小林秀雄「本居宣長」を読む(十三)

小林秀雄「本居宣長」を読む(十三)
第九章  「独」の学脈  中江藤樹 
池田 雅延  
         
 
 第八章で、近世の学問の開拓者、中江藤樹の足跡を追った小林先生は、藤樹の学問の地盤を戦国時代の「下剋上」に見、昭和の初めに出た国語辞典『大言海』が「下剋上」を「コノ語、でもくらしいトモ解スベシ」と言っているのを捉えて「でもくらしい」の実相に思いを致し、まさにこの「でもくらしい」によって藤樹は「独」に目覚め、「独の学問」を創始したと見透しました。その第八章を、先生は次のように結びます。
 ――「下剋上」の長い経験は、人々に、世間の「位」の力を借らず、ただが「身」を頼む生活術を教えたが、この教訓は、はげしい競争行為のうちに吸収され、半ば意識されても、意識として発達する事は大変むつかしいものであった。長い兵乱の末の平和の回復とは、個人の実力と社会的地位との均衡が、かつて誰一人考えも及ばなかった社会の広範囲にわたって、実現した事を意味したのであるが、この国民的な大経験も、外側に眼を向けた人々にとっては、その内側の意味合を考えてみる必要はないものだった。成り行き上、平和が到来すれば、言い代えれば、名ばかりのものに成り下っていた因襲的諸制度が、新しく育成された実力という内容で一応みたされてしまえば、事は終ったと見えた。……
 しかし、「その内側」に目を向けると、
 ――藤樹という人が、この時代を生き、これを可能な限り活写した明瞭な意識と映じて来る。そして、「下剋上」という言葉の「でもくらしい」という「大言海」の解も、彼ならよく理解しただろう、そんな考えも浮んで来るのである。……
 ここでこの、「時代を活写した明瞭な意識」に注意を払い、以下、先生の文章を少しずつ区切って読んでいきます。
 ――少くとも、彼は、戦国の生活経験の実りある意味合を捕えた最初の思想家と言える。「天下ノ万事ハ皆末ナリ。明徳ハ其大本ナリ」(「大学解」)、だが、言葉はどうでもよい。明徳の定義を詮議せんぎしてみても仕方がない。定義など彼の著作の何処にも見附からぬ。彼がそう言う時に、いろいろな時代の優れた思想家に起った事が、彼にも亦起っていた事をよく考えてみるのが大本である。……
 ――彼は、時代の問題を、彼自身の問題と感じていた。彼が、彼自身の為に選んだ学問の自由は、時代の強制を跳躍台としたものだ。これを心に入れて置けば、「此身同キトキハ、学術モ亦異ナル事ナシ」と言う時の、彼の命の鼓動は聞ける筈だ。これは学説の紹介でもなければ学説の解釈でもない。自分は学問というものを見附けたという端的な言葉である。彼は、自分の発見を信じ、これを吟味する道より他の道は、賢明な道であれ、有利な道であれ、一切断念して了った。それが彼の孤立の意味だが、もっと大事なのは、誰も彼の孤立を放って置かなかった事だ。……
 ――荒地に親しんで来た人々には、荒地に実った実には、大変よく納得出来るものがあった。「位」の差別も、「其身ニ於テハ、ガウハツモ差別ナシ」とは、誰もがやって来た痛切な経験であった。藤樹が説く「学問ノ準的」は、人々にとって、何処か高みに在る原理の如きものではなかった。反省によって、その意味を求めようとすれば、「此身」から昇華して来るものであった。……
  「学問ノ準的」は、学問の目指すところ、「此身」から、は、自分たちの生活経験から、「昇華して来る」は、おのずと見えてくる、です。
 こうして第八章の結句は次のように言われています。
 ――「藤樹先生年譜」は、その文体から判ずれば、藤樹から単なる知識を学んだ人の手になったものではない。……
 ということは、「藤樹先生年譜」は藤樹が授ける知識だけではなく、藤樹が説く「学問ノ準的」を確と聴き取っていた人の手になったと思われる、それも、藤樹の講義を聴いて自問を重ねるうち、いつしか自得に行き着いていた人の手になったと思われる、と先生は言うのですが、「その文体から判ずれば」とも言っているところから推せば、ここには藤樹の「天下ノ万事ハ皆末ナリ。明徳ハ其大本ナリ」とする「明瞭な意識」によって「時代」が「活写」されている、「藤樹先生年譜」は藤樹の自筆に限りなく近い、とも先生は言っているようなのです。


         2

 第八章でここまで言った小林先生は、第九章に入って言います。
 ――宣長を語ろうとして、契沖から更にさか上って藤樹に触れて了ったのも、慶長の頃から始った新学問の運動の、言わば初心とでも言うべきものに触れたかったからである。社会秩序の安定に伴った文運の上昇に歩調を合せ、新学問は、一方、官学として形式化して、固定する傾向を生じたが、これに抗し、絶えず発明して、一般人の生きた教養と交渉した学者達は、皆藤樹の志を継いだと考えられるからだ。それほど、藤樹の立志には、はっきりと徹底した性質があった。学問は「天下第一等人間第一義之意味を御かみいだ(「与二国領子一」)以外に別路も別事もない。こんな思い切った学問の独立宣言をした者は、藤樹以前に、誰もいなかったのである。……
 「官学」は、時の権力者が正当と定め、人民統治の拠り所とした学問のことで、ここでは徳川時代、初代将軍、家康によって正当とされた朱子学が言われています。しかし「官学」は国定の学問ですから個々の学者の「発明」は許されず、そこからたちまち形式化し凝り固まっていったのですが、荒地に芽生えて荒地に育った藤樹の学問は融通ゆうづう無碍むげで、融通無碍であったればこそそこから学問は「人間第一義の意味を咬出す」わざであるという「発明」も湧き出たのです、そこを小林先生は、こう言っています。
 ――「咬出す」というような言い方が、彼の切実な気持を現しているので、彼にとって、学問の独立とは、単に儒学を、僧侶、あるいは博士家の手から開放するというだけの意味ではなかった。何故学問は、天下第一等の仕事であるか、何故人間第一義を主意とするか、それは自力で、彼が屡々しばしば使っている「自反」というものの力で、咬出さねばならぬ。「君子ノ学ハ己レノ為ニス、人ノ為ニセズ」と「論語」の語を借りて言い、「ゆう百人御座候ござそうらひても、独学ならでは進不レ申候」とも言う。普通、藤樹の良知説と言われているように、「良知」は彼の学問の準的となる観念であり、又これは、明徳とも大孝とも本心とも、いろいろに呼ばれているのだが、どう呼んでも、「独」という言葉を悟得する工夫に帰するのであり、「独ハ良知ノ殊称、千聖ノ学脈」であると論じられている。……
 ここで言われている「準的」は基準、「殊称」は特別の呼び方、「千聖」はあらゆる聖人、ですが、では「独」とは何かです。
 ――「我ニ在リ、自己一人ノ知ル所ニシテ、人ノ知ラザル所、故ニコレヲ独トフ」、これは当り前な事だが、この事実に注目し、これを尊重するなら、「卓然独立シテ、ル所無シ」という覚悟は出来るだろう。そうすれば、「貧富、貴賤、禍福、利害、毀誉キヨ、得喪、之ニ処スルコト一ナリ、故ニ之ヲ独ト謂フ」、そういう「独」の意味合も開けて来るだろう。更に自反を重ねれば、「聖凡一体、生死マズ、故ニ之ヲ独ト謂フ」という高次の意味合にも通ずる事が出来るだろう。それが、藤樹の謂う「人間第一義」の道であった。……
 「卓然」は独り抜け出ているさまを言い、「倚ル所無シ」は誰にもどこにももたれかからない、「聖凡一体、生死マズ」は、聖人も凡人も変るところはない、生き死にのことはどちらもなおざりにできない、と言うのでしょう。
 ――従って、彼の学問の本質は、己れを知るに始って、己れを知るに終るところに在ったと言ってもよい。学問をする責任は、各自が負わねばならない。真知は普遍的なものだが、これを得るのは、各自の心法、或は心術の如何いかんによる。それも、めいめいの「現在の心」に関する工夫であって、そのほかに、「向上神奇玄妙」なる理を求めんとする工夫ではない。このような烈しい内省的傾向が、新学問の夜明けに現れた事を、とくと心に留めて置く必要を思うのである。……
 「向上神奇玄妙」の「向上」は最上の、「神奇」は不思議な、「玄妙」は奥深く微妙な、ですが、要するに「『向上神奇玄妙』なる理」とは人それぞれの日常生活からは遥かに隔たり、雲を掴むにも等しい抽象的な理屈ということでしょう。
 こうして、
 ――藤樹以後、新学問は急速に発展し進歩する。多様にもなり、精細にもなる。今日の学問の概念に慣れたものの眼に、研究の上での客観的な態度、実証的な性質と映るものが、優れた学者達の仕事の上に、現れて来るようにもなる。研究者達が、何をいてもこれに注目して、わが国の近世学問の優秀性を其処そこに求めるのも無理もない話だが、事実の分析記述を主とする現代の学問の通念のうちに在って、専ら古典を対象としていたこの時代の、くんの学の生態を想像してみる事は、決して容易ではない。……
 「訓詁」は、『日本国語大辞典』には「古い言葉の意味を解釈すること、「訓」は字句の解釈の意、「詁」は古語の意」と言われていますが、そういう「訓詁の学」ではなくて「事実の分析記述を主とする現代の学問」では主観、客観という言葉が飛び交っています。ところが、
 ――主観客観という現代風の言葉を使ってあえて言えば、学問を発展させた学者で、学問が要求する客観性について、最も明瞭な意識を持ったと見做みなされる人々にも、藤樹の所謂学脈は継承されていた。彼の高弟熊沢蕃山ばんざんも、「天地の間に己一人生て在りと思ふべし」(「集義和書」)と言う。この燃え上る主観は、決して死にはしなかったのである。……
 また、
 ――藤樹の学問は、先きに言ったように、「独」という言葉の、極めて実践的な吟味を、その根幹としていたが、契沖の仕事にしても、彼の言う「独り生れて、独死候身」の言わば学問的処理、そういう吾が身に、意味あるどんな生き方があるか、という問に対する答えであった。二人が吾が物とした時代精神の親近性を思っていると、前者の儒学の主観性、後者の和学の客観性という、現代の傍観者の眼に映ずる相違も、曖昧なものに見えて来る。契沖の学問の客観的方法も、藤樹の言うように、自力で「咬出し」た心法に外ならなかった事が、よく合点されて来る。……
 ――藤樹は言う、「世俗の学問をそしるにあらず。学者のそしるなり、学者のまねく所なり。しかるを我も人も学問するもののくせにて、世俗の学問をそしるを聞ては、或は腹をタテ或はわらひおとしめて、そのあやまりの己より出る事をわきまへず、これをもつて見れば、学問の実義に志なき学者は、世俗の学問をそしるよりも、一きはまさりたる聖門のつみ人なるべし」(「翁問答」改正篇)。……
 ここで言われている「世俗の学問をそしるにあらず」の「世俗の」は、一般世間の人たちが、です。
 ――学問が久しく住みなれた博士家という、或は師範家という母屋おもやは、戦国の世に、大方は崩壊し去った。壊したのは世俗の力であったが、藤樹は、明らかに、非は世俗の側にはなかったとしている。彼の考えによれば、因襲的な学問の「文芸を高満する病」は膏肓こうこうに入り、これを笑い去った世俗の「活溌くわつぱつ融通の心」に、学者が気附き、これと「和睦」しようとしない限り、学問はその「実義」を回復する事は出来ない。そして、まさしくこれが藤樹が率先して実行したところであった。それなら彼の言う「学問の実義」とは、やがて契沖の言う「俗中之真」となるものだったと言ってよいであろう。……
 ――そういう次第で、藤樹の独創は、在来の学問の修正も改良も全く断念して了ったところに、学問は一ったん死なねば、生き返らないと見極めたところにある。従って、「一文不通にても、上々の学者なり」(「翁問答」改正篇)とか、「良知天然の師にて候へば、師なしとても不ㇾ苦候。道は言語文字の外にあるものなれば、不文字なるもさはり無御座候」(「与森村伯仁」)という烈しい言葉にもなる。……
 「一文不通にても」は文章は読めなくても、「良知」は『孟子』に始まる言葉で人が生まれつきもっているとされる道徳的判断力です、この良知が天然の師匠となってくれるから師匠がいないと言って困ることはない、また道というものは言葉で言い表せるものではないので文字が読めなくてもまったく差支えはない、と藤樹は言うのです。
 ――学問の起死回生の為には、俗中平常の自己に還って出直す道しかない。思い切って、この道を踏み出してみれば、「論語よみの論語しらず」ということわざを発明した世俗の人々は、「論語」に読まれて己れを失ってはいない事に気附くだろう。「心学をよくつとむる賤男賤女は書物をよまずして読なり。今時はやる俗学は書物を読てよまざるにひとし」(「翁問答」改正篇)、この態度をけて蕃山は次のように言う。「家極めて貧にて、独学する事五年なりき。しれる人、母弟妹のあるをしり、きんの餓死に入なんことをあはれみて、ツカヘを求めしむ。其比そのころ中江氏、王子の書を見て、良知の旨を悦び、予にも亦さとされき。これによりて大に心法の力を得たり。朝夕一所にをる傍輩にも、学問したることをしられず、書を見ずして、心法を練ること三年なり」(「集義外書」)……
 「王子」は陽明学の祖、王陽明です。
 ――当時、古書を離れて学問は考えられなかったのは言うまでもないが、言うまでもないと言ってみたところで、この当時のわかり切った常識のうちに、想像力を働かせて、身を置いてみるとなれば、話は別になるので、此処で必要なのは、その別の話の方なのである。書を読まずして、何故三年も心法を練るか。書の真意を知らんが為である。それほどよく古典の価値は信じられていた事を想わなければ、彼等の言う心法という言葉の意味合はわからない。彼等は、古典を研究する新しい方法を思い附いたのではない。心法を練るとは、古典に対する信を新たにしようとする苦心であった。仁斎は「語孟」を、契沖は「万葉」を、徂徠は「りくけい」を、真淵は「万葉」を、宣長は「古事記」をという風に、学問界の豪傑達は、みな己れに従って古典への信を新たにする道を行った。彼等に、仕事の上での恣意しいを許さなかったものは、彼等の信であった。無私を得んとする努力であった。この努力に、言わば中身をうつろにして了った今日の学問上の客観主義を当てるのは、勝手な誤解である。……
 「語孟」は「論語」と「孟子」で、「孟子」は孔子の教えを継いだ孟子の言行を弟子が編纂した書です。また「六経」は中国における六種の経書、すなわち中国古代の聖賢の教えを記した六つの書物で「易経」「書経」「詩経」「春秋」「礼記」「楽経」を言い、儒教の基本とされています。


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 そしていよいよ、藤樹の自画像はどう描かれているかです。
 ――「藤樹先生年譜」によれば、三十二歳、「秋論語ヲ講ズ。郷党ノ篇ニ至テ大ニ感得触発アリ。是ニ於テ論語ノ解ヲ作ラント欲ス」とある。彼は、「論語」のまとまった訓詁に関しては、「論語郷党啓蒙けいもう翼伝よくでん」しか遺さなかった。この難解な著作を批評するのは、元より私の力を越える事だが、尋常の読者として、何故彼が、特に「郷党篇」を読んで「大ニ感得触発」するところがあったかを想ってみると、この著作は彼の心法の顕著な実例と映じて来る。「がく」から「郷党」に至る、主として孔子自身の言葉を活写している所謂「上論語」のうちで、普通に読めば、「郷党」は難解と言うよりも一番退屈な篇だ。と言うのは、孔子は、「郷党」になると、まるで口をかなくなって了う。写されているのは、孔子の行動というより日常生活の、当時の儀礼に従った細かな挙止だけである。孔子の日頃の立居ふるまいの一動一静を見守った弟子達の眼を得なければ、これはほとんど死文に近い。……
 藤樹は、「論語」の訓詁は「郷党」篇に対してしか残しませんでした。「学而」に始まって「堯曰」に至る「論語」全二十篇のうち、「郷党」は第十篇ですが、その「郷党」では孔子はほとんど口を開かず、そこに写されているのは孔子の日常の挙措のみなのです。しかし、それゆえにこそ藤樹の訓詁は「郷党」に集中したようなのであり、藤樹の言う「心法」の、またとないと言っていいほどの働かせどころが「郷党」だったようなのです。
藤樹の「論語郷党啓蒙翼伝」をそう読み取って小林先生は言います。
 ――藤樹に言わせれば、「郷党」の「描画」するところは、孔子の「徳光之影迹」であり、これに光をもたらすものは、ただ読む人の力量にある。「郷党」のこの本質的な難解に心を致さなければ、孔子の教説につまずくだろう。道に関する孔子の直かな発言は豊かで、人の耳に入り易いが、又まことに多様多岐であって、読むものの好むところに従って、様々な解釈を許すものだ。この不安定を避けようとして、本当のところ、彼の説く道の本とは何かを、分析的に求めて行くと、およそ言説げんせんの外に出て了う。そこで、藤樹は、「天何ヲカ言ハンヤ、愚アンズルニ、無言トハ無声無臭ノ道真ナリ」という解に行きつくのである。……
 「徳光」は人の徳から出る光、「影迹」はそれによって生まれる影です。「愚アンズルニ」は私が考えてみるに、「無言トハ無声無臭ノ道真ナリ」の「道真」は学問、道徳の神髄です。
 続いて先生は言います、
 ――「郷党」が、鮮かな孔子の肖像画として映じて来るのは、必ずこの種の苦し気な心法を通じてであると見ていい。絵は物を言わないが、色や線には何処にも曖昧なものはない。「此ニ於テ、宜シク無言ノ端的ヲモクシキシ、コレヲ吾ガ心ニ体認スベシ」、藤樹は、自分が「感得触発」したその同じものが、即ち彼が「論語」の正解と信ずるものが、読者の心に生れるのを期待する。期待はするが、生むのは読者の力である。その為に有効と思われる手段は出来るだけ講ずる。「啓蒙」では、初学の為に、大意の掴み方について忠告し、「翼伝」では、専門的な時代考証を試みる。しかし、これら「聖」の観念に関する知的理解は、彼が読者に期待している当のもの、読者各自の心裏に映じて来る「聖像」に取って代る事は出来ない。……
 ここで言われている「端的」は最も言わんとするところ、「嘿識」は「黙識」に同じですが、「体認」は心で確と会得する、実際の体験はなくとも実際に体験したのと同じくらいに会得する、です。小林先生が言っている「これに光をもたらすものは、ただ読む人の力量にある」の「力量」は、この「体認」の力でしょう。
 そしてここではもう一言、言い添えておきたいことがあります。小林先生は、「藤樹は、自分が『感得触発』したその同じものが、即ち彼が「論語」の正解と信ずるものが、読者の心に生れるのを期待する、期待はするが……」と言っていますが、このくだりは先生が、「己れを語っている」とも言えるのです。すなわち先生は、「ドストエフスキイの生活」も「モオツァルト」も「ゴッホの手紙」も、「自分が『感得触発』したその同じものが読者の心に生れるのを期待」して書いてきましたが、これは「本居宣長」でも同じです。「本居宣長」では「もののあはれを知る」ということが全篇通しての「主調高音」ですが、先生が中江藤樹について言っていることは、そのまま次のように読み替えることができるのです。
 ――小林秀雄は、自分が「感得触発」したその同じものが、即ち彼が「もののあはれを知る」ということの正解と信ずるものが、読者の心に生れるのを期待する。期待はするが、生むのは読者の力である。その為に有効と思われる手段は出来るだけ講ずる。しかし、「もののあはれ」の観念に関する知的理解は、彼が読者に期待している当のもの、読者各自の心裏に映じて来る像に取って代る事は出来ない……。
 私がここでこういう読み替えを試み、その読み替えを敢えてここで読者のご覧に入れたのは、実はこれが小林先生の作品を読むうえでの奥義でもあるからです。すなわち、先生の作品を読むにあたっては、文意を読解しようとするのではなく、先生が「感得」し、「触発」されているものの像をこちらも思い描こうと努力する、先生は私たちにそれを期待して書いているのです。先生が文章を書いて読者に伝えようとしているのは、常に「もののあはれを知る」といったようなこの世の「微妙ということ」であり、この「微妙ということ」はどんなに言葉を尽しても表現しきることはできません、言葉はそこまで万能ではないからです。しかし言葉は、事物の影像や音の像を喚起します、「微妙」ということはその影像や音の像を通じて相手に伝わります。先生が言葉で伝えようとしている「微妙」な事柄は、先生の言葉が読者の脳裡や心裡に喚起する像によって伝わるのであり、文意の読解による知的理解は先生が読者に期待している当のもの、読者各自の心裡に映じて来る「像」に取って代る事は出来ないのです。

 小林先生は、藤樹の「論語郷党啓蒙翼伝」を読んで、藤樹には「郷党」が孔子の肖像画と映じていたと言い、こうも言いました、
 ――私は、これを読んでいて、極めて自然に、「六経ハナホ画ノゴトシ、語孟ハナホ画法ノ猶シ」(「語孟字義」下巻)という、伊藤仁斎の言葉を思い出す。それと言うのも、藤樹が心法と呼びたかったものが、仁斎の学問の根幹をなしている事が、仁斎の著述の随所に窺われるからだ。言うまでもなく、仁斎の仕事になると、藤樹のものに比べれば、格段に精しいものになる。藤樹がそのまま信じた四書の原典に批判が加えられ、「大学非二孔氏之遺書一弁」(「大学」は孔子の遺書にあらざるの弁)というような劃期かっき的な研究も現れるに至った。彼の所謂古義学を、近代文献学の先駆と見るのは今日の定説のようだが、この定説の中身には、本当に仁斎という人間が居るのか、或は現代の学問の通念が在るのか、これを一応疑ってみる必要はあろう。……
 「六経」は、先ほどもふれたように中国における六種の経書、すなわち中国古代の聖賢の教えを記した六つの書物で「易経」「書経」「詩経」「春秋」「礼記」「楽経」を言い、「語孟」は「論語」と「孟子」ですが、「六経はナホ画ノゴトシ、語孟ハナホ画法ノゴトシ」とは、「六径」は描かれた絵そのものに譬えることができ、「論語」と「孟子」はそういう絵の描かれ方を説いた書に譬えることができる、と言うのです。
 「独」の学脈の二の手、伊藤仁斎の幕が上がります。
(了)