小林秀雄「本居宣長」を読む(十六)

小林秀雄「本居宣長」を読む(十六)
第十章   「独」の学脈承前 荻生徂徠
池田 雅延  
           

 前回、「本居宣長」の第十章を読み、中江藤樹を源流とする「独」の学脈の三番手、荻生徂徠の登場を見ましたが、徂徠が創始した学問、と言うより、徂徠の代名詞と言ってもよいほどの古文辞学こぶんじがくについて、それがどういう学問であったか、どういう経緯で成ったかを小林先生はほとんど書いていませんでした。「本居宣長」の全篇を通してみても、第三十二章で宣長の学問は徂徠学の影響下にあったと言われるくだりに、
 ――徂徠の主著と言えば、「弁道」「弁名」の二書であるが、彼は、ある人の為に、二書の内容をとって、平易な和文を作った(「徂徠先生答問書」)。「答問書」三巻は、「学問は歴史に極まり候事ニ候」という文句で始まり、「惣而そうじて学問の道は文章の外無之候」という文句で終る体裁を成していると言って、先ず差支えない。即ち「古文辞学」と呼ばれた学問の体裁なのである。……
 と言われ、
 ――言葉の変遷という小さな事実を、見詰めているうちに、そこから歴史と言語とは不離のものであるという、大きな問題が生じ、これが育って、遂に古文辞学という形で、はっきりした応答を迫られ、徂徠は、五十を過ぎて、病中、意を決して、「弁道」を書いた。書いてみると、この問題に関して、彼は、言わば、説いても説いても説き切れぬ思いをしたのであるが、その姿が、其処によく現れているのである。……
 と言われているに留まっています。
 むろんその第三十二章から第三十三章を精読すれば、古文辞学の何たるかは髣髴ほうふつとしてくるのですが、いま第十章から第十一章にかけての文脈で先生の言わんとしているところを汲もうとすれば、やはり古文辞学とはどういう学問であったか、少なくともその輪郭は知っておきたいと思うのです。なぜなら、小林先生は、伊藤仁斎から徂徠へと、「古文から直接に古義を得ようとする努力が継承された」と言った後、ただちに次のように言っているからです、それも、改行なしで、です。
 ――これを、古典研究上の歴史意識の発展と呼ぶのもよいだろうが、歴史意識という言葉は「今言」である。今日では、歴史意識という言葉は、常套語に過ぎないが、仁斎や徂徠にしてみれば、この言葉を摑む為には、豪傑たるを要した。藤樹流に言えば、これを咬出かみだした彼等の精神は、卓然として独立していたのである。……
 小林先生の文章には飛躍が多いとよく言われ、あるいはここもそう思われているかも知れません。「仁斎から徂徠へと、古文から直接に古義を得ようとする努力が継承された」までは、「そうですか、そうなんですか」と難なく呑みこめますが、「これを古典研究上の歴史意識の発展と呼ぶのもよいだろうが」と言われると唐突感に襲われます。しかも小林先生は、続けてやはり改行なしで、
 ――言うまでもなく、彼等の学問は、当時の言葉で言えば、「道学」であり、従って道とは何かという問いで、彼等の精神は、卓然として緊張していたと見てよいわけであり、そこから生れた彼等の歴史意識も、この緊張で着色されていた。徂徠になると、「学問は歴史に極まり候事ニ候」(「答問書」)とまで極言しているが、人生如何に生くべきか、という誰にも逃れられない普遍的な課題の究明は、帰するところ、歴史を深く知るに在ると、自分は信ずるに至った、彼はそう言っているのである。……
 と先生は、一目散に駆けます。しかしここに論理の飛躍はありません、先生にしてみれば、「古文辞学」とはどういう学問であったかの結論なのです。この結論は、当然ながら先生が古文辞学なるものの心髄を見ぬき、見極めたうえで言っているのですが、「本居宣長」に荻生徂徠を初めて本格的に登場させた第十章において、いきなり「歴史」という言葉を持ち出してきたについては確たる理由があります。徂徠は、早くから朱子学に没入していました、しかしあるとき、ある偶然から一気に古文辞学に目覚め、その目覚めの決定的な動因は「言葉も変遷する、言葉にも歴史がある」ということを自ら発見した驚きにあったのです。
 しかし、小林先生は、そういう徂徠の学者人生の急転場面にはふれず、一息に徂徠の究極、「学問は歴史に極まり候事ニ候」、「惣而そうじて学問の道は文章の外無ㇾ之候」へと直行します、この直行は小林先生固有の直情径行気質によるものですが、私はやはり先生にはしばらく待ってもらい、徂徠の古文辞学の来歴を辿ってみようと思います。

          

 手始めに、『日本古典文学大辞典』(岩波書店)、『日本思想史辞典』(ぺりかん社)、『日本国語大辞典』(小学館)等に予備知識を求めますと、古文辞学とは荻生徂徠が中国明代の古文辞派の示唆を受けて唱えた儒学、と言われています。
 中国では、十六世紀の明代に、古文辞派と呼ばれる文人たちが、それまで規範とされていた十二、十三世紀の宋代の詩文を退け、文は紀元前の秦・漢を、詩は盛唐を範とする擬古主義的な文学運動を始めましたが、その秦・漢時代以前の文、そして盛唐以前の詩が「古文辞」と呼ばれました。秦は中国古代、紀元前四世紀の王朝、漢は同三世紀の王朝ですが、盛唐とは中国の文学史の唐代を四分した第二期で、八世紀の半ば、李白、杜甫、王維らが輩出した唐詩の最盛期です。
 そういう、中国明代の古文辞派運動の代表的存在であった李攀竜りはんりょう王世貞おうせいていらの詩文集を、徂徠は四十歳の頃、偶然に入手して衝撃を受け、彼らに倣って擬古主義的文学運動を興しました。こうして始った蘐園けんえん派と呼ばれる徂徠一門の詩文は、八代将軍吉宗の時代の享保から九代家重、十代家治時代の宝暦にかけての日本で一世を風靡しました。
 それと同時に、徂徠は、李攀竜、王世貞の示唆によって詩文の歴史的変遷を見る目を得、熟読、実作という古文辞理解の要諦も心得ました。それが小林先生も引いている「今文ヲ以テ古文ヲ視ル」な、「今言ヲ以テ古言ヲ視ル」な、に通じるのです。徂徠は、今文、今言、すなわち現代の文章や言葉で古文古語を解そうとするな、ひたすら古文辞に習熟することで古文古語に即した古意を得よと言い、そしてついに、古文辞のありようと連繋したいにしえの光景、「礼楽」と名づけられた「人の道」を目にしました。「礼」は礼儀で、社会の秩序を保ち、「楽」は音楽で、人心を感化する作用があるとして、いずれも先王と呼ばれる古代中国の聖王たちに重視されていました。「先王」は遠い昔の徳の高い王、の意ですが、具体的には七人の統治者、古伝説上のぎょうしゅんに始り、王朝の創始者いん王朝の創始者とう、周王朝の始祖文王、武王、周公を指して言われています。

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 こうして徂徠が受けた李攀竜、王世貞らの詩文集による衝撃の実態は、岩波書店の日本思想大系36『荻生徂徠』(昭和四八年刊)の吉川幸次郎氏による解説、「徂徠学案」に精しく書かれています、ここから先は、この吉川氏の「徂徠学案」を、古文辞学とは何かを教わるために、全文、しっかり読んでいきます。吉川氏のこの文章を、小林先生も熟読していたはずなのです。
 言うまでもなく吉川氏は、中国文学研究の泰斗たいととして著名ですが、日本近世の学問にも造詣が深く、日本思想大系の『伊藤仁斎 伊藤東涯』『荻生徂徠』『本居宣長』各書の校注者の先頭に立ち、昭和五十年には岩波書店から『仁斎・徂徠・宣長』を出し、小林先生の『本居宣長』と同じ年、昭和五十二年には筑摩書房から『本居宣長』を出しています。
 小林先生は、吉川氏の「徂徠学案」を熟読していた……、そこを私は、小林先生から明確に聞いたわけではありません。にもかかわらず、小林先生は熟読していたはずであるとまで言うのは、「本居宣長」の『新潮』連載中、先生は折々、吉川氏の意見を聴いていましたし、吉川氏も読後感を送ってきていたからです。その吉川氏に報いようと、昭和五十二年十月の『本居宣長』の刊行後、小林先生は京都へ赴き、行きつけの店へ吉川氏を招いて謝意を表しました。小林先生七十五歳、吉川氏は七十三歳の冬でした。
 そういう次第で、以下、吉川氏の「徂徠学案」を引用し、小林先生の傍で吉川氏の直話を聴かせてもらうような気持ちで読んでいきます。日本思想大系の『荻生徂徠』はA5判の本で総頁数八三一頁、そのうち吉川氏の「徂徠学案」は一一一頁に及んでいます。

          

 吉川氏は、「徂徠学案」を「一 学説の要約」「二 第一の時期 幼時から四十まで 語学者として」と書き進め、「三 第二の時期 四十代 文学者として」で、徂徠の李攀竜、王世貞との邂逅に立ち会います。
 ――藩主吉保の厚遇に甘えつつも、けっきょくは語学の技術者としての柳沢藩邸の生活、また将軍綱吉の儒学のお相手という光栄と束縛、その中にいた徂徠に、衝撃を与えたのは、明代十六世紀後半の古典文学者、李攀竜、あざな于鱗うりん、王世貞、号は弇州えんしゅう、この二人の著書と邂逅し、宋代の文学が、文学の堕落として忌避され、詩、文ともにより古い文学との合致をめざすのを、読んだのによる。この衝撃によって、従来は宋ないしは宋的な詩文を実作の典型としていた惰性から、徂徠は文学の実作者としてまず脱却する。そうして李氏、王氏とともに、散文は西紀前、秦漢の「古文辞」、詩は、古体すなわち自由詩型においては三世紀以前の漢魏、近体すなわち定型詩の律詩絶句においては八世紀前半の盛唐を排他的に典型とし、その完全な模倣をもって、新しい文学の主張とした。ただし、儒学説はなお宋儒を離れない。しかしまず宋の文学を捨てることが、次の時期である五十歳以後、儒学説においても宋儒を捨てて新しい学説を樹立する前提となったのであり、以後の彼のすべての発足点は、李王(李攀竜と王世貞/池田注)の書との邂逅にある。この邂逅を、彼は「天の寵霊」、「天」の特別な恩寵によるとする(「弁道」まえがき、及び「屈景山に答う」)。……
 李攀竜、王世貞との出会いが、徂徠に詩文の実作、さらには古文辞学への目をひらかせたというのです。しかし実際は、今言(現代語)でたやすく出会いと言ってしまえるような出会いではありませんでした、出会った後にたいへんな苦労を味わうことになった出会いでした。
 ――彼の晩年の弟子である宇佐美灊水しんすいが、師の遺著『古文矩』を、明和元年に刊行したが、その序文によれば、ある蔵書家が破産して庫ごと売り払うと聞き、本好きの徂徠は、家財の全部を売り、なお足らぬところは借金して一括ひきとった。その中に、李王二家(李攀竜と王世貞/池田注)の書が偶然含まれていたというのである。筆者不明の『蘐園けんえん雑話』も、宇佐美からの聞き書きとして同じことを言い、かつ一括購入の額は百六十金、徂徠三十九歳か四十歳のできごととする。……
 ――得たところの二家の書とは、いずれも詩文の全集であって、李の『滄溟そうめい集』十六巻、王の『弇州えんしゅう山人四部稿』百七十四巻であったはずである。多作家の王は、他にも多くの著書を持つが、李は他に著書がない。もっとも上総かずさ時代の徂徠の読書として上述した『唐詩訓解』など、著者編者の名を李に仮託したものは別である。……
 ――李攀竜という名、王世貞という名は、李に仮託された『唐詩訓解』その他によって、徂徠は早くから知っていた。二人の文学の傾向、ことに詩のそれも、何種かの明詩の選本が、早く輸入され、あるいは覆刻されていたことによって、向学な彼の知識にあったに相違ない。今は全集を得て、二人の文学の全貌に接することとなったのである。……
 ――李の『滄溟集』、また大きな巻数をもつ王の『四部稿』、いずれも中国の詩文集の常として、実作の集積であり、議論の書でない。まだしも王の『四部稿』は、詩約三千首、文約二千首のほかに、附録として文学評論の巻「芸苑巵言しげん」をもつが、李の『滄溟集』は、詩約千首、文約五百首、すべて実作である。文学者の伝記、他人の詩文集への序文、また書簡には、文学論の断片が見いだされるが、文章のおおむねは、行政官なり軍人の伝記、それらの赴任を送る文章、学校神社などの創建あるいは改修についての叙述などであり、詩はそれらを素材とするoccasional poemsなのを大多数とする。……

 そして、ここからが、李攀竜、王世貞との真の出会いです。
 ――徂徠の感心したものは何であったか。両人の言語の緊迫である。ことに文章の文体として現れるそれである。従来読みなれて来、またみずからの実作の典型として来た宋代の文章、すなわち欧陽修と蘇軾そしょくを代表者とするそれ、またすなわち李王二氏が文章の堕落として排撃これつとめるそれとは、完全に異質であると感じられたことである。そうして久しく模索していたものが、ここにあるという予感を、おそらくはもった。……
 ――しかし、しばらくは驚きとともに、当惑の中にいた。従来から読みなれた宋代の文章と、文体がちがうばかりでなく、特殊な難解さに満ちる文章だったからである。しかしやがて難解の主因となるものを見いだした。二家の文章は、典型との強い合致を求める結果、典型とする古典、最も多くは『史記』、ついでは『左伝』『戦国策』など、それらの成句を、自己の表現しようとする事態の表現として、一字一句ちがわぬ形で使い、その綴りあわせをもって、みずからの文章とすることであった。……
 ――一例として、おなじく「古文辞」の一党である友人じょ中行ちゅうこうの父の伝記「長興の徐公敬之の伝」、「滄溟集」二十、は、次のようにはじまる。「公は名はかん。始めまずしきに居りし時、まちの諸生の間に遊ぶも、能く厚く遇せらるるし。之れを久しくして弟子に室に里中に授く。其の好みに非ざる也」。はじめは同郷の青年たちから相手にされず、寺子屋の教師をいやいやしていたという事態をいうが、そのうち「始居約時」という表現は、『史記』の「張耳陳餘列伝」に、「張耳陳餘、始居約時」すなわち「張耳と陳餘とは、始め約しきに居りし時に」というのをそのまま使い、「遊邑諸生間、莫能厚遇也」というのは、おなじく『史記』の主父偃しゅほえんの伝の「遊斉諸生間、莫能厚遇也」すなわち「斉の諸生の間に遊ぶも、能く厚く遇せらるるき也」、それをやはりそのまま使う。以下千字ばかりのこの伝記の文章、ほとんどそうである。あるいは李攀竜の文章のすべてが、そうした形にある。徂徠には、そのことが衝撃を与え、以後の新学説樹立の契機となった。……
 ――しばらくは読みにくさに閉口した李王二家の文章の、読みにくさの主因がそこにあることを発見したかれは、李王がみずからの文章のために句をひきちぎってきた原典どもの原文を、読み返してみた。むろんこれまでにも読んでいたのを、このたびは李王の文章との関係を考慮の中心におきつつ、読み返してみた。そうしてさらにいくつかのことを発見し、また発見の結果にもとづいて、いくつかの主張を創始した。……

 こう言って吉川氏は、「(1)『古文辞』の実作による『古文辞』原典の把握」と見出しを立て、
 ――李王の難解の秘密、また文体の秘密が、そこにあることを発見してのちの徂徠は、単に李王の文章が読めるようになったばかりではない。以下のことを発見した。このように李王が原典の句をひきちぎって来て、自己の表現しようとする事態の表現に転用することにより、いいかえれば自己身辺の経験を原典の句に充填することにより、原典の句そのものが、急にはっきりと具体性をもって把握されて来ることである。まわりくどい注釈を通じて原典を読むよりも、ずっと直接に、生き生きと把握される。……
 ――『史記』にもいろいろ後人の注釈があるが、「張耳陳餘伝」の「始居約時」について、注釈は、「貧賤に在るの時也」と、いわでもの陳腐な訓詁を与える。そんな解説に頼らずとも、李の文を読めば、徐中行の父という近ごろの人間が、若いころにいた状況と同じ状況に張耳陳餘という古代の英傑も、その発足時にはいたということが、いきいきと身近につかめる。「主父偃伝」についても同じである。しからばここに原典把握の新しい方法がある。従来の方法は、原典をむこうに置いて読むという、いわば受動的な方法であった。そうではなく、能動的な方法として、李王のなしたごとく、みずからの体験を、原典の言語で書く。「古文辞」で書く。つまり原典の「古文辞」の中に自己の体験を充填する。そうしてこそ原典の「古文辞」は、自己の体験と同様に、自己身辺のものとして完全に把握される。そう考えた彼は、それを自己の学問の方法として利用した。それがすなわち彼のいわゆる「古文辞の学」である。……
 ――以上の経過を告白するのは、京都の堀景山、すなわちのちに宣長の医学の師となった人あての書簡である。書簡は、のち「学則」の附録の一つともなっているように、徂徠自身も重視する書簡であり、執筆は儒学説においても反宋儒の旗幟きしを鮮明にしてのちの、晩年のものであるが、李王の「古文辞」に邂逅してのおどろきののちに、如上の方法を考えついた経過を叙した部分を摘めば、「不佞ふねいは幼きり宋儒の伝注を守り、崇奉すること年有り。積習のざす所、亦た自ずから其の非を覚えざりき矣」。しかるに「天の寵霊にりて」、天の特別な恩寵により、「中年におよびて、二公の業を得て以って之れを読む」。王李二公である。「其の初めは亦た入るに難きに苦しめり焉」。能力者と自負する彼も、何ともとっつきにくかった。その原因は、「けだし二公の文はこれを古辞にる」。古代のみが生産した文学性に富む言語、それを李王の文章は史料としている。「故に古書に熟せざる者は、以って之れを読む能わず」であり、やがてさとったことは、「古書の辞の、伝注の解する能わざる者を、二公はこれを行文のさわりに発して渙如たる也。た訓詁をたず」。「伝注」すなわち注釈では要領を得ない箇所を、李王が自己の文章のさわりにとり入れることによって、ぱっとかがやき出し、注釈を不用にする。「蓋し古文辞の学派、だ読むのみならん」。それではだめであって、「亦た必ずこれを其の手指しゅしより出だすを求む焉」。筆をもつ自分の手から吐き出さねばならぬ。「能くこれを其の手指より出だせば、しこうして古書は猶お吾れの口より自ずから出づるごとからん焉」。早い時期の議論として、中国語を理解するにはその中へ飛び込んで中国語を日本語のごとく身近なものにせよという論理、それが今や古今を超越するものとしてはたらく。そうしてこそ「れ然る後に直ちに古人と一堂の上に相いゆうし」、昔の人と同じ座敷で挨拶を交わし、「紹介を用いず焉」。通訳はいらない、注釈はいらない、「豈に郷者さきには門墻もんしょうの外に徘徊し、人の鼻息を仰いで以って進退する者の如くならん」。注釈者の鼻息をうかがってうろうろしていたころとは、情勢がちがって来る。「豈に婾快ならず哉」。同じく「学則」の附録とした安積澹泊あての書簡でも、同様の経過をいい、且つこの勉強をした時期には、李攀竜の言に従い、後漢以後の文章には、一さい目をふれなかったという。……
 
 次いでは、「(2)注釈の否定」と見出しを立て、
 ――このように「古文辞の学」によれば、秦漢の原典を原形のままに把握できるという認識は、注釈をもって、単に不用であるばかりでなく、反価値的な存在であり、原典の破壊であるという思考、それは早く上総の独学時代にきざし、また大奥の女中の素読の先生であることによってもつちかわれたらしいが、それを一そう決定的にした。上引の堀景山あての書簡は、宋儒の注釈の棄却を決定したのちのものであるが、中国後世の注釈の中国古代の原典に対する関係は、「冗にして俚」なる、冗長で卑俗な中国後代語をもって、「簡にして文なる」、簡潔で文学的な中国古代語を翻訳するものであって、原形の破壊であることは、日本語の「訓読」の中国語に対する関係と、同様であり、原文の「意」は伝え得ても、原文の「文采の粲然たる者」は「得て訳す可からず矣」とする。また別に詩人入江若水あての書簡に、「和訓を以って華書(中国の書/池田注)を読む」のは、「意」を得ても「語」を得ずといい、更にさかのぼっては、早く「訓訳示蒙」に、「詞ヲ得ズシテ意ヲ得ルモノハ必ナヒコトナリ」という。それらは、日本語による中国語のいいかえを破壊とするのであったが、今や中国語による中国語のいいかえも破壊だとする。要するにすべてのいいかえは、破壊である。こうしてひとり宋儒のいわゆる「新注」のみならず、それ以前の「古注」、すなわち二世紀の鄭玄じょうげんを中心とする漢魏人の儒書注釈に対しても、限度をともなった尊敬をしか払わない。……
 「簡にして文なる」の「文なる」を、吉川氏は単に「文学的な」とだけ言っていますが、より具体的には、語彙の選択、そして言い回しに繊細な神経が張り巡らされ、それによってそこはかとない美や品性が感じられる、そういう文章の趣きを徂徠は言っているのでしょう。「文采の粲然たる者」の「文采」はまさに文章の「あや」であり、「粲然たる」は「燦然たる」に同じですが、『大漢和辞典』は「文」の字義の最初に「あや」を掲げ、その下に「色を交錯させて描き出した系統のある模様」の項目を立てて典拠を数々挙げています。そして、今日「文章」という言葉に使われている場合の「文」の字義、「語句を綴って思想感情を表したもの」は、それよりかなり遅れて掲げられています。ここから推せば、「文」の本来の字義は「あや」であり、「文章」の「文」も、いくつかの色を交錯させて描き出される模様のように、いくつかの言葉を交錯させて織り上げられる言葉の模様という意味合が、比喩であったにせよ本来だったのではないでしょうか。だとすれば、「簡にして文なる」の「文」はまちがいなく「あや」であり、「文なる」は、言語表現に適切な配慮が施されることによっていわく言い難い風韻が感じられるようになっている、そのさまを言っているのでしょう。

 次いでは、「(3)後代の中国文と非連続であること」です。
 ――しかしより重要な思考は、次にある。なぜ後世の注釈は、そのように秦漢の「古書」を正しく解釈し得ないのか。秦漢の古書の文章は、「古文辞」すなわち古代独特の修辞であって、古代に独特なものであるゆえに、後世の中国文とは非連続なのである。そもそも「古文辞」を構成するものは「古言」であり、後代の「今言」と非連続なのである。なぜ非連続かといえば、秦漢の「古文辞」は「簡にして文」なのに対し、「今言」は「冗にして俚」である。この非連続を生んだ最もの原因は、助字を多く挿むか挿まないかにある。最初、貧乏なころは、人から馬鹿にされたという事実を、後代の宋的な「今言」ならば、「其始居於貧約之時、莫能見厚遇也」などと長ったらしく言うであろうところを、省き得るだけの助字を省いて、「始居約時、莫能厚遇」と表現を凝縮させるのが「古文辞」の「古言」である。この非連続は日本語が中国語との間にもつそれと同じである。日本語はテニヲハまた動詞の語尾変化、それらを必須とするゆえに、せっかく「簡にして文」な李于鱗の原文、「始居約時、莫能厚遇」を、「始メ約ニ居リシ時ハ、能ク厚ク遇セラルルシ」と、冗長にしてしまう。あるいは中国後代の「今言」さえも、日本語による訓読は、「其ノ始メ貧約ニ居リシ時ハ、能ク厚ク遇セルル莫キ也」と、一そう冗長にしてしまう。つまり日本語はこのように常に「冗にして俚」なのに対し、中国語は一般的には「今言」といえども「簡にして文」なのであるが、同様の非連続の差違が、中国語自体の中でも、「古文辞」を構成する中国古代の「古言」と、中国後代の「今言」との間にある。要するに二者は、ひとしく中国の文章語であるけれども、同一の言語でない。更にあるいは後代の中国語の中でも、文章語と口語を比較すれば、後代の文章語の「其始居於貧約之時、莫能見厚遇也」が、後代の口語では更に冗長に、「起初他在窮約的生活的時候児、他没能勾受到很好的待遇」などとなるであろうことも、およそ言語には「簡にして文」なるものと「冗にして俚」なるものとが、非連続としてある旁証となる。このように中国「古文辞」の「古言」と、中国後代の「今言」との間にある非連続、その関係が認識されないため、中国後代の注釈は「古文辞」の「古言」をば「今言」と同じ条件で読み、「今言」をもって「古言」を翻訳する。ゆえに誤謬だらけなのである。学問をするには、そこのところをまずよく認識しなければならない。以上、「訳文筌蹄せんてい」の「題言」、ただし挙例は私(吉川氏/池田注)の作文による補入である。……
 「訳文筌蹄」は徂徠の著作で、一言で言えば漢文学習のための高度な字書です。この書については前回、次のように記しました。徂徠の父方庵は、五代将軍徳川綱吉の上野こうずけの国舘林たてばやし藩主時代、綱吉の侍医でしたが、徂徠が十四歳の年、事に連座して上総かずさの国に蟄居を命ぜられ、徂徠が二十五歳になる年まで一家は流落の歳月を余儀なくされました。赦されて江戸に帰った後、徂徠は家督を弟に譲り、芝増上寺の門前に住んで朱子学を講じました。暮しは困窮をきわめましたが、その間、「訳文筌蹄」六巻を著し、これによって名を知られ、元禄九年、三十一歳の年、綱吉の側用人、柳沢吉保に召し抱えられて将軍綱吉に謁しました……。
 その「訳文筌蹄」は、日本思想大系『荻生徂徠』の「荻生徂徠年譜」には、元禄五年(一六九二)二十七歳の頃、門人に口授筆記させ、正徳元年(一七一一)四十六歳の年、刊行したとあります。ということは、徂徠が初めて世に名を知られた「訳文筌蹄」は写本だったのであり、吉川氏がそのつど言及している「題言」は、板行に際して書き足されたのです。徂徠が李攀竜、王世貞と出会ったのは三十九歳ないしは四十歳の年でした。吉川氏は「徂徠学案」の「第二の時期 四十代 文学者として」をほとんど「訳文筌蹄」の「題言」に拠って書いています。徂徠の古文辞学の自信、確信は、李攀竜、王世貞との出会いから数年かけて、艱難辛苦のうちに固まったのです。

 次いでは、「(4)『古文辞』の『古言』と『今言』の非連続は時代の推移を原因とすること」と立てて続けられます。
 ――この非連続は何によっておこったか。時代の変遷のためであるとする思考は、「訳文筌蹄」の「題言」には見あたらないが、次の時期の書である「学則」の第二則にはっきり現われる。「世は言を載せて以って遷り、言は道を載せて以って遷る」。各時代による言語の変遷ということ、現代われわれの認識としては普通であるが、彼以前の日本、ないしは中国では、いかようであったか。彼の思考は、たとい完全な創見がないにしても、一つの画期であったのではないか。少なくとも徂徠自身としては、新しい覚醒であったのであり、この覚醒以前は、宋人の文章も古代の文章の連続と誤認していたゆえに、宋人の文章を典型として、その雰囲気の中に安んじていたことが、宋人の儒学説に安住し、古典の真実の獲得を困難にしていたと、藪震庵あての書簡にいう。いわく、聖人の「道」は、今や直接には知り得ない。それはただ書物の「辞」によって知られる。ところで「辞の道も亦た時とともに汚隆する也」。汚隆は盛衰です、つまり「学則」の「世は言を載せて以って遷る」です。そうして前にも引いたように、「不佞も初めは程朱の学に習い、而うして欧蘇の辞を修む」と、宋の儒学と文学を勉強して、「其の時にあたりては、意に亦たおもえらく、先王孔子の道はこに在り矣」としていたと、懺悔をしたうえ、この錯誤の原因は、「是れ他無し、宋の文に習いし故也」。宋の欧陽修や蘇軾の文学を、古代とは非連続であることに気づかないままに、勉強していたからである。「後に明人の言に感ずる有りて」、李王二氏による覚醒である。「而うして後に辞に古と今と有るを知る焉」。かく言語の時代による非連続に気づくことによって、はじめて宋代の言語による文学の雰囲気から脱却して、正しい道に進み得たとする。……
「而うして後に辞に古と今と有るを知る焉」、李攀竜、王世貞と出会って初めて、言葉にも歴史があるということを知ったと言うのです。

 次いでは、「(5)『古文辞』優越の理由その一、叙事」です。
 ――なぜ「古文辞」は、このように他の言語とは非連続に優越するのか。その理由として徂徠がまずいうのは、それが事実を叙する文章であることである。文章には叙事と議論とがあるとする意見は、宋文から脱却する以前の「風流使者記」にすでに見えるが、秦漢の「古文辞」、またそれにならう李王の散文が、「簡にして文」であり得るのは、議論よりも叙事を主とするゆえであり、叙事こそ文章の本来であるという思考が、「訳文筌蹄」の「題言」ではなお幾分の猶予をのこしつつ見える。次の「蘐園けんえん随筆」巻四では、「六経りっけいの文の如きは、皆叙事なり」といい切り、『左氏春秋』『楚辞』『史記』『漢書』、みな名文の代表だが、どれも議論でないと、いい添える。こうして事実を叙述する文章としての「古文辞」の尊重は、やがて事実そのものの尊重へと赴く。次期における儒学説の結論が、「六経」の内容について、「礼」と「楽」は「事」、すなわち事実そのものであり、「詩」と「書」は「辞」、すなわち事実と密着した修辞であるとする主張、そうして「事」と「辞」とを総括する語が「物」であり、「六経」は「其れ物」、すなわち標準的事実にほかならぬと「学則」第三則でなされる宣言、それら後来の儒学説、みなこの時期の文学説に発足しよう。……
 「六経」とは、先述の七人の先王が設定した政治の方法、すなわち「先王の道」を記録した六種の経書けいしょ(儒教の最も基本的な教えを記した書物)で、『書経』『詩経』『礼記』『楽記』『易経』『春秋』を言います。『書』は最初から書物として存在していましたが、元来は口頭歌謡であった「詩」、元来は実演の技術であった「礼」と「楽」を孔子が書物化し、『易』『春秋』、これらも「先王の道」が記されたものと孔子が認定して「六経」としました。以上のことは吉川氏「徂徠学案」の「一 学説の要約」に書かれています。

 次いで、「(6)議論の否定と信頼の必要」と立て、
 ――このように叙せられた事実そのものの尊重へとのびるべき叙事の文章の尊重に対し、議論の文章は嫌悪される。嫌悪は、議論の一種である注釈を反価値とする段階で、すでにきざしているが、「訳文筌蹄」の「題言」では、宋人の文章が、助字を多く加えて「冗にして俚」、非文学であり非真実であるのは、議論にばかりふけり、文章の正道である叙事の能力を失ったからだとする。……
 ――「学則」の第三則に、「れ之れを言う者は、一端を明らかにする者也。一を挙げて百を廃す。害ある所以なり」。「言う者」とは議論者をさす。なぜ議論は「一端」片はしを「明らか」にし得るのみで、一方的であるのか。複雑に分裂する現実のすべてを、人間は知り得ないとする思考が基底にあるほかに、特殊な思考が併存する。議論は必ず論敵を予想し、それを克服しようとするゆえに、必ず一方的であり、誤謬におちいるとする思考である。宋儒はことにそうである……

 これを挟んで、「(7)『古文辞』優越の理由その二、修辞による事実との密着」が続けられます。
 ――何ゆえに「古文辞」は、事実に密着したすぐれた言語であるのか。古代人の特殊な修辞法によってそうなのである。「訳文筌蹄」の「題言」にはいう、言語にまず必要なのは、「達意」すなわち事実の伝達である、『論語』の「衛霊公」篇の孔子の語に、「辞は達するのみ」というようにである。同時にまた孔子は、『易』の「けん」の卦の「文言ぶんげん伝」で、「辞を修めて其の誠を立つ」という。つまり「達意」と「修辞」の両者は、文章に必須な二つの条件である。まただからこそ更なる孔子の語として、『左氏春秋』の襄公二十五年の条に見えるものには、「言は以って志を足し」、言語は意思の充足、「文は以って言を足す」、修飾された文章こそ言語の充足、というのである。孔子は更につづけていう、言語の第一段階は、「もの言わざれば誰か其の志を知らんや」であり、「達意」は言語の基礎であるけれども、「言のかざらざるは、行わるること遠からず」、修飾されない言語は、広い普及力をもたない。このように、「修辞」は「達意」とともに文章の必須の条件である。……
 ――古代の「古文辞」の中でも、より多く「達意」に傾くものと、より多く「修辞」に傾くものと、二種があるのは事実だが、大体としては両者が渾然と分裂していないのが、西紀前の前漢までの「古文辞」の文章である。それが紀元一世紀二世紀の後漢から六朝・唐初にかけては、「修辞」偏重におちいったのを救わんがため、「達意」でおしかえしたのが、唐の二大散文家、韓愈かんゆと柳宗元である。ところが宋の欧陽修以下に至っては、「達意」のみが惰性的なものとなり、文章が堕落した。それをこんどは「修辞」で振るいおこしたのがすなわち李攀竜、王世貞であり、「大豪傑と謂う可し矣」。以上は「訳文筌蹄」の「題言」の説に、『左氏春秋』の孔子の語を、他では彼がしばしば引くのを加えた。……
 ――つまり、「古文辞」とは、いにしえあやあるふみ、あるいはいにしえかざれるふみ、なのである。あるいは「辞」という一字、それだけでもその意味だとするのは、次の書簡である。「れ辞と言とは同じからず。しかるに足下は以って一つと為す。倭人の陋也」。「辞」はただの言語ではない。あなたはそれを同一視している。日本人は冗長な「言」ばかりになれて、修飾された「文」を心得ないゆえの誤認である。「辞なる者は」、何か。「言のかざれる者也」。さればこそ古典にも、「辞をたっとぶとい、辞を修むと曰い、文は以って言を足すと曰う」。……
 ――このように「修辞」という属性が「叙事」という属性と併存することは、以下のことを結果する。すなわち「修辞」は「叙事」のための「修辞」であり、事実を言語に密着させるための「修辞」ということにならねばならない。また「修辞」があればこそ「叙事」が可能になり、文章が事実に密着し得るとしなければならない。堀景山あての書簡に、議論ばかりしている宋人の文章は、「辞をしりぞく。故に事を叙する能わず」というのは、まさしくその意味である。……
 ――またこのように事実に密着した「修辞」が「古文辞」であるとすることは、更にやがてその学説の結論として、「道」はすなわち「辞」において求められるという主張を完成して行ったとせねばならぬ。「道」を「辞」において求めるということは、「辞」をもって「道」を伝達する過程とするのには止まらない。そのような表白も見えないではない。藪震庵あての書簡に、古代から遠ざかったわれわれにとり、「其の得て知る可き者は、辞のみ」といい、また「故に今の以って準と為す可き者は、辞にくはし焉」というのなどは、なおその方向にある。……
 ――つまり「古文辞」は事実と密着した「修辞」であるゆえに、それ自体が事実であり、事実であるゆえに「法」であり「義」であり「先王の道」なのである。またこのように「修辞」こそ文章の正道であるとする文章論は、すべての事象が、修飾を価値とし、素朴簡単を価値としないという思考へとのびる。「弁道」また「弁名」の「文」の条に、「先王の道」、またその記載である「六経」は、修飾された存在すなわち「文」的な存在であるゆえに、至上の価値なりとする。……
 言葉には、それを存在せしめる必須の条件が二つある、その一つを、徂徠は物事の伝達という意味の「達意」であると言い、もう一つは「達意」とともに孔子が強調している「修辞」であると言う。そして徂徠は、「達意」はどんな言葉にも当然の条件であるが、「修辞」は、それを欠いた言語でも言語として成り立つことは成り立つ、しかし、「古文辞」には、「修辞」は欠くべからざる条件である、逆に言えば、「修辞」を欠いた言語は「古文辞」とは呼べないと徂徠は言っている、という意味のことを吉川氏は言い、ここから「修辞」という言葉をめぐって様々に考察を重ねるのですが、私たちにはまず、孔子が言った「辞を修めて」、すなわち「修辞」と、現代語の「修辞」とを明確に識別してかかる必要があると思われます。
 今日、「修辞」の「修」は「修飾」の「修」、つまりは「かざる」と解され、「修辞」という言葉は、「辞」の見栄えをよりよくする、あるいは増幅するといった意味合で使われていると言っていいでしょう。しかもそこへ、英語「rhetoric」(レトリック)の訳語としての「修辞」がかぶさり、「辞」を社交的に、あるいは戦術的に装飾する、さらに進んで、相手の歓を「辞」で買う、といった、虚飾もしくは巧言のニュアンスまでが漂うに至っています。しかし、孔子が言った「修辞」にも、徂徠が言った「修辞」にも、吉川氏が言っている「修辞」にも、そういった意味合は微塵もないことをまずはよく腹に入れたいと思います。
 なるほど、吉川氏の文中にも、「修飾された文章こそ言語の充足」とか、「修飾されない言語は広い普及力をもたない」とかと言われていますが、これらの「修飾」は、現代語の「修飾」と同じではないのです。もし同じだったとしたら、それまでに吉川氏が縷々力説した「簡にして文」の「簡」と相容れなくなるでしょう。吉川氏は、こう言っていました。
 ――そもそも「古文辞」を構成するものは「古言」であり、後代の「今言」と非連続なのである。なぜ非連続かといえば、秦漢の「古文辞」は「簡にして文」なのに対し、「今言」は「冗にして俚」である。……
 もはや、言うまでもないでしょう、現代語の「修辞」が孕む「修飾」という概念は、「簡にして文」どころか「冗にして俚」なのです。「俚」は、卑しい、俗っぽい、田舎じみた、など、要するに卑俗を蔑んで言われる言葉です。

 では、吉川氏の言う「修飾された文章」を、どう解すべきでしょうか。結論から言えば、「修飾された」は、「あやある」なのです。
 先に「文」の字義を見て、「文」の本来の字義は「あや」であり、「文章」の「文」も、いくつかの色を交錯させて描き出される模様のように、いくつかの言葉を交錯させて織り上げられる言葉の模様という意味合が本来だったのではないでしょうか、と言いました。そしてそういうふうに織り上げられる言葉は、繊細な神経を張り巡らして選びぬかれた言葉であり、それらが交錯することによって、一語一語では見られなかった美や品性の輝く文章が現れる、それらをさして吉川氏は「修飾された文章」と言っているのではないでしょうか。
 そのことは、後に続く吉川氏の文章自体によって裏づけられます。
 ――「古文辞」とは、いにしえあやあるふみ、あるいはいにしえかざれるふみ、なのである。……
 したがって、吉川氏の言う「修飾された文章」とは、それを書く人間の工夫もさることながら、最終的には言葉が言葉そのものの力によって己れを飾った文章、のいいなのです。言葉にそういう力を発揮させるために、人間は苦心し、神経を張り巡らせるのです。
 吉川氏は、古文辞とはいにしえあやあるふみ、あるいはいにしえかざれるふみ、なのである、と言った後さらに、「辞」という一字、それだけでもその意味であり、「辞」はただの言語ではない、「辞なる者は」何か、「言のかざれる者也」、だからこそ古典にも、「辞をたっとぶとい、辞を修むと曰い、文は以って言を足すと曰う」のであると言います。
 「文は以って言を足す」とは、言葉というものは語意、文意の上にあやを具えて初めて事足り、十全に機能するようになる、の意でしょう。このことについては、孔子が『左氏春秋』で、「言のかざらざるは、行わるること遠からず」、あやを具えない言語は広い普及力をもたない、と言っていましたが、「古文辞」は、その語意、そして文意を、より深く、より広く、世に浸透させるに不可欠なあやを具えた言語の世界であり、「修辞」とは、そういうあやのにおいたつ世界を生み出すべく用語を的確に選び、整然と布置する行為をさして言った言葉です、と同時に、そうすることによって現れ出たあやのにおいたつ言語の全体、また文章の全体をとらえても言われた言葉と解し得るでしょう。
 言葉があやを具えるとは、言葉の一語一語が永い年月にわたって使われているうち自ずと固有の音響、固有の色彩、固有の感触を帯び、その時その時、そういう音響や色彩や感触が交錯することによって語意、文意以上の想いが相手に伝わる空気感が生まれる、その微妙な空気感を「文」と言うのでしょう。
 そこでさて、最初に還って「修辞」の「修」ですが、『大漢和辞典』を引いてみると、「修」には、第一に「おさめる、おさまる、ととのえる、ととのう」という字義が掲げられ、次いで「つくろう、なおす」が掲げられ、その次に「かざる」がきています。ここから推せば、『易』の「辞を修めて其の誠を立つ」の「修めて」は、明らかに「かざって」ではなく「ととのえて」であると理解できるでしょう。吉川氏も別途、朝日文庫の『論語 』では、『易』の「辞を修めて其の誠を立つ」は、言葉をととのえて誠実さを打ち立てる意であると説いています。

 次いで、「(8)『古文辞』の優越の理由のその三、含蓄」です。
 ――「古文辞」の優越の理由として、彼の主張するものは、更にある。種々の方向へと伸びるべき意味の可能性を、渾然と未分裂に包括した文体であることである。「訳文筌蹄」の「題言」に、「含蓄多くして、余味有り」。「題言」には更にいう、そうした文体のゆえに、「古文辞を熟読する者には、つねに数十の路径有り」。意味が数十の方向に放射される。しかも秩序をもった放射であって、「心目の間に瞭然として、条理みだれず」。ゆえに「読んで下方に到るに及んで、数十の義趣、漸次にはためかず、篇を終るに至りて、一路に帰宿す」。光彩陸離と放射された数十の路線が、やがて篇末に至って、はっきり焦点をむすぶ。それが「古文辞」である。後世の文章は、議論の分析を事とするため、放射するものは、ただ一本の線である。そればかり読んでいる人間は、「だ一条の路径を見るのみ」。要するに「古文辞」は、その「修辞」のゆえに、包括的な、ひきいだされるべきすべての可能性を内蔵するところの濃密な文章である。……

 次いで、「(9)古代の事実の一般的にもつ含蓄」です。
 ――「訳文筌蹄」の「題言」には、「含蓄」はこのように古来の文章である「古文辞」の属性であるばかりでなく、古代の事実一般の属性であるとする思考が、言及されている。つまり古代の事実は、人間の事実の原形であり、後代の諸事実は、原形である古代の事実の中に含蓄されていたものの変化であるにすぎない。いいかえれば、後代の諸事実は、新しいように見えるものも、古代の事実を研究すれば、みなその中に未分裂のものとして含蓄されているとするのである。だから学問の方法は、まず古代の事実を押えてこそ、後代の事実がわかるのであり、文章の勉強もまた、「古文辞」からはじめねばならぬ。たとい含蓄のゆえに読みにくくとも、むしろ読みにくいゆえに、そこからはじめねばならぬ……

 次いで、「(10)『古文辞学』の目的」です。
 ――こうして「古文辞」のみならず古代の事実は、後代に分裂した事実のすべてを含蓄する。ゆえにまず根本である「古」を押えよと、「訳文筌蹄」の「題言」は説きおこすのであり、同様の思考は、竹春庵あての書簡の一つにも見える。「且つ古なる者は本也、今なる者は末也」。ゆえに「流れに滞る者は、何んぞ其の源をらんや。後世の載籍は海の如し」、後世の書物は無数である。その中に沈没していては、「能く為す莫き也」、どうにもならない。「孔子も泰山に登りてのち天下を小さしとす」でないか。しかしこのように「古文辞」あるいは古代の研究からはじめるのは、なお学問の方法であって目的ではない。時間空間を超えてことならない人間の事実を、「古文辞」の研究によって確認し、ほりさげること、それこそが学問の帰結であるとする主張、それが「訳文筌蹄」の「題言」の結語となっている。……
 ――古今という時間、天地人という空間、その差違を超えて、パイプを通すのを学者の任務とする。私はそれをやる。「故に華と和とを合して之れを一つにす、是れ吾が訳学」。まず日本と中国の間にパイプを通すのである。そうして今や、「古今を合して之れを一つにす、是れ吾が古文辞学」。そう宣言する。……

 次いで、「(11)『古文辞学』の方法」です。
 ――ではどうしてパイプを通すか。「古文辞」の中に、自己を投入するのである。「古文辞」の通りの文体で、みずからの文章を書く。ことに「古文辞」の書の成句を、李王がしたように、自分が表現しようとする事態の表現として、せいぜい転用することが望ましい。これを摸擬であり剽窃ひょうせつであると評する者が、李王の周辺にも徂徠の周辺にもあった。堀景山あての書簡に彼は昂然と居直っていう、すべての学問は、そもそも模倣ではないか。またそもそも日本人が中国語を書くということが、模倣でないか。いかにもはじめのうちは、模倣であり剽窃であるかも知れない。しかし「久しく之れと化すれば」、「習慣は天性の如く」なり、「外り来たるといえども」、むこうにあったものが、「我れと一つと為る」。それがいやなら、学問などせぬがよい。「故に摸擬をとがむる者は、学の道を知らざる者也」……

 次いで、「(12)『古文辞学』の資料」です。
 ――ではこのように古今に通ずる「古文辞学」のパイプのむこうの口となる文献は、何何か。結論をさきに言えば、西洋紀元以前、つまり前漢以前の文献は、みなそれである。李王のいわゆる「文は則ち秦漢」が、すでにその意味であるが、徂徠の場合は、「世は言を載せて以って遷る」という思考の上に、前漢までは「先王の道」が確乎と存在した「世」、あるいはその延長であった「世」であるゆえに、みな事実と密着した修辞であるとする説明が、やがて「先王の道」への思考を深めたのちには加わる。……
 ――「六経りっけい」が最上の「古文辞」であることは、いうまでもない。「六経」を編定したのは孔子であって、孔子は、尭舜ら七人の「先王」のごとく「道」の作為者たる地位にいなかったけれども、このように「六経」を編定し、「先王の道」を後世に伝えることによって、作為者たる「先王」と同じく「聖人」の呼称を受ける。……
ここにもいま一度、記しておきましょう、「六経」とは儒学の根幹となる六種の経書けいしょで、『書経』『詩経』『礼記』『楽記』『易経』『春秋』を言います。しかし『楽記』は、秦の始皇帝による言論統制政策「焚書坑儒」の犠牲となって滅びたとされています。
 
          5

 吉川幸次郎氏の「徂徠学案」の引用は、ここでひとまず措きます。引用、と言い、ひとまず、と言うには随分多量に引きましたが、私としては、小林先生が、
 ――仁斎の「古義学」は、徂徠の「古文辞学」に発展した、古文から直接に古義を得ようとする努力が継承された。……
 と言ったあと、すぐに続けて、
 ――これを、古典研究上の歴史意識の発展と呼ぶのもよいだろうが、歴史意識という言葉は「今言」である。今日では、歴史意識という言葉は、常套語に過ぎないが、仁斎や徂徠にしてみれば、この言葉を摑む為には、豪傑たるを要した。藤樹流に言えば、これを咬出かみだした彼等の精神は、卓然として独立していたのである。……
と言われている徂徠の歴史意識、それがどういうもので、どういうふうに徂徠はこれを摑み、咬出したのか、そこを徂徠の足跡に即して見届けたいと希ったのが最初でしたが、私の希いはただちに叶えられました。徂徠は四十歳の頃、中国、明の李攀竜、王世貞との邂逅に恵まれ、同じ中国語でありながらそれまでなじんでいた宋の詩文とはまったく異なる言葉の世界、すなわち古文辞の世界が広がっていることを知りました。
 この古文辞との出会いによって、徂徠は言葉も変遷するということに気づき、「而うして後に辞に古と今と有るを知る焉」、言葉にも古言と今言とがあると知ったのです。こうした徂徠の思考は、たとえ完全な創見とは言えないにしても一つの画期だったのではないかと吉川氏は言っています。その徂徠の画期的な発明は、まさに小林先生の言う卓然として独立していた豪傑たる精神の賜物であり、こうして徂徠に備わった古典研究上の歴史意識には、なるほど宋儒を斥けて古義学を打ち立て、「論語」の面目一新、孔子の本領鼓吹に生涯を捧げた伊藤仁斎の歴史意識からの発展が明らかに見て取れ、同じく小林先生の言うとおり、仁斎の歴史意識も「道とは何かという問いで緊張していた精神」によって着色されていました。そのことが、吉川氏の「徂徠学案」を読み進めるにつれてどんどん明確になり、精緻になり、気づいてみればこれほどの量にも達する引用、否、引用という以上の引き写しとなっていました。

 通常のエッセイや学術論文であれば、次にはこの引き写しを要約し、それなりの論を付して徂徠の「歴史意識」の研究報告ともする局面ですが、私は敢えてその要約を行わず、この引き写しをこのまま読者のお目にかけようと思います。なぜなら、一度は吉川氏の文章の要約にかかろうとした私の手を、吉川氏自身が制したからです。吉川氏は、「徂徠学案」の「(2)注釈の否定」で言っていました、すべて言い換えは破壊である……、と言うことは、吉川氏の文章の要約も氏の文章の「破壊」になるのです、この「徂徠学案」の言葉がまざまざと甦り、私はただちに思い当りました、吉川氏の文章は、荻生徂徠という事実を叙した「修辞」なのだ、だからこの文章を縮約したり要約したりすれば、たちまち徂徠はいなくなってしまうのだ。私が徂徠に関して何かを言おうとするなら、私の文章に吉川氏の文章をそのまま取りこむ、これを言い換えれば、拙いながらも私の徂徠経験を、ということは、小林先生に教えられて得た私の徂徠像を、吉川氏の文章に充填する、こうすることによってこそ私は吉川氏の説くところを、すなわち徂徠が李攀竜、王世貞に教わった古文辞の読み方を体翫できる……、そう思った瞬間に、吉川氏の文章の要約ということは私の念頭を去ったのです。
(第十六回 了)