小林秀雄「本居宣長」を読む(十五)

小林秀雄「本居宣長」を読む(十五)
第十章   「独」の学脈 荻生徂徠
池田 雅延  
           

 小林先生は、第十章の半ばから、荻生徂徠と身交います。
 ――仁斎の学問を承けた一番弟子は、荻生徂徠という、これも亦独学者であった。「大学定本」「語孟字義」の二書に感動した青年徂徠は、仁斎に宛てて書いている。「烏虖アア、茫茫タル海内カイダイ豪杰ガウケツ幾何イクバクゾ、一ニ心ニ当ルナシ。而シテ独リ先生ニムカフ」(「与伊仁斎」)、仁斎も亦、雑学者は多いが聖学に志す豪傑は少い、古今皆然りと嘆じている(「童子問」下)。ここで使われている豪傑という言葉は、無論、戦国時代から持ち越した意味合を踏まえて、「卓然独立シテ、ル所無キ」学者を言うのであり、彼が仁斎の「語孟字義」を読み、心に当るものを得たのは、そういう人間の心法だったに違いない。言い代えれば、他人は知らず、自分は「語孟」をこう読んだ、という責任ある個人的証言に基いて、仁斎の学問が築かれているところに、豪傑を見たに違いない。読者は、私の言おうとするところを、既に推察していると思うが、徂徠が、「独リ先生ニ郷フ」と言う時、彼の心が触れていたものは、藤樹によって開かれた、「独」の「学脈」に他ならなかった。……  
 先生は、続いて言います、
 ――仁斎の「古義学」は、徂徠の「古文辞学こぶんじがく」に発展した。仁斎は「註家ノ厄」を離れよと言い、徂徠は「今文ヲ以テ古文ヲ視ル」な、「今言ヲ以テ古言ヲ視ル」なと繰返し言う(「弁名」下)。古文から直接に古義を得ようとする努力が継承された。これを、古典研究上の歴史意識の発展と呼ぶのもよいだろうが、歴史意識という言葉は「今言」である。今日では、歴史意識という言葉は、常套語に過ぎないが、仁斎や徂徠にしてみれば、この言葉を掴む為には、豪傑たるを要した。藤樹流に言えば、これを咬出した彼等の精神は、卓然として独立していたのである。言うまでもなく、彼等の学問は、当時の言葉で言えば、「道学」であり、従って道とは何かという問いで、彼等の精神は、卓然として緊張していたと見てよいわけであり、そこから生れた彼等の歴史意識も、この緊張で着色されていた。徂徠になると、「学問は歴史に極まり候事ニ候」(「答問書」)とまで極言しているが、人生如何いかに生くべきか、という誰にも逃れられない普遍的な課題の究明は、帰するところ、歴史を深く知るに在ると、自分は信ずるに至った、彼はそう言っているのである。「経」と「史」という二つの言葉は、彼にあっては、重なり合って離す事が出来ない。これは面倒な問題だった。……
 「経」は経糸たていと、そこから古今を貫く真理を載せた書物の意で儒教の経典を言う「経書」という言葉が生まれ、さらにはこれらの経書を研究する学問を言う「経学」という言葉が生まれていましたが、もうすこし先まで読んでいくと、「徂徠の著作には、言わば、変らぬものを目指す『経学』と、変るものに向う『史学』との交点の鋭い直覚があって、これが彼の学問の支柱をなしている」とも小林先生は言っています。
 しかし、当時の儒学界は、錯綜していました。
 ――彼はこう言っている。「果してていしゅ之説ニ候はば、程朱は孔子にまさる事分明に候。もしいにしへ之聖人之教法至極ニ候はば、程朱之説は、別に一流と申物にては無之候。論こゝに至り候得ば、多くは時代之不同などとすべらかし候事、後世利口之徒之申事に候。是は古書に熟し不申候故、古今之差別は曾而かつて之事と申事を不存故に候。古の聖人之智は、古今を貫透して、今日様々のヘイ迄明に御覧候。古聖人之教は、古今を貫透して、其教之利益、上古も末代もいささか之替目無之候。左無御座は、聖人とは不申事ニ候」(「答問書」下)……
 「程朱之説」は中国宋代に現れた朱子学の学説で、「是」は道理にかなっている、ですが、徂徠はむろんこれを認めません。
 ――ここでは一見、古今を貫透する「道」が、強調されているが、その裏面には、古今の別ある「歴史」が、これに、決して対立するものではないという考えが隠されている。徂徠にとって、「道」に関する信は、極めて自然なものであるが、対立の方はそうではない。対立は、この信の弛緩しかんによって生ずる人為的な、空想的な産物に過ぎないとさえ、恐らく彼は言いたいのである。「後世利口之徒」は、「時代之不同」を云々うんぬんするが、確信あっての主張でも何でもない。実は道とは何かと問う精神の緊張に堪えられず、話を歴史に「すべらか」すだけの事だと徂徠は見る。歴史を問うのではなく、歴史に逃げる。道を問えぬ者が、歴史に問えるわけもない。彼等は、歴史を避難所に利用した代償に、今日の言葉で言えば歴史の相対性という不毛な知識を得る。何故そういう事になるか。徂徠の返答は、大変簡単で、彼等が「古書に熟し不申候故」であると言う。……
 ――「世ハ言ヲ載セテ以テうつリ、言ハ道ヲ載セテ以テ遷ル。道ノ明カナラザルハ、職トシテ之ニ是レル」(「学則」二)、既に過ぎ去って、今は無い世が直接に見えるわけがない。歴史を知ろうとする者に現に与えられているものは、過去の生活の跡だけだとは、わかり切った事だ。この所謂いわゆる歴史的資料にもいろいろあるが、言葉がその最たるものであるのに疑いはないし、他の物的資料にしても、歴史資料と呼ばれる限り、言葉をになった物として現れる他はあるまい。歴史を考えるとは、意味を判じねばならぬ昔の言葉に取巻かれる事だ。歴史を知るとは、言を載せて遷る世を知る以外の事ではない筈だ。ところで、生き方、生活の意味合が、時代によって変化するから、如何に生くべきか、という課題に応答する事が困難になる。道は明かには見えて来ない。これは当然であるが、困難や不明は、課題の存続を阻みはしないし、道という言葉がそれが為に、無意味になるわけでもない。「言ハ道ヲ載セテ以テ遷ル」のである。道は何を載せても遷らぬ。道は「古今ヲ貫透スル」と徂徠は考えた。歴史を貫透するのであって、歴史から浮き上るのではない。歴史が展望出来る一定の観点というような便利なものではない。「一定ノ権衡ケンカウヲ懸ケテ、以テ百世ヲ歴詆レキテイスルハマタ易々イイタルノミ。是レ己ヲ直クシテ其ノ世ヲ問ハズ、スナハチ何ゾ史ヲ以テ為サン」(「学則」四)と言う。……
 「権衡」は物事の軽重をはかる尺度、「百世」は多くの年代、「歴詆レキテイ」は次々とけなしそしることを言います。
 ――私達が現に暮している世が、一定の原理(たとい聖と呼ぼうと)に還元してしまえるものなら、原理とは空言であろう。歴史は、「事物当行之理」でもなければ、「天地自然之道」でもない(「答問書」下)。本質的に人間という「活物」の道である。徂徠の著作には、言わば、変らぬものを目指す「経学」と、変るものに向う「史学」との交点の鋭い直覚があって、これが彼の学問の支柱をなしている。これは、既に「人ノホカニ道無ク、道ノ外ニ人無シ」(「童子問」上)と言った仁斎が予感していたところとも言えるのだが、徂徠の学問には、この「人」に「歴史的」という言葉を冠せてもいい程、はっきりした意識が現れるのであり、それが二人の学問の、朱子学というきゅうの学からの転回点となった。……
 「窮理」は、個々の事物の道理・法則からそれらを貫く万物・宇宙の原理を見出すことを言います。
 ――この支柱が、しっかりと掴まれた時、徂徠が学問の上で、実際に当面したものが、「文章」という実体、彼に言わせれば、「文辞」という「事実」、あるいは「物」であった。彼は言う。「惣而そうじて学問の道は文章の外無之候。古人の道は書籍に有之候。書籍は文章ニ候。よく文章を会得して、書籍の儘済し候而、我意を少もまじえ不申候得ば、古人の意は、明に候」(「答問書」下)。仁斎は、そこまで敢て言わなかった。仁斎から多くのものを貰いながら、徂徠が仁斎の「古義学」に対し、自分の学問を「古文辞学」と呼びたかった所以も、其処にある。……
 ――私はここで、二人の思想に深入りする積りはない。ただ、其処に現れた歴史意識と呼んでいいものの性質、特に徂徠が好んで使った歴史という言葉の意味合を、彼自身の言ったところに即して言うに止めるのだが、それも、既に出来上ったものとして一覧出来る彼の著作から、適当に言葉を拾う事が出来る後世の評家の便宜に頼ったまでの事だ。無論、徂徠は、歴史哲学について思弁を重ねたわけではないし、又、学問は歴史に極まり、文章に極まるという目標があって考えを進めたわけでもない。そういう着想はみな古書に熟するという黙々たる経験のうちに生れ、長い時間をかけて育って来たに違いないのであり、その点で、読書の工夫について、仁斎の心法を受け継ぐのであるが、彼は又彼で、独特な興味ある告白を遺している。……
          
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 ――愚老が経学は、憲廟けんべう御影おかげに候。其子細は、憲廟之命にて、御小姓衆四書五経素読之忘れを吟味仕候。夏日之永に、毎日両人相対し、素読をさせて承候事ニ候。始の程は、忘れをも咎め申候得共、毎日あけ六時むつどきより夜の四時よつどき迄之事ニて、食事之間大小用之間ばかり座を立候事故、後ニは疲果ツカレハテ、吟味之心もなくなり行、読候人はただ口に任て読被申候。致吟味候我等は、只偶然と書物をナガめ居申候。先きは紙を返せども、我等は紙を返さず、読人と吟味人と別々に成、本文計を年月久敷ひさしく詠暮し申候。如レ此注をもはなれ、本文計を、見るともなく、読ともなく、うつらうつらと見居候内に、あそここゝに疑共出来しゅつらいいたし、是を種といたし、只今は経学は大形おほがた此物と申事合点参候事に候。注にたより早く会得いたしたるは益あるやうニ候へども、自己の発明は曾而かつてレ之事ニ候。此段愚老が懺悔物語に候。夫故それゆゑ門弟子への教も皆其通に候」(「答問書」下)……
 「憲廟けんべう」は徳川幕府の五代将軍、綱吉です。私の経学、すなわち徂徠の四書五経の学問は、綱吉公のおかげであると言うのです。五代将軍綱吉と言えば、生類憐みの令で知られ、一般には悪名が高いようですが、その生類憐みの令は将軍在位約三十年の後半、元禄・宝永期の弊政のひとつで、前半期の天和・貞享期に実を上げた綱紀粛正策は「天和の治」と称えられるほどでした。生類憐みの令も、そもそもは儒教・仏教による人心教化を意図していたと言われ、将軍となってすぐ、儒学の教えを自分の政治に反映させようと、幕臣を集めて自ら講義することもたびたびだったと言われます。
 その綱吉に、徂徠はしばしば講義をしましたが、もともと徂徠は綱吉と浅からぬ縁がありました。徂徠の父方庵は、将軍職に就く前の綱吉、上野こうずけの国舘林たてばやし藩の藩主時代の綱吉の侍医でした。ところが方庵は、徂徠が十四歳の年、事に連座して上総かずさの国に蟄居を命ぜられ、徂徠が二十五歳になる年まで一家は流落の歳月を余儀なくされました。
 方庵が赦されて江戸に帰った後、徂徠は家督を弟に譲り、芝増上寺の門前に住んで朱子学を講じましたが、暮しは困窮をきわめ、豆腐のからで食をつないだという逸話を残すほどでした。しかしその間に「訳文筌蹄」六巻を著し、これによってその存在を天下に知られ、元禄九年、三十一歳の年、綱吉の側用人、柳沢吉保に召し抱えられて綱吉に講義し、ついには五百石の禄を得るまでになりました。
 柳沢吉保もまた風評芳しからざる人物だったようですが、側用人とは歴とした徳川幕府の職名で定員は一名、将軍に近く仕えて将軍の命を老中に伝え、また老中の上申を将軍に取次ぐなどする要職で格式は老中に次ぎ、職務上の権力は老中をしのいでいました、吉保は、こうして将軍綱吉の後半期、綱吉の寵をほしいままにしたのでしたが、教養面では綱吉の学問上の弟子となり、その線上で徂徠らを召し抱え、中国古典の覆刻版を刊行するなどしました。
 そこでさて、徂徠の文中の「御小姓衆四書五経素読之忘れを吟味仕候」です。「素読」とは「論語」などの漢籍を読むにあたって、先生が少しずつ区切って読む本文を、生徒は異口同音に声に出して先生が読んだとおりに読む読み方です。先生は語釈や文意の説明はいっさい加えず、「わく」「ともあり遠方より来たる」「また楽しからずや」……と、ひたすら本文だけを読んでいく、こういう音読を何度も何度も繰り返し、こうして「論語」なら「論語」を全文、暗記させてしまう、これが当時の漢籍初学の常道でした。
 小林先生は、岡潔氏との対話「人間の建設」(同第25集所収)で、大意、こう言っています。
 ――昔は、子供が何でも覚えてしまう時期、その時期をねらって素読が行われた。これによって誰でも苦もなく古典を暗記してしまった。これが、教育上、どのような意味と実効とを持っていたかを考えてみるべきです。昔は、暗記強制教育だったと簡単に考えるのは悪い合理主義です。暗記するだけで意味がわからなければ無意味なことだと言うが、それでは「論語」の意味とはなんでしょう。それは人により年齢により、さまざまな意味にとれるものでしょう。一生かかったってわからない意味さえ含んでいるかも知れない。それなら意味を教えることは実に曖昧な教育だとわかるでしょう。丸暗記させる教育だけが、はっきりした教育です。そんなことを言うと、逆説を弄すると取るかも知れないが、私はここに今の教育法がいちばん忘れている真実があると思っているのです。……
 ――「論語」はまずなにを措いても意味を孕んだ「すがた」なのです。古典はみんな動かせない「すがた」です。その「すがた」に親しませるという大事なことを素読教育が果たしたと考えればよい。「すがた」には親しませるということが出来るだけで、「すがた」を理解させることは出来ない。とすれば、「すがた」教育の方法は、素読的方法以外には理論上ないはずなのです。実際問題としてこの方法が困難となったとしても、原理的にはこの方法の線からはずれることは出来ないはずなんです。……
 今日、「素読」が日常会話に上ってくることはまずありませんが、上ってきたとしてもさほど意識されていないか忘れられているのが「暗記」です。「素読」の主目的は「暗記」だったとさえ小林先生は言っているのです。ここで私が、あえて「素読」にまつわる小林先生の発言を引き、「暗記」という言葉に注意を向けてもらったのは、徂徠の告白にも「素読之忘れを吟味仕候」と見えているからです。徂徠が言っている「忘れ」とは、部分部分の訓読法の忘れではありません、「素読之忘れを吟味」するとは、「論語」の原文暗記が生き生きと保持されているかどうかを見るということでしょう。そうでないのであれば、現代の中間考査や期末考査のように所々を抜き出し、精々一時間か一時間半ほどの間に正解を問えばすむことであって、「毎日あけ六時むつどきより夜の四時よつどき迄」というほどの時間と体力を注ぎこむ必要はないでしょう。「明六時」は、今日の時刻では午前五時から七時頃、「夜の四時」は同じく午後十時頃です。
 こうして「素読之忘れ之吟味」は夏の酷暑のさなか、連日十五時間前後にもわたって行われ、毎日、時間が経つにつれて綱吉の小姓たちも徂徠も朦朧となって放心状態を繰り返すありさまでした。ところが、「如此かくのごとく注をもはなれ、本文ばかりを、見るともなく、読ともなく、うつらうつらと見居候内に、あそここゝに疑共出来しゅつらいいたし、是を種といたし、只今は経学は大形おほがた此物と申事合点参候事に候」という展開となりました。「注にたより早く会得いたしたるは益あるやうニ候へども、自己の発明は曾而かつて之事ニ候」……、「曾而」は「まったく(~ない)」です。
 小林先生がここで引いた徂徠の回想も、「体認」「体翫」の告白と解してよいでしょう。前回、「体認」「体翫」とは「身体で会得する」「身体で味わう」ことらしいと言いましたが、いまは「頭脳の介入を無にして会得する」「頭脳を介在させないで味わう」と言い換えてもよいようです。徂徠の告白を読み上げて、小林先生は言っています、
 ――例えば、岩に刻まれた意味不明の碑文でも現れたら、誰も「見るともなく、読ともなく、うつらうつらと」詠めるという態度を取らざるを得まい。見えているのは岩の凹凸ではなく、確かに精神の印しだが、印しは判じ難いから、ただその姿を詠めるのである。その姿は向うから私達に問いかけ、私達は、これに答える必要だけを痛感している。これが徂徠の語る放心の経験に外なるまい。古文辞を、ただ字面を追って読んでも、註脚を通して読んでも、古文辞はその正体を現すものではない。「本文」というものは、みな碑文的性質を蔵していて、見るともなく、読むともなく詠めるという一種の内的視力を要求しているものだ。特定の古文辞には限らない。もし、言葉が、生活に至便な道具たるその日常実用の衣を脱して裸になれば、すべての言葉は、私達を取巻くそのような存在として現前するだろう。こちらの思惑でどうにでもなる私達の私物ではないどころか、私達がこれに出会い、これと交渉を結ばねばならぬ独力で生きている一大組織と映ずるであろう。これが、徂徠の「世ハ言ヲ載セテ以テウツル」という考えの生れた種だと合点すれば、歴史の表面しかでる事が出来ないのは、「古書に熟し不申候故」であるという彼の言分も納得出来るだろう。……
 ――「世ハ言ヲ載セテ」とは、世という実在には、いつも言葉という符丁が貼られているという意味ではない。徂徠に言わせれば、「辞ハ事トナラフ」(「答二屈景山一書」)、言は世という事と習い熟している。そういう物が遷るのが、彼の考えていた歴史という物なのである。彼の著作で使われている「事実」も「事」も「物」も、今日の学問に準じて使われる経験的事実には結び附かない。思い出すという心法のないところに歴史はない。それは、思い出すという心法が作り上げる像、想像裡に描き出す絵である。各人によって、思い出す上手下手はあるだろう。しかし、気儘きまま勝手に思い出す事は、誰にも出来はしない。私達は、しようと思えば、「海」を埋めて「山」とする事は出来ようが、「海」という一片の言葉すら、思い出して「山」と言う事は出来ないのだ。それで徂徠には充分だっただろう。彼には、歴史に至る通路としての歴史資料という考えはなかったであろうし、「文章」が歴史の権化と見えて来るまで、これを詠めるだけが必要だったのである。……
(第十五回 了)