小林秀雄「本居宣長」を読む(十一)

小林秀雄「本居宣長」を読む(十一)
第七章  俗中の真
池田 雅延  
         
 
 第六章で、「契沖の一大明眼」に注目し、第七章でその「一大明眼」は契沖にいかにして具わったかを契沖の歌歴と下河辺長流との唱和に見た小林先生は、続いて契沖の書簡を引きます。
 ――契沖は、元禄九年(五十七歳)、周囲から望まれて、円珠庵で、「万葉」の講義をしたが、その前年、泉州の石橋新右衛門直之という後輩に、聴講をすすめた手紙が遺っている。契沖の行き着いた確信が、どのようなものであったかがわかるであろう。……
 ここで「周囲から望まれて」と言われている「周囲」は、今井似閑、海北若冲ら、契沖の高弟たちです。したがって、このときの講義の内容は、当時の「萬葉」学の最先端にして最高峰に位置するものだったのですが、この「手紙」が宛てられた石橋新右衛門について、小林先生は「後輩」としか言っていません、しかし新右衛門は、ただの後輩ではありませんでした。朝日新聞社版の『契沖全集』第八巻に収録されている橋本進吉氏編「契沖書簡集」の解説によれば、契沖にとって石橋新右衛門は格別の後輩でした。
 前回見たように、契沖は三十歳の頃、高野山を下りて和泉の国の久井村に寓居を求めましたが、その約五年後、久井村から二里(約八キロメートル)ほど北にあった池田村万町の伏屋重賢宅に移りました。契沖の祖父元宜は豊臣秀吉の臣、加藤清正に仕え、重賢の祖父一安は秀吉に仕えていました、その豊臣家恩顧のゆかりから重賢が招いたようなのです。
 伏屋家は豪家でした。しかも重賢は好学の人で、日本の古典の書籍を数多く所蔵していました。契沖はここに約五年間住み、重賢の蔵書を読破します。その読書経験が後の「萬葉集」をはじめとする古典研究の素地となったのですが、契沖は石橋新右衛門も伏屋重賢の縁で識ったのです。
 重賢は、和泉の国にこの土地について記した書物がないことを惜しみ、『泉州志』の編纂を志していました。しかし重賢はその志を果さないまま世を去り、契沖も泉州を離れることになりましたが、重賢の遺志を重く見ていた契沖は、泉州を後にするに際して重賢の後継者を求めました。その契沖の前に現れたのが石橋新右衛門でした。新右衛門は契沖の指導を受けて広く資料を集め、契沖の期待に応えて重賢の遺志を着実に達成、契沖は跋文を書きました。石橋新右衛門は、そういう後輩でした。
 いまここに私が記した石橋新右衛門のことは、小林先生の「本居宣長」を読む上からは必ずしも知っておかなければならないというほどのことではありません。にもかかわらず私がこうして新右衛門のことを精しく読者にお伝えしようとするのは、私自身が石橋新右衛門とはこういう人だったと知ってもう一度契沖の手紙を読み返したとき、先生の言われる「契沖の行き着いた確信」がいっそう強く私に迫ってきたからです。
 正直言って、私は当初、漠然とではありましたが新右衛門を和泉の国のただの商人くらいに思い、「萬葉集」に関しては精々好事家程度と受け取っていました。そして、小林先生が引かれている契沖の手紙も、生業繁多を理由に「萬葉」講義に出られない旨を言ってきた一好事家への外交辞令程度にしか読んでいなかったのです。ところが、そうではありませんでした、契沖と新右衛門とは、強固な絆で結ばれていました。契沖の手紙は、そうした新右衛門の人間像を知って読むのと知らずに読むのとでは迫ってくる言葉の重みがちがうのです。手紙文の中に出る「俗中の真」も、契沖自ら奔走した『泉州志』の撰者に向けての言葉と知って読めば、その含蓄にいっそう思いを致すことになるのです。
 
 そこでさて、小林先生が引かれた契沖の手紙です。
 ――(前略)拙僧万葉発明は、彼集出来以後之一人と存候、且其証古書ニ見え申候、水戸侯御家礼衆之中ニも、左様ニ被存方御座候、……
 これが、小林先生の言われる「契沖が行き着いた確信」の入口です。
 この引用にある「(前略)」は、言うまでもなく小林先生がそこまでの文を割愛したことをことわっているのですが、『契沖全集』で原文を読んでみると、この手紙は契沖が所望した松の木二本を新右衛門が送ってくれたことに対する謝辞に始まり、松をめぐっての蘊蓄が随想風に記され、その後に、こう記されています。
 ――又此比このごろ万葉講談之様なる事催被申沙汰有之候故拙僧存候は、貴様は伶悧ニ御入一聞二三ニも可及存候……
そしてこの後に、先に引いた「拙僧万葉発明は、彼集出来以後之一人と存候……」が来るのです。
 小林先生が「後輩」とだけしか言っていない石橋新右衛門への契沖の手紙の冒頭部を、ここにこうして読者の眼前に供した私の心中はもうお察しいただけていると思います。先に私は、石橋新右衛門は契沖にとって格別の後輩だったと言いましたが、その格別とは単に恩人伏屋重賢との縁を介しての後輩というだけではなく、「萬葉」講義の開講に際して、「貴様は伶悧ニ御入一聞二三ニも可及存候」、すなわち、貴下は聡明で、一を聞いて二も三も知る人だと思う、と言って送るほどの後輩でした。ということは、石橋新右衛門は、今井似閑、海北若冲らとともに契沖最後の「萬葉」講義をぜひとも聴き取っておいてほしい「後輩」だったのです。橋本氏は「契沖は直之(新右衛門/池田注記)の人物学殖を知悉して、ひそかに之に望を嘱していたのであろう」と言われていますが、「拙僧万葉発明は、彼集出来以後之一人と存候、且其証古書ニ見え申候、水戸侯御家礼衆之中ニも、左様ニ被存方御座候」……、この契沖が「萬葉集」に関して明らかにしたことは、「萬葉集」が編まれてこのかた随一であると思う、その証拠は古書を見てもらえばわかる、水戸光圀候のご家来衆のなかにも、そう思って下さる方がいらっしゃる……は、他の誰でもない、「格別の」後輩、石橋新右衛門に向って言われているのです。「拙僧万葉発明」の「発明」は、大事な物事の深意や実相を明らかにすることをいう「発明」です。
 契沖の言うとおり、「萬葉集」は契沖によって初めて全貌が明らかになり、収録歌四五〇〇余首のほとんどが初めて正当に読み解かれたのですが、石橋新右衛門への手紙で契沖自らそのことを言っているのは、それを自慢したくてのことではありません。契沖が「萬葉代匠記」の初稿本を書き始めたのは天和三年(一六八三)四十四歳の頃であり、書き上げたのは貞享四年(一六八七)四十八歳の頃です。これに次いで精撰本を書き始めたのは元禄二年(一六八九)五十歳の頃であり、書き上げたのは翌三年、五十一歳の年と見られています、しかし契沖が新右衛門を識ったのは初稿本を書き始めるよりも前、四十歳になるかならぬかの頃です、以後ずっと新右衛門は契沖の至近にいました。したがって、いま私たちが読んでいる手紙を契沖が新右衛門に書いた元禄八年九月という時期、新右衛門は契沖に「萬葉代匠記」のあることは十分心得ていたでしょうし、契沖の方から「代匠記」のことを語って聞かせたことも幾度かあったでしょう。だからこそ契沖は、新右衛門に充てた手紙にさらりと「水戸侯御家礼衆之中ニも、左様ニ被存方御座候」と書いていると思えるのですが、第七章の最後に小林先生が引かれる遺言書からも窺われるとおり、契沖という人は己れを誇ることのまったくなかった人で、自慢話、吹聴話などはもとよりあろうはずはないのですが、ならばなぜ今になってわざわざ「拙僧万葉発明は、彼集出来以後之一人と存候」と言い、「且其証古書ニ見え申候」と言うかです。
 思うにこの年、すなわち「萬葉代匠記」の成稿から五年が過ぎて五十六歳となった元禄八年という年、図らずも今井似閑、海北若冲ら高弟たちから「萬葉」講義を請われるということがあり、これがきっかけとなって契沖は五年前に為し遂げた自分の仕事の総体を顧みる機会に恵まれ、契沖自身、「自分の仕事」に驚いたのではないでしょうか。その驚きが、「拙僧万葉発明は、彼集出来以後之一人と存候、且其証古書ニ見え申候」と言わせ、さらには次の言葉を吐かせたのではないでしょうか。
 ――煙硝も火を不寄候時は、不成功候様ニ、少分は因縁を借候て、早々成大事習目前之事ニ御座候、……
火薬も火がないと目的を遂げられないと言いますが、取るに足りない身の小生も弟子たちの因縁という力を借りて、今まさに大きな仕事を為し遂げるときが目前になっています……。
 「少分」は卑しい身分の者、で、ここは契沖が自分のことを卑下して言っています。「因縁」は仏教用語で、『大辞林』には「事物を生ぜしめる内的原因である因と外的原因である縁。事物・現象を生滅させる諸原因」と言われていますが、ここでは真言宗の僧侶でもある契沖が、似閑、若冲ら高弟たちの「萬葉」講義要請という因縁のおかげで「成大事習目前之事ニ御座候」と言っています、ということは、契沖は、「萬葉代匠記」を光圀に献じた後も手許の手沢しゅたく本に筆削ひっさくを加え続けていたのでしょう、その「萬葉代匠記」がこうしてさらなる高みで完成しようとしていると自ら言い、だからこそこれから始める講義は貴下にぜひ聴いておいてほしいのだと新右衛門に言うのでしょう。
 ――あはれ御用事等、何とぞ他へ御たのみ候而、御聴聞候へかしと存事候、……
 世間の用事は誰かに頼んで、この契沖の「萬葉」講義をぜひともお聴き下さるように……。ここで言われている「用事」は、特にこれと言った用事ではなく、単に普段の仕事というほどの意味合ですが、新たに始める「萬葉」講義には契沖自身、これまでにも増して燃え立つものがあり、その燃え立つ心中を新右衛門にぶつけるのです、そういう契沖の身になって読めば、ここの「御用事等」は「たとえどんな仕事であっても」というほどまでの語気で読めるのですが、こう言った後に契沖は、一気に、畳みかけるように、言います、
 ――世事は俗中之俗、加様之義は、俗中之真ニ御座候……
 世間の諸事は俗中の俗ですが、「萬葉集」を読むことは俗中の真なのです……。
 これが小林先生の言われる「契沖が行き着いた確信」です。自分が書き上げた「萬葉代匠記」に契沖自身が驚き、その驚きのなかで確信した「俗中の真」です。
 おそらく、この「俗中の真」という言葉は、このとき初めて契沖の脳裏で光ったと私には思えます。契沖は、常日頃からこの言葉を口にしていたのではないでしょう、ましてや誰彼かまわずお題目のように唱えていたのではないでしょう、相手が石橋新右衛門であったればこそ、無二の後輩、石橋新右衛門に契沖最後の「萬葉集」講義の聴講を是非ともと迫ったればこそ閃いた「俗中の真」だったのであり、契沖自身、自ら発した「俗中の真」にいっそう大きく目をひらかれたのではないでしょうか。

 現代語の「俗」には「下劣」とか「卑劣」とかという語感が先立っているようですが、これは「俗」という名詞が転化して「俗なり」という形容動詞としても使われだしたことからそうなったものらしく、本来、名詞の「俗」には「下劣」とか「卑劣」とかという語感はありませんでした。
 『日本国語大辞典』によれば、名詞の「俗」は「1・世のならわし。また、その土地の習慣。あるいは、時代の風俗。習俗。風習。2・世間一般。世俗。俗世間。また、出家していない人。俗人。」ですが、これが形容動詞となると、「ごくありふれたこと。通俗的であること。また、そのさま。平凡。凡庸。あるいは、いやしく下品であること。卑近なこと。風流ではないこと。また、そのさま。」となり、『大辞林』によれば、名詞の「俗」は「1・一般の世間。世の中。また、一般の人。官に対する民間。学界に対する一般の世間、仙人、聖人に対する人間など。2・仏門に対する一般の世間。また、出家していない人。3・世間のならわし。土地の風習。時代の風俗。」ですが、これが形容動詞となると「1・ありふれているさま。2・いやしいさま。下品なさま。」となるのです。
 したがって、契沖が石橋新右衛門に言った「世事は俗中之俗」の「俗」には「下劣」や「卑劣」といった語感はまったく漂っていないと見ていいのですが、契沖と同じ時代に生きた俳人松尾芭蕉が句作の心得を諭した言葉「高く心を悟りて俗に還るべし」が弟子の土芳による俳論書「三冊子」に見られ、ここで芭蕉が言わんとした「俗」は「世俗」すなわち「人の世」であると同時に人間誰もが味わっている日常生活の機微です。ゆえに契沖の言う「俗中の俗」も世人の尋常な実生活そのものをさしていると思えるのですが、これに対置して言われている「俗中の真」はそういう日常の実生活から掬い上げられる「人生の機微」であり、過去から現在へはもちろん、現在から未来へまでもその「機微」を語り伝える言葉の力、わけても詩語の力です。したがって、「加様之義」は「萬葉集」という歌集そのものであるとともに、その「萬葉集」を正しく読んで後世に伝えること、です。「萬葉集」には「俗中の俗」たる「世事」が四五〇〇首にもわたって歌われています、その膨大な「俗中の俗」が昔も今も変ることなく訴えてくる「俗中の真」、すなわち言葉の力に光を当てて万人に指し示す歌学をも契沖は「俗中の真」と言っているのです。
 しかも、契沖の願望は壮大でした、
 ――貴様御伝置候ヘバ、泉州歌学不絶地と成可申も、知レ申まじく候、必何とぞ可被思召立候、……
 貴下が伝えておかれれば、泉州は歌学の永久に絶えない地となるかも知れないのです、なにとぞ思い立って下さいますよう……。
 そして最後は、こう言います。
 ――歯落口すぼまり、以前さへ不弁舌之上、他根よりも、別而舌根不自由ニ成、難義候へ共、さるにても閉口候はゞ、いよいよ独り生れて、独死候身ニ同じかるべき故、被企候はゞ、堅ク辞退は不仕候はんと存候、……
 歯は抜け口は窄まり、もともと口は達者でないのにとりわけ舌が不自由になって難儀していますが、そうではあっても口を閉じてものを言わなくなれば、いよいよ独りで生まれて独りで死ぬ身そのものでしょうから、「萬葉集」の講義を請われれば固辞はしないで務めようと思っています……。
 これを承けて、橋本氏は次のようにも言われています、
 ――「代匠記」は、水戸家との関係上、之を世に伝える事を憚らねばならなかったであろうから、(契沖は/池田注記)機を得て自己の創説を人に伝えたいとの願望は必ず懐いていたであろう。それゆえ門弟の懇請に遇うては「被企候はば、堅ク辞退は不仕候はん」と、悦んで講筵を開き、直之の如き俊秀なものには、強いても聴講を促したのであろう。……

         

 契沖が石橋新右衛門に書いた手紙を、ここでこういうふうに読んだのは小林先生ではありません、私、池田です。私とても小林先生の読み筋に沿って読もうとし、そのため、小林先生が最初に言われた「契沖の行き着いた確信が、どのようなものであったか」、そこをしっかりわかろうとして読んでいくうちおのずとこうなったのですが、それというのも小林先生が、契沖の手紙を読み終えてすぐ、こう言われていたからです。
 ――読んでいると、宛名は宣長でも差支えないように思われて来る。……
 少なくとも文章の表面では小林先生がほとんど顧みられていなかった石橋新右衛門を、敢えて私が表面に立たせようとしたのは小林先生のこの一言があったからです。つまり、石橋新右衛門に宛てた契沖の手紙は、小林先生に「宛名は宣長でも差支えない」とまで思わせるほどの意力に満ちていました、それは、石橋新右衛門という人が契沖にとってはあれほどの人物だったからであり、なればこそ契沖は、永年歌学に生きて行き着いた確信を、「俗中の真」という一語に託して新右衛門に明かした、そしてその一語にこめられた意力は、後に、本居宣長が契沖の「百人一首改観抄」に感じ、続いて同じく「勢語臆断」に感じた意力とまったく同じだと小林先生も強く感じられたにちがいないと思えたからです。だからこそ先生は、続けて即刻、こう言われたと思えたのです。
 ――「勢語臆断」が成ったのは、この手紙より数年前であるが、既に書いたように、これは、二十三歳の宣長が契沖の著作に出会って驚き、抄写した最初のものである。……
 「勢語臆断」は、契沖の「伊勢物語」の註釈書です、以下はその最終段、第一二五段の本文と契沖の評語です。
 ――「むかし、をとこ、わづらひて、心ちしぬべくおぼえければ、つひにゆく みちとはかねて 聞しかど きのふけふとは 思はざりしを』――たれたれも、時にあたりて、思ふべき事なり。これまことありて、人のをしへにもよき歌なり。後々の人、しなんとするにいたりて、ことごとしき歌をよみ、あるひは、道をさとれるよしなどをよめる、まことしからずして、いとにくし。たゞなる時こそ、狂言綺語もまじらめ。今はとあらん時だに、心のまことにかへれかし。業平は、一生のまこと、此歌にあらはれ、後の人は、一生のいつはりをあらはすなり」……
 これにひとまず、現代語訳を添えれば次のとおりです。
 ――昔、男が病気になって、このまま死にそうに思えたので、こう詠んだ、「誰もが最後に行く道だとは前々から聞いていたが、わが身がこうなるときが昨日今日にもやってくるとは思っていなかったのにな……」。誰もが死に臨んで思うことである。この歌には偽りのない本心が詠まれていて、人生の教訓としてもよい歌である。業平より後の時代の人間は、死に臨んでことごとしい歌を詠み、あるいは道を悟ったという意味の歌などを詠んでいるが、本心が感じられずたいへん見苦しい。ふだんのときなら狂言綺語が混じってもよいだろう、だが、これが最期というときは人間本来の心に還れと言いたい。業平はその一生の誠心誠意がこの歌に現れ、後の時代の人は最期の歌に一生の偽りを現している……。
 「狂言綺語」は、道理に合わない言と巧みに飾った語、の意で、『大辞林』には「無いことを装飾して言い表したつくりごと。小説・物語・戯曲などを卑しめていう語」とありますが、契沖の「勢語臆断」の文脈では一般人の間で死に臨んで詠まれる「ことごとしき歌」や「道をさとれるよし」の歌をさして言われています。
 契沖のこの評語を受けて、小林先生は言います。
 ――契沖は、「狂言綺語」は「俗中之俗、加様之義は、俗中之真ニ御座候」と註してもよかったであろう。……
 ここで言われている「『狂言綺語』は俗中之俗、加様之義は、俗中之真ニ御座候」は、契沖が石橋新右衛門に宛てた手紙の中の「世事は俗中之俗、加様之義は、俗中之真ニ御座候」が転用されたもので、小林先生はこの中の「世事」を「狂言綺語」に置き変えて言われているのですが、この転用には、敢えて、の深読みが必要です。
 なぜなら、ここで先生の言われている「『狂言綺語』は俗中之俗……」の「俗中の俗」は、「道理に合わない言と巧みに飾った語」「無いことを装飾して言い表したつくりごと」という「狂言綺語」特有の語意・語感に引きずられて「下品で卑しいもののなかでも格段に下品で卑しいもの」という意に解されかねません、が、それでは契沖が新右衛門に言った「俗中の俗」、すなわち先ほど見た「世人の尋常な実生活そのもの」という毅然たる意味合が反転してしまいます。むろんそうではありません。
 先にも言ったように、契沖の時代の「俗」には侮蔑の語意も語感もなく、したがって「世事は俗中之俗」も「世事」を貶めて言われているのではありません。「俗」という言葉本来の語意と語感で「世事」は日常生活そのものである、しかしそれ以上のものではない、と契沖は言い、よって来る日も来る日も「世事」にかまけていたのではなぜ人は「世事」を生きなければならないかを悟ることができない、そこを悟るためには「萬葉集」のような「俗中の真」が要る、契沖はそう言っているのです。
 したがって、小林先生のように、「契沖は、『狂言綺語』は俗中之俗、加様之義は、俗中之真ニ御座候」と註してもよかったであろう」といきなり言われてしまいますと、「俗中之俗」は契沖が言わんとした「俗中之俗」ではない語意と語感で受け取られ、そうなると同じ手紙で「萬葉集」の歌と「萬葉学」をさして言われている「俗中の真」も曖昧模糊となってしまいかねないのですが、先生が「契沖は、『狂言綺語』は俗中之俗、加様之義は、俗中之真ニ御座候」と註してもよかったであろう」と言われた「狂言綺語」は、一般社会でごく当然のように詠まれている「辞世」なるものの「ことごとしき」歌、あるいは「道をさとれるよしなどを詠める」歌が踏まえられており、この「辞世」なるものから先生は、「古典に関する後世の註や解釈」を連想されたと私は敢えて思ってみたいのです。第六章に、次のように言われています。
 ――「万葉」の古言は、当時の人々の古意と離すことは出来ず、「源氏」の雅言は、これを書いた人の雅意をそのまま現す、それが納得出来る為には、先ず古歌や古書の在ったがままの姿を、直かに見なければならぬ。直かに対象に接する道を阻んでいるのは、何を措いても、古典に関する後世の註であり、解釈である。……
 続けて、
 ――「註ニヨリテ、ソノ歌アラレヌ事ニ聞ユルモノ也」(「あしわけをぶね」)、歌の義を明らめんとする註の努力が、却って歌の義を隠した。解釈に解釈を重ねているうちに、人々の耳には、歌の方でも、もはや「アラレヌ」調べしか伝えなくなった。従って、誰もこれに気が附かない。「夢ヲミテヰル如クニテ、タハヒナシ」、だが、夢みる人にとって、夢は夢ではあるまい。古歌を明らめんとして、仏教的、或は儒学的註釈を発明する人々は、余計な価値を、外から歌に附会するとは思うまいし、事実、歌は、そういう内在的な価値を持つものとして、彼等に経験されて来たであろう。歌学或は歌道の歴史は、このようなパラドックスをになって流れる。これを看破するには、契沖の「大明眼」を要した、と宣長は言うのである。……
 「辞世」と言われる「ことごとしき」歌、あるいは「道をさとれるよしなどを詠める」歌は、わけても仏教的あるいは儒学的人生観の諦念を詠みこむのが一般で、それを読まされる側もそういう内在的価値を読み取るのが歌であると思いこんでいる、とすれば、この種の仏教的あるいは儒学的人生観の諦念こそは「道理に合わない言と巧みに飾った語」であり、「無いことを装飾して言い表したつくりごと」すなわち「狂言綺語」であると先生は解し、そういう「狂言綺語」もまた紛れもない「世事」であるが、しかしそれ以上のものではない、という意味合で「俗中の俗」と言われ、これに対して「加様之義」、業平の歌は「俗中の真」そのものだと契沖は言ってもよかったであろうと先生は言われている、と思えるのです。
 こうして小林先生が、「萬葉集」のことばかりが言われている契沖の手紙を読み終えた直後、「萬葉集」には一言もふれずにただちに「勢語臆断」へと飛んだのは、契沖の手紙に見られた「俗中の俗」より「俗中の真」に「勢語臆断」の中の「狂言綺語」が烈しくからみついたからでしょう。先生は、契沖の言う「俗中の真」を読者に心底わかってもらおうとすれば、「勢語臆断」にある「狂言綺語」が恰好の対概念になる、そう考えられたのでしょう。

 そういう次第で、小林先生が「俗」に言及されるときは、現代語の「俗」の語意や語感はきれいに洗い流して聴き入ることが大切なのですが、「本居宣長」の第十一章ではこう言われています。
 ――卑近なるもの、人間らしいもの、俗なるものに、道を求めなければならないとは、宣長にとっては、安心のいく、もっともな考えではなかった。俗なるものは、自分にとっては、現実とは何かと問われている事であった。この問いほど興味のあるものは、恐らく、彼には、どこにも見附らなかったに相違ない。……
 ではなぜ小林先生は、「契沖は『狂言綺語』は『俗中之俗』と註してもよかったであろう」などと、第七章では読者を誤解の淵へ追いやるような言い方をしたのでしょうか。
 先生にとって、人間が生きる、生きているということに対する関心は、人間が生きている現実そのものよりも、その現実から生まれてくる言葉にありました。端的に一例を示せば、昭和三十二年(一九五七)二月、五十四歳の冬に発表した「美を求める心」(『小林秀雄全作品』第21集所収)で次のように言っています。
 ――悲しみの歌を作る詩人は、自分の悲しみを、よく見定める人です。悲しいといってただ泣く人ではない。自分の悲しみに溺れず、負けず、これを見定め、これをはっきりと感じ、これを言葉の姿に整えて見せる人です。……
 ――詩人は、自分の悲しみを、言葉で誇張して見せるのでもなければ、飾り立てて見せるのでもない。一輪の花に美しい姿がある様に、放って置けば消えて了う、取るに足らぬ小さな自分の悲しみにも、これを粗末に扱わず、はっきり見定めれば、美しい姿のあることを知っている人です。悲しみの歌は、詩人が、心の眼で見た悲しみの姿なのです。これを読んで、感動する人は、まるで、自分の悲しみを歌って貰ったような気持ちになるでしょう。悲しい気持ちに誘われるでしょうが、もうその悲しみは、ふだんの生活のなかで悲しみ、心が乱れ、涙を流し、苦しい思いをする、その悲しみとは違うでしょう。悲しみの安らかな、静かな姿を感じるでしょう。そして、詩人は、どういう風に、悲しみに打ち勝つかを合点するでしょう。……
 この「美を求める心」の「詩」を「歌」に、「詩人」を「歌人」に置き換えて読めば、前回見た契沖、長流の唱和をはじめとして「本居宣長」のそこここが浮んできますが、いまここで、小林先生にとって人間が生きるということに対する関心は、人間が生きている現実そのものよりも、その現実から生まれてくる言葉にありました、と言ったことの意味合も理解していただけるのではないでしょうか。もっと言えば、「関心」よりも「価値」です。小林先生が関心を振り向け価値を見出すのは、何かに悲しんでいる人その人ではありません、何かに悲しんでいる人がその悲しみを言葉の姿に整えてみせた歌や詩です。そしてこれをこのまま石橋新右衛門への契沖の手紙に即して続ければ、悲しみは「俗中の俗」です、それが歌や詩となって言葉の姿をとったとき、「俗中の真」が立ってくるのです。

 小林先生は、
 ――契沖は、「狂言綺語」は「俗中之俗、加様之義は、俗中之真ニ御座候」と註してもよかったであろう。……
と言ったあとに、
 ――宣長は、晩年、青年時の感動を想い、右の契沖の一文を引用し、「ほうしのことばにもにず、いといとたふとし、やまとだましひなる人は、法師ながら、かくこそ有けれ」(「玉かつま」五の巻)と註した。……
 と言っています、「右の契沖の一文」は、「勢語臆断」最終段の契沖の評語です。
 ――この言葉の、宣長の言う「本意」「意味ノフカキ処」では、契沖の基本的な思想、即ち歌学は俗中の真である、学問の真を、あらぬ辺りに求める要はいらぬ、俗中の俗を払えば足りる、という思想が、はっきり宣長に感得されていたと考えたい。……
 「この言葉」とは、「ほうしのことばにもにず……法師ながら、かくこそ有りけれ」という宣長の「玉かつま」の言葉です。契沖の基本的な思想は「勢語臆断」の業平評に縮図的に表れており、業平の歌のような正直な古歌から人生の要諦を汲み上げるのが歌学である、そういう歌学がとりもなおさず俗中の真ということである、と宣長は解して腹に入れていた、さらに契沖は、こういう俗中の真に徹し、そのために狂言綺語をまず排斥した、この狂言綺語の排斥が契沖学の急所であったとも宣長は見てとっていた、というのです。
 こうして「俗中の俗」は、ここから様相が変ります。ここで言われている「俗中の俗」も「世事」すなわち人間社会の日常ではあるのですが、ここではより強く、「日常の現実のみに留まるもの」の意で言われています。今日見られる用語で言えば、「作品の歴史的・社会的背景」とか「主人公のモデル」とかです。研究者や評論家はまたしても作品に類似の事件や人物を洗い出し、さも得意げに比較対照論を張るのですが、これこそは「学問の真を、あらぬ辺りに求め」た結果の「俗中の俗」すなわち「狂言綺語」なのです。先に引いた第六章の、
 ――古歌を明らめんとして、仏教的、或は儒学的註釈を発明する人々は、余計な価値を、外から歌に附会するとは思うまいし、事実、歌は、そういう内在的な価値を持つものとして、彼等に経験されて来たであろう。……
 が思い合わされますが、こういう「狂言綺語」に関しては、小林先生は『本居宣長』の刊行直後(昭和五三年一月)、『波』に書いた「感想」で、「准拠」という言葉で括って叱責しています、次のようにです。
 ――「紫文要領」の中に、「准拠ナズラヘの事」という章がある。文芸作品の成り立つ、歴史的、或は社会的根拠です。今日の言葉で言うなら、文学が生れて来る歴史的、社会的条件を明らかにする事、これは何も今日始った事ではない。昔から、文学研究者は気にかけていた事だ。それを、宣長は、そのような問題は詰らぬ、私には、格別興味のある事ではないとはっきり言った。どういう言葉で言ったかと言うと、「およそ准拠といふ事は、たゞ作者の心中にある事にて」――。いろいろの事物をモデルにして、画家は絵を描き、小説家は小説を書く。その時、彼等が傾ける努力、それは、彼等の心中にあるではないか。物語の根拠というものは、ただ紫式部の心の中だけでほんとうの意味を持つ。物語の根拠を生かすも殺すも式部の心次第なので、その心次第、、、だけに大事がある、と宣長は、はっきり言う。このような思い切った意見を述べた人は、誰もいなかった。……

         

 ――義公(水戸光圀/池田注記)は、契沖の「代匠記」の仕事に対し、白銀一千両絹三十匹を贈った。今日にしてみると、どれほどの金額になるか、私にははっきり計算出来ないが、驚くべき額である。だが契沖は、義公の研究援助を、常に深謝していたが、権威にも富にも全く関心がなかった。先きにも挙げた安藤為章の「行実」には、「師以テ自ラケズ、治寺ノ費ニテ、貧乏ヲニギハス」とあるのが、恐らく事実であった事は、契沖の遺言状でわかる。彼は、六ヶ条の、まことに質素な簡明な遺言を認め、円珠庵に歿した(元禄十四年正月、六十二歳)。それは、契沖の一生のまこと、ここに現れ、と言ってよいもので、又、彼の学問そのままの姿をしているとも言えると思うので、引用して置く。……
 小林先生は、契沖の遺言状は、「彼の学問そのままの姿をしている」と言っています。事実、契沖の遺言状には、狂言綺語は一語として交らず、在原業平と同様に、契沖は「心のまことにかへ」って「一生のまこと」を現しています。
 その契沖の遺言状を、小林先生は原文で引いていますが、ここでは「契沖全集」第九巻、久松潜一氏の「伝記及伝記資料」に拠りながら、一条ごとに趣意をとってみます。

 一、何時拙僧相果候共……
  契沖がいつ死のうとも、円珠庵は理元がそのまま住み続けてほしい。円清の旧地であるから、自分が生きていたときと同じにしてほしい。もし余所へ出たいと望んだときは、飢渇の心配のないようにしてほしい。
(「理元」は長く契沖の身辺にあって契沖を助けた僧で、円珠庵の墓碑に円珠庵二世として名が残る契真かと久松氏は言われています/池田注記)
 一、水戸様より毎年被下候飯料……
  水戸光圀様から毎年いただいている手当は、早めにすべてをまとめて返納してほしい。もともとこれを頂戴することは自分の本意ではないと常々思っていたが、無力のために御恩を蒙ってきたのである。
 一、年来得御意候何も寄合ご相談候而……
  永年ご厚意をいただいた方々でご相談下さり、数年の間は理元が引き続きかつがつでも暮していけるようにしていただきたい。自分は裕福でないので頼んでおきます。
 一、拙僧平生人を益可申方を好候而……
  自分は平生から人に益をもたらすことを好み、損を及ぼすことは好まなかったが、先年、無調法をして多くの人に損をおかけしたことを甚だ残念に思っている。力が出ればお返ししたいと思う甲斐なく今に至っている。その人たちは何ともお思いになってはいないだろうが、自分は心底このように申し訳なく思っている。
 一、妙法寺を退候節……
  妙法寺を退去したとき、覚心へ銀三枚、深慶へ二枚、今之玆元へ一枚、故市左衛門と作兵衛へ各一枚を与えたいと人を通じてそう言いもしそう思っていたが、この円珠庵にその銀を使ってしまったため、これまたいつかはいつかはと心底思ってはいた。円智、おばなどへも、少しは与えたいと思っている。そのほか九兵衛など、別に少々与えたいと思ってきたが、実際は願いと違ってしまっている。
 一、歌書、萬葉、余材抄等数部は、理元守可被申候……
  歌道に関する書、「萬葉集」、「古今余材抄」など数点の書物は、理元が守ってほしい。その他、下河辺長流の書いたものや自分が書き写しておいたものは、皆で相談して形見として分けられたい。

 以上です。「ことごとしき歌」も、「道をさとれる由」も、記されていません。

(第七章 了)  
本稿は「小林秀雄に学ぶ山の上の家塾」のWeb同人誌『好・信・楽』の
平成三一年九・一〇月号に寄稿した「小林秀雄『本居宣長』全景」(二十
一)「俗中の真」を全面修整したものです。          筆者識