小林秀雄「本居宣長」を読む(一) 開講にあたって

開講にあたって
池田 雅延   
 前 半 「本居宣長」の本が出来るまで

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 今日から五十一回にわたって、小林秀雄先生の「本居宣長」を読んでいきます。
  「本居宣長」は全五十章から成っていますが、この大著を毎月第三木曜日に一章ずつ、四年三カ月かけて読み通します。
 その第一回にあたる今日は、オリエンテーションです。小林先生は、「本居宣長」をどういう思いで書かれ、読者に何を読み取ってほしいとねがっていられるか、そこをお話ししてこの先五十回の道筋を見通していただこうと思います。

 私、池田雅延は、昭和四十五年(一九七〇)の春、新潮社に入り、翌四十六年の夏、小林先生の本を造る係を命じられ、五十二年の年明けから秋にかけて「本居宣長」の単行本を造らせていただきました。
 当時も今も、ふつうの本であれば一冊あたりの字数は四〇〇字詰原稿用紙にして五〇〇枚から六〇〇枚、というのが標準です。しかし「本居宣長」は、昭和四十年の六月号から五十一年十二月号に及んだ『新潮』の連載稿が一五〇〇枚分はありました、これを先生は削りに削られ、約一〇〇〇枚分ほどに凝縮して私に託されたのですが、それでもふつうの本の二倍です、10ポイント活字で組むと六〇〇頁にもなり、これではふつうの本と同じようには校正作業を進めることができません。そこで一計を案じました、印刷所から出てくる校正刷はまず第一章から第五章までをひとまとまりとして校正者に預けます、校正者はそのひとまとまりの作業を終えて校正刷を私に回し、私は編集者の目で読んでそれを小林先生に届けます、その間にも校正者は次の第六章から第十章の校正を進め、それをまた私に回し、私は小林先生に届け、という循環を十回繰り返すのです、音楽の輪唱のようにです。

 編集者の仕事は多岐にわたりますが、中核をなすのは目の前に現れた原稿の出来映え鑑定と、その原稿をいっそう高度な完成域へと押し上げるための助勢です。この二つは車の両輪のようなもので、同じことは芸能界のプロデユーサーやスポーツ界のインストラクターに関しても言われていると思いますが、本の編集者の場合は鑑定の眼力もさることながら助勢の手腕がより求められるのです。雑誌や新聞に掲載された原稿は、原稿の出来に関しては一応の鑑定がなされています。しかし、雑誌や新聞はのっぴきならない発売日、刊行日という時間との戦いのうちに見切り発車しなければならないこともしばしばあり、著者も編集者もいまひといき時間をかけたいと思いながらやむなくその心残りを引きずったまま発行に至ってしまっているケースも少なくありません。その心残りを本の編集者が引き継ぐのです。
 一般に、本はすべて著者が書いている、編集者は著者の原稿を雑誌や本という器に盛りつけて売るだけの仲買人であると、そう思われている節があります。憚りながらそれはとんでもない誤解です。どんな天才、英才といえども、著者ひとりで文章の完璧を図ることはできません。手近な例としては長篇小説です。何人もの登場人物の風貌、背丈、服装、言葉づかい、職業、出身地、学歴、趣味……これらを細かく描き分けて混線させないだけでも大変ですが、そこに舞台となる土地の地理地形、風俗習慣から歴史的、政治的、経済的等々にまで至る諸要素がからみ、それらにふとした勘違いも起れば悪しき思い込みが割り込んでもきます、ストーリー展開や事件の時間軸に矛盾も起りかねません。こういった側面の混線、誤謬、矛盾等々を見逃さず、それらの要点を校正刷の余白に鉛筆で書きこんで、作者に再検討や修整を促すのも編集者と校正者の大事な役割なのです。
 しかも、それだけではありません。もっと大事なことは、いまここで著者が言おうとしていることがこの表現で読者に伝わるかどうか、もっと適切な表現があるのではないか、そこに目を光らせます。さらには、著者が目指しているその著作の思想的、芸術的到達点を逸早く直観し、その到達点への進路をはずれて著者が迷走するときは本来の軌道へ引き戻し、著者が尊大になったり弱気になったりして筆鋒が荒れたり鈍ったりしたときは挙措を正してもらいます。
 こうした働き、役回りから言えば、編集者は囲碁の世界で言われる「傍目八目おかめはちもく」のプロなのです。「傍目八目」とは、いま現に碁を打っている棋士よりも、盤のわきで対局を見ている観戦者のほうが八目も先まで戦局が読めるということで、往々にして当事者よりも第三者のほうが物事がよく見えるということを言った格言です。ゆえに編集者の給料の大半は、「傍目八目」の働きに対して支払われているとさえ言っていいのです。

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 昭和四十五年の春からほぼ七年、何人かの著者の本を造らせてもらっていた間、私は常にこの傍目八目を自分に言い聞かせていました。したがって、「本居宣長」の校正刷を読むにあたっても同じ心構えで臨みました。昭和五十二年の二月、そうして読んだ第一章から第五章の校正刷を小林先生に届け、二週間後には第六章から第十章までを届け、さらに二週間後、第十一章から第十五章までを届けようとして私は重大なことに気づきました。私が先生に届けている校正刷には、私の傍目八目で見てとった相談事をこまごまと書き込んでいます。その鉛筆の書込みが、これまでに造った本の何倍にもなっているのです。
 日本における近代批評の創始者として半世紀以上も批評文を発表してきた小林先生の労作です、しかも雑誌連載で一度は新潮社校閲部の目を通っている「本居宣長」です、さらには単行本に向けて新潮社校閲部の老練校正者があらためて目を通した校正刷です、文献的にも語法的にも、ほとんど私の出る幕ではありません。にもかかわらず私の書込みが異常に多くなっていたのは、ひとえに小林先生が言おうとされていることの奥の深さからでした。その奥の深さが先生特有の難解さと受け取られ、竟には読者を立ち往生させてしまうにちがいないと懸念を覚える箇所が少なくありませんでした。私はそこを私なりに得心しなければという思いに駆られて先生に質問を呈し、可能なかぎりで一言ひとこと補ったり、言い回しを易しくしたりしていただけないでしょうかと、試案まで書き込んでいました、その数たるや尋常ではなかったのです。
 これはいけない、と思いました。相手は本居宣長です。小林先生です。七十五歳の小林先生が、六十三歳の年から十一年六カ月以上もの時間をかけられた思索です。学校で日本文学を専攻してきたとはいえ、おいそれと三十そこそこの若造の手の届くところではありません。この先、この書込みについては先生にご容赦を願い出よう、編集者の最重要任務である「傍目八目」を放棄する無責任は弁解できないが、これからまだまだ第五十章まで先生の徹底推敲という思索の戦いは続く、その戦いに私がからんだのでは足手まといも甚だしい、いま優先すべきは先生ご自身の思索時間の確保である、その点の先読みだけがいまの私にできる唯一の「傍目八目」である……。
 三月、第十一章から第十五章の校正刷を携えて参上し、それを先生に差し出してすぐ、私は私の心中を申し述べて宥恕を願い出ました。
 先生は、私の言葉を最後まで聞き、私が口を噤むなり、
 ――君、それはちがう。
 と言われました。
 ――僕の文章を、君くらい丹念に読んでくれる読者はいないんだ。君にわかってもらえないのでは、日本中の読者の誰にもわかってもらえない、そうではないか。僕の書いたものは、読者が読んでくれなければ僕が書いた意味はないんだ。読者に読んでもらうためには誰よりもまず君にわかってもらう、そのためならどんな努力もする、遠慮はいらない、これまでと同じように、これからも訊いてくれたまえ……。
 先生は、それからしばらく黙り、そして言われました、
 ――宣長さんは、とてつもなく難しいことを考えた人だ、しかしあの文章は、おどろくほど平明だ、あれが文章の極致なんだ……。
 こうして「本居宣長」の校正作業は、初校が昭和五十二年の年明けから六月まで、再校が八月まで続き、最後の第五十章は七月に書き上げられて第一章から第五十章までが揃った三校は九月末まで続きました。私の校正刷への書込みも、九月末まで続きました。

 十月三十一日、菊版箱入り、本文六〇〇頁、定価四〇〇〇円の『本居宣長』は世に出、たちまち増刷が相次いで翌年春には五〇〇〇〇部、夏前には一〇〇〇〇〇部に達しました。
 各紙誌の文芸時評でも続々取り上げられましたが、『毎日新聞』の江藤淳氏の時評ではこう言われました。
 ――『本居宣長』を通読しているとき、気がついてはっ、、と思ったことがあった。それは、「……そしてこれが、彼の『源氏』の深読みと不離の関係にある事を、読者は、、、、ほぼ納得されたと思ふが、……」(傍点引用者)とか、「……賢明なる読者には、、、、、余談にかまけた、私の下心は既に推察して貰へたと思ふが、……」(同上)というように、「読者」がしばしば本文のなかに登場するという特徴である。……
 これに続けて江藤氏は、こう言われていました。
 ――小林氏はこれまで、これほど寛大に「読者」をその世界のなかに許容したことはなかった。氏はいままで、脇目もふらずにどんどん歩みを運び、遅ればせにあえぎながらついて来る読者に、これほどしばしば暖かい視線を投げたことはなかった。そのことに気がついたとき、私は感動せざるを得なかった。……

         

 小林先生は、君にわかってもらうためなら、と言われましたが、先生がどんなに懇切に手を尽して下されようとも半年そこらで私に「わかる」はずはありません。それでも各所、私は私なりに得心して九月の末、全頁を校了にしました。その得心を譬えて言えば、こういうことです。父親が子供を連れて歩いていて、きれいな山を目にし、あの山をごらん、どうだ、きれいだろう、と子供に言う、けれど背丈の足りない子供は、目の前の草むらに邪魔されてはっきりとは山が見えない、それを父親に言うと、そうか、それならと父親は傍らの木の枝で草を払い伏せる、あるいは肩車をする、そして、どうだ、見えるか、うん、見える、きれいだね……。譬喩の拙劣はお詫びするしかありませんが、この父親の親心に通じる小林先生の気づかいで、私にも本居宣長という山の全貌を目にすることだけはできるようになったのです。昭和五十二年九月までの私の「わかる」は、こういうわかり方だったのです。
 そして、思いました。小林先生にここまでしておいてもらえれば、あとは私自身が、いかにして自分の視力を鍛えるかだ、今見えている山の微妙な襞まで見てとる視力をいかにして得るかだ……。『新潮』に「本居宣長」を書き始めた年、小林先生は六十三歳でした、私も六十三歳からは小林先生のように時間をとって、十二年かけて「本居宣長」を読み返そう、三十代、四十代と、そう思い決めて準備をしていました。五十五歳で刊行を始めた『小林秀雄全作品』の脚注は、僕の書いたものは読者に読んでもらわなければ意味がないと言われた先生の思いを承けての発意でしたが、私個人としては私自身の六十三歳からに備える足拵えのつもりもありました。ところが、思い通りに事は運びませんでした。六十三歳で手を着けはしましたが、六十四歳から六十九歳にかけて身辺に不慮の事態が相次ぎ、気がつけば七十歳になっていました。
 しかし、幸いにして六十五歳からは茂木健一郎さんに鎌倉で「小林秀雄に学ぶ塾」を頼まれ、塾生諸君とともに「本居宣長」を読んできました。小林先生は「本居宣長」の執筆と彫琢に十二年半をかけられました、だから私たちも、小林先生と同じ十二年半をかけて「本居宣長」を読むのです、と塾生諸君に言い、私としてはこの十二年半で昭和五十二年二月から九月にかけての「本居宣長」校正期の記憶をなぞり返そうと思いました。どうだ、きれいだろうと、小林先生に指し示された名峰の美しさを、自分の肉眼、心眼、両方の視力でしっかり見てとろうと思いました。
 今回こうして鎌倉の塾とは別に「小林秀雄『本居宣長』を読む」と謳った勉強会を開かせていただいたのも、鎌倉の塾と同じ気概で「本居宣長」という名峰の美しさをいっそう確と目に入れようと思ってのことですが、実はそれだけではありません。「本居宣長」を本としてまとめられた昭和五十二年、先生は七十五歳でした、あれから四十五年たって私も七十五歳になっています、先生には及びもつきませんが、本居宣長という名峰を目のあたりにして、皆さん、あの山をごらん下さい、きれいでしょうと、先生になりかわって言わせていただく役割だけは十全に果たしたいと思っています。
 ここで一度、休憩しましょう、休憩の後には本日最初に申し上げたこと、すなわち、小林先生は「本居宣長」をどういう思いで書き継がれたか、読者に何を特に読み取ってほしいとねがって書かれたかをお話しします。
 

 後 半 思想のドラマを…

          

 昭和四十七年(一九七二)の九月でした、小林先生は二十五日に名古屋で、二十六日には大阪で、「宣長の源氏観」と題して話されました。この年、先生は七十歳。六十三歳の六月に始め、十一年六か月に及んだ「本居宣長」の『新潮』連載が八年目に入っていた頃です。
 ――本居宣長という人は、今でいえば三重県の松阪にじっと坐って勉強していた人です、その生涯に波乱といえるような波乱は何もなく、あの人の波乱は全部頭の中にあった、その頭の中の波乱たるや実にドラマティックなものなのです……。
と語り始め、続いてこう言われました。
 ――本居宣長は、学者です。しかし、今の学者とはまったく違うということをまず考えなければいけない。今の学問はサイエンス、科学だが、宣長のころの学問はまるで違うのです、「道」なのです。人間いかに生きるべきかと、人の「道」を研究したのです。あのころは、この問いに答えられないような学者は学者ではなかったのです。……
 ――ところが、今の学者は、そんなことには答えなくていいのです。何かを調べていればいいのです。私は学者だ、これはこうこう、こうであって、こうであると、調べることが私の仕事だ、そう言うのです。だから諸君が、「先生、私はどういうふうに生きたらいいのでしょうか」と訊いても、先生は答えてくれません、それが現代の学問です。……
 ――学問は、今はそれぐらい冷淡になってしまった。僕らのいちばん肝心なことには触れません。僕らのいちばん肝心なことって何ですか、僕らの幸不幸ではありませんか。僕らはこの世に何十年だか生きて、幸福でなかったらどうしますか。この世に生きていることの意味がわからなかったらどうしますか。昔の学者は、そこをどうかして教えようとしたのです。本居宣長もそういう学者なのです、今の学者とは全然違うのです。……
 この、「宣長の源氏観」は、同じ年の十月、作家・円地文子さんの手になった「源氏物語」の現代語訳全八巻を新潮社から出し始めるにあたり、訳者の円地さん、大江健三郎さんとともに行なってもらった記念講演会での講演で、今は「新潮CD 小林秀雄講演」第五巻で聴くことができます。
 昭和四十五年の春、新潮社に入って以来、私は円地さんの「源氏物語」訳にも関わっていましたが、あの講演会には小林先生の係として随行し、先生の講演は舞台の袖で聴きました。その私の耳に、「僕らのいちばん肝心なことって何ですか。僕らの幸不幸ではありませんか」と、先生の強い口調が飛びこんできたのです。
 高校一年の秋から小林先生の本を読んできて、人生いかに生きるべきかという言葉にはただならぬ印象を受けていましたが、あの日、「私はどういうふうに生きたらいいのでしょうか」に続けて、「僕らの肝心なことって何ですか。僕らの幸不幸ではありませんか」と先生の肉声で、しかもすぐ目の前で言われてはっとしました。僕らのいちばん肝心なこと、それは僕らの幸不幸だ……。あたりまえといえばあたりまえです。しかし小林先生は、私たち現代人が忘れてしまっている「あたりまえのこと」を次々指し示し、人間にとっての「あたりまえ」とは何かを知って「あたりまえ」に還れ、それが人生いかに生きるべきかの第一歩だと教え続けた人だったのです。
 だから、『本居宣長』も、そういう人間にとっての「あたりまえ」の再発見と再認識の書であったと言えるのです。私たちは、この「あたりまえ」をしっかり知って、どこまでも「あたりまえ」に沿って生きられるかどうか、そこに幸不幸の岐れ路がある、それを先生は、本居宣長の学問に即して言おうとされたのです。

          

 名古屋でも大阪でも、講壇には大江さん、円地さん、小林先生の順で上がってもらうことになっていましたから、先生の登壇時刻は夜の八時近くになります。先生の係として随行していた私は、大阪では心斎橋近くの先生がなじみの店で夕食を差し上げ、時間を見計らって会場の毎日ホールへ案内しました。
 控室には、すでに講演を終えた大江さんと新潮社の幹部たちが待っていて、それぞれ先生に挨拶しました。先生はその挨拶を気さくに受け、ソファに腰を下ろすなりこう言われました。
 ――僕は、宣長さんは思想のドラマを書こうと思ったのです。……
「宣長さんは」とは、むろん「『新潮』に連載している『本居宣長』は」です。
 先生は人と会ったり電話を受けたりしたとき、相手の挨拶や用件を聞くより早く、自分の関心事をいきなり口にするということがよくありました。常に何かを考えていた先生は、人と接するや頭の中の関心事が思わず口を衝いてしまっていたのでしょう。毎日ホールでの「思想のドラマ」も、その夜の講演はそこを話そうとされていてのことだったのです。
 
  「本居宣長」は、宣長の遺言書の紹介から始まっています。小林先生は、第一章、第二章と、その風変りとも異様ともいえる遺言書を丹念に読んでいき、第二章の閉じめで言います。
 ――要するに、私は簡明な考えしか持っていない。或る時、宣長という独自な生れつきが、自分はこう思う、と先ず発言したために、周囲の人々がこれに説得されたり、これに反撥したりする、非常に生き生きとした思想の劇の幕が開いたのである。この名優によって演じられたのは、わが国の思想史の上での極めて高度な事件であった。この文を、宣長の遺言書から始めたのは、私の単なる気まぐれで、何も彼の生涯を、逆さまに辿ろうとしたわけではないのだが、ただ、私が辿ろうとしたのは、彼の演じた思想劇であって、私は、彼の遺言書を判読したというより、むしろ彼の思想劇の幕切れを眺めた、そこに留意して貰えればよいのである。……

  「本居宣長」において、思想という言葉が最初に出るのは、やはり遺言書との関連においてです。先生はまず、宣長が自分の墓のことを細かく指図し、墓碑の後ろには選りすぐりの山桜を植えよと指示したくだりを読んだ後にこう言います。
 ――以上、少しばかりの引用によっても、宣長の遺言書が、その人柄を、まことによく現している事が、わかるだろうが、これは、ただ彼の人柄を知る上の好資料であるに止まらず、彼の思想の結実であり、敢て最後の述作と言いたい趣のものと考えるので、もう少し、これについて書こうと思う。……
 次いで、
 ――そういうわけで、葬式が少々風変りな事は、無論、彼も承知していたであろうが、彼が到達した思想からすれば、そうなるより他なりようがなかったのに間違いなく、それなら、世間の思惑なぞ気にしていても、意味がない。遺言書の文体も、当り前な事を、当り前に言うだけだという、淡々たる姿をしている。……
 続いて、
 ――動機は、全く自発的であり、言ってみれば、自分で自分の葬式を、文章の上で、出してみようとした健全な思想家の姿が、其処に在ると見てよい。遺言書と言うよりむしろ独白であり、信念の披瀝と、私は考える。……
 さらに、
 ――私は、研究方法の上で、自負するところなど、何もあるわけではない。ただ、宣長自身にとって、自分の思想の一貫性は、自明の事だったに相違なかったし、私にしても、それを信ずる事は、彼について書きたいというねがいと、どうやら区別し難いのであり、その事を、私は、芸もなく、繰り返し思ってみているに過ぎない。宣長の思想の一貫性を保証していたものは、彼の生きた個性の持続性にあったに相違ないという事、これは、宣長の著作の在りのままの姿から、私が、直接感受しているところだ。……
  「思想」という言葉を、小林先生はこういうふうに用いるのです。

          

 ところが昨今、世間で「思想」が取り沙汰されるとき、ほとんどの場合、こうではありません。「思想」は「イデオロギー」の訳語と思われているか、その意識すらないまま混用されているか、ではないでしょうか。
『大辞林』によりますと、「イデオロギー」とは、「社会集団や社会的立場(国家・階級・党派・性別など)において、思想・行動や生活の仕方を根底的に制約している観念・信条の体系」ですが、こういう「イデオロギー」と「思想」との混同は八十年前にもう起っていました。
 昭和十四年(一九三九)十二月、三十七歳の冬、小林先生は『文藝春秋』に書いた文芸時評(現行題「イデオロギイの問題」、新潮社刊『小林秀雄全作品』第12集所収)で、ある評家の言に抗して言っています。論者は、「イデオロギー」は「思想」の代名詞として用いられている、その事実を認めなければならないと言うが、そんな事実はどこにもない、あればそれは間違いだ、とまず言い、
 ――イデオロギイはイデオロギイであり、思想は思想である。誰でも知っている様に、フランス語にもイデオロジイとパンセという二つの言葉があり、まるで異った意味に用いられている。イデオロギイは僕の外部にある。だが、僕の精神は、何かを出来上らそうとして希望したり、絶望したり、疑ったり、信じたり、観察したり、判断したり、決意したりしているのだ。それが僕の思想であり、又誰にとっても、思想とはそういうものであろうと思う。……
 小林先生の言うところに沿って、「イデオロギー」と「思想」をそれぞれ括ってみれば、「イデオロギー」は人間社会の集団行動、あるいは集団生活のための観念的な指針です。だから先生は、「イデオロギイは僕の外部にある」と言っています。対して「思想」は、個人の生活、個人の行動半径内での思念、思索、すなわち人間一人ひとりの知・情・意の運動です、だから「思想」は、私たち一人ひとりの内部にあります。
 そして先生は、こう言います、
 ――しっかりと自分になりきった強い精神の動きが、本当の意味で思想と呼ぶべきものである……。
 つまり、「思想」には、私たちの精神が、希望したり、絶望したり、疑ったり、信じたり、観察したり、判断したり、決意したりしている、そういう段階がまずあり、こうした希望や絶望、懐疑や信服、観察や判断の試行錯誤を繰り返してやがてしっかり自分になりきった強い精神の動きを得る、こうして私たち一人ひとりの「思想」が出来上がる、と言うのです。
 小林先生は、「思想」についてのこの考えを、終生、変えませんでした。したがって、「本居宣長」の中で使われる「思想」という言葉も、すべてが個人の生活範囲における思念、思索の意味においてです、だから「本居宣長」では、いっそう強い口調で言うのです、
 ――この誠実な思想家は、言わば、自分の身丈に、しっくり合った思想しか、決して語らなかった。その思想は、知的に構成されてはいるが、又、生活感情に染められた文体でしか表現出来ぬものでもあった。……

 では、その「思想」とは、具体的にどういうものなのか。ここまでくると、そう問いたくなるのも人情ですが、それに答えることはできません、答えられるものではないと、小林先生が言っているからです。先の文芸時評(「イデオロギーの問題」)とほぼ同時期、昭和十六年の夏、先生は哲学者、三木清氏と「実験的精神」と題して対談し(同第14集所収)、そこで言っています。――誰それの思想は、こういうものだと解らせることはできない、思想というものは、解らせることのできない独立した形ある美なのだ、だから思想は、実地に経験しなければいけないのだ……。
  「本居宣長」は、思想のドラマを書こうとした、それは、こういう理由によってなのです。本居宣長という人の思想、これはどうあっても読者に伝えたい、しかし、宣長の思想とはこういうものだと説いて解ってもらうことはできない、説かれる側も説かれて解ったと思ったらもうそれは張り子のまがい物である。説いて解ってもらうのではない、読者に経験してもらうのだ、そのためには宣長が演じた思想劇の舞台に読者にも上がってもらい、宣長と同じ舞台の上で宣長の口からほとばしる台詞を聞いてもらうのだ、小林先生は、そういう思いで、「私が辿ろうとしたのは、彼の演じた思想劇であって、私は、彼の遺言書を判読したというより、むしろ彼の思想劇の幕切れを眺めた……」に続けてすぐ、次の一節を書いたのです。
 ――宣長の述作から、私は宣長の思想の形体、或は構造を抽き出そうとは思わない。実際に存在したのは、自分はこのように考えるという、宣長の肉声だけである。出来るだけ、これに添って書こうと思うから、引用文も多くなると思う。……

          

 ここまで私は、小林秀雄氏を「先生」と呼んできました。しかし私が言ったり書いたりする「先生」は、出版界やその周辺で符牒のように飛び交っている「先生」ではありません。ましてや国会議員たちがそう呼ばれ、議員たち同士でもそう呼びあっているような「先生」ではありません。
 いまはどうだかわかりませんが、少なくとも四、五十年前、私が編集者として働き盛りでいた頃は、芥川賞、直木賞をとればむろんのこと、どこかの雑誌の新人賞をとったというだけでさえ若い編集者からも酒場の女性たちからも先生と呼ばれる風潮がありました。だから、小説家、評論家、随筆家……と、地歩を固めて一家をなした人たちは、みな先生と呼ばれていました。
 私が新潮社に入ったのは、そんな時代の昭和四十五年春でした、秋には三島由紀夫の事件があった年です。私が配属された書籍の編集部署、出版部の部長は新田ひろしさんといい、三島由紀夫や山本周五郎といった大作家の何人もから絶大の信頼を寄せられていると入社したその日に先輩の女性から聞きましたが、数日後、新人研修の講師として新入社員の前に立った新田さんは、編集者たるものの心得をてきぱきと説き、最後にこう言いました。
「君たちねえ、これからいろんな作家のところへ行ってもらうがね、作家に向かって先生なんて言うんじゃないよ。編集者は作家の弟子でも書生でもないんだからね、作家と対等の職業人なんだからね、みんな誰々さんでいいんだ、その人を本気で先生と呼びたくなったら呼んでもいいがね、めったやたらと先生なんて言うんじゃないよ」
 編集者は、作家と対等の職業人――。私はこの言葉に奮い立ちました。作家と対等の編集者とは、どういう職業人か、それを、これからの実地経験でとことん突きつめようと思いました。その心がけが、とりもなおさず私の人生に実りをもたらしてくれるにちがいないと思いました。
 ですから、私が小林秀雄先生を「先生」と呼ぶのは、当時も今も巷にあふれている「先生」とはまるで違った思いからなのです。そこをはっきり意識して「小林先生」と呼ぶようになったのは、入社の翌年、先生の本の係を命じられたときからです。
 それまでは、仲間内で話題にするとき、小林先生は「小林秀雄」と敬称をつけずに呼ぶか「小林さん」でした。敬称をつけずにと言っても、これは別段、呼び捨てにしていたということではありません、読者の立場では敬称略がふつうだったということで、今日でも「村上春樹はいい」と言ったりします、それと同じでした。そういう慣習・慣例の線上で、私も「小林秀雄」と呼んでいたのです。
 ところが、小林先生の係を命じられて、きわめて自然に「先生」と呼ぶようになりました。それは、高校一年の秋から読んできて、文学史上、どれほどの高みに位置づけられているかもよく知っている小林先生本人に向って「小林さん」とは呼べるわけがなかったということもありますが、それ以上にはっきり意識したのは、あの日、新田さんが最後に言った一言でした、その人を、本気で先生と呼びたくなったら呼んでもいいがね……、まさに、小林秀雄先生は、その時すでに私が本気で「先生」と呼びたい人だったのです。
 高校時代、大学時代と、全集を読んで知った小林先生の言葉に私は鼓舞され目を開かれ、しばしばたしなめられてもいました。次のようにです。
 ――確かなものは覚え込んだものにはない、強いられたものにある。強いられたものが、覚えこんだ希望に君がどれ程堪えられるかを教えてくれるのだ。……(「新人Xへ」、「小林秀雄全作品」第6集所収)
 ――模倣は独創の母である。唯一人のほんとうの母親である。二人を引離してしまったのは、ほんの近代の趣味に過ぎない。模倣してみないで、どうして模倣出来ぬものに出会えようか。……(「モオツァルト」、同第15集所収)
 ――一体、一般教養などという空漠たるものを目指して、どうして教養というものが得られましょうか。教養とは、生活秩序に関する精錬された生きた智慧を言うのでしょう。これは、生活体験に基いて得られるもので、書物もこの場合多少は参考になる、という次第のものだと思う。教養とは、身について、その人の口のきき方だとか挙動だとかに、おのずから現れる言い難い性質が、その特徴であって、教養のあるところを見せようという様な筋のものではあるまい。……(「読書週間」、同第21集所収)
 私が、小林先生の係を命じられて、きわめて自然に「先生」と呼ぶようになったのは、こういう言葉がいくつも私の身体に沁みていたからです。なかでも、高校時代、大学時代と、何度も背骨をどやされたのは、「僕の大学時代」(同第9集所収)の次の言葉でした。
 ――僕はただもう非常に辛く不安であった。だがその不安からは得をしたと思っている。学生時代の生活が今日の生活にどんなに深く影響しているかは、今日になってはじめて思い当る処である。現代の学生は不安に苦しんでいるとよく言われるが、僕は自分が極めて不安だったせいか、現代の学生諸君を別にどうという風にも考えない。不安なら不安で、不安から得をする算段をしたらいいではないか。学生時代から安心を得ようなどと虫がよすぎるのである。……
 不安なら不安で、不安から得をする算段をしたらいいではないか……。この一言は、七十代も後半に入った私の骨身にますます沁みてきていますが、ここにいまは「本居宣長」第十三章の次の一節が重なっています。
 ――「すべて人の心といふものは、からぶみに書るごと、一トかたに、つきゞりなる物にはあらず、深く思ひしめる事にあたりては、とやかくやと、くだくだしく、めゝしく、みだれあひて、さだまりがたく、さまざまのくまおほかる物なるを、此物語(「源氏物語」/池田注記)には、さるくだくだしきくまぐままで、のこるかたなく、いともくはしく、こまかに書あらはしたること、くもりなき鏡にうつして、むかひたらむがごとくにて、大かた人のココロのあるやうを書るさまは、――」という文に、先きにあげた「やまと、もろこし」云々の言葉がつづくのである。……
 ――してみると、彼(本居宣長/池田注記)の開眼とは、「源氏」が、人の心を「くもりなき鏡にうつして、むかひたらむ」が如くに見えたという、その事だったと言ってよさそうだ。その感動のうちに、彼の終生変らぬ人間観が定著した――「おほかた人のまことの情といふ物は、女童(めのわらは)のごとく、みれんに、おろかなる物也、男らしく、きつとして、かしこきは、実の情にはあらず、それはうはべをつくろひ、かざりたる物也、実の心のそこを、さぐりてみれば、いかほどかしこき人も、みな女童にかはる事なし、それをはぢて、つゝむとつゝまぬとのたがひめ計(ばかり)也」(「紫文要領」巻下)。……
 宣長の、終生変らなかったこの人間観こそは宣長の思想でした。小林先生が、しっかりと自分になりきった強い精神の動き、これが本当の意味で思想と呼ぶべきものだと言われた思想でした
 ≪私塾レコダ l’ecoda≫の「小林秀雄『本居宣長』を読む」は、こういうふうに「本居宣長」を読んでいきます、宣長の「思想」を読んでいきます。
                                      (了)