小林秀雄「本居宣長」を読む(十九)

小林秀雄「本居宣長」を読む(十九)
第十一章
承前 卑近なるもの、俗なるものこそ
池田 雅延  
         

「本居宣長」第十一章の後半は、
 ――「學」の字の字義は、カタドナラうであって、宣長が、その学問論「うひ山ぶみ」で言っているように、「学問」とは、「物まなび」である。「まなび」は、勿論、「まねび」であって、学問の根本は模傚もこうにあるとは、学問という言葉が語っている。……
 と言われて始まり、「模傚」すなわち「模倣」という言葉を中心に据えて、
 ――彼等にとって、古書吟味の目的は、古書を出来るだけ上手に模傚しようとする実践的動機の実現にあった。従って、当然、模傚される手本と模傚する自己との対立、その間の緊張した関係そのものが、そのまま彼等の学問の姿だ。古書は、飽くまでも現在の生き方の手本だったのであり、現在の自己の問題を不問に附する事が出来る認識や観察の対象では、決してなかった。……
 と言った後に、「もう少し附け加えて置こう」と前置きし、
 ――宣長の学者生活は、京都遊学から還ってから死ぬまで、殆ど松坂での研究と講義とに明け暮れた。歿年の享和元年に至って、在京の門人達の勧誘もだし難く、初めて京で公開の講義を行って、二ヶ月余り逗留とうりゅうした。……
 と、場面を転換して言います、
 ――県居あがたい門の、宣長の後輩に、伊勢外宮げくうの神官の出で、荒木田ひさおゆという人があった。宣長と親交があったが、宣長に拮抗きっこうして一家の古学を唱え、豪放不覊ふきで鳴っていた。……
 その久老は、宣長が松坂に帰って間もない頃、友人に宛てて長い書状を書き、当時の学者気質について日頃の憤懣ふんまんをぶちまけましたが、憤懣のとばちりは宣長の上にも及んで、
 ――「宣長は、皇朝学におきてはくわいたる者に候得共さうらへども、近き年頃は、老くれ候故か、又は天の下におのれに勝れる者なしと思ひ誇れる故か、かゝる臆断おくだんひが言多く候。されども、天の下の古学の徒、宣長がいへる言としいへば、すべて金玉きんぎょくとしてもてはやし、己等が説に、当れる事有をも、奇説或は僻説へきせつといひけちて、其善悪をも考ふる者なし。宣長に従へるかの十哲の徒、被仰下候如く、いといと愚也。宣長は、よく愚をいざなひて、天の下に名を得し者也。是実に豪傑といふべく候。親鸞、日蓮が、愚者をいざなひて、法を説きひろめし如く、皇朝学は、宣長に興りて、天の下に広ごりにたれど、其学する愚者共の、宣長が廓内かくないに取込られて、其廓を出る事あたはず。故ニ、皇朝学は宣長に興りて、宣長にすたるものといふべし。可惜可歎候」。……
 小林先生は久老の書状をここまで引いて、
 ――これは宣長論ではないが、宣長の傍に立っていた人間に映じていた、その生きた感覚が現れているところが面白い。……
 と言っています。
「その生きた感覚」とは、宣長は同時代の学者にどう見られていたか、どう迎えられていたかの感覚で、久老の憤懣は久老の独善や負け惜しみを差し引いても宣長を取り囲んでいた学者たちの風貌を生き生きと思い描かせてくれるという意味合において「面白い」と小林先生は言うのですが、先生は第二章でこう言っていました、
 ――或る時、宣長という独自な生れつきが、自分はこう思う、と先ず発言したために、周囲の人々がこれに説得されたり、これに反撥はんぱつしたりする、非常に生き生きとした思想の劇の幕が開いたのである。この名優によって演じられたのは、わが国の思想史の上での極めて高度な事件であった。……
 したがって、第十一章に登場させた荒木田久老の憤懣も、小林先生には宣長が演じた「生き生きとした思想劇」の脇役の、「生き生きとした台詞」と聞こえていたのです。

         

 続いて第十一章は、次のように展開されます。
 ――宣長が、宝暦二年(二十三歳)、学問の為に京に上った時には、既に、彼の学問への興味は、殆ど万学にわたっていたと言って過言ではない。富裕な町人の家に生れた彼が、幼少の頃から受けた教養は、上方かみがたあるい公家くげ風とも呼ぶべき、まことに贅沢なものであったが、十九歳の時(寛延元年十一月)、伊勢山田の紙商今井田家の養子となる、大体、その頃から、町家まちやの実用には何の関係もない彼の好学心は、いよいよ募ったらしい。……
 ――養子に行く一と月前、彼は松坂の菩提寺で、五重相伝血脈をけ、法号を与えられているから、少くとも浄土宗に関する仏書類には、既に通じていたと見なければならないが、神書の類については、「神書といふすぢの物、ふるき近き、これやかれやとよみつるを、はたちばかりのほどより、わきて心ざし有し」(「玉かつま」二の巻)云々という後年の回想がある。彼に関心ある事柄だけを記した簡単な養子時代の「日記」が遺っているが、それによると、参宮の記事は、三年間の山田滞在中に十九回の多きに達しているが、商売上の記事はただ一回しか見当らぬ。彼は、山田に落ちつき、年が変ると、早速詠歌や歌書を正式に学ぶ為に、師についている。「日記」には「専ラ歌道ニ心ヲヨス」とある。儒学についても同様で、りくけい素読の為に、自ら進んで師を選んだのも同じ年である。離縁して今井田家を去った理由について、宣長自身は、「ねがふ心にかなはぬ事有しによりて」(「家のむかし物語」)と言っているだけだが、町人として身を立てる事の不可能は、既に心中深く刻まれたであろう。……
 先に、第四章で、「気質の力」ということを見ましたが、第十一章のこのくだりからは、第五章で言われていた次の一節も思い起こされます。
 ――学問に対する、宣長の基本的態度は、早い頃から動かなかった。遊学時代のものと推定される、友人達に宛てた、宣長の書状が八通のこされているが、(中略)彼が仏説に興味を寄せているにつき、塾生の一人が、とやかく言ったのに対し、彼はこう言っている。「不佞フネイ(小生、男子の謙譲語/池田注記)ノ仏氏ノ言ニ於ケルヤ、コレヲ好ミ、之ヲ信ジ、且ツ之ヲ楽シム、タヾニ仏氏ノ言ニシテ、之ヲ好ミ信ジ楽シムノミニアラズ、儒墨老荘諸子百家ノ言モマタ、皆之ヲ好ミ信ジ楽シム」、自分のこの「好信楽」という基本的な態度からすれば、「凡百雑技」から「山川草木」に至るまで、「天地万物、皆、吾ガ賞楽ノ具ナルノミ」と言う。このような態度を保持するのが、「風雅ニ従」うという事である。足下そっかには風雅というものがわかっていない。「何ゾ其ノ言ノ固ナルヤ、何ゾ其ノ言ノ険ナルヤ、亦道学先生ナルカナ、経儒先生ナルカナ」(宝暦七年三月、上柳敬基宛)……
 小林先生は、昭和八年(一九三三)、三十歳だった年の二月、『大阪朝日新聞』に「作家志願者への助言」(「小林秀雄全作品」第4集所収)を書き、
 1 つねに第一流作品のみを読め
 2 一流作品は例外なく難解なものと知れ
 3 一流作品の影響を恐れるな
と言った最後に、こう言いました、
 4 若し或る名作家を択んだら彼の全集を読め
  或る名作家の作品全部を読む、彼の書簡、彼の日記の隅々までさぐる。そして初めて私達は、彼がたった一つの思想を表現するのに、どんなに沢山なものを書かずに捨て去ったかを合点する。実に何んでも彼でもやって来た人だ、知っていた人だと合点するのだ。世間が彼にはったレッテル乃至は凡庸な文学史家が解き明かす彼の性格とは、似ても似つかぬ豊富な人間に私達は出会うのだ。……
 この「助言」の4を、小林先生自身、「ドストエフスキイの生活」「モオツァルト」「ゴッホの手紙」「近代絵画」……とことごとく実践してきましたが、「本居宣長」においても同様でした。以下、再び「本居宣長」の第十一章です。
 ――殆ど無秩序とも言える彼の異常な好学心は、そのままの形で、京都遊学の時期までつづいたと見てよいならば、在京中の宣長の書簡に、「好ミ信ジ楽シム」という言葉がしきりに出て来るに就いては、既に述べたが、この言葉の含蓄するところは、もはや明らかであろう。宣長が求めたものは、如何に生くべきかという「道」であった。彼は「聖学」を求めて、出来る限りの「雑学」をして来たのである。彼は、どんな「道」も拒まなかったが、他人の説く「道」を自分の「道」とする事は出来なかった。従って、彼の「雑学」を貫道するものは、「之ヲ好ミ信ジ楽シム」という、自己の生き生きとした包容力と理解力としかなかった事になる。彼は、はっきり意識して、これを、当時の書簡中で「風雅」と呼んだのであり、これには、好事家こうずかの風流の意味合は全くなかったのは、既に書いた通りである。……
 ここで言われている、「彼は『聖学』を求めて、出来る限りの『雑学』をして来たのである」は、第十章で言われていた次の一節を承けています。
 ――仁斎の学問を承けた一番弟子は、荻生徂徠という、これも亦独学者であった。「大学定本」「語孟字義」の二書に感動した青年徂徠は、仁斎に宛てて書いている。「烏虖アア、茫茫タル海内カイダイ豪杰幾何ガウケツイクバクゾ、一ニ心ニ当ルナシ。而シテ独リ先生ニムカフ」(「与伊仁斎」)、仁斎も亦、雑学者は多いが聖学に志す豪傑は少い、古今皆然りと嘆じている(「童子問」下)。……
 続いて第十一章で言われている「彼は、どんな『道』も拒まなかったが、他人の説く『道』を自分の『道』とする事は出来なかった」の「他人の説く『道』」は、諸家によって唱えられていた「道」一般、とも読めますが、ここではとりわけ「朱子学の説く『道』」が意識されています。
 ――宣長は、堀景山の塾で、初めて学問上の新気運に、間近に接した。即ち「古学」や「古文辞学」によって行われた、言わば窮理の学から人間の学への、大変意識的な、鋭敏な転回によって生じた気運である。……
「窮理の学」、「人間の学」……、「窮理の学」の「窮理」とは、『日本国語大辞典』に「一事一物の道理をきわめ、そこに一貫する原理を発見すること」と言われ、『大辞林』には「個々の物に見出される理をおしひろめて万物の理、宇宙の本体に至ること」と言われていますが、中国で宋の時代に興って日本には鎌倉時代に伝わり、江戸時代には官学、すなわち幕府が人民統治の拠り所とする学問にまでなっていた朱子学こそが「窮理の学」でした。朱子学は「窮理」の論を押し立てて人間の本性も理ととらえ、そこから「人は皆、万物の理を知り、万物の理に適った生き方を心がけよ」という彼らの「道」を説いて一世を風靡していました。
 しかし、江戸時代の前期、伊藤仁斎は朱子学から入って朱子学を疑い、古義学を唱えて「人間の学」を打ち出したのです。元禄六年(一六九三)、六十七歳の年に一応の定稿を得て七十九歳の死に至るまで改訂の筆を加え続けた「童子問」で言いました、
 ――ヒクケレバスナハオノヅカラ実ナリ、高ケレバ必ズ虚ナリ、故ニ学問ハ卑近ヲ厭フコトナシ。卑近ヲユルガセニスル者ハ、道ヲル者ニアラザルナリ」(「童子問」上)……。
 卑近、すなわち人間にとって日常的で身近な物事はすべて真実だが、朱子学のように高尚と見える理論はすべて虚構である、作り事である、だから学問は、卑近ということを厭ってはならない、卑近な物事をなおざりにする者は、道とは何かを知らないやからである……。
 さらに仁斎は、「人ノホカニ道ナシ」あるいは進んで「俗ノ外ニ道ナシ」とまで言いましたが、小林先生は「人ノホカニ道ナシ」を承けて言います、
 ――「童子問」を一貫したこの考えは、徂徠によってしっかりと受止められて、徹底化された。……
「徂徠」は、仁斎の弟子となっていた荻生徂徠です。
 ――しかし、この二人の抜群の思想家の自己に密着した独創は、容易に人目につくような性質のものではなかったろう。学問上の新気運を創り出した原動力の性質を見極めるよりも、醸成された新気運を享受する方が、誰にとっても、遥かに易しい事だったに違いない。……
「醸成された新気運の享受」は、流行とかブームとかと呼ばれる現代の流行り事を思い合せてみれば容易に納得がいくでしょう。
 ――事実、在京中の宣長を取巻いていた学問の雰囲気は、漠然とした解放感、自由感に宰領され、急速に弛緩しかんした所謂文人気質を育てていたと見て差支えない。宣長がこれを看破していたと言っては言い過ぎであろうが、彼の仕事を、この気運の影響によるものと言うのは適切ではあるまい。むしろ彼は、この気運に抗したとさえ言える。気運に係わらず、正直に、かに、物が見えていた人である。徂徠の歿後、遺ったものはただけんえん学派と呼ばれる一種の精神的雰囲気だけであった。……
「蘐園学派」は徂徠が率いた儒学の一派で、古文辞学派とも言われましたが、この、中国古代の言語と制度を旧来の訓詁学に寄り掛かることなく直かに読み解くという古文辞学を確立した徂徠の門下には、太宰春台、服部南廓らが出て江戸中期以降の思想界に大きな影響を与えたと『大辞林』には言われています、しかし、『大辞林』に言われている「大きな影響」は小林先生に言わせれば「一種の精神的雰囲気だけであった」となり、宣長はこの「精神的雰囲気」に浮かれることなく見るべきものを見ていたと先生は言うのです。
 そして、
 ――宣長は、やがてこの雰囲気に対して、論難の矢を向ける事になるのだが、矢が徂徠自身に向って放たれたことは一度もない。彼は、徂徠の見解の、言わば最後の一つ手前のものまでは、ことごとく採ってこれをわが物とした。という事は、最後のものは、徂徠自身の信念であり、自分のものではない事を、はっきり知っていたという事であろう。……
 では、宣長は、徂徠の見解の、最後の一つ手前のものまではことごとく採ってこれをわが物とした、とは、どういうことでしょうか。
 第十章に、こう言われていました。
 ――仁斎の「古義学」は、徂徠の「古文辞学」に発展した。仁斎は「註家ノ厄」を離れよと言い、徂徠は「今文ヲ以テ古文ヲ視ル」な、「今言ヲ以テ古言ヲ視ル」なと繰返し言う(「弁名」下)。古文から直接に古義を得ようとする努力が継承された。(中略)彼等の学問は、当時の言葉で言えば、「道学」であり、従って道とは何かという問いで、彼等の精神は、卓然として緊張していたと見てよいわけであり、そこから生れた彼等の歴史意識も、この緊張で着色されていた。徂徠になると、「学問は歴史に極まり候事ニ候」(「答問書」)とまで極言しているが、人生如何いかに生くべきか、という誰にも逃れられない普遍的な課題の究明は、帰するところ、歴史を深く知るに在ると、自分は信ずるに至った、彼はそう言っているのである。「経」と「史」という二つの言葉は、彼にあっては、重なり合って離す事が出来ない。これは面倒な問題だった。……
「経」は経糸たていと、そこから古今を貫く真理の意で言われ、「徂徠の著作には、言わば、変らぬものを目指す『経学』と、変るものに向う『史学』との交点の鋭い直覚があって、これが彼の学問の支柱をなしている」とも小林先生は言っていました。そして、
 ――この支柱が、しっかりと掴まれた時、徂徠が学問の上で、実際に当面したものが、「文章」という実体、彼に言わせれば、「文辞」という「事実」、あるいは「物」であった。彼は言う。「惣而そうじて学問の道は文章の外無之候。古人の道は書籍に有之候。書籍は文章ニ候。よく文章を会得して、書籍の儘済し候而、我意を少もまじえ不申候得ば、古人の意は、明に候」(「答問書」下)。仁斎は、そこまで敢て言わなかった。仁斎から多くのものを貰いながら、徂徠が仁斎の「古義学」に対し、自分の学問を「古文辞学」と呼びたかった所以も、其処にある。……
 ここに引かれている、「惣而そうじて学問の道は文章の外無之候。古人の道は書籍に有之候。書籍は文章ニ候。よく文章を会得して、書籍の儘済し候而、我意を少もまじえ不申候得ば、古人の意は、明に候」……、これが、小林先生が言っている「徂徠の見解」です。そこには当然、徂徠の「最後の見解」が含まれていました。その「最後の見解」が「学問は歴史に極まり候事ニ候」だったのですが、徂徠は「惣而そうじて学問の道は文章の外無之候」とまず悟り、その「文章」から汲み上げるべきは歴史に極まると言ったのです。「経」と「史」という二つの言葉は、徂徠にあっては、重なり合って離す事が出来ない、これは面倒な問題だったと先に言われていました。
 しかし宣長には、徂徠に起っていた「面倒な問題」は起っていませんでした。これは徂徠とは別の人格である宣長固有の気質によって、と言えるかもしれませんが、いずれにしても宣長は「経」と「史」の「史」は意に介さず、「よく文章を会得して、書籍の儘済し候而、我意を少もまじえ不申候得ば、古人の意は、明に候」と言った徂徠の見解を、「学問は歴史に極まり候事ニ候」という「最後の見解」の一つ手前まではことごとく採ってこれをわが物とし、「文章」という実体、「文辞」という「事実」に殉じて三十五年、「古事記」という「物」に正対し続けたのです。
 ――徂徠を熟読したのは宣長の裸心であった。徂徠という豪傑の姿は、徂徠とは全く別途を行った宣長に、却って直かに映じていた、と想像してみてもいいように思う。……
 ここでまた、先に引いた第十一章の次の件が思い合わされます。
 ――「學」の字の字義は、カタドナラうであって、宣長が、その学問論「うひ山ぶみ」で言っているように、「学問」とは、「物まなび」である。「まなび」は、勿論、「まねび」であって、学問の根本は模傚もこうにあるとは、学問という言葉が語っている。……
 そして、
 ――彼等にとって、古書吟味の目的は、古書を出来るだけ上手に模傚しようとする実践的動機の実現にあった。従って、当然、模傚される手本と模傚する自己との対立、その間の緊張した関係そのものが、そのまま彼等の学問の姿だ。古書は、飽くまでも現在の生き方の手本だったのであり、現在の自己の問題を不問に附する事が出来る認識や観察の対象では、決してなかった。……
 と言われていたくだりの「彼等」を「宣長」と、「古書」を「徂徠学」と読み替えてみれば、「徂徠を熟読したのは宣長の裸心であった。徂徠という豪傑の姿は、徂徠とは全く別途を行った宣長に、却って直かに映じていた」と言われている小林先生の推察にも頷けますし、「従って、当然、模傚される手本と模傚する自己との対立、その間の緊張した関係そのものが、そのまま彼等の学問の姿だ」、さらには、もう少し先で言われる、「学問とは物知りに至る道ではない、己れを知る道であるとは、恐らく宣長のような天才には、殆ど本能的に掴まれていたのである」にも頷けます、宣長は、学問をすることによって、どういう己れを知ったのでしょうか。

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 ――どんなに理論的な思想でも、一度人間に取りつけば、不思議な劇を演ずるものである。徂徠は仁斎から、実に沢山なものを得たが、仁斎風の衣のうちにぬくもりはしなかった。二人の著作をよく読めば、仁斎の真価を一番よく知っていたのは、仁斎を一番痛烈に批判した徂徠であった、と合点せざるを得ない。……
 青年時代に仁斎の『大学定本』『語孟字義』を読んで感動し、仁斎に宛てて「烏虖アア、茫茫タル海内カイダイ豪杰幾何ガウケツイクバクゾ、一ニ心ニ当ルナシ。而シテ独リ先生ニムカフ」と書いた徂徠は、四十九歳の年、逆に仁斎の学説と文章を痛烈に批判した『蘐園随筆』を刊行しました、小林先生はそのことを言っています。
 そしてその不思議な劇は、仁斎、徂徠と、宣長の間にも現れました、宣長が仁斎の思想、徂徠の思想を批判することはありませんでしたが、仁斎と徂徠の思想は宣長にとりついて、不思議な劇を演じたのです。
 仁斎は「童子問」に、
 ――ヒクケレバスナハオノヅカラ実ナリ、高ケレバ必ズ虚ナリ、故ニ学問ハ卑近ヲ厭フコトナシ。卑近ヲユルガセニスル者ハ、道ヲル者ニアラザルナリ」(「童子問」上)……。
 と言い、さらに「人ノホカニ道ナシ」「俗ノ外ニ道ナシ」とまで言いましたが、「『童子問』を一貫したこの考えは、徂徠によってしっかりと受止められて、徹底化された」と小林先生は言っていました。
 こうしてこの「卑近」と「俗」の思想は宣長に取りつき、宣長を舞台として思いがけないと言えば思いがけない、なるほどと思えばなるほどと思える劇を演じたのです、しかし、
 ――卑近なるもの、人間らしいもの、俗なるものに、道を求めなければならないとは、宣長にとっては、安心のいく、もっともな考え方ではなかった。俗なるものは、自分にとっては、現実とは何かと問われている事であった。この問いほど興味あるものは、恐らく、彼には、どこにも見附からなかったに相違ない。……
 宣長の「好、信、楽」が、ますます高じていたでしょう。

 さて、ここまで書いて小林先生は、昭和四〇年六月号から始めていた「本居宣長」の『新潮』連載を五か月、四一年の一一月号から四二年の三月号まで休みました。
その間に行われた、作家、永井龍男氏との対談「芸について」(『婦人公論』昭和四二年四月号掲載、「小林秀雄全作品」第26集所収)で、永井氏の「こんどの『芸術随想』の中に、いろいろな瀬戸物はみんな壷になりたかったんだというところがありますね。あれもずいぶんおもしろかったな。やっぱり壷というものが一番真髄なんですか、瀬戸物の。」という問いかけに答えて小林先生は言っています。
 ――そんなこと、よく考えたことはないけれどもね。このごろでこそ、やれ、美だ何だと言っているけれども、昔の人にとっては、あれは生活の必需品なんだからね。酒をとっておこうとか、大事なものをしまっておこうとか、そういうものでしょう。そうすれば、ああ、こういうふうな姿にしたいというものがあるでしょう。だから、壷の姿は、大事なものは大事に取っておいてあげるから安心し給えという、そう言っているような姿に見えるんだ。そう、向うから語りかけてくるんですよ。壷がそう言うんですよ。こっちから、私が意味を付けるわけではない。向うから何か教えてくれるんだよ。そういう経験は、道具類が好きで、手元に置いている人は、みなよく知っている経験なのだ。これは、博物館では経験出来ない。妙な言い方をするがね、壷を見るのではなくて、壷から眺められるという経験が、壷の姿を納得するコツみたいなもんだな。何もかも手元に置くわけにはいかないが、このコツは極めなければね。文学だってそうじゃないですか。古典を読まなきゃいけないというようなことなんか、だれも、言うんだけどね、ちっともそうはならない。それも、けっきょく自分のほうが古典よりえらいと思っているところが、大もとなのではないかな。古典なんか、こっちからいくらでも解釈してやるという、そういう了見なんだよ。「万葉」をよく読んでいれば、「万葉」というものは壷みたいになるでしょう。そうすれば、いろいろのことを教えてくれますよ。しかし「万葉」に、壷に親しむように親しむということは、たいへんなことだね。お恥ずかしいが、しなきゃいけないとわかっていながら、なかなか出来ませんよね。ぼくがこんど宣長さんを書いていて、すっかり休んじゃっているというのも、簡単な理由なんですよ。宣長は、あんなによく「源氏」を読んだでしょう。ぼくが「源氏」をよく読みもしないで、あの人の「もののあはれ論」がどうのこうの言ったって、こんな恥ずかしいことはないですよ。宣長には「源氏物語」がたしかに壷に見えています。そうでなければ、「もののあはれ論」なんて出来上がるわけがない。じゃ、おれに、「源氏物語」が壷に見えるまで読めといったって、それには学力がないし、時間もない、もうだめだよね。だけど、ああ、壷が見えるように見えていたんだな、と想像するぐらいのところまでは読まなきゃならんだろうが。……
 こうして「本居宣長」の『新潮』連載を一時休止にし、先生は「源氏物語」の原文を全篇、五か月かけて熟読したのですが、しかしその熟読は、並大抵の熟読ではなかっただろうと私は今回、思い当っています。先生は「本居宣長」の第十一章を書くことによって、
 ――卑近なるもの、人間らしいもの、俗なるものに、道を求めなければならないとは、宣
長にとっては、安心のいく、もっともな考え方ではなかった。俗なるものは、自分にとっては、現実とは何かと問われている事であった。この問いほど興味あるものは、恐らく、彼には、どこにも見附からなかったに相違ない。……
 という宣長の「俗」の思想に初めて出会い、それがただちに宣長の「もののあはれ」の説に結びついた、ということがあったのではないでしょうか。
 小林先生には、このときすでに「本居宣長—『物のあはれ』の説について」(「小林秀雄全作品」第23集所収)と題した文章がありました。この文章は昭和三五年七月に新潮社から出た「日本文化研究」の第八巻ですが、この一文があったことによって小林先生は「本居宣長」の第十一章を書き上げるや宣長の「物のあはれ」の説に真に開眼したのではないかと思われるのです。折しも「本居宣長」は、まもなく宣長の「源氏物語」論に入っていこうとしていました、そこへ「もののあはれ」とは高踏貴族の情緒や情趣などではなく、人間誰しもの「卑近なるもの、俗なるもの」なのではないか、そして「もののあはれを知る」とは「卑近なるもの、俗なるものに道を求める」ということではないのだろうかという想念が湧き起り、そうとなっては『新潮』連載を休止してでも「源氏物語」の原文を熟読、精読し、「もののあはれ」なるものに、「もののあはれを知る」ということに、全身全霊を傾けなければならないと意を決したのではないだろうかと思えてきたのです。
 そこをいくらか先回りして言えば、「もののあはれ」という言葉の考察は「本居宣長」第十三章から本格的に展開されますが、第十五章に至ると次のように言われます。
――折口信夫氏は、宣長の「物のあはれ」という言葉が、王朝の用語例を遥かに越え、宣長自身の考えを、はち切れる程押しこんだものである事に注意を促しているが(「日本文学の戸籍」)、世帯向きの心がまえまで押込められては、はち切れそうにもなる。宣長は、この事に気附いている。そして、はち切れさすまいと説明を試みるのだが、うまくいかない。うまくはいかないが、決してごまかしてはいないのである。……
 こうして第十五章に見えている「世帯向きの心がまえ」こそは「卑近なるもの、俗なるもの」そのものですが、小林先生は第十一章を書き上げるや宣長の「もののあはれ」の説は宣長の「卑近なるもの、俗なるものに道を求める」という考え方の必然の帰結であったと直観し,そこを見届け、確信して「本居宣長」の『新潮』連載を再開したと思われます。『新潮』で「本居宣長」が再開されたのは、昭和四一年の六月号からでした、そして「もののあはれ」という言葉の考察が本格的に始められる第十三章は昭和四二年六月号、「世帯向きの心がまえ」が登場する第十五章は同年一〇月号でした。

 最後に、小林先生が永井龍男氏との対談で言っていた「宣長には『源氏物語』がたしかに壷に見えています。そうでなければ、『もののあはれ論』なんて出来上がるわけがない」の含蓄はもうお察しいただけていることと思います。そうです、「源氏物語」の作者、紫式部は、「もののあはれを知る」という私たちにとって大事なことはいつまでも大事に取っておきたいから、いくつもいくつもの「もののあはれ」に安心してここにいてもらえる壺をつくって「源氏物語」と名づけました、と、そう言っているような姿に「源氏物語」は見えるのだと宣長は言っていると確信できるところまで自分も「源氏物語」を読むつもりだと小林先生は言っているのです。
(第十九回 了)