小林秀雄「本居宣長」を読む(十八)

小林秀雄「本居宣長」を読む(十八)
第十一章   まねびの道
池田 雅延  
          

 前回、「本居宣長」の第十一章を読むに際して、私は小林先生の文章を段落ごとに写し取り、そこにほんのわずかな語釈を添えていくだけで講釈は加えず、こうしてまずは前半部を一通り読者に読んでいただきました。そして最後に、読者のお一人おひとりが、決して要旨を掴もうなどとはなさらず、「象徴派の詩人、小林秀雄」の読者となって小林先生に協力されるおつもりで読み通されれば、先生が言わんとされている荻生徂徠の「歴史意識」は自ずと体感されるでしょう……、と言いました。私の脳裡には、かつて聞かされた先生の一言が甦っていました。
 小林先生は、ある日、私に、「僕が書いているのは散文ではないのだ、僕は詩を書いているのだ、だから、僕が書いただけでは僕の文章はまだ完成していない、詩は、読者の参加を待って初めて完成するのだ」と言われました。
 散文は、何事であれ一気に感じ取ったり見てとったりはせず、四方八方から観察したり分析したりを繰り返して読者を説得しようとしますが、これに対して詩は、それも小林先生が言われた「詩」は、一九世紀フランスの詩人ボードレールによって始められた象徴詩で、ボードレールは心に思い浮かぶことや喜怒哀楽といった言葉では表現しきれないものを人に伝えようとして一語一語を選びに選び、さらにはそれら一語一語の配置に工夫をこらして一語一語の語意を超えた言語空間を一語一語の語感や音声の相互作用によって醸し出し、そうして新たに生まれる言語空間の風韻風趣が、人に伝えようとする思いや感情の風韻風趣と相通じるところまで工夫に工夫を重ねたと言われます、こうしてボードレールによって創始された「象徴詩」の「象徴」はフランス語ではsymboleですが、そのもととなった古代ギリシャ語のsymbolaはコインなどを割って作る「割符わりふ」で、詩人と読者はどちらも人間としての造られ方において悲しいときには泣く、嬉しいときには笑う、といった人性の基本構造を割符として互いに与えられていて、詩人が醸し出す詩の風韻風趣は人性の基本構造を介して読者に伝わり、詩人が伝えようとした思念や感情はこうして読者の認識を得、共鳴を得、ここで初めて詩は完成する、というのです。そこを別の比喩を用いて言えば、象徴詩とは詩人が作り上げた言葉の彫刻を読者が読者の感性で受け止め、読者それぞれが詩人の伝えようとした思いや感情を感受し応答する、そういう詩を言うのです。したがって小林先生の「詩」も、読者がまずは先生の「詩」のあやを、風韻風趣を、しっかり感じ取ろうとする、そうすることによって先生の言わんとされるところが自ずと体感できて体得できる、ということなのです。

 それにしても、なぜ私は、第十一章の文章を、パソコンでとはいえわざわざ写し取り、第十一章は言わばその写本で皆さんに読んでいただこうとしたのでしょうか、手の内は次号でお見せします、そう言い置いて前回を閉じました。
 そこでさて、その手の内ですが、一言で言えば、他人の目と手を経た原文、ということは引用文の恩恵に浴してもらおうと思った、ということなのです。私は学生時代から先輩、同輩、後輩たちの論文を私なりに身を入れて読み、夏目漱石や森鷗外の作品も熱心に読んで、漱石の「こころ」は全文、大学ノートに写し取ったりもしましたが、誰の論文であってもそこにたとえば漱石の一節が引かれている箇所に行き会うと、常々読み慣れている漱石の章句が俄然立ち上がり、カメラの焦点がぴたりと合った瞬間のような鮮烈さで迫ってくるという経験を何度もし、そのたびごとに「そうか、そうだったのか、漱石はこう書いてこういうことが言いたかったのか」と自分自身の気づきに驚き、その場に立ち尽くしたりもしていました。しかしこの経験は、決して先輩、同輩たちの論旨に導かれてのことではありませんでした、先輩、同輩たちの言わんとしていることはよく読み取れないのに、そこに引かれた漱石の言葉は常にも増して鮮烈に目に映ったのです。

 こういう経験は、私が学校を出て編集者となり、月々の雑誌や新刊書を仕事で読んでいたときにも度重なりましたが、こうなってからはむろん漱石、鷗外よりも小林秀雄でした。私が小林秀雄という名を知ってたちまちのめりこんだのは高校一年生の九月でしたが、小林秀雄をとにかく読み通したいという一念で大学に進んだ昭和四十一年の翌四十二年六月、新潮社から第三次の「小林秀雄全集」が出始め、その第三次「小林秀雄全集」を四十五年三月の卒業まで、それこそ身を入れて読みました。ところが、にもかかわらず、おや? と思わせられる小林先生の文が学校を出てから相次いで目の前に現れ、こんなすごいこと、先生、言われていたのか、と首をひねりたくなるほどに初見しょけんの印象なのです、しかしそれらのどれもが力強く澄明で、そうか、先生はこんなことまで言われていたのだ、それを読み落としていたとはなんという不覚、とそのたびごとに周章狼狽もしました。
 ところが、そのうちハタと、学生時代の漱石、鴎外に思い当たりました、そうか、そういうことか……、同じ筆者、作者の文章でも、原文そのものを直に読むのではなく、自分以外の誰かの目と手を通して読まされると、わずかとは言え自分とはちがった角度から読むような感覚になり、そのために初見の感にも見舞われれば読み落としの失態感に苛まれもするのだろうと思えました。しかしまたそのうち、他人の目と手を経た引用文を自分の目に入れたその時には、いくらかとは言え私の脳裡に刻まれた小林先生の言葉の記憶に熟成が進んでいて、ということは俗に言うところの「目が肥えた」状態にもなっていて、その肥えた目で小林先生の言葉と再会するということもあるのだろうと思えました。
 そしてさて、以上が前回、「本居宣長」第十一章の前半部をわざわざ私の手で書き写し、その書き写し文で第十一章を読者に読んでもらおうとしたことの手の内です。小林先生は「僕は詩を書いているのだ」と言われましたが、先生にそう聞かされてからというもの、先生の文章を読んでいて、なるほど詩だ、と鮮明に気づかされるくだりに随所で行き会い、「本居宣長」の第十一章前半部はなかでも印象深い件でした。そこで前回、この機会に小林先生の文章は詩であることを読者に感じてもらい、「象徴派の詩人 小林秀雄」の協同制作者になってもらおうと思ったのですが、その第十一章を読み直してみて下さいと漠然と言ったのでは聞き流されもしましょうから、それなら第十一章の前半は敢えて「小林秀雄全作品」ではなく、新潮文庫でもなく、不肖池田の「引用文」で、これまでとはちがった目で読んでいただこうと思いました……、という次第だったのです。
 
          

 あれから一ㇳ月経って、さあ今回は「本居宣長」第十一章の後半部です、次のように書き出されています。 
 ――随分廻り道をしてしまったようで、そろそろ長い括弧かっこを閉じなければならないのだが、廻り道と言っても、宣長の仕事に這入はいって行く為に必要と思われたところを述べたに過ぎず、それも、率直に受取って貰えれば、ごく簡明な話だったのである。……

 その「ごく簡明な話」とは、
 ――「學」の字の字義は、カタドナラうであって、宣長が、その学問論「うひ山ぶみ」で言っているように、「学問」とは、「物まなび」である。「まなび」は、勿論、「まねび」であって、学問の根本は模傚もこうにあるとは、学問という言葉が語っている。……
 「まねび」は「真似をすること」、「模傚」は「模倣」と同義です。続いて言われます、
 ――宣長を語ろうとして、藤樹までさか上るというこの廻り道を始めたのも、宣長の仕事を解体してこれに影響した見易い先行条件を、大平の「恩頼図」風に数え上げて見たところで、大して意味のある事ではあるまいという考えからであった。見易くはないが、もっと本質的な精神の糸が辿れるに違いない、それが求めたかった。……
 精神の糸、です。続いて言われます、
 ――近世の訓詁くんこの学の自立と再生とに、最も純粋に献身した学者達の遺した仕事を内面から辿ってみれば、貫道する学脈というものは見えて来るのである。そして、この学脈の発展を、先きに言った、学問の字義通りの意味合での純化、その基本的動機の一と筋の洗煉せんれん、と合点して仔細しさいはないと考えた。……
 学問の字義通りの意味合とは「模倣」です、続いて言われます、
 ――彼等にとって、古書吟味の目的は、古書を出来るだけ上手に模傚しようとする実践的動機の実現にあった。従って、当然、模傚される手本と模傚する自己との対立、その間の緊張した関係そのものが、そのまま彼等の学問の姿だ。古書は、飽くまでも現在の生き方の手本だったのであり、現在の自己の問題を不問に附する事が出来る認識や観察の対象では、決してなかった。……
 現在の自己の問題を不問に付して行われる認識や観察は、現代の学問のあり方です、続いて言われます、
 ――つまり、古書の吟味とは、古書と自己との、何物も介在しない直接な関係の吟味に他ならず、この出来るだけ直接な取引の保持と明瞭化との努力が、彼等の「道」と呼ぶものであったし、例えば徂徠の仕事に現れて来たような、言語と歴史とに関する非常に鋭敏な感覚も、この努力のうちに、おのずから形成されたものである。例えば仁斎の「論語」の発見も亦、「道」を求める緊張感のうちでなされたものに相違ないならば、向うから「論語」が、一字の増減も許さぬ歴史的個性として現れれば、こちらからの発見の悦びが、直ちに「最上至極宇宙第一書」という言葉で、応じたのである。……
 以上が小林先生の言われる「ごく簡明な話」のすべてです。以下、順を追ってこの「簡明な話」を吟味しましょう。

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 「學」の字の字義は、カタドナラうであって、と小林先生は言われましたが、「本居宣長」の執筆中、先生が座右においてそのつど繙かれた諸橋轍次の『大漢和辞典』にも、近年の大字典、白川静氏の『字統』『字通』『字訓』にもその旨の解字(漢字の成り立ちを解釈した記述)はなく、白川氏は『字訓』で、「まなぶ」の項に「學」は子供たちを教える建物とそこで行われること、すなわち今日の学校にあたる教育機関を表していると解字した後、「まね」の項で、「まね」は「まねぶ」と同根の語と言い、さらに次のように言われています。
 平安時代前期に出来たわが国最古の仏教説話集『日本霊異記』に、「象り効う」の「効」の正字「效」をマネビとする訓があり、平安時代末期に成った字書『類聚名義抄』にはマネブ、ナラフと見えていて、中国の現存最古の字書『説文解字』は「效」を「る」と訓じている、『類聚名義抄』に言う「ナラフ」は「倣ふ」であり、古くは倣うことを「倣效」と言ったが、「效」と「學」とは古音が近く(heôとheuk)、双方に通じて用いられる字であった……。
 おそらく、こういう経緯によって「學」に「象り効う」の字義が加わったのでしょう。したがって、「學」を「象り効う」と解した伝統はたしかにあったのであり、小林先生が「模倣」と言わず、「模傚」と言ったのにも事由があったようなのです。
 しかし、私の遡求はここまでです。「學」の字義は「象り効う」であると、小林先生が言われているような意味合の解字を明記した字典、あるいは文献に、今のところ私は行き着けていません。小林先生が言われているような解字が行われているとすれば、小林先生は何に拠ったのでしょうか。

 ともあれそこはひとまず措くとして、宣長は、「うひ山ぶみ」を、
 ――世に物まなびのすぢ、しなじな有て、一ㇳやうならず、そのしなじなをいはば……
と書き起し、「学問」のことを「物まなび」とも言っています。が、宣長にあっては「物まなび」は日本の学問をさし、中国の学問をさして言われていた「学問」とは使い分けがされていて、「うひ山ぶみ」にはその理由も書かれていますが、そもそもを言えば「物まなび」という言葉は古くからあり、『日本国語大辞典』は用例を南北朝時代、北畠親房が書いた『神皇正統記』から採っています。
 その「まなび」「まなぶ」とともに、かつては「まねび」「まねぶ」も用いられ、「まねび」「まねぶ」も「学び」「学ぶ」と書かれていました。「まねぶ」を、『広辞苑』は「まねる」と同源であると言い、『大辞林』『日本国語大辞典』は「まなぶ」と同源と言っています。ということは、「まなぶ」と「まねぶ」と「まねる」、この三つの言葉の根は同じであり、かつての日本人は、「まなぶ」と言うときも語感としては「まねぶ」を伴っていた、「まなぶ」とは何かを模倣することだという意識を自ずともっていた、そういう意識で「まなんで」いた、ということのようなのです。
 小林先生が、藤樹、仁斎、徂徠らは新しい学問を拓いた、だがそれは、「彼等が古い学問の対象を変えたり、新しい学問の方法を思い附いたが為ではない。学問の伝統に、彼等が目覚めたというところが根本なのである」と言われたこともここにつながってきます。日本の学問の伝統自体が「まねぶ」だった、模倣するということだった、と言ってよいのです。

 しかし今日、「まなぶ」に「まねぶ」の語感はありません。それどころか、私たちにはなんとなくですが「まなぶ」は高尚で、「まねる」は卑俗だという感じがあります。これはどこからきたのでしょう。いずれにしても「まなぶ」は人間に知恵がついてからの大人の行為、「まねる」は知恵がつく前の子供の行為という、慣用からくる認識差があるようです。
 さらには学校で、図画工作でも読書感想文でも、人真似はいけません、あなた独自のものを出しなさい、大事なのは個性です、独創性ですと、さんざ言われ続けたことがあるでしょう。これは、おそらく、近代になってあわただしく輸入した欧米の個人主義などを、子供たちに闇雲に押しつけたということだったと思われるのですが、独創、独創と言われても子供たちは何をどうすれば独創になるのかがわからず、とにもかくにも人と違ったことをしておけば恰好がつくとなってその場かぎりの奇妙奇天烈な花火を誰も彼もが打ち上げました。
 しかし、小林先生はちがいました、終始一貫、何事も「まず、まねよ」でした。それを最も精しく、最も強い口調で言っているのが「モオツァルト」(「小林秀雄全作品」第15集所収)です。
 ――彼(モオツァルト、池田注記)の教養とは、又、現代人には甚だ理解し難い意味を持っていた。それは、殆ど筋肉の訓練と同じ様な精神上の訓練に他ならなかった。或る他人の音楽の手法を理解するとは、その手法を、実際の制作の上で模倣してみるという一行為を意味した。彼は、当代のあらゆる音楽的手法を知り尽した、とは言わぬ。手紙の中で言っている様に、今はもうどんな音楽でも真似出来る、と豪語する。彼は、作曲上でも訓練と模倣とを教養の根幹とする演奏家であったと言える。……
 そして先生は、間髪を容れず畳みかけます。
 ――模倣は独創の母である。唯一人のほんとうの母親である。二人を引離して了ったのは、ほんの近代の趣味に過ぎない。模倣してみないで、どうして模倣出来ぬものに出会えようか。僕は他人の歌を模倣する。他人の歌は僕の肉声の上に乗る他はあるまい。してみれば、僕が他人の歌を上手に模倣すればするほど、僕は僕自身の掛けがえのない歌を模倣するに至る。……
 「模倣出来ぬもの」とは、すなわち自分です、自分の個性です、その自分の個性がどういうものであるかは、他人を模倣してみないでは見つけられません、他人を模倣してみて初めて見つけられるのです。「他人の歌は僕の肉声の上に乗る他はあるまい」とは、歌の模倣は自分の肉声があってこそ成り立つ、どんなに巧みに他人を真似たとしても、自分の肉声は厳としてある、残る、ということであり、ぎりぎりの極限まで他人を模倣したとしても、完璧な模倣は実現しません、なぜなら、模倣の対象と自分とはついには別々の個体だからです。こうしてあらゆる模倣の対象と自分との間に現れる如何ともし難い差異、これが自分の個性となって育つのです。
 小林先生は、次いで、「僕が他人の歌を上手に模倣すればするほど、僕は僕自身の掛けがえのない歌を模倣するに至る」と言っています。「僕自身の掛けがえのない歌」、それこそが個性の発現であり独創であり、模倣を徹底すればするほど模倣の対象と自分との差異はよりいっそう強く意識される、そこからさらなる高みに達しようとすれば、他人との差異、すなわち自分の個性のありように沿って訓練を積むほかなくなる、それが「僕は僕自身の掛けがえのない歌を模倣するに至る」ということでしょう。
 そこを小林先生は、「本居宣長」では、「彼等にとって、古書吟味の目的は、古書を出来るだけ上手に模傚しようとする実践的動機の実現にあった」、「従って、当然、模傚される手本と模傚する自己との対立、その間の緊張した関係そのものが、そのまま彼等の学問の姿だ」、そういう緊張関係において「古書は、飽くまでも現在の生き方の手本だったのであり、現在の自己の問題を不問に附する事が出来る認識や観察の対象では、決してなかった」と言ったのですが、「モオツァルト」で、「模倣」に即してモオツァルトの教養とは「殆ど筋肉の訓練と同じ様な精神上の訓練に他ならなかった」と言ったその「精神上の訓練」は、「本居宣長」では「心法を練る」という言い方で言われているのです。
(第十八回 了)