとってもらうためです。「本居宣長」の引用も、そのときそのときの宣長の意気込みや困惑などを、宣長の文章の姿から直に感じ取ってもらうためなのです。

 かくして第二章は、次のように結ばれます。
 ――彼は、最初の著述を、「葦別小舟あしわけおぶね」と呼んだが、彼の学問なり思想なりは、以来、「万葉」に、「さはり多み」と詠まれた川に乗り出した小舟の、いつも漕ぎ手は一人という姿を変えはしなかった。幕開きで、もう己れの天稟てんぴんに直面した人の演技が、明らかに感受出来るのだが、それが幕切れで、その思想を一番よく判読したと信じた人々の誤解を代償として、演じられる有様を、先ず書いて了ったわけである。……
 ここでは、「いつも漕ぎ手は一人という姿を変えはしなかった」、です。これから先で、宣長の先達となって新しい学問の道をひらいた中江藤樹、伊藤仁斎、荻生徂徠らについても精しく語られますが、小林先生が彼らを讃えるときに必ず口にしたのは、「彼らは皆、独立独歩であった」ということでした。学問は己れを知るために行うのだ、徒党を組む必要などはまったくないのだと言っていました。
 そして、「幕開きで、もう己れの天稟てんぴんに直面した人の演技が、明らかに感受出来るのだが、それが幕切れで、その思想を一番よく判読したと信じた人々の誤解を代償として、演じられる有様を先ず書いて了ったわけである」は、かつて先生が折口信夫氏に言った「宣長の仕事は、批評や非難を承知の上のものだったのではないでしょうか」と符合します、宣長の「生きた個性」は、終生、誤解や非難を呼びこみながら「持続」したのです。
(第二章 了)