小林秀雄「本居宣長」を読む(十七)

小林秀雄「本居宣長」を読む(十七)
第十一章   「古学」の歴史意識
池田 雅延  
           

 第十一章は、次のように言われて始まります。
 ――歴史意識とは「今言」である、と先きに書いた。この意識は、今日では、世界史というような着想まで載せて、言わば空間的に非常に拡大したが、過去が現在に甦るという時間の不思議に関し、どれほど深化したかは、甚だ疑わしい。「古学」の運動がかかずらったのは、ほんの儒学の歴史に過ぎないが、その意識の狭隘を、今日笑う事が出来ないのは、両者の意識の質がまるで異なるからである。歴史の対象化と合理化との、意識的な余りに意識的な傾向、これが現代風の歴史理解の骨組をなしているのだが、これに比べれば、「古学」の運動に現れた歴史意識は、全く謙遜なものだ。そう言っても足りない。仁斎や徂徠を、自負の念から自由にしたのは、彼等の歴史意識に他ならなかった。そうも言えるほど、意識の質が異なる。……
 「古学」とは、「論語」や「孟子」などの経書(儒教の経典で中国古代の聖賢の教えを記した書物)を朱子学、陽明学などの解釈を介さず直接研究し、理解しようとした近世日本の儒学の一派で、山鹿素行に始まり、伊藤仁斎の古義学、荻生徂徠の古文辞学などが続きましたが、第十章で小林先生は、仁斎から徂徠へと、「古文から直接に古義を得ようとする努力が継承された」と言った後、ただちに次のように言っていました、
 ――これを、古典研究上の歴史意識の発展と呼ぶのもよいだろうが、歴史意識という言葉は「今言」である。今日では、歴史意識という言葉は、常套語に過ぎないが、仁斎や徂徠にしてみれば、この言葉を摑む為には、豪傑たるを要した。藤樹流に言えば、これを咬出かみだした彼等の精神は、卓然として独立していたのである。……
 この「歴史意識」という言葉を承けて、前回、私はこう言いました、――小林先生の文章には飛躍が多いとよく言われ、あるいはここもそう思われているかも知れません。伊藤仁斎から荻生徂徠へと、「古文から直接に古義を得ようとする努力が継承された」まではいちおう難なく呑みこめますが、「これを古典研究上の歴史意識の発展と呼ぶのもよいだろうが」と言われると、いささかとは言え唐突感に襲われます。しかも先生は、続けて、――言うまでもなく、彼等の学問は、当時の言葉で言えば、「道学」であり、従って道とは何かという問いで、彼等の精神は、卓然として緊張していたと見てよいわけであり、そこから生れた彼等の歴史意識も、この緊張で着色されていた。徂徠になると、「学問は歴史に極まり候事ニ候」(「答問書」)とまで極言しているが、人生如何に生くべきか、という誰にも逃れられない普遍的な課題の究明は、帰するところ、歴史を深く知るに在ると、自分は信ずるに至った、彼はそう言っているのである。……と先生は一目散に駆けます。しかしここに、論理の飛躍はありません。先生にしてみれば、これが徂徠の「古文辞学」とはどういう学問であったかの結論なのです。この結論は、当然ながら先生が古文辞学なるものの心髄を見ぬき、見極めたうえで言っているのですが、「本居宣長」に荻生徂徠を初めて本格的に登場させた第十章において、いきなり「歴史」という言葉を持ち出してきたについては確たる理由があります。……と私は言い、――徂徠は、早くから朱子学に没入していました、しかしあるとき、ある偶然から一気に古文辞学に目覚め、その目覚めの決定的な動因は「言葉も変遷する、言葉にも歴史がある」ということを自ら発見した驚きにあったのです……、と言いました。
 私が示したこの「理由」は、誤りではないばかりか正当も正当だったと今でも言えるのですが、先生が持ち出した「歴史意識」という言葉は論理の飛躍ではない、ということを読者に確と理解してもらうためには、これに続けて次のようにも言っておくべきだったと後になって思いました。――小林先生の「本居宣長」は、人生いかに生きるべきか、という思想を、本居宣長と伊藤仁斎、荻生徂徠ら古学者たちの劇として書こうとしたものですが、先生の文章はすべてにおいて人生いかに生きるべきかがテーマであり、そして先生の「人生」という言葉には、「言葉」と「歴史」という言葉が常に伴われていました、私たち人間の身体には水と空気が不可欠だが、それと同じように精神には言葉と歴史が不可欠だ、言葉と歴史なしではいかに生きるべきかを考えることができない、先生はそうとはっきり言われたわけではありませんが、先生の口に「人生」「言葉」「歴史」という言葉が上るたび、私の耳には三語一体となって聞こえていました。
 したがって、伊藤仁斎から荻生徂徠へと、「古文から直接に古義を得ようとする努力が継承された」と言い、「これを、古典研究上の歴史意識の発展と呼ぶのもよいだろうが」と言った後に、
 ――人生如何に生くべきか、という誰にも逃れられない普遍的な課題の究明は、帰するところ、歴史を深く知るに在ると、自分は信ずるに至った、彼はそう言っているのである。……
 と先生は一目散に駆けた、と私は言ったのですが、先生は徂徠の「学問は歴史に極まり候事ニ候」と、「惣而そうじて学問の道は文章の外無レ之候。古人の道は書籍に有レ之候。書籍は文章ニ候。よく文章を会得して、書籍のまま済し候而、我意を少もまじえ不レ申候得ば、古人の意は、明に候」(「答問書」下)に我が意を得たりの感を深くして「歴史意識の発展」と言ったにちがいありません。「批評するとは自己を語る事である、他人の作品をダシに使つて自己を語る事である」という若き日の先生の言葉(「アシルと亀の子Ⅱ」、昭和五年)を借りて言えば、先生は徂徠の言葉をダシに使って己れを語ったのです、ゆえに「歴史意識」という言葉は、第十一章でも重きをなすのです。

           

 第十一章は、続いて、次のように言われます。
 ――ここで既に書いた徂徠の言葉を思い出して貰ってもいいが、彼は、歴史は「事物当行之理」でもなく「天地自然之道」でもないという、はっきりした考えを持っていた。彼に言わせれば、歴史の真相は、「後世利口之徒」に恰好な形に出来上っているものではないのであった。これは、歴史の本質的な性質が、対象化されて定義される事を拒絶しているところにある、という彼の確信に基く。この確信は何処で育ったかと言えば、それは、極く尋常な歴史感情のうちに育ったと言うより他はない。過去を惜しみ、未来をこいねがいつつ、現在に生きているという普通人に基本的な歴史感情にとって、歴史が吾が事に属するとは、自明な事だ。自明だから反省されないのが普通だが、歴史がそういうものとして経験される、その自己の内的経験が、自省による批判を通じて、そのまま純化されたのが徂徠の確信であった、と見るのが自然である。……
 
 続いて、次のように言われます。
 ――この尋常な歴史感情から、決して遊離しなかったところに、「古学」の率直で現実的な力があったのであり、仁斎にしても徂徠にしても、彼等の心裡しんりに映じていたのは儒学史の展望ではない。幼少頃から馴れ親しんで来た学問の思い出という、吾が事なのであり、その自省による明瞭化が、即ち藤樹の言う「学脈」というものを探り出す事だった。仁斎は、これを「血脈」と呼んだ。血脈という言葉は、当時の仏家から出たもので、法脈あるいは法灯を守るという意味合に通じていた。彼等の意識が集中していたのは、過去の学問的遺産の伝承にあったのだから、これを歴史意識と呼ぶより、伝統意識と呼ぶ方が適当なわけだが、この言葉を軽んじて、殆ど瀕死の状態にまで追い込んで了った私達の時代から、彼等のうちに生きていた伝統の生態を想像してみるのが、大変むつかしいだけなのである。……
 
 続いて、次のように言われます。
 ――彼等が、所謂博士はかせ家或は師範家から、学問を解放し得たのは、彼等が古い学問の対象を変えたり、新しい学問の方法を思い附いたが為ではない。学問の伝統に、彼等が目覚めたというところが根本なのである。過去の学問的遺産は、官家の世襲の家業のうちに、あたかも財物の如く伝承されて、過去が現在に甦るという機会には、決して出会わなかったと言ってよい。「古学」の運動によって、決定的に行われたのは、この過去の遺産の蘇生である。言わば物的遺産の精神的遺産への転換である。過去の遺産を物品並みに受け取る代りに、過去の人間から呼びかけられる声を聞き、これに現在の自分が答えねばならぬと感じたところに、彼等の学問の新しい基盤が成立した。今日の歴史意識が、その抽象性の故に失って了った、過去との具体的と呼んでいい親密な交りが、彼等の意識の根幹を成していた。……
 「博士家」は、『大辞林』に「平安以降、大学寮などにおける博士の職を世襲した家柄。菅原・大江・清原・中原などの各家が有名」とあり、「博士」については「律令制で諸官司にあって学生がくしょうの教育に従事した官職」とあり、「官家」は官位の高い家、由緒正しい家、です。第十章で先生が、「今日では、歴史意識という言葉は、常套語に過ぎないが、仁斎や徂徠にしてみれば、この言葉を摑む為には、豪傑たるを要した。藤樹流に言えば、これを咬出かみだした彼等の精神は、卓然として独立していたのである」と言っていた「独立」はまずはここで言われている博士家、師範家からの独立で、豪傑という言葉は専ら武勇に優れ、強く勇ましい男性に対して言われますが、『大辞林』には「常識や打算にとらわれず大胆に行動する人」とも言われていて、中江藤樹や伊藤仁斎、荻生徂徠はまさに俗世の通念を振り切って「我が道」を求めたという意味でも「卓然として」、高くぬきんでて独立していた豪傑でした。

 続いて、次のように言われます。
 ――だが、そう言っただけでは足りまい。「経」という過去の精神的遺産は、藤樹に言わせれば、「生民ノタメニ、コノ経ヲ遺セルハ、何ノ幸ゾヤ」、仁斎に言わせれば、「手ノこれヲ舞ヒ、足ノ之ヲ踏ムコトヲ知ラズ」と、そういう風に受取られていた。過去が思い出されて、新たな意味を生ずる事が、幸い或はよろこびとして経験されていた。悦びに宰領され、統一された過去が、彼等の現在の仕事の推進力となっていたというその事が、彼等が卓然独立した豪傑であって、而も独善も独断も知らなかった所以である。……
 「経」は、先ほど注記を添えた「経書」と同じで、先王すなわち遠い昔の徳の高い王、具体的には古伝説上のぎょうしゅん王朝の創始者いん王朝の創始者とう、周王朝の始祖文王、武王、周公らの政治の手法を記録した六経と呼ばれる『書経』『詩経』『礼記』『楽記』『易経』『春秋』の六種の書物です。

 続いて、次のように言われます。 
 ――彼等の遺した仕事は、新しく、独自なものであったが、斬新や独創に狙いを附ける必要などは、彼等は少しも感じていなかった。自己を過去に没入する悦びが、期せずして、自己を形成し直す所以となっていたのだが、そういう事が、いかにも自然に、邪念を交えず行われた事を、私は想わずにはいられない。彼等の仕事を、出来るだけ眼を近附けて見ると、悦びは、単に仕事に附随した感情ではなく、仕事に意味や価値を与える精神の緊張力、使命感とも呼ぶべきものの自覚である事が合点されて来る。言うまでもなく、彼等の言う「道」も、この悦びの中に現じた。道は一と筋であった。ここでも亦、先きに触れた「経」と「史」との不離という、徂徠の考えを思い出して貰ってよいのである。……
 第十一章は、ここまで言われて一区切りとなります。後続部は来月号で読みます。

           

 そこで、さて、ですが、前回の吉川幸次郎氏「徂徠学案」ほどではありませんが、今回また「本居宣長」第十一章を読むにあたり、その前半部をすべて引用することから始めました、今回は、この引用ということについて、かねがね私が感じてきたことを書いておこうと思います。
 引用と言えば、小林先生の「本居宣長」こそは宣長の原文引用で埋まっていると言っていいほどですが、これは先生が強く意識し意図した構文法の結実です。先生は、『本居宣長』の刊行から半年ほどが過ぎた昭和五十三年の春、中村光夫氏と私を前にした茶飲み話のなかでこう言われました、――批評は引用に尽きるのだよ、原文のここっという箇所が適格に引用できれば、批評家の評言などは一言も要らないのだよ……。私は批評家でもなければ随筆家でもなく、一介の文芸編集者ですが、小林先生にこう聞かされてからというもの、小説であれ随筆であれ、編集者の立場でそれらを話題に上せるときに備えるかのように、自ずと「ここっという箇所」に意を注いで読むようになりました。
 そしてそのうち、先生が「ここっという箇所」と言われたその箇所は、原文の趣旨や文意の急所だけではなく、作者や筆者が言うに言われぬ微妙な事柄をなんとか言おうとして苦心惨憺している箇所も含まれる、否むしろ、後者をこそ先生は「ここっという箇所」と言われたのだと思うようになりました。
 ある年、先生のお宅で、大学入試の国語の長文読解問題に先生の文章がおびただしく使われ、そういう入試問題のこともあって「小林秀雄」は難解とされてきたということが話題になったとき、先生は困惑の色を浮かべて、困ったもんだねえ、世間では皆、小林は散文を書いていると思っているが、そうではないんだ、僕は詩を書いているんだよ、だから僕の書いたものを読ませて、小林の言いたいことは次のうちのどれかなどという問題はおいそれと作れるわけがないんだが、ましてやその正解はこれだ、なんて言えるわけがないんだよ……。
 先生が言われる「詩」は、一九世紀フランスの詩人、ボードレールによって創始された象徴詩です。ボードレールは、私たち人間の思念や情緒など、言葉では伝えきれないものを伝えるための手段として、今日、象徴詩と呼ばれている詩型を編み出したのですが、象徴詩の詩人は個々の言葉の語意にはよらず、いくつか言葉を選んで組み合わせ、個々の言葉の音声や語感が融合して生まれる新しい感覚、その新しい感覚に自分の思念や情緒を託し、その詩を受け取った読者は、一人ひとりが読者自身の感性や経験を総動員して詩人の思念や情緒に接したのです、あたかも音楽を聴くようにです。したがって、象徴詩は、詩人の手を離れたときはまだ未完成と言ってよく、読者に読まれ、共鳴されることによって初めて完成しました。したがって、自分の詩を読んで一人ひとりの読者が感じてくれたこと、考えてくれたことは、詩人にとってはどれもみな正解なのです、小林先生が言われた「僕の書いたものを読ませて、小林の言いたいことは次のうちのどれかなどという問題はおいそれと作れるわけがないんだが、ましてやその正解はこれだ、なんて言えるわけがないんだよ」は、こういう奥行をもった言葉だったのです。

           
 
 こうして小林先生が嘆かれた「次の文を読んで後の問いに答えよ、筆者の言いたいことは次の(イ)~(ホ)のうちのどれか」は、要するに筆者の原文を要約せよということですが、大学入試のみならず、高校の国語の時間からこの種の原文要約を強いられ続けたことによって、文章の読解力とは要約力のことだと多くの人が思い込んでしまってはいないでしょうか。むろん文章でも会話でも、相手の言わんとするところを要約する力は必要です、したがって、国語の時間の長文読解問題は、そういう国語力をつけさせるための手段に過ぎない、大学入試のそれはそういう国語力がついているかどうかを見るための手段に過ぎない、ということをよく知って、日常生活においては要約したりされたりすると元も子もなくなると思える文章や話し言葉は要約しないという知恵を働かせることが大事です。実のところ、文章を要約すると、要約文は原文の雛形ではなくなるどころではないのです、筆者ならではの句読点やテンポなどによって生み出されていた文章の文(あや)が飛んでしまい、その文(あや)によって伝わっていた章句章句のニュアンスも消えてしまって、筆者が言わんとした肝心要がどこかへ行ってしまうのです。  

 私は私塾レコダの「小林秀雄『本居宣長』を読む」「小林秀雄と人生を読む夕べ」では小林先生の文章の、「『萬葉』秀歌百首」では伊藤博先生の釈註の、それぞれ当該箇所を丸ごと音読することが多いのですが、それと言うのも最初の頃、短い間でしたが小林先生、伊藤先生が書かれていることを要約して口にしていたとき、その要約は小林先生、伊藤先生が言わんとされているところとは程遠いどころか、ほとんどすかすかの通俗言語となって私の耳に聞こえてきていたからです。
 そうとはっきり気づいたとき、これはいけない、すぐやめようと思いました。小林先生が言われた「僕は詩を書いているんだよ」がまざまざと甦り、詩を要約する馬鹿がどこにいると頭をガンガンたたきました。伊藤先生の釈注も、世にいう学者先生のしゃちこばった論文口調ではなく、小林秀雄の愛読者だと言われていた伊藤先生は「萬葉」讃歌という詩を書かれていたのです。
 今回、「本居宣長」第十一章の前半を読むに際して、私は、ほんのわずかな語釈を添えるだけで講釈は加えず、第十一章前半部の全文を写し取って読者のお一人おひとりに読んでいただこうと思いました。読者のお一人おひとりが決して要旨を掴もうとはなさらず、象徴派の詩人小林秀雄の読者のつもりになって、小林先生に協力されるおつもりで読み通されれば、小林先生が言わんとされている徂徠の「歴史意識」は難なく体感されるでしょう、そして小林先生は、たしかに詩を書かれていると得心されるでしょう。
 それにしても、なぜ池田は、第十一章の全文を、パソコンでとはいえわざわざ写し取り、第十一章は言わばその写本で皆さんに読んでいただこうと思ったのでしょうか。手の内は次号でお見せします。
(第十七回 了)