小林秀雄「本居宣長」を読む(十二)

小林秀雄「本居宣長」を読む(十二)
第八章  「独」の学脈  中江藤樹 
池田 雅延  
         
 
 ――歯落口すぼまり、以前さへ不弁舌之上、他根よりも、別而舌根不自由ニ成、難義候へ共、さるにても閉口候はゞ、いよいよ独り生れて、独死候身ニ同じかるべき故、被企候はゞ、堅ク辞退は不仕候はんと存候、……
 歯は抜け口は窄まり、もともと口は達者でないのに目や耳以上に舌が不自由になって難儀していますが、そうではあっても口を閉じてしまってものを言わなくなればますます独りで生まれて独りで死ぬ身そのものでしょうから、講義を乞われれば固辞はしないで務めようと思っています……。
 これは、契沖が晩年、高弟たちに請われて始める「萬葉集」の講義を控え、昵懇じっこんの後輩、石橋新右衛門に聴講を勧めた手紙の一節です。この手紙を小林先生は第七章に引き、契沖が行き着いた学問の核心「俗中の真」を読者に示したのですが、先生はいま一度これを引いて第八章を書き起します。
 ――先きにあげた契沖の書簡の中に、「さるにても閉口候はゞ、いよいよ独り生れて、独り死候身ニ同じかるべき故」とあるが、面白い言葉である。当人としては、「万葉集」のこうえんを開くに際しての、何気ない言葉だったであろうが、眺めていると、いろいろな事が思われる。……
 とまず言い、
 ――これは、学問に対する契沖の基本的な覚悟と取れるが、彼にあっては、学問と人間とは不離なものであるから、言葉はこの人物でなくては言えない姿に見えもする。……
 と言います。「これ」はむろん「閉口候はゞ、いよいよ独り生れて、独り死候身ニ同じかるべき故、被企候はゞ、堅ク辞退は不仕候はんと存候」という契沖の言葉ですが、この言葉が、学問に対する契沖の基本的な覚悟と取れる、とはどういうことでしょうか。さらに、彼にあっては、学問と人間とは不離なものであるから、言葉はこの人物でなくては言えない姿に見えもする、とはどういうことでしょうか。
 小林先生は、後に、第九章に入ってこう言います。
 ――藤樹の学問は、先きに言ったように、「独」という言葉の、極めて実践的な吟味を、その根幹としていたが、契沖の仕事にしても、彼の言う「独り生れて、独り死候身」の言わば学問的処理、そういう吾が身に、意味あるどんな生き方があるか、という問に対する答えであった。……
 契沖の学問は、「独り生れて、独り死候身」を余儀なくされている契沖自身の人生をどう生きるか、どう生きれば「独り生れて、独り死候身」に意味のある生き方になるのか、その探究にあったと言うのです。
 そしてここで、契沖に先立って言われている「藤樹」は、中江藤樹です。江戸時代の初期にそれまでの学問を根底から覆して新しい学問を打ち立て、これによって小林先生が近世の学問の開拓者、創始者と位置づけ、第八章、第九章の主役としている大学者ですが、藤樹の学問も契沖の学問も、「独」の一字で貫かれていたのです。
 人は、生れるときも独り、死ぬときも独り、とは、今日ではほとんど耳にすることがなくなっているようですが、契沖が生きた時代は戦国の世が収って約一〇〇年、太平の世となっていたとは言え、「独り生れて、独り死候身」という言葉は私たちが思い描く以上の切実感を伴って言い交されていたでしょう。小林先生は、この言葉は契沖が生きた時代の基盤というものまで語っているように思われると言い、その基盤を見定めながら「独」の一字を核として第八章、第九章、第十章と本居宣長に直結する学問の来歴を辿ります。中江藤樹に始まって、伊藤仁斎、荻生徂徠と辿られますが、仁斎、徂徠の学問も「独」の学問だったのです。

 小林先生のこういう「独」の追究は、先生終生の主題テーマでした。「独」は「個」と読み換えることもできるのですが、先生は昭和四年(一九二九)、二十七歳で文壇に出た「様々なる意匠」以来、一貫して「個」を見つめ続けてきました。ドストエフスキーの「個」、モーツァルトの「個」、ゴッホの「個」……そして、本居宣長の「個」です。
 ところが、現代の学問は「個」を締め出し、「集団」を優位において実証主義、客観主義を立論の絶対条件としました。そういう現代の学問と藤樹らの学問は根本的に異なり、どこまでも「個」に徹した藤樹、仁斎、契沖、徂徠らの学問がまっすぐ宣長に受け継がれたのですが、あろうことか現代の学者たちは、宣長を自分たちの実証主義、客観主義の先駆者として祭り上げ、悦に入っている、とんでもない勘違いだ、的外れも甚だしい思いこみだ、宣長の学問を確とわかってもらうためには、何よりもまずこの悪しき思いこみを正さなければならない、小林先生は、そういう意気込みで第八章を書き起したのです。

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 ではその「独」に、藤樹、契沖らは何が機縁となって目覚めたのでしょうか、小林先生は、戦国時代の下剋上に見ます。
 先に先生は、契沖が身を置いた時代の地盤は、まだ戦国の余震で震えていたと言いましたが、その戦国時代とはどういう時代だったのでしょうか。先生は、応仁元年(一四六七)に始まった応仁の乱以来一〇〇年以上にも及んだとされる「戦国時代」の風潮を示し、契沖より約三十年早く生まれた中江藤樹の「独」、約二十年早く生まれた伊藤仁斎の「独」がどういうふうに自覚されたかを追っていきます、それに先立ってこう言います。
 ――戦国時代という歴史家の便宜上の時代区分は、簡明なだけに誤解もされ易いところがある。応仁の乱以来、百年以上にわたって、日本中の何処かで戦争が起っていない時はなかった、とさえ言っていい。まさに戦国時代であったが、兵乱は、決して文明を崩壊させはしなかったし、文明の流れをき止めもしなかったという、この時代の、言わば内容の方が、余程大事なのだ。群雄が、各地に割拠して、相争う乱世は、彼等が、どうあっても勝たねばならぬという、はっきりした必要に迫られて実践した、めいめいの秩序を内容としていたのである。……
 そして言います、
 ――戦国時代を一貫した風潮を、「下剋上」と呼ぶ事は誰も知っている。言うまでもなく、これは下の者が上の者に克つという意味だが、この言葉にしても、その簡明な言い方が、その内容を隠す嫌いがある。試みに、「大言海」で、この言葉を引いてみると、「コノ語、でもくらしいトモ解スベシ」とある。随分、乱暴な解と受取る人も多かろうと思うが、それも、「下剋上」という言葉の字面を見て済ます人が多いせいであろう。「戦国」とか「下剋上」とかいう言葉の否定的に響く字面の裏には、健全な意味合が隠れている。恐らく、「大言海」の解は、それを指示している。……
 「下剋上」の裏に隠れている、健全な意味合……。現代の国語辞典で「下剋上」を引いてみますと、『広辞苑』には「(下、上につ」の意)下位の者が上位の者の地位や権力をおかすこと」と言われ、『日本国語大辞典』には「主に中世において、下層階級の者が、国主や主家など上層の者をしのいで実権をにぎること」と言われ、『大辞林』には「下の者が上の者をしのぎ倒すこと。特に室町中期から戦国時代にかけてあらわれた、伝統的権威・価値体系を否定し、力によって権力を奪い取るという社会風潮。国一揆や戦国大名の多くはこうした風潮の中から生まれた」と言われているだけですから、『大言海』の「でもくらしいトモ解スベシ」はたしかに異様で「随分、乱暴な解と受取」れてしまいます。そもそも私たちには、「でもくらしい」すなわち「デモクラシー」という外来語の訳語としては「民主主義」しか持ち合せがありませんし、『広辞苑』『大辞林』は「デモクラシー」の語釈として「民主主義」「民主政体」と単語を併記しているに留まり、『日本国語大辞典』はその上に「民主的な原理、思想、実践。また日常生活での人間関係における自由や平等」と記してはいるものの、これすらもおいそれとは「下剋上」に結びつきません。

 『大言海』は明治時代の国語学者、大槻文彦が明治二十二年(一八八九)から二十四年にかけて刊行した日本で初めての国語辞典『言海』の増補版で、昭和七年(一九三二)から十年にかけて完成した全四巻、索引一巻の国語辞典ですが、小林先生の言うところを子細に読んでいくと、たしかに「下剋上」は「でもくらしいトモ解スベシ」と思えてきます。
 先生は言います、
 ――歴史の上で、実力が虚名を制するという動きは、極めて自然な事であり、それ故に健全なと呼んでいい動きだが、戦国時代は、この動きが、非常な速度で、全国に波及した時代であり、為に、歴史は、兵乱の衣をまとわざるを得なかったが、……
 ――この時代になると、武力は、もはや武士の特権とは言えなかったのであり、要するに馬鹿に武力が持てたわけでもなく、武力を持った馬鹿が、誰に克てた筈もなかったという、極めて簡単な事態に、誰も処していた。武士も町人も農民も、身分も家柄も頼めぬ裸一貫の生活力、生活の智慧から、めいめい出直さねばならなくなっていた。……
 ここで言われている「馬鹿」は、旧来の身分や家柄の上に胡坐あぐらをかき、自分にとって都合のよい制度や因習に寄りかかり続けているお坊ちゃん、とでもとればわかりやすいでしょう。戦国時代の「下剋上」は、先ほど一瞥した国語辞典にもあったように、下層階級が上層階級を凌いで実権を握り、前時代までの身分や家柄、制度や因習等の威厳も効力もことごとく無に帰さしめたことを言うのですが、こういう新時代、新社会の出現は、人間誰もが生れや育ちにかかわらず、平等、公平の境遇に身をおけるようになったということでもあったのです、そこを捉えて『大言海』は、「日常生活での人間関係における自由や平等」と『日本国語大辞典』に言われているような意味合において「下剋上」は「でもくらしいトモ解スベシ」と言ったと思われるのです。

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 続いて小林先生は、「下剋上」を徹底して実行し、尾張の国の一下民からついには関白の座を手中にするまでに至った豊臣秀吉によって戦国時代はひとまずけりがついた、しかし、「下剋上」の劇は、この天下人秀吉の成功によって幕が降りてしまったわけではない、「下剋上」という文明の大経験は、まず行動のうえで演じられたのだが、これが相応の時をかけて、精神界の劇となって現れた、と言い、
 ――中江藤樹が生まれたのは、秀吉が死んで十年後である。……
 と転調して、次のように続けます。
 ――藤樹は、近江の貧農の倅に生れ、独学し、独創し、遂に一村人として終りながら、誰もが是認する近江聖人の実名を得た。勿論、これは学問の世界で、前代未聞の話であって、彼を学問上の天下人と言っても、言葉を弄する事にはなるまい。……
 中江藤樹は慶長十三年(一六〇八)に生れました。関ヶ原の戦からでは八年、徳川家康が江戸に幕府をひらいてからでは五年です。二十代の頃には朱子学をたっとびましたが、三十七歳の年に陽明学に出会って日本の陽明学派の始祖となりました。朱子学、陽明学、ともに儒学の一派で儒学界の二大潮流をなしていましたが、藤樹の学問は陽明学の枠に収まるものでもありませんでした。
 小林先生は、続けて言います。
 ――藤樹は、弟子に教えて、「学問は天下第一等、人間第一義、別路のわしるべきなく、別事のなすべきなしと、主意を合点して、受用すべし」と言っている。……
 学問は、この世で最も大切な仕事であり、人間にとっていちばんの大事である、ゆえにそこからそれた道へ走ったり、それ以外のことに手を出したりしている余裕はない、この学問の主旨をよく心得て、実践しなければならない……。
 ――又言う、「剣戟けんげきを取て向とても、それ良知のほかに、何を以てたいせんや」。……
 人が武器を手にして向かってきたとしても、こちらは良知で立ち向かう……。「剣戟」は剣と矛、「良知」は人に生まれつき具わっている知力、判断力の類で藤樹の学問を象徴する言葉ですが、これについては第九章であらためて言及されます。
 こうして、
 ――彼は、天下と人間とを、はっきり心の世界に移した。眼に見える下剋上劇から、眼に見えぬ克己劇を創り上げた。……
 「眼に見える下剋上劇」とは、他人に勝とうとする戦いです。「眼に見えぬ克己劇」とは、自分に勝とうとする戦いです。「剋」も「克」も何かに勝つという意味ですが、藤樹は自分が自分と戦う内面の戦いを始め、その戦いを学問と呼んだというのです。

          

 続いて小林先生は、「藤樹先生年譜」に拠って、藤樹が祖父、吉長に引取られるかたちで移り住んだ伊予の国(現在の愛媛県)大洲おおず藩での藤樹十三歳の年と、十四歳の年の出来事を伝えます。
 まずは十三歳の年、吉長の身辺で刃傷沙汰が起りました。小林先生は、その顛末を記した「年譜」の記事を、そっくりそのまま引用します、というより、写し取ります。
 ――是年夏五月、大ニ雨フリ、五穀実ラズ。百姓饑餓キガニ及バントス。コレニヨリテ、風早ノ民、去テ他ニ行カント欲スルモノオホシ。吉長公コレヲ聞テ、カタクコレヲトヾム。郡ニ牢人アリ。其名ヲ須卜ト云。コノ者、クルシマト云大賊ノ徒党ニシテ、ナリヲ潜メ、久シクコヽニ住居ス。今ノ時ニ及デ、先ヅ退カントス。彼スデニ他ニ行バ、百姓モマタ従テ逃ントスルモノ多シ。コレニ因テ、吉長公、シモベ三人ヲ遣ハシテ、カレヲトヾム。僕等帰ル事遅シ。吉長公怪ンデ、ミヅカラ行テ、カレヲ止メ、ツ法ヲ破ル事ヲノノシル。須卜、イツワリ謝シテ、吉長公ニ近ヅク。其様体ツネナラズ。コレニ因テ、吉長公馬ヨリ下ントス。須卜刀ヲ抜テ走リカヽリ、吉長公ノ笠ヲ撃ツ。吉長公ノ僕、コレヲ見テ、後ロヨリ須卜ヲ切ル。須卜キズカウムルトイヘドモ、勇猛強力ノモノナレバ、事トモセズ、後ヲ顧テ、僕ヲフ。コノ間ニ、吉長公ヤリヲ執テ向フ。須卜亦回リ向フ。吉長公須卜ガ腹ヲ突透ス。須卜ツカレナガラ鑓ヲタグリ来テ、吉長公ノ太刀ノツカヲトル。吉長公モ亦自カラノ柄ヲトラヘテ、互ニクム。須卜痛手ナルニ因テ、倒テイマシ死ス。須卜ガ妻、吉長公ノ足ヲトラヘテ倒サントス。吉長公怒テ、亦コレヲ切ル。スデニシテ、自ラ其妻ヲ殺ス事ヲ悔ユ。ノチ須卜ガ子、其父母ヲ殺セルヲ以テ、甚ダコレヲ恨ミ、常ニウラミムクイントシテ、シバシバ吉長公ノ家ニ、火箭ヒヤヲ射入ル。其意オモヘラク、家ヤケバ、吉長公驚キ出ン。出バスナハチコレヲ殺サント。吉長公其意ヲウカヾヒ知ル。故ニヒソカニ火箭ノ防ヲナス。シカレドモ、其意イマコトゴトク賊盗等ヲ入テ、アマネク此ヲ殺サント欲ス。故ニカヘリテ門戸ヲバ開カシム。イマシ先生ニイヒイハク、今天下平ニシテ、軍旅之事無シ。ナンヂ功ヲナシ、名ヲ揚グベキ道ナシ。今幸ニ賊徒襲入セントス。我賊徒ヲウタバ、爾彼ガ首ヲトレ、又家辺ヲ巡テ、賊徒ノ入ヲウカヾヘ。先生コヽニオイテ、毎夜独家辺ヲ巡ル事三次ニシテ不ㇾ怠。時ニ九月下旬、須卜ガ子数人ヲイザナヒ、夜半ニ襲入オソヒイラントス。吉長公アラカジメ此ヲ知ル。イマシ僕等ニ謂テ曰、今夜賊徒襲入ントスル事ヲ聞ク。イヨイヨ門戸ヲ開キ、コトゴトク内ニ入シメヨ。我父子マサニ彼ヲ伐タン。爾ヂ等ハ、門ノ傍ニカクレ居テ、鉄炮テツパウヲ持チ、モシ賊逃出バ、コレヲウテ。必ズ入時ニアタツテ、コレヲウツ事ナカレト。夜半、賊徒マサニ入ントス。僕アハテヽ先ヅ鉄炮ヲ放ツ。賊驚テ逃グ。吉長公此ヲ逐フ事数町、遂ニ追及ブ事アタワズシテ返ル。是ニ於テ先生ヲシテ、刀ヲ帯セシメ、共ニ賊ヲ待ツ。先生少シモ恐ルヽ色ナク、賊来ラバ伐タント欲スル志オモテニアラワル。吉長公、先生ノ幼ニシテ恐ルヽ事ナキ事ヲ喜ブ。冬、祖父ニ従テ、風早郡ヨリ大洲ニ帰ル」……
 ここまで写して、先生は言います。
 ――長い引用をいぶかる読者もあるかも知れないが、この素朴な文は、誰の心裏にも、情景を彷彿とさせる力を持っていると思うので、それを捕えてもらえれば足りる。……
 そう言ってすぐ、長い引用の本意を言います。
 ――藤樹の学問の育ったのは、全くの荒地であった。「年譜」が呈供する情景は、敢えてこれを彼の学問の素地とも呼んでいいものだ。……
 藤樹の学問が育った土地は、全くの荒地であった、とは、そこが荒地であったればこそ藤樹の学問は藤樹自身の丹精で育ったのだと先生は言いたいのです。先生の心裡には、現代の学者はまたしても研究環境への不平を鳴らすが、君たちはただの一度でも藤樹の学問環境を思ってみたことがあるかという憤懣があります。そこから読者には、藤樹の学問も藤樹という学者も、現代の学問や学者とは完全に切り離して読んでほしい、見てほしい、そう願ってこれらのことを言っています。しかもここだけではありません、同じ第八章の終盤に至って藤樹の著作「大学解」に言及し、「若い頃の開眼が明瞭化する。藤樹に『大学』の読み方を教えたのは、彼自身の生活であった」と言った後に、念を押すようにこう言うのです。
 ――ここで又読者に、彼の学問の種が落ちたあの荒涼たる土地柄を心に描いてもらいたい。今日の学問的環境などは、きっぱりと忘れて欲しいと思う。……

 次いで、同じ大洲での、十四歳の年の出来事を伝えます。
 ――或時家老大橋氏諸士四五人相伴テ、吉長公ノ家ニ来リ、終夜対話ス。先生以為オモヘラク、家老大身ナル人ノ物語、常人ニ異ナルベシト。因テ壁ヲ隔テ陰レ居テ、終夜コレヲ聞クニ、何ノ取用ユベキコトナシ。先生ツイニ心ニ疑テ、コレヲ怪ム」……
 ある時、家老の大橋氏が四、五人を連れて来て、祖父吉長と夜通し話すということがあった、藤樹は、家老という身分の高い人物の話である、普通人とは違っていようと思い、壁に隠れて一晩中聞いていたがなんらこれといったことはない、藤樹はこれを不審にも不可解にも思った……。
 この一幕を引いて、小林先生は言います、
 ――これが藤樹の独学の素地である。周囲の冷笑を避けた夜半の読書百遍、これ以外に彼は学問の方法を持ち合せてはいなかった。……
 藤樹が祖父と家老の話を盗み聞きしたのは、藤樹自身が連夜、夜半の読書百遍に勤しんでいたある夜、たまたま家老が訪ねてきたということだったのでしょう。

 しかし、
 ――間もなく祖父母と死別し、やがて近江の父親も死ぬ。……
 祖父と家老の話を盗み聞きした年の八月、祖母が六十三歳で死に、翌年九月、祖父が七十五歳で死に、藤樹十八歳の正月、父吉次が五十二歳で死にました。
 ――母を思う念止み難く、致仕ちしを願ったが、容れられず、脱藩して、ひそかに村に還り、酒を売り、母を養った(二十七歳)。名高い話だが、逸話とか美談とか言って済まされぬものがある。家老に宛てた願書を読むと、「母一人子一人」の人情の披瀝に終始しているが、藤樹は、心底は明さなかったようである。心底には、恐らく、学問するとは即ち母を養う事だという、人に伝え難い発明があり、それが、彼の言う「全孝の心法」(「翁問答」)を重ねて、遂に彼の学問の基本の考えとなったと見てよいだろう。これは朱子学でも陽明学でもあるまい。……
 日本の陽明学の始祖とされる藤樹の学問は、その基本に陽明学にはない「全孝の心法」があったようだと小林先生は言います、藤樹の学問は、まさに「独」の学問、「個」の学問だったのです。「本居宣長」において「心法」という言葉はここが初出ですが、第九章、第十章と、「心法」は次第に重きをなしていきます。

         

 さてここまで、小林先生が辿った藤樹の実生活をほぼ忠実に追ってきました。これは、なぜ先生は藤樹の学問を語るにあたってこれほどまでも精しく「藤樹年譜」を引いたのか、その心意を汲もうとしてのことだったのですが、先生が、
 ――藤樹の学問の育ったのは、全くの荒地であった。……
 と言って、大洲における祖父身辺の刃傷沙汰をそっくりそのまま引き写した背景には、先生が若き日から身に具えていた持論、優れた学問はなべて学者の自画像であるという持論があり、藤樹の学問の素地としての荒地をしっかり目に入れることで藤樹の自画像を見る目を養おうとしたと思えるのです。しかしそれは、単にこの人の生立ちはこうだった、だからこの人にこの発言がある、というような、因果関係を直線的に見てとろうとしてのことではありません。優れた学者の学問には、必ず他者の追随を許さない「発明」があります、すなわち、誰の目にも見えていなかった物事の道理を初めて明らかにするという意味での「発明」です。藤樹の場合はまず「学問するとは即ち母を養う事だという、人に伝え難い発明があり」と、小林先生は言っていました。その「発明」はいかにして成ったか、そこを跡づけようとして先生は素地に見入ったのです。

 こういうふうに見てくると、小林先生は常に「個」の素地に見入っていたようにも思えてきます。先生は「本居宣長」を『新潮』に連載していた時期の昭和五十年(一九七五)夏、『毎日新聞』の求めに応じて友人、今日出海氏と対談し、「交友対談」と題して九月、十月、同紙に断続連載しましたが(『小林秀雄全作品』第26集所収)、そのなかで、こういうことを言っています。
 ――今西錦司という人の「生物の世界」という本が面白いから読んでみるよう知人に推められた。読んだらなかなか面白い。こっちは生物学者じゃないから、彼の学問上の仮説をとやかく言う事は出来ないが、今西さんはこの本の序文で、「これは私の自画像である」と書いている。私の学問がどこから出て来たかという、その源泉を書いた、とそう言うんだ。源泉というのは私でしょう。自分でしょう。だから結局、これは私の自画像であると書いている。これは面白い事を言う学者がいるなと思った。……
 今西錦司氏は、小林先生と同じ明治三十五年(一九〇二)生れの生物学者で、京大教授を務めた人ですが、『生物の世界』は日中戦争下の昭和十五年、戦地への召集を覚悟した今西氏が遺書ともしたい思いで書き上げ、翌十六年、三十九歳の年、弘文堂から教養文庫の一冊として出しました。ところが戦後は絶版状態が続き、昭和四十七年一月、ほぼ三十年ぶりで講談社文庫に収録されました。小林先生が読んだのは、この講談社文庫版でした。
 しかし、ここで言われている「学者の自画像」という学問観は、小林先生が今西氏に教えられたと言うより、先生自身が早くに見抜いていた学問のあり方だったのです。先生は、昭和二十四年十月、『私の人生観』(同第17集所収)を出し、そこでこう言っていました。
 ――私がここで、特に言いたい事は、科学とは極めて厳格に構成された学問であり、仮説と験証との間を非常な忍耐力をもって、往ったり来たりする勤労であって、今日の文化人が何かにつけて口にしたがる科学的な物の見方とか考え方とかいうものとは関係がないという事です。そんなものは単なる言葉に過ぎませぬ。実際には、様々な種類の科学があり、見る対象に従い、見る人の気質に従い、異った様々な見方があるだけです。対象も持たず気質も持たぬ精神は、科学的見方という様な漠然たる観念を振り廻すよりほかに能がない。……
 ここで言われている「科学的な物の見方とか考え方」が、先ほど言った現代の学問で絶対とされている実証主義、客観主義なのですが、科学の分野にあっても先生が「見る対象に従い、見る人の気質に従い、異った様々な見方があるだけです」と言っている「見る人の気質」によって科学も科学者の自画像になるのです。
 ところが、この「学者の自画像」という学問観は、「私の人生観」が書かれた昭和二十年代、文科系の学者の意識からは完全に抜け落ちていました。そこで先生は強い口調で警告を発したのです、「見る対象も持たず見る気質も持たぬ精神は、科学的見方という様な漠然たる観念を振り廻すよりほかに能がない」……。しかし、小林先生のような学問観は、年々聞かれなくなる一方でした。昭和五十年ともなると、もう自然科学の分野でもこういう学問観は跡形もなくなっているのだろうと先生は悲観していました、その小林先生の前に、今西錦司氏が現れたのです、今西氏の言に小林先生は一も二もなく膝を打ち、その感慨を今氏に語ったのです。

 こうして優れた学者と言われる人たちの背後をいまここであらためて思い起してみますと、中江藤樹もまた自分の学問の素地を幾度も顧み、そのつど目を凝らしていたのではないかと思えてきます。小林先生は、「藤樹先生年譜」は、その文体から判ずれば藤樹から単なる知識を学んだ人の手になったものではない、と言っていますが、それはあたかも、この年譜は自筆年譜ではないかとさえ思われる、あるいは、学問という藤樹の自画像のデッサンとさえ思われる、小林先生はそう言っているかのようです。それかあらぬか、日本思想大系『中江藤樹』(岩波書店)の尾藤正英氏による解説には、大要、次のように記されています。
 今に伝わる「藤樹先生年譜」の写本はほぼ二つの系統に大別されるが、この両系統の本のいずれもが正保四年(一六四七)以降の記事は簡単であり、また外面的な事実の記述に留まっている、しかし、正保三年までの記事は藤樹の内面に立ち入った精細な記述に富み、それ以外の生活状況などの描写にしても、藤樹自身の回想にもとづいて記録されたのでなくては、これほどまでの迫真性には達しえないと思われる点が少なくない、藤樹がある時期、自分の生涯をまとめて語るということがあったのかどうか、そこはわからないが、正保三年、藤樹は三十九歳で健在であり、事の次第の如何を問わず、いくらかは藤樹自身、この年譜の作成に関与するところがあったと思われる、その意味ではこの年譜は、形式上は門人の著述だが、内容上からは藤樹の自伝に近い性格を帯びたものとみなすことが許されよう……。
 では、なぜ正保三年までは精細で、正保四年以降は簡単なのか。藤樹は慶安元年(一六四八)、四十一歳で死にました。正保四年と言えば死の前年です、「年譜」に注ぐ情熱も体力も、もはや衰えてしまっていたのでしょうか。
しかしそうなると、小林先生が一字の省略もなく写し取り、この素朴な文は、誰の心裏にも、情景を彷彿とさせる力を持っている、と言った藤樹十三歳の年のあの記事は、藤樹自身の手になったものかも知れないと思えてきます、少なくとも藤樹の口述を門弟が筆記し、それに藤樹が直々加筆したかとは思ってみたくなります。

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 藤樹の「個」あるいは「独」は、こういうふうに自覚され、涵養されました。では藤樹の自画像である学問は、どういうふうに描かれているのでしょう。精しくは次回に送り、今回はその自画像を模写しようとした小林先生のデッサンをいくつか見ておきます。次のように描きとられています。
 ――先きにあげた「岡山先生示教録」の中に、こんな言葉がある。「先師何事にてもまねをいたす程の事はなく候。タダ言葉にヅントといふ事を被ㇾ仰候。それより外はまね申事無御座と被ㇾ仰候」。見聞に凝滞ぎょうたいしてはならない、進んで「体認」しなければ、「体察」しなければ、と彼はくり返し教えているが、それが、藤樹の学問の方法と言えば、ただ一つの方法であり、従って、平たく言えば、詰らない人まねを抜け出すには、踏み込んで、はっきり、しっかりした物の言い方をしようとするのが、一番よい、という事になろう。これは、学問には「厳密武毅に力を用」うるという彼の言葉に通ずるもので、彼の青年期の文章の文体は大変はげしいものだ。年とともに、圭角けいかくはとれ、温和なものになって行くが、人柄に根ざしたその特質は変らない。有名な「翁問答」にしてもそうだが、特にその「改正篇」などは、なるほど「言葉にヅントといふ」名文と言えよう。……
 ――「藤樹先生行状」によると、藤樹は十一歳の時、初めて「大学」を読み、「天子ヨリ以テ庶人ニ至ルマデ、イツニ皆身ヲ修ムルヲ以テ、本ト為ス」という名高い言葉に至って、非常に感動したと言う。「嘆ジテイハク、聖人学デ至ルベシ。生民ノタメニ、此経ヲ遺セルハ、何ノ幸ゾヤ。コヽニヲイテ感涙カンルイ袖ヲウルヲシテヤマズ。是ヨリ聖賢ヲ期待スルノ志アリ」と「行状」は記している。伝説と否定し去る理由もないのであり、大洲の摸索時代の孤独な感動が人知れぬ工夫によって、後に「大学解」となって成熟する、むしろそこに藤樹の学問の特色を認める方が自然であろう。「天子、諸侯、ケイ大夫タイフ、士、庶人、五等ノ位尊卑大小差別アリトイヘドモ、其身ニ於テハ、ガウハツモ差別ナシ。此身オナジキトキハ、学術モマタ異ナル事ナシ。位ハタトヘバ大海江河溝洫コウキョクノ如シ。身ハタトヘバ水ノ如シ」(「大学解」)。若い頃の開眼が明瞭化する。藤樹に「大学」の読み方を教えたのは、彼自身の生活であった。……
 ――ここで又読者に、彼の学問の種が落ちたあの荒涼たる土地柄を心に描いてもらいたい。今日の学問的環境などは、きっぱりと忘れて欲しいと思う。彼の学問は、無論、誰の命令に従ったものでもなく、誰の真似をしたものでもないが、自身の思い附きや希望に依ったものでもない。実生活の必要、或は強制に、どう処したかというところに、元はと言えば成り立っていたのである。なるほど、戦国の生活の必要は、人間の型を大きく変えた。この半ば自然力とでも呼ぶべき時の力から、誰も逃れはしなかった。その意味では、誰もが、戦国の生活の強制に応じたと言えるのであり、勝利者は、一番上手に精力的に、時の生活に適応出来た人だった筈だろう。藤樹という人は、この、事の自然な成り行きに適応した人々の無意識性から、決定的に離れた人だ。彼は、時の勢を拒否もしなかったし、これに呑まれもしなかった。ただ眼を内側に向ける事によって、極めて自然に孤立した。その有様が、「藤樹先生年譜」に、よく現れている事を言いたいのである。……
(了)  
本稿は「小林秀雄に学ぶ山の上の家塾」のWeb同人誌『好・信・楽』の
平成三一年一一・一二月号に寄稿した「小林秀雄『本居宣長』全景」  
(二十二)「『独』の学脈(上)」を全面修整したものです。   筆者識