小林秀雄「本居宣長」を読む(八)

小林秀雄「本居宣長」を読む(八)
第五章  之ヲ好ミ、之ヲ信ジ、之ヲ楽シム
池田 雅延  
         
 
 前回、第四章で、「宣長の思想の自発性」という言葉を聞きました。この「自発性」を承けて、第五章は次のように始められます。
 ――学問に対する、宣長の基本的態度は、早い頃から動かなかった。遊学時代のものと推定される、友人達に宛てた、宣長の書状が八通遺されているが、皆読みづらい漢文で書かれているし、断簡もあり、重複混雑もあるので、勝手ながら、宣長の当時の考えが、明らかにうかがえると思われる個所を拾って、整理したいと思う。……
 こう前置きして小林先生は、「学問に対する宣長の基本的態度」を写し取っていくのですが、まず第一に、こういう書状が紹介されます。
 ――彼(宣長/池田注記)が仏説に興味を寄せているにつき、塾生の一人が、とやかく言ったのに対し、彼はこう言っている。「不佞フネイノ仏氏ノ言ニ於ケルヤ、之ヲ好ミ、之ヲ信ジ、且ツ之ヲ楽シム、タヾニ仏氏ノ言ニシテ、之ヲ好ミ信ジ楽シムノミニアラズ、儒墨老荘諸子百家ノ言モ亦、皆之ヲ好ミ信ジ楽シム」、自分のこの「好信楽」という基本的な態度からすれば、「凡百雑技」から「山川草木」に至るまで、「天地万物、皆、吾ガ賞楽ノ具ナルノミ」と言う。このような態度を保持するのが、「風雅ニ従」うという事である。足下そっかには風雅というものがわかっていない。「何ゾ其ノ言ノ固ナルヤ、何ゾ其ノ言ノ険ナルヤ、亦道学先生ナルカナ、経儒先生ナルカナ」(宝暦七年三月、上柳敬基宛)……
 「不佞」は男子のへりくだった自称で、江戸時代にはほぼ対等の関係にある者同士の間で二人称の「足下」(貴殿)とともに用いられていました。
 「仏説」は仏教の教え、「仏氏の言」は釈迦の言葉、です。当時の日本には儒学こそが学問であるとする風潮が根強く、何を措いても儒学に精励すべき学徒が仏説に寄り道し、道草を食うとはいかがなものかとでも塾生の一人が咎めてきたのでしょう。
 これに対して宣長は、自分は単に釈迦の言葉を好み、信じ、楽しんでいるだけだと返し、この「好、信、楽」は仏説に対してだけではない、儒墨老荘諸子百家に対しても同様であると言います。「儒墨老荘諸子百家」は孔子を始祖とする儒家、墨子を開祖とする墨家、老子、荘子を代表とする道家をはじめとして中国古代の春秋・戦国時代に競い起った諸々の「子」(学者)や「家」(学派)をさして言われていました。しかもこの宣長の「好・信・楽」は書物に留まらず「凡百雑技」「山川草木」にも及び、「天地万物、皆、吾ガ賞楽ノ具ナルノミ」とまで宣長は言っています。
 「凡百雑技」の「凡百」は様々な、「雑技」は民間で行われる奇術や曲芸といった種々の見せ物ですが、この「凡百雑技」からは、第四章で、宣長の「在京日記」に「こまごまと楽し気に記されているのは、四季の行楽や観劇や行事祭礼の見物、市井の風俗などの類いだけである」と言われ、「環境に向けられた、生き生きとした宣長の眼はつかめるが……」と言われていた「宣長の眼」が思い起されます。四季の行楽や観劇、行事祭礼の見物も宣長にとっては「好ミ信ジ楽シム」という人生の基本的態度の一環だったのであり、そこには「儒墨老荘諸子百家」に注がれたと同じ視線が注がれていたのでしょう。そしてこの態度は、後年、養子の大平が「父主念仏者ノマメ心」「母刀自遠キ慮リ」と恩頼図に記した「宣長の心の内側に動く宣長の気質の力」のなさしめるところであったのでしょう。
 こうして聖俗を問わず、ありとあらゆる物事に「好・信・楽」で接する態度を保持するのが「風雅ニ従」うということなのだ、しかし貴君にはこの風雅というものがわかっていない、貴君の言うことは堅苦しくて刺々とげとげしく、まるで道学先生ではないか、経儒先生ではないか……。当時、道理、道徳を重んじるあまり世事や人情に疎く、融通のきかない学者を世人は「道学先生」と呼び、また儒教の経典けいてんすなわち「易経」「書経」「詩経」「春秋」「礼記」などに熱中するだけで行動が伴わない儒学者を「経儒先生」と呼び、いずれも軽侮し嘲弄していました。


         

 小林先生は、続いてこう言います。
 ――和歌を好むのを難じた或る塾生に答えた手紙(宝暦某年、清水吉太郎宛)にも、風雅を説いているが、議論はもっと細かくなる。足下は僕の和歌を好むのを非とするが、僕は、ひそかに足下が儒を好むのを非としている、或はむしろ哀れんでいる。儒と呼ばれる聖人の道は、「天下ヲ治メ民ヲ安ンズルノ道」であって、「ヒソカニ自ラ楽シム有ル」所以のものではない。ところで、現在の足下にしても僕にしても、おさむべき国や、安んずべき民がある身分ではない。聖人の道が何の役に立つか。「己ガ身ノ瑣瑣ササタルヲ修ムルガ如キハ、ナンゾ必ズシモコレヲ道ニ求メン」、足下は、「人ニシテ礼義無クンバ、其レ禽獣キンジウ如何イカンセン」などと言うが、「聖人ノ書ヲ読ミテ、道ヲ明ラカニシ、シカシテ後ニ、禽獣タルヲ免レントスルカ、亦ナルカナ」、異国人は、そんな考えでいるかも知れないが、自分は日本人であるから、そうは考えていない。一体、人間が人間であるその根拠が、聖人の道にあるとはおかしいではないか。人の万物の霊たる所以は、もっと根本的なものに基く、と自分は考えている。「レ人ノ万物ノ霊タルヤ、天神地祇チギチョウレイニ頼ルノ故ヲ以テナルノミ」、そう考えている。従って、わが国には、上古、人心質朴の頃、「自然ノ神道」が在って、上下これを信じ、礼義おのずから備るという状態があったのも当然な事である。この見地よりすれば、聖人の道の、わが国に於ける存在理由は、ただ「風俗ヤウヤク変ジ」「勢ノムヲ得ザル」ものによる必要を出ないものだ、という事になる。自分がりくけい論語を読むのも、その文辞を愛玩するだけであり、聖賢の語にしても、「或ハ以テ自然ノ神道ヲ補フ可キモノアレバ、スナハチ亦之ヲ取ルノミ」。……
 こうしてここで宣長の言っていることは明快で、訓詁(字句の説明)も註釈(文意の説明)もほとんど要しないとさえ思われ、「六経」は儒教の根幹となる六種の経典、すなわち「易経」「詩経」「書経」「春秋」「礼記」「楽記」です、と言い添えておくだけで足りるかとも思われますが、「現在の足下にしても僕にしても、おさむべき国や、安んずべき民がある身分ではない。聖人の道が何の役に立つか」に確と意を留めてみますと、貴殿は儒学をそこそこにして仏説にうつつをぬかしていると難じてきた塾生に向けて宣長が発した「道学先生」という皮肉は、世人が口にしていた意味合、すなわち「道理、道徳を重んじるあまり世事や人情に疎く、融通のきかない学者」という意味合に留まるものではなく、「道学先生」の「道学」は儒学の一派、朱子学のことと解するべきかとも思われます。「経儒先生」の「経」とは先にも述べたように儒学の聖典である「六経」です。だとすれば「道学先生」も、朱子学に凝り固まって観念ばかりが先行する学者、そういう皮肉をこめて宣長は言っているように思えるのです。
 宣長の仏教好みを難じてきた塾生、また和歌好きを咎めてきた塾生、彼らに共通していたのは儒学を絶対視する固定観念でした。宣長はそこを衝いて「道学先生」「経儒先生」と皮肉を突きつけたと思えるのですが、なかでも「道学先生」には世人が言っていたよりもはるかに苦々しい素地がありました。それが朱子学でした。宣長が世俗の批語に乗じてこういう悪態をつきたくなるほどに「道学」と呼ばれた朱子学は孔子に始まる「儒」の精神から大きく逸脱していたのです。


         

 「道学」は、そもそもは中国で宋代に成った新儒学、「宋学」の別称でした。岩波書店の『哲学・思想辞典』等によれば、「道学」という言葉は仏教や道教でも使われましたが、宋学を興した程明道、程伊川ら以後はおおむね彼らの学派を指すようになり、そこで言われた「道」は自己修養の道と同時に徳治の要諦等を指していました。
 宋は西暦一一二七年、現在の浙江省杭州に都を移し、それ以後は「南宋」と呼ばれるようになりましたが、その南宋の初期に朱熹しゅきが現れ、それまでの「道学」を集大成して今日言われる朱子学を打ち立てました。
 「道」を遡れば、『論語』の「里仁篇」に「子曰く、あしたに道を聞かば、夕べに死すとも可なり」とあるように、中国においては古くから最重要とされた生き方の指標でした。したがって、「道」とは何か、の議論も広範に及んでいたのですが、その「道」に朱熹は格段の意欲を燃やしました。「道」の体得と実現、これを高く掲げて『論語』の「憲問篇」にある「修己安人」(己れを修めて人を安んずる)から導いた「修己治人」(己れを修めて人を治む)を唱え、自らの学問をより声高に「道学」「聖人の学」と呼びました。
 「修己安人」は、岩波文庫によれば、――ある日、子路が孔子に、君子について尋ねた、孔子は答えた、自分を修養してつつしみ深くすることだ、子路は尋ねた、それだけですか、孔子は答えた、自分を修養して人を安らかにすることだ、子路はさらに尋ねた、それだけですか、孔子は答えた、自分を修養して万民を安らかにすることだ……、最後の「自分を修養して万民を安らかにすること」、これには聖人として知られる尭や舜でさえも苦労したと孔子は言った、とあります。
 この「修己安人」の「安」が、朱熹では「治」となって強調されたのです。孔子以来の民を安んずる「聖人の道」は、朱熹に至って民を治める「聖人の学」となったのです。宣長が、貴君にしても小生にしても、おさむべき国や安んずべき民がある身分ではない、聖人の道が何の役に立つかと言った背景には、こうした儒学の変転もあったのですが、「道学先生ナルカナ」という言葉には、朱熹とその同調者への反目もこめられていたでしょう。

 とは言え、宣長も、かつては「道学」を至高とする空気のなかにいました。
 ――自分は、幼時から学を好み、長ずるに及んでいよいよ甚しく、六経を読み、年を重ねて、ほぼその大義に通ずるを得た。「スナハオモヘラク、美ナルカナ道ヤ。大ニシテハ、以テ天下ヲ治ムベク、小ニシテハ、以テ国ヲヲサムベシト。シカレドモ吾ガトモガラハ小人ニシテ、達シテ明ラカニストイヘドモ、亦何ンノ施ス所ゾヤ」、ここに到って、全く当惑した、と宣長は言う。……
 幼時から学問に親しみ、大きくなってからは六経を読んでその意味を解し、そして思った、道とは素晴らしいものだ、天下を治め、国を治める……、しかし、困った、どんなに六径に通達してみても、人の上に立つ身分でない自分にはそれを役立てる術がない……。
 小林先生は、これを承けて言います。
 ――注意すべきは、この当惑に対し、「論語」が答えてくれた、と彼が言っている事である。彼は、ここで「先進第十一」にある有名な話にふれる。晩年不遇の孔子と弟子達との会話である。もし世間に認められるような事になったら、君達は何を行うか、という孔子の質問に答えて、弟子達は、めいめいの政治上の抱負を語る。一人曾晳そうせきだけが、黙して語らなかったが、孔子に促されて、自分は全く異なった考えを持っている、とこうこたえた、「暮春ニハ、春服既ニ成リ、冠者五六人、童子六七人、の首都の郊外にある川の名)ニ浴シ、舞雩ブウニ風シ(雨乞あまごいの祭の舞をまう土壇で涼風を楽しむ)、詠ジテ帰ラン」。孔子、これを聞き、「ゼントシテ、嘆ジテ曰ハク、吾ハ点(曾晳)クミセン」、そういう話である。孔子を動かし、同感させた曾晳は、孔子の徒ではないか、と宣長は言う。「ソノ楽シム所ハ、先王ノ道ニ在ラズシテ、浴沂詠帰ニ在リ。孔子ノ意、スナハチ亦、レニ在リテ、而シテ彼ニアラズ。僕、ココニ取ルアリテ、至ツテ和歌ヲ好ム、独リコレガ為ノミナラズ。僕ノ和歌ヲ好ムハ、性ナリ、又癖ナリ、然レドモ、又見ル所無クシテ、ミダリニコレヲ好マンヤ」、「和歌ナルモノハ、志ヲ言フノ大道」であり、これと類をコトにする儒の「天下ヲ安ンズルノ大道」に抗敵しようなどと、自分は考えた事はない。……
 これも宣長の、まさに「個性的な内的な現実」です、小林先生は続けます。
 ――ここに、既に、宣長の思想の種はまかれている、と言っただけでは、足りない気がする。彼の、後年成熟した思想を承知し、そこから時をさか上って、これらの書簡のうちに、萌芽状態にある彼の思想の姿を見附け出そうと試みる者には、見まがう事の出来ない青年宣長の顔を見て驚くのである。遺言書が書かれた寛政十二年(七十一歳)に、彼は、次のような歌を詠んでいる。「聖人は しこのしこ人 いつはりて よき人さびす しこのしこ人」「聖人と 人はいへども 聖人の たぐひならめや 孔子くしはよき人」。書簡で、直知され、粗描された孔子の像は、生涯崩れはしなかったのである。宣長にとって、所謂「聖人のたぐひ」と、自分が見て取った「孔子といふよき人」とは、別々のものであった。彼は、当時の儒学の通念を攻撃してまなかったが、孔子という人間に、文句をつける理由は、見附からなかったであろう。「玉勝間」のうちに、孔子や「論語」に関する感想が幾つもあるが、注意して読めば、そのことごとくに、この宣長の考えが、表面に現れていなければ、裏面にかくれているのが感取される。特に、「論語」にふれた数篇(十四の巻)には、筆者の気持ちの動きが、よくうかがえる。……
 ――書簡で語られている「論語、先進篇」の話にしても、孔子が深く同感した曾点の考えについては、儒家の間に、いろいろな解釈が行われていたのだが、言うまでもなく、これは、曾点の「浴沂詠帰」という曖昧な返答を、どのような観念の表現と解すれば、儒学の道学組織のうちに矛盾なく組入れることが出来るか、という問題を出ていない。宣長がそういう儒家の思考の枠に、全く頓着なく語っているのは、読者が既に見られた通りである。彼は、この「先進篇」の文章から、直接に、曾点の言葉に喟然として嘆じている孔子という人間に行く。大事なのは、先王の道ではない。先王の道を背負い込んだ孔子という人の心だ、とでも言いたげな様子がある。もし、ここに、儒学者の解釈を知らぬ間に脱している文学者の味読を感ずるなら、有名な「物のあはれ」の説の萌芽も、もう此処にある、と言っていいかも知れない。……
 ここで言われている「先王の道」は、中国古代の理想的君主たち、すなわち尭、舜らが遺した徳治の実績ですが、「大事なのは、先王の道ではない。先王の道を背負い込んだ孔子という人の心だ、とでも言いたげな様子がある」は、先に、宣長が和歌を好むのを難じた塾生に対して、「足下は僕の和歌を好むのを非とするが、僕は、ひそかに足下が儒を好むのを非としている、或はむしろ哀れんでいる。儒と呼ばれる聖人の道は、『天下ヲ治メ民ヲ安ンズルノ道』であって、『私カニ自ラ楽シム有ル』所以のものではない」と返した書状を紹介した後に、
 ――孔子は、道を行うのに失敗した人である。晩年、その不可なるを知り、六経を修めて、これを後世に伝えんとした人である。……
 と言われていたことを承けて言われています。
 孔子は貧窮のうちに成長し、十五歳の頃、学に志して詩書礼楽を中心とした古典の独学に励み、教育者としての実績を挙げました。しかし、五十歳を過ぎて政治家に転身、生国に仕えて先王の道を範とした社会秩序を実現しようとしました。ところが彼のこの政策は魯公の有力親族との間に対立を引き起し、五十六歳の年、魯を去って衛、鄭、陳等、諸国を経巡ること十余年、六十九歳の年、魯に帰り、その後は「先王の道」を後世に伝えるべく「詩経」「書経」「易経」「春秋」「礼記」「楽経」と、六経の編修に専心しました。

 先に小林先生が、「注意すべきは」、この当惑に対し、「論語」が答えてくれたと彼が言っている事である、と言ったのは、せっかく身に着け、意気に燃えた道の学問であったのに、考えてみれば自分にはそれを活かす場も機会もないという宣長の当惑に応え、目を開かせてくれたのは意外にも道の学問の総元締ともされていた「論語」だったからです、そしてそういう「論語」を読んだ宣長の読み方には宣長の「個性的な内的な現実」が働いていて、宣長の「論語」の読み方は「解釈」ではなく、「味読」という読み方だったからです。この読み方を、宣長は「源氏物語」にも「古事記」にも及ぼしていくのですが、宣長は「そういう儒家の思考の枠に、全く頓着なく語っている」と小林先生が言っているところから眺めれば、宣長の本の読み方には、読書の「方法」というよりも、書物に向ったときのほとんど反射的な身のこなし、感受性の直観、そういう気味合が感じられます。
 宣長最晩年の歌にあった「しこのしこ人」の「しこ」は「醜悪」ということですが、儒家たちが、曾晳の「浴沂詠帰」という返答を、どう解したら儒学の道学組織のうちに矛盾なく組入れることが出来るかと悩んだということは、彼らが儒学の道学組織というイデオロギーを勝手に作り上げ、そのイデオロギーの辻褄合せにどこまでもとらわれていたということです。
 しかし、宣長は、そうではありませんでした。曾晳と同じく、人間としての自然な感情、素朴な心地よさに、いつもおのずと身を預けました。これが宣長の「好、信、楽」ということであり、風雅に従うということだったのですが、この風雅に従うということは、すべて物事には感性で処す、ということでもあったのではないでしょうか。この宣長の持って生れた感性は、「もののあはれ」と並んで「自然ノ神道」にもしっかり呼応していました。
 ここで言う「神道」は、今日、仏教やキリスト教などの宗教と同列に扱われる「神道」ではありません。宗旨・宗派を言う「神道」ではありません。宣長が口にする「神道」は、神がひらいた道という、ただそれだけの、古代人が言っていた意味での神道です。その風韻は、先に引いた手紙のなかの、「夫レ人ノ万物ノ霊タルヤ、天神地祇ノ寵霊ニ頼ルノ故ヲ以テナルノミ」に漂っています。端的に言えば、朝起きて朝日に手を合わす、そういう、知らず識らずのうちに今でも動く私たちの身体や心が、ふとした折ごとに感じ取る「神道」です。
 そういう宣長の感性が、「儒」に対しても働きます。
 ――当時の宣長の儒学観が、徂徠の影響下にあるのは明らかだ。儒学の本来の性格は、朱子学が説くが如き「天理人欲」に関する思弁の精にはなく、生活に即した実践的なものと解すべきものだが、それも、品性の陶冶とうやとか徳行の吟味とかいう、曖昧で、自己欺瞞や空言に流れ易いものにはなく、国を治め、民を安んずるという、はっきりした実際の政治を目指すところに、その主眼がある。これが徂徠の基本的な主張であるが、そうすると、宣長が是認していたのは、当時の最も現実的な儒学観だったと言える。だが、既に見て来たように、彼の書簡は、言わば儒家の申し分のないリアリズムも、自分自身の生活のリアリズムには似合わない、それだけを語っている。書簡のうちに、彼の将来の思想の萌芽がある、というような、先回りした物の言い方は別として、彼が、自分自身の事にしか、本当には関心を持っていない、極めて自然に、自分自身を尺度としなければ、何事も計ろうとはしていない、この宣長の見解というより、むしろ生活態度とも呼ぶべきものは、書簡に、歴然として一貫しているのである。「君師」に比べれば、遥かに「士民」に近い、自分の「小人」の姿から、彼は、決して眼を離さない。其処から、彼の「風雅」という言葉が発音されているので、その語調から推せば、彼の言う「風雅」とは、言わば「小人」の立てた志であって、好事家こうずかの趣味というような消極的な意味合は、少しもない事がわかる。「風雅」の中身は、彼が「好信楽」と呼ぶもので充満していたのである。……
 ――従って、彼の論戦は、相手を難ずるというより、むしろ自分を語っている。彼に問題なのは、実は、儒学自体ではないので、相手が、儒学を自ら掴んでいるか、ただ儒学につかまって了ったに過ぎないのかという、それだけが宣長にとって、切実な問題なのだが、そういう彼の心の動きが、遂に、「論語」に孔子の「風雅」を読んで了うのである。「孔子ノ意、スナハチ亦コレニ在リテ、而シテ彼ニアラズ」、これは、宣長の自己の投影である。其処から、彼は、「論語」にしばしば使われている、孔子の「楽」という言葉の深さについて考えている。……
 ――ある友人が、恐らく、君子に「十楽」ありと言ったような意味の事を、宣長に書き送ったに対し、そんな暢気のんきな事を言っているようでは、足下にはまだ孔子の「学習之楽」の意味は解るまい、この「楽」は、弦歌優游ゆうゆうの尋常楽とは全く質を異にする、孔子には絶対的な楽であり、言ってみるなら、「不楽之楽ヲ楽シム」という趣のものだと言う。友人から、御説は自分もよく承知しているところだ、「不楽之楽」は、自分の言う「十楽」中の一楽である、という返書があったようで、これには、宣長も閉口したらしく、冗談めかして答えている。してみると、足下は、学に志して、既に「聖門之深旨」に通じていると言うべく、孔子を抜く学者になるかも知れぬ、「後世恐ル可シ」、僕は、実は、足下の才をけんぜんとして、真楽を説いてみたに過ぎないのだが、いや、恐れ入った、御蔭でよく合点がいった、「所謂不楽之楽トハ、コレ儒家者流中ノ至楽ナルノミ」と。「僕ヤ不佞、又、無上不可思議妙妙之楽有リ、カノ不楽之楽ノ比ニアラザルナリ、ソノ楽タルヤ言フ可カラズ」……
 ――宣長が文字通り不佞で、口をつぐんで了うところが面白い。「和歌ヲ楽ミテ、ホトンド寝食ヲ忘ル」という彼の楽が、やがて自分の学問の内的動機に育つという強い予感、或は確信が、強く感じられるからだ。……
 
 先に、「これらの書簡のうちに、萌芽状態にある彼の思想の姿を見附け出そうと試みる者には、見まがう事の出来ない青年宣長の顔を見て驚くのである。」と言われていましたが、
 ――一体、人間が人間であるその根拠が、聖人の道にあるとはおかしいではないか。人の万物の霊たる所以は、もっと根本的なものに基く、と自分は考えている。「レ人ノ万物ノ霊タルヤ、天神地祇チギチョウレイニ頼ルノ故ヲ以テナルノミ」、そう考えている。従って、わが国には、上古、人心質朴の頃、「自然ノ神道」が在って、上下これを信じ、礼義おのずから備るという状態があったのも当然な事である。……
 と言っている宣長の主張、まさしくこれは、早くも萌芽状態にあった「古事記伝」であると言えるでしょう。
(第五章 了)