小林秀雄「本居宣長」を読む(十四)

小林秀雄「本居宣長」を読む(十四)
第九章 承前  「独」の学脈 伊藤仁斎
池田 雅延  
        

 第九章は、後半部に入って次のように言われます。
 ――仁斎は「語孟」への信を新たにした人だ、と先きに書いたが、彼の学問の精到は、「語孟」への信が純化した結果、「中庸ちゅうよう」や「大学」の原典としての不純が見えて来た、という性質のものであった。「大学非二孔氏之遺書一弁」は、「語孟字義」に附された文だが、その中で仁斎はこう言っている。「学者イヤシクコノ二書(「論語」「孟子」)ヲ取ラバ、沈潜反復、優游イウイウ饜飫エンヨコレヲ口ニシテ絶タズ、之ヲ手ニシテカズ、立テバスナハチ其ノ前ニ参ズルヲ見、輿ニ在レバ則チ其ノカウルヲ見、其ノ謦欬ケイガイクルガ如ク、其ノ肺腑ハイフルガ如ク、手ノ之ヲ舞ヒ、足ノ之ヲ踏ムコトヲ知ラズ。シカル後ニ、ク孔孟ノ血脈ヲリ、衆言ノカウランスルモ、惑ハサレザルヲ得ン」。……
 「仁斎」は伊藤仁斎、「語孟」は「論語」と「孟子」ですが、「論語」は孔子と弟子たちの言行録、「孟子」は孔子の思想を継承した孟子の言行を弟子たちが編纂した書で、「学者イヤシクコノ二書ヲ取ラバ」は、学者たる者、仮にも「論語」「孟子」を手にしたなら、「沈潜反復、優游イウイウ饜飫エンヨ」、深く没頭して繰り返し繰り返し、時間をかけて心ゆくまで読み、「コレヲ口ニシテ絶タズ、之ヲ手ニシテカズ」、その文言を始終口にし、その書を片時も手放さず、「立テバスナハチ其ノ前ニ参ズルヲ見」、立てば即座に孔子と孟子の目の前にいるような気持ちになり、「輿ニ在レバ則チ其ノカウルヲ見」、牛車や馬車に乗ったときは一目でくびきながえ、すなわち牛車、馬車の前に長く出した二本の棒の先端につけて牛馬のくびの後ろにかける横木)があってこそと思い、「其ノ謦欬ケイガイクルガ如ク、其ノ肺腑ハイフルガ如ク」、ついには孔子の、そして孟子の謦咳けいがいに接するかのようになり、ということは、孔子と孟子の肉声を直接聞くかのようになり、さらには心の奥底を視るかのようになって、「手ノ之ヲ舞ヒ、足ノ之ヲ踏ムコトヲ知ラズ」、思わず手を打ったり足踏みしたりし、こうして孔子から孟子へと伝わった儒教と儒学の動脈をってみると、世人の尤もらしい言いぐさがどんなに入り交じって乱れ飛んでいてもそれらに惑わされることはなくなる、そういうところまで行かねばならない、と仁斎は言うのです。語調は学問の後輩たちへの訓戒もしくは発破ですが、これらのすべて、仁斎自身の体験そのものだったでしょう。
 続けて小林先生は言います。
 ――仁斎は、その批判的な仕事の物差を持っていたわけではない。孔孟の血脈を自得した喜びが、自分の仕事の原動である事を固く信じた。「語孟」の字義の分析的な解は、この喜び自体の分化展開であったと見てよい。……
 「『語孟』の字義の分析的な解」は、孟子の主著である『語孟字義』をさして言われていますが、要は「論語」「孟子」の語意の究明です、しかしこれらは仁斎にとっては二の次でした、第一にあったのは、孔子から孟子へと伝わった学問の動脈を、自力で会得した喜びでした、この喜びが仁斎の学問の原動力となっていました、だから仁斎は、
 ――この喜びを知らぬ学者は、「センヲ認テ魚トシ、テイヲ取テ以テウサギト為ス」徒に過ぎず、そのような「語録精義等ノ学ハイタヅラニ訓詁之雄ノミ、何ゾ以テ学トスルニ足ラン」(「読二宋史道学伝一」)と笑っている。……
 「セン」は魚を捕る道具、「テイ」は兎を捕える罠で、「センヲ認テ魚トシ、テイヲ取テ以テウサギト為ス」は漁獲や狩猟の道具を得ただけでもう魚や兎を捕えた気になっている輩の愚かさを言い、「語録精義」の「語録」はここでは宋、明以後の中国で見られるようになった儒者や高僧の言葉を記録した書物のことで、たとえば朱熹しゅきに「近思録」、王陽明に「伝習録」などがありますが、「精義」はそれらについての詳しい講義を言い、「訓詁之雄」の「訓詁」は文章全体の意義には説き及ばず部分的に文字や語句を説明することで、「雄」は優れている者、傑出している者、ですが、ここでは雄は雄でも訓詁という低くて狭い領分での優れ者、ただそれだけのことだと仁斎は蔑視し、「語録」精義はとても学問とは言えないと吐き捨てるように言っています。
 では、学問は、どうあるべきなのでしょうか。
         
        

 ――彼の考えによれば、書を読むのに、「学ンデ之ヲ知ル」道と「思テ之ヲ得ル」道とがあるので、どちらが欠けても学問にはならないが、書が「含蓄シテアラハサザル者」を読み抜くのを根本とする。書の生きている隠れた理由、書の血脈とも呼ぶべきものを「思テ得ル」に至るならば、初学の「学ンデ知ル」必要も意味合も、本当にわかって来る。この言わば、眼光紙背に徹する心の工夫について、仁斎自身にも明瞭な言葉がなかった以上、これを藤樹や蕃山が使った心法という言葉で呼んでも少しも差支えはない。心法という言葉は、宋学伝来以来の所謂「儒釈不二」の考えの伝統の中から、藤樹が拾い上げ、悟道者流の臭気を払底ふっていして、その意味を全く新たにしたものだ。……
 書が「含蓄シテアラハサザル者」、とは、その書の著者が敢えて明言しなかったこと、あるいは、思わせぶりに留めたこと、というのではありません、著者は、懸命に、なんとか言葉にしようと脳漿のうしょうを絞ったのです、しかし、とうとう言葉にしきれなかった、それほどに微妙で、奥深い事柄です。そういう事柄は、誰かに「学んで知る」ことはできません、自分自身の力で「思って得る」、すなわち、想像力を駆使して思い描く、それしか著者の苦心に行き着く道はありません。そしてその著者の苦心こそは、書の生きている隠れた理由、書の動脈とも呼ぶべきものなのです。
 こういうふうに仁斎の考えを跡づけてみれば、訓詁に頼るのは「学ンデ之ヲ知ル」でしょう、「思テ之ヲ得ル」こそが「独学」でしょう。

 ところが、この「思って得る」にも、落とし穴があります、その落とし穴に次々と落ちたのが、仏教の奥義に行き着こうとして逸った悟道者たちです。
 ――蕃山が面白い事を言っている。「古今異学の悟道者と申は、上古の愚夫愚婦なり。上古の凡民には狂病なし。其悟道者には此病あり。まづ地獄極楽とて、なき事をつくりたるにまよひ、又さとりとて、やうやう地獄極楽のなきといふことをしりたるなり。無懐ブクワイ氏の民には、本より此まよひなし。是を以て、さとり得て、はじめて、むかしのたゞビトになると申事に候。たゞ人なれば、せめてにて候へども、其上に自満出来て、人は地獄に迷ふを、我は迷はずとおもひぬれば、地獄のなきと云一事を以て、何をもかをもなしとて、いみはゞかる所なく候。儒仏共に、世中にコノ無のケンはやりものにて候」(「集義和書」巻二)……
 「無懐氏」は中国古代の伝説上の皇帝で、彼が治めた国は理想的な平和郷であったとされていますが、無懐氏の民とはちがって一日も早く仏教の奥義に行き着こうとした日本の求道者、悟道者は地獄・極楽ということを考え出し、しかしそこにも迷いが生じて地獄・極楽などはないとようやくにして知ったもののこんどは自満、驕り高ぶる心が生じ、世間はまだ地獄というものに迷っているが自分はもうそうではないと増長して地獄などは無いと言い、この「無い」に輪をかけて何もかも無いのだと主張する「無の見」を唱えて流行らせましたが、
 ――東涯とうがいが父親を語ったところ(「先府君古学先生行状」)によると、仁斎も青年時代、この「はやりもの」に、真剣な関心を持ったようだ。「カツテ白骨ノ観法ヲ修ス、之ヲ久クシテ、山川城郭コトゴトク空想ヲ現ズルヲ覚ユ、既ニシテ其ノ是ニアラザルヲサトリ醇如ジュンジョタリ」とある。……
 「白骨ノ観法」は、仏教、特に禅宗で重視した不浄観のひとつで、現世への欲望を断ち切る修行法です。人間の死体が膨張、変色、腐敗、崩壊して白骨になるまでを繰り返し心に思い浮かべるというのですが、しかし仁斎は、この「白骨ノ観法」は道理にかなっていないと悟ってすっきりしたと言うのです。そして、
 ――やがて「宋儒性理之説」の吟味に専念したが、宋儒の言う心法も「明鏡めいきょう止水しすい」に極まるのに、深い疑いを抱き、これを「仏老之緒余ショヨ」として拒絶するに至った。藤樹が心法を言う時、彼は一般に心の工夫というものなど決して考えてはいなかった。心とは自分の「現在の心」であり、心法の内容は、ただ藤樹と「たゞの人」だけで充溢じゅういつしていたのである。仁斎の学問の環境は、もう藤樹を取囲んでいた荒地ではなく、「訓詁ノ雄」達に満ちていたが、仁斎にとっても、学問の本旨とは、材木屋のせがれに生れた自分に同感し、自得出来るものでなければならなかった。彼は、孤立した自省自反の道を、一貫して歩いたのだが、言うまでもなく、彼の内観の世界が、自慢で閉じなかったのは、古典という研究の対象に向って常に開かれていたからである。……
 「宋儒性理之説」の吟味――、仁斎の本舞台、古義学の幕がきます。仁斎にとって学問は、何を措いても材木屋のせがれに生れた仁斎自身が自分に同感し、自得出来るものでなければなりませんでした。ところが「宋儒性理之説」は、人間誰もが目ざさなければならないとする「心の工夫」を強制的に説き、その根拠を宇宙においていました。

 しかし、小林先生は、「心の工夫」の吟味から「宋儒性理之説」の吟味へ単刀直入には行かず、「もう少し仁斎の言うところを聞こう」と前置きして仁斎の「同志会筆記」を繙きます。

        

 ――「同志会筆記」で、自ら回想しているところによると、彼は十六歳の時、朱子の四書を読んで既にひそかに疑うところがあったと言う。「熟思体翫」の歳月を積み、三十歳を過ぎる頃、ようやく宋儒を抜く境に参したと考えたが、「心ヒソカニ安ンゼズ。又之ヲ陽明、近渓等ノ書ニ求ム。心ニ合スルコト有リトイヘドモ、益々安ンズルアタハズ。或ハ合シ或ハ離レ、或ハ従ヒ或ハ違フ。其幾回ナルヲ知ラズ。是ニ於テ、悉ク語録註脚ヲ廃シテ、直ニ之ヲ語孟二書ニ求ム。寤寐ゴビヲ以テ求メ、ヲ以テ思ヒ、従容ショウヨウ体験シテ、以テ自ラ定ルコト有リテ醇如タリ」、私が繰返すのではない、仁斎自身が、自著の到るところで、繰返している事だ。「孔孟之学、註家ニ厄スルコト久シ」、自分には註脚を離脱する事がどんなに難かしい事であったかを、彼は繰返し告白せざるを得なかったのである。「語孟字義」が、一時代をかくした学問上の傑作である所以は、彼がとうとうそれをやり遂げたところにある。…… 
 「朱子の四書」は、中国南宋の儒学者、朱熹が、「礼記」の中の「大学」「中庸」と「論語」「孟子」を四書と呼び、儒学の枢要書と位置づけて、これらに関わる註釈を集成した「四書集注」のことです。また「宋儒」は朱熹ら中国宋代の儒者を言い、「陽明」「近渓」は中国明代の陽明学者です、「寤寐ゴビヲ以テ」は、寝ても覚めても、「ヲ以テ」は、一足ごとに、「従容ショウヨウ」は焦ることなくじっくりと、「自ラ定ルコト有リテ醇如タリ」は、おのずからこうだと合点することがあってすっきりした、です。
 ――彼は、ひたすら字義に通ぜんとする道を行く「訓詁ノ雄」達には思いも及ばなかった、言わば字義を忘れる道を行ったと言える。先人の註脚の世界のうちを空しく摸索して、彼が悟ったのは、問題は註脚の取捨選択にあるのではなく、凡そ註脚の出発した点にあるという事であった。世の所謂孔孟之学は、専ら「学ンデ知ル」道を行った。成功を期する為には、「語孟」が、研究を要する道徳学説として、学者に先ず現れている事を要した。学説は文章から成り、文章は字義からなる。分析は、字義を綜合すれば学説を得るように行われる。のみならず、この土台に立って、与えられた学説に内在する論理の糸さえ見失わなければ、学説に欠けた論理を補う事も、曖昧な概念を明瞭化する事も、要するにこれを一層精緻せいちな学説に作り直す事は可能である。……
 ――宋儒の註脚が力を振ったのは其処であった。仁斎が気附いたのは、「語孟」という学問の与件は、もともと学説というようなものではなく、研究にはまことに厄介な孔孟という人格の事実に他ならぬという事であった。そう気附いた時、彼は、「独リ語孟ノ正文有テ、未ダ宋儒ノ註脚有ラザル国」に在ったであろう。ここで起った事を、彼は、「熟読精思」とか、「熟読翫味」とか、「体験」とか「体翫」とか、いろいろに言ってみているのである。……
 学問の与件、すなわち学問の出発点として存在している事実としての「論語」、「孟子」は、もともと学説というようなものではなく、孔子、孟子という人格の事実に他ならぬと仁斎は気づきました。だからこそ、「学者イヤシクコノ二書(「論語」「孟子」)ヲ取ラバ、沈潜反復、優游イウイウ饜飫エンヨコレヲ口ニシテ絶タズ、之ヲ手ニシテカズ、立テバスナハチ其ノ前ニ参ズルヲ見、輿ニ在レバ則チ其ノカウルヲ見、……」と言うほどに「論語」と「孟子」を熟読して孔子と孟子に会いに行ったのです。
 そしてその仁斎の気構えが、ついには、「其ノ謦欬ケイガイクルガ如ク、其ノ肺腑ハイフルガ如ク、手ノ之ヲ舞ヒ、足ノ之ヲ踏ムコトヲ知ラズ。……」と言うほどの出会いに達したのですが、ここをさらに仁斎は、「熟読精思」とか、「熟読翫味」とか、「体験」とか「体翫」とか、いろいろに言ってみていると小林先生は言っています。こうして自分の学問の気構えと体験、それをどう言い表すかに腐心しているところにも仁斎が自分の学問のあり方を確かめ、深めていっていた生気と覇気が感じられます。
 これに反して、朱熹に代表される宋儒は、孔子にも孟子にも会いに行こうとはしませんでした。「論語」も「孟子」も、頭で解釈するだけでした。しかし彼らの「頭の解釈」は、並大抵どころの話ではなかったのです。

        

 「論語」は、孔子の言行や、孔子と弟子たちとの対話が記録された本ですが、孔子の死後、弟子たちによって一書に編纂されて以来二〇〇〇年以上にもわたって読み継がれた結果、その周辺にはありとあらゆる訓詁や註釈が堆積し、「論語」の原文はそれらの訓詁、註釈に押しひしがれんばかりになっていました。そこへ、朱熹の「論語集注しっちゅう」が現れたのです。
 朱熹は、中国の南宋時代に新しい儒学である宋学を集大成しましたが、彼自身の儒学の体系は朱子学と呼ばれ、宋学と言えば朱子学をさすまでになっていました。ではその朱子学とは、どういう学問であったか、ひとまずは子安宣邦氏の『仁斎 論語』(ぺりかん社)等に教わりながら概観してみます。
 朱子学は、「性理学」とも呼ばれました。「性」とは人に備わっている生まれつきの性質のことですが、朱熹は、宇宙は存在としての「気」と、存在の根拠や法則としての「理」とから成るとし、人間においては人それぞれの気質の性が「気」であるが、人間誰にも共通する本然の性に「理」が備わっているとして「性即理」の命題を打ち立てました。人はこうしてその存在理由と根拠とをもっている、天も根拠をもっている、それが「天理」である、人は天理を本然の性として分かちもっており、これが「性即理」ということである、そしてこの「理」の自己実現が、人間すべての人生課題であると言い、こうして朱子学は「理気論」をもって宇宙論的に人間を包括し、誰も彼もひっくるめて理解しようとしました。
 さらには、この「理気論」に「体用論」が加わっていました。「体」とは本体、「用」とは作用です。人の本体として主宰的性格をもつのは心であり、人の運動的契機としての身は用である。心もその本体をなすものは性であり、心が動いて発現するのが情である。「理」と「気」も、「体」と「用」も、万事万物がもつ二つの契機であり、その間に優劣はないが、本体論的、本来主義的な構えを基本とする朱子学においては「理」が「気」に対して、「体」が「用」に対して、心が身に対して、性が情に対して、静が動に対して、それぞれ優越することになります。ここから朱子学は、人間は心の本来的な静によって、外から誘発される動を抑制せよという、禁欲的かつ修身的傾向を強く帯びていました。
 そして朱熹は、「論語」をはじめとする経書もこの立場から解釈し、「論語」に関しては「論語集注」を著しました。日本には鎌倉時代に伝えられ、室町時代には広く学ばれるようになっていましたが、江戸時代になると幕府が朱子学を官学として保護したこともあり、「論語」の読み方は「論語集注」によって規定されるまでになっていました。
 しかし仁斎は、二十代の後半、身体が衰弱し、何かに驚いて動悸が激しくなるという病を得、首をし机によったきりで約十年、門庭を出ることなく外部との交渉を断ちました。この十年があったことにもよって仁斎は、朱子学が人間を抑圧する思想の体系であると感じとり、三十代に至って朱子学からの離脱を決意したのです。そこを小林先生は、東涯が父親を語った「先府君古学先生行状」によってこう言ったのです、仁斎も青年時代、
 ――「宋儒性理之説」の吟味に専念したが、宋儒の言う心法も「明鏡止水」に極まるのに深い疑いを抱き、これを「仏老の緒余」として拒絶するに至った。……
 「仏老」は仏教と老子、「緒余」は残りもの、あるいは端切はぎれです、要するに朱子学は、仏教や老荘思想の亜流に過ぎないと仁斎は見たのです。
 「明鏡止水」は、澄みきった静かな心境を言う言葉ですが、そういう心境を掲げて修身を説く朱子学を仁斎は疑いました。なぜでしょうか。
 小林先生は言っていました、――仁斎にとっても、学問の本旨とは、材木屋のせがれに生れた自分に同感し、自得出来るものでなければならなかった……。仁斎が「論語古義」に生涯をかけた気概の源泉はここにありました。仁斎は、自分の註釈を「生活の註脚」と呼びましたが、仁斎は、人間の道、すなわち人間の生き方は、「理」だの「気」だのを振りかざして宇宙に求めたところで得られるものではない、いつの世にも変ることなく万人にあてはまる望ましい生き方は、我々人間の日常にある、平常にあるとして、それを「論語」に見出そうとしたのです。
 小林先生は、第八章で、
 ――「藤樹先生行状」によると、藤樹は十一歳の時、初めて「大学」を読み、「天子ヨリ以テ庶人ニ至ルマデ、壱是イツシニ皆身ヲ修ムルヲ以テ、本ト為ス」という名高い言葉に至って、非常に感動したと言う。「嘆ジテ曰ク、聖人学デ至ルベシ。生民ノタメニ、此経ヲ遺セルハ、何ノ幸ゾヤ。コヽニヲイテ感涙カンルイ袖ヲウルヲシテヤマズ。是ヨリ聖賢ヲ期待スルノ志アリ」と「行状」は記している。伝説と否定し去る理由もないのであり、大洲の摸索時代の孤独な感動が人知れぬ工夫によって、後に「大学解」となって成熟する、むしろそこに藤樹の学問の特色を認める方が自然であろう。……
 と言い、最後に、
 ――藤樹に「大学」の読み方を教えたのは、彼自身の生活であった。……
 と言っていました。
 そして、第九章の冒頭で、
 ――宣長を語ろうとして、契沖から更にさか上って藤樹に触れて了ったのも、慶長の頃から始った新学問の運動の、言わば初心とでも言うべきものに触れたかったからである。社会秩序の安定に伴った文運の上昇に歩調を合せ、新学問は、一方、官学として形式化して、固定する傾向を生じたが、これに抗し、絶えず発明して、一般人の生きた教養と交渉した学者達は、皆藤樹の志を継いだと考えられるからだ。それほど、藤樹の立志には、はっきりと徹底した性質があった。……
 と言っていました。
 今一度繰り返せば、ここで言われている「発明」は、何事であれこの世の物事のそれまで表面には現れていなかった道理や意義等を明るみに出す意の「発明」です。「教養」については「読書週間」(「小林秀雄全作品」第21集所収)で、大意、こう言われています、
 ――教養とは、生活秩序に関する精錬された生きた智慧を言うのでしょう、これは、生活体験に基いて得られるもので、その人の口のきき方だとか挙動だとかに、自ら現れる言い難い性質がその特徴であって、教養のあるところを見せようというような筋のものではあるまい。……
 「本居宣長」第九章で言われている「教養」もまったく同じです。日常の「生活体験に基いて得られ」た、「生活秩序に関する精錬された生きた智慧」のことです。
 藤樹は、そういう一般人の生きた教養とまっさきに交渉しました、仁斎は紛れもなく藤樹の志を継いだのです。                              

 小林先生は、中江藤樹から伊藤仁斎へという日本の近世の学脈は、「心法」という言葉によって貫かれていると見、その心法とは文字を読むときの心ではなく、絵を見るときの心だと言っていますが、その「心法」は、藤樹では「体認」と言われていました、それが仁斎では「体翫」になります。「体翫」の「翫」は「翫味」「賞翫」などとも言われるように、深く味わう意です。そうであるなら「体翫」は、身体で味わう、ということになりますが、仁斎は生涯、「熟思体翫」の歳月を積み続けました。
 仁斎は、「体翫」の他にもいろいろに言って、自分自身の書の読み方の気味合をなんとか摑み取ろう、伝えようとしているのですが、私池田は、やはり「体翫」に強く魅かれます。中江藤樹は「体認」と言っていました。近世の学問の夜明けを担った藤樹と仁斎が、ともに「体」で味わい「体」で会得すると言っているところに彼らの学問のひときわ高い鼓動を聞く思いがします。それは、小林先生が、「本居宣長」を『新潮』に連載し始めるちょうど四年前、『文藝春秋』に「考えるヒント」の一篇として「学問」(同第24集所収)を書いて、そこで次のように言っていたことにもよります。
 ――仁斎の言う「学問の日用性」も、この積極的な読書法の、極く自然な帰結なのだ。積極的という意味は、勿論、彼が、或る成心や前提を持って、書を料理しようと、書に立ち向ったという意味ではない。彼は、精読、熟読という言葉とともに体翫という言葉を使っているが、読書とは、信頼する人間と交わる楽しみであった。「論語」に交わって、孔子の謦咳を承け、「手ノ之ヲ舞ヒ、足ノ之ヲ踏ムコトヲ知ラズ」と告白するところに、嘘はない筈だ。この楽しみを、今、現に自分は経験している。だから、彼は、自分の「論語」の註解を、「生活の註脚」と呼べたのである。……
 読書とは信頼する人間と交わる楽しみであり、「体翫」とは信頼する人間と深く交わる楽しみなのです。「註脚」は本文の間に小さく二行に分けて入れた註釈で、「割注」とも言われています。
                               
        

 こうして仁斎は、「論語古義」に四十余年をかけました。三十歳を過ぎて朱子学を疑い、三十六歳で古義学を創始しましたが、「論語古義」の起稿もこの時期と見られています。と言うより、「論語古義」の起稿をもって古義学の創始と見られていると言うべきでしょうか。四十歳の頃に初稿が成りましたが、以後、七十九歳で没するまで補筆修訂を施し続け、多種の稿本が現在まで伝わっていると言われます。「稿本」は手書きの草稿です。生前最後の稿本では、各巻の内題が「最上至極宇宙第一 論語巻之一」などとなっていて、そこを小林先生は、次のように言っています。
 ――仁斎は、「童子問」の中で、「論語」を「最上至極宇宙第一書」と書いている。「論語」の註解は、彼の畢生の仕事であった。「改竄補緝カイザンホシフ、五十霜ニ向ツテ、稿オホヨソ五タビカハル、白首紛如タリ」(「刊論語古義序」)とは、東涯の言葉である。古義堂文庫の蔵する仁斎自筆稿本を見ると、彼は、稿を改める毎に、巻頭に、「最上至極宇宙第一書」と書き、書いては消し、消しては書き、どうしたものかと迷っている様子が、明らかに窺えるそうである。私は見た事はないが、かつてその事を、倉石武四郎氏の著書で読んだ時、仁斎の学問の言わば急所とも言うべきものは、ここに在ると感じ、心動かされ、一文を草した事がある。……
 「五十霜ニ向ツテ」は五十年ちかくに及び、「稿オホヨソ五タビカハ」は草稿は五度書き改められた、です。倉石武四郎氏は明治三十年生れの中国語学者、文学者で、昭和二十四年刊の『口語訳 論語』の「はしがき」でこの仁斎の逸話にふれています。
 またここで小林先生が言っている「一文」は昭和三十三年十一月に発表された「『論語』」(「小林秀雄全作品」第22集所収)ですが、この「一文」には後ほど詳しくふれることとし、再び「本居宣長」の本文に戻ります、「本居宣長」は第十章に入っていて、次のように続いています。
 ――「論語古義」が、東涯によって刊行されたのは、仁斎の死後十年ほど経ってからだ。刊本には、「最上至極宇宙第一書」という字は削られている。「先府君古学先生行状」によると、そんな大袈裟な言葉は、いかがであろうかというのが門生の意見だったらしく、仁斎は門生の意見を納れて削去したと言う。そうだっただろうと思う。彼は穏かな人柄であった。穏かな人柄だったというのも、恐らくこの人には何も彼もがよく見えていたが為であろう。「論語」が聖典であるとは当時の通念であった。と言う事は、言うまでもなく、誰も自分でそれを確めてみる必要を感じていなかったという意味だ。ある人が、自分で確めてみて驚き、その驚きを「最上至極宇宙第一書」という言葉にしてみると、聖典と聞いて安心している人々の耳には綺語と聞えるであろう。門生に言われるまでもなく、仁斎が見抜いていたのは、その事だ。この、時代の通念というものが持った、浅薄で而も頑固な性質であった。彼にしてみれば、「最上至極宇宙第一書」では、まだ言い足りなかったであろう。まだ言い足りないというような自分の気持が、どうして他人に伝えられようか。黙って註解だけを見て貰った方がよかろう。しかし、どう註解したところで、つまりは「最上至極宇宙第一書」と註するのが一番いいという事になりはしないか。そんな事を思いながら、彼は、これを書いては消し、消しては書いていたのではあるまいか。恐らくこれは、ある人間の立派さを、本当に信ずる事が出来た者だけが知るためらいと思われる。軽信家にも狂信家にも、軽信や狂信を侮る懐疑家にも亦、縁のないためらいであろう。……
 ――「論語古義」の「総論」に在るように、仁斎の心眼に映じていたものは、「其ノ言ハ至正至当、徹上徹下、一字ヲ増サバスナハチ余リ有リ、一字ヲ減ズレバ則チ足ラズ」という「論語」の姿であった。「道ハ此ニ至ツテ尽キ、学ハ此ニ至ツテキハマル」ところまで行きついた、孔子という人の表現の具体的な姿であった。この姿は動かす事が出来ない。分析によって何かに還元できるものでもなく、解釈次第でその代用物が見附かるものでもない。こちら側の力でどうにもならぬ姿なら、これを「其ノ謦咳ケイガイクルガ如ク、其ノ肺腑ハイフルガ如ク」というところまで、見て見抜き、「手ノ之ヲ舞ヒ、足ノ之ヲ踏ムコトヲ知ラズ」と、こちらが相手に動かされる道を行く他はないのである。……

 そこでさて、先の引用のなかに、「一文を草した」とあった一文、「論語」には、こう書かれています。
 ――伊藤仁斎は「論語」の注釈を書いた時、巻頭に、「最上至極宇宙第一」と書いたという。仁斎の原稿は、今も天理図書館に、殆ど完全に保存されていて、それを見ると、「最上至極宇宙第一」の文字は、消されては書かれ、書かれては消されて、仁斎がこの言葉を注釈に書き入れようか、入れまいかと迷った様が、よく解るそうである。私は、かつて、この話を、倉石武四郎氏の著書で読んだ時に、心を動かされたのを覚えている。こういう話から、昔の儒者は、仁斎のような優れた儒者でさえ、「論語」という一人の人間の言行録を、天下の聖典と妄信していた、と考えるのは、浅はかなことであろう。「論語」という空文を、ただわけもなく有難がっていた儒者はいくらでもいたが、仁斎のように、この書を熟読し、異常な感動を体験した人は稀れであったと見るのがよいと思う。恐らく、仁斎は、なるほど世間では、皆、「論語」を最上の書と口では言っているが、この書を読んだ自分自身の感動を持っている人は一人もいないことを看破したのである。彼は、自分の感動を、どういう言葉で現していいか解らなかった。考えれば考えるほど、この書は立派なものに思えて来る。自分の実感を率直に言うなら、最上至極宇宙第一の書と言いたいところだが、そんなことを言ってみたところで、世人は、いたずらに大げさな言葉ととるであろう。仁斎は迷い、書いては消し、消しては書いた。そんな風に想像してみても、間違っているとは思えない。恐らく、仁斎は、「論語」という書物の紙背に、孔子という人間を見たのである。「論語」の中に、「下学シテ上達ス」という言葉がある。孔子は自分の学問は、何も特別なことを研究したものではない、月並な卑近な人事を学び、これを順序を踏んで高いところに持って行こうと努めただけだ、と言うのである。仁斎が、「仲尼ハ吾ガ師ナリ」と言う時に感歎したのは、そういう下学して上達した及び難い人間であって、単なる聖人のことわりではなかった。仁斎は、宋儒の天即理とか性即理とかいう考え方を嫌い、仲尼という優れた人間の言行に還るのをよしと考えた、気性の烈しい大学者であった。「仲尼ハ吾ガ師ナリ」という言葉は、「仁斎日札にっさつ」のなかにあるのだが、その中で、彼はこういうことを言っている。儒者の学問では、闇昧あんまいなことを最も嫌う、何でも理屈で極めようとすれば、見掛けは明らかになるようで、実はいよいよ闇昧なものになる。道を論じ経を解くには、明白端的なるを要するのであり、「十字街頭ニ在ツテ白日、事ヲスガゴトク」でなければならぬ、という。彼の考えによれば、「論語」に現れた仲尼の言行とは、まさにかくの如きものなのです。……
 「仲尼」は孔子のあざなです。字は中国で男子が元服のときにつけ、それ以後一生通用させた名ですが、孔子の字「仲尼」が三度にわたって出る小林先生の「論語」を、ここに「本居宣長」第十章からの引用に続けて引いたのは、「最上至極宇宙第一書」にこめられた仁斎の思いを小林先生に導かれていっそうしっかり受け止めたかったからですが、それと併せて小林先生が、いまここで仁斎の言葉「最上至極宇宙第一書」をまさに「体翫」していると私池田には思えてきて、読者にもその小林先生の「体翫」を「体翫」してほしいと思ったからです。
(了)