小林秀雄「本居宣長」を読む (三)第一章 下

小林秀雄「本居宣長」を読む(三)
第一章  遺言書を読む、「申披六ヶ敷筋」の考え
池田 雅延   
  第一章  遺言書を読む、「申披六ヶ敷筋」の考え


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 小林先生は、「本居宣長」の第一章を折口信夫氏の一言から書き起した後、雑誌『新潮』での連載開始を前に三重県松阪に赴いて宣長の墓に詣でたことを記し、その墓は宣長自身の遺言によったと述べて宣長の遺言書を読む後半部へと筆を運んでいきます。
 昭和五十二年(一九七七)十月三十一日、『本居宣長』の単行本が世に出るや宣長の遺言書は読書界の大きな関心事となり、たちまち様々に取り沙汰されました。まずはその長さ、詳しさです。なぜ宣長は、これほどまでの遺言書を書いたのか、書かねばならなかったのか……、そしてなぜ小林氏は、「本居宣長」を宣長の遺言書から始めたのか……。さらには、「古事記伝」を書いてあれほどにも「随神かんながらの道」を尊んだ宣長が、どうして最期は仏式の葬儀を指示したのか、その矛盾について小林氏は言及していない……、等々と言われたのですが、なぜ小林先生は「本居宣長」の劈頭へきとうに宣長の遺言書をもってきたか、これについては第一章、第二章と読者の目の前で遺言書を読んだ後、第二章の閉じめで先生自身が言っています。
 ――要するに、私は簡明な考えしか持っていない。或る時、宣長という独自な生れつきが、自分はこう思う、と先ず発言したために、周囲の人々がこれに説得されたり、これに反撥したりする、非常に生き生きとした思想の劇の幕が開いたのである。この名優によって演じられたのは、わが国の思想史の上での極めて高度な事件であった。この文を、宣長の遺言書から始めたのは、私の単なる気まぐれで、何も彼の生涯を、逆さまに辿ろうとしたわけではないのだが、ただ、私が辿ろうとしたのは、彼の演じた思想劇であって、私は、彼の遺言書を判読したというより、むしろ彼の思想劇の幕切れを眺めた、そこに留意して貰えればよいのである。……
 小林先生の言う「思想」とは何かについては、前回、この講座の「開講にあたって」で精しくお話ししましたが、しかしいまここで小林先生に、「私が辿ろうとしたのは、彼の演じた思想劇であって、私は、彼の遺言書を判読したというより、むしろ彼の思想劇の幕切れを眺めた、そこに留意して貰えればよいのである」と言われてみても、宣長はなぜこのような、怪異とさえ言いたいほどの遺言書を書いたのかの不可解は氷解せず、また小林先生は宣長の演じた思想劇を辿ろうとしてその思想劇の幕切れをまず眺めたと言うのですが、なぜわざわざ幕切れからなのか、「本居宣長」の執筆にあたって、何を措いてもまず遺言書からとした小林氏の真意はなお解せない……、読者にはそういう不完全燃焼感がいまなお燻っているようなのです。
 
 思うにこの不完全燃焼感は、「遺言」という現代語が帯びている特殊な語感からきているようです。そして私たちは、その特殊な語感を帯びた「遺言」という言葉の先入観からなかなか自由になれず、いつまでもこの先入観という眼鏡をかけたまま小林先生の文章を読んでいくため、「遺言」という言葉から連想される「世事の後始末」といったことなどに気持ちは行ってしまって、先生に「彼の演じた思想劇」、「彼の思想劇の幕切れ」などと言われても目は上滑りするばかりのようなのです。
 たとえば『広辞苑』には、「遺言」は「死後のために物事を言い遺すこと、またその言葉」とあり、宣長の遺言書もまさに「死後のために」言い遺されていると言えるのですが、小林先生が紹介しているかぎりにおいて宣長の遺言書には私たちの通常の頭にある財産分けのことなど、世事の後始末と言った事柄はまったく見えていません。読者と先生との乖離かいりは恐らくここにあります、小林先生は、宣長の遺言書を、私たちの頭にある通念のようには読んでいないのです。宣長の遺言書は「死後のために」ではなく、「生前のために」書かれたと読んでいるのです。そのことは、第一章で遺言書をひととおり読んだあと、第二章に入ってすぐ、こう言われていることからもわかります。
 ――明らかに、宣長は、世間並みに遺言書を書かねばならぬ理由を、持ち合せていなかったと言ってもよい。この極めて慎重な生活者に宰領されていた家族達には、向後の患いもなかったであろう。……
 ――彼は、遺言書を書いた翌年、風邪をこじらせて死んだのだが、これは頑健な彼に、誰も予期しなかった出来事であり、彼の精力的な研究と講義とは、死の直前までつづいたのであって、精神の衰弱も肉体の死の影も、彼の遺言書には、先ず係わりはないのである。動機は、全く自発的であり、言ってみれば、自分で自分の葬式を、文章の上で、出してみようとした健全な思想家の姿が其処に在ると見てよい。遺言書と言うよりむしろ独白であり、信念の披瀝と、私は考える。……
 宣長の遺言書は、宣長の現実の死とは繋がっていない、宣長は、わが身の死に備えてこの遺言書を書いたのではない、人生いかに生きるべきかを生涯最大の主題とした思想家宣長にしてみれば、生の最果てに来る死もまた生涯最大の主題であった、生を考えるために死を見据える、死を会得するために生を顧みる、この往還は、宣長においてはきわめて自然な思索の道であったが、その途上に、ある日、ある着想が飛来した、それが「自分で自分の葬式を、文章の上で出してみよう」という試みであり、その試みとして書かれた遺言書は、永い年月をかけて宣長が思い描いてきた死というものについての独白であり、信念の披瀝だった、そこには不吉の影も感傷の湿りもなく、「遺言書」を書くことはふだんの文章を書くこととすこしも変らない思想家宣長の健全な行動だったと小林先生は言うのです。
 つまり、宣長の遺言書は、宣長が宣長自身を素材モデルにして書き上げた「人の死」という主題の思想劇なのであり、それはまた「人の生」という思想劇の絶頂クライマックスなのです。しかもこの劇は、作者の現実の死とは繋がっていませんから虚構です。しかしこの「虚構」は、作り事とか嘘八百とかと蔑んで言われる類の虚構ではありません。先回りして言えば「本居宣長」第十三章で展開される「源氏物語」の物語論、そこで言われる「『空言そらごとながら空言にあらず』という『物語』に固有な『まこと』」です、すなわち一篇の物語で語られるストーリーは作り話であっても、そこに盛り込まれた人生の機微という真実は紛れもない実人生の真実である、という意味での虚構です。宣長の遺言書は、それと軌を一にした虚構の独白劇なのだと小林先生は言うのです。
 したがって、いま私たちが心がけるべきことは、「遺言」という現代語に貼りついた先入観、その先入観の速やかな払拭です。小林先生は、「本居宣長」最終の第五十章で、宣長の遺言書を「彼の最後の自問自答」と言っています。先ほど私が用いた「虚構の独白劇」をも併せて付言すれば、一般に遺言書はこの世を去ろうとする者がこの世に残る者に対して、ということは、自分ではない他人に対して、一方的に発する言葉です、ところが宣長の遺言書は、一見そう見えてそうではありません。宣長が、「死というもの」に対して微に入り細をうがって問いを発明し、その問いに自力で答えようとした言葉の連鎖、それが宣長の遺言書であり、したがって宣長の遺言書の言葉は、すべてがいま生きている宣長自身に向けて発せられていると小林先生は言っているのです。
 そこの呼吸を一言で言えば、宣長はこういう意図のもとに遺言書を書いたのではないでしょうか。死は死者自身には何としても認識できない、後に残していく家族、親族によって見届けられるのみである、それならせめて自分の亡骸なきがらは家族、親族の目にどう映り、家族、親族は自分の亡骸にどう向き合おうとするか、それを思い描いてみることで自分も自分の死を見つめてみよう……。
 しかし、これではまだ宣長の「遺言書」を小林先生とともに読む準備は調ったとは言えません。小林先生は、「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ、では、さよなら」と言った折口信夫氏の一言を披露したあと、「今、こうして、おのずから浮び上がる思い出を書いているのだが、それ以来、私の考えが熟したかどうか、怪しいものである。やはり、宣長という謎めいた人が、私の心の中にいて、これをめぐって、分析しにくい感情が動揺しているようだ」と言っていました。文学者として日本人の民族性や伝統についての「己れ独特の文学的イメエジ」を「古事記」から得ようとし、それならと「古事記伝」で読んで以来三十年ちかく、本居宣長はずっと小林先生の心の中に謎めいた存在となって居続けていました。その宣長と本腰入れて向きあうとなればどうするか……。
 ――雑誌から連載を依頼されてから、何処から手を附けたものか、そんな事ばかり考えて、一向手が附かずに過ごす日が長くつづいた。或る朝、東京に出向く用事があって、鎌倉の駅で電車を待ちながら、うららかな晩秋の日和を見ていると、ふと松坂に行きたくなり、大船で電車を降りると、そのまま大阪行の列車に乗って了った。……
 小林先生が、「本居宣長」の筆は宣長の遺言書から起すと決めたのは、このときの鎌倉駅でだったか、大船駅でだったか、それとも大阪行の列車の中でだったかと思いを馳せてみることはできるのですが、いずれにしてもこの日、そうだ、搦手からめてだ、という思いがはたと先生に閃いたかとも私は思ってみています。
 昭和四年九月、文壇に打って出た批評家宣言「様々なる意匠」(同第1集所収)で先生はこう言っていました。
 ――私には常に舞台より楽屋の方が面白い。この様な私にも、やっぱり軍略は必要だとするなら、「搦手から」、これが私には最も人性論的法則に適った軍略に見えるのだ。……
「搦手」とは、城の裏門です。「様々なる意匠」の文脈で言えば、誰もが誰も批評とはこういうものと思いこんでいた通念の表門ではなく別の門、すなわち裏門から入って既成の通念を攻め落とし、名実ともに具わった批評の城を新たに築くと決めて小林先生は本志を遂げました。それと同じ軍略で、「本居宣長」には宣長の遺言書という搦手から入ったのです。そうすることで宣長にまつわりついていた実証主義者にして国粋主義者という世の通念をまず封じようとしたとも考えられるのです。

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 ――山頂近く、杉や檜の木立を透かし、脚下に伊勢海が光り、遥かに三河尾張の山々がかすむ所に、方形の石垣をめぐらした塚があり、塚の上には山桜が植えられ、前には「本居宣長之奥墓」ときざまれた石碑が立っている。簡明、清潔で、美しい。……
 「本居宣長」の執筆開始に先立って松阪を訪ねた先生は、山室山の宣長の墓に詣でました。
 ――この独創的な墓の設計は、遺言書に、図解により、細かに指定されている。……
 そう言って先生は、宣長自身が描いた墓の設計図ともいえるくだりをまずなぞり、次いで言います。
 ――葬式は、諸事「麁末そまつに」「麁相そさうに」とくり返し言っているが、大好きな桜の木は、そうはいかなかった。これだけは一流の品を註文しているのが面白い。塚の上には芝を伏せ、随分固く致し、折々見廻って、崩れを直せ、「植ゑ候桜は、山桜の随分花のよろしき木を吟味致し、植ゑ申すべく候、勿論、後々もし枯れ候はば、植ゑ替へ申すべく候」。それでは足りなかったとみえて、花ざかりの桜の木が描かれている。遺言書を書きながら、知らず識らず、彼は随筆を書く様子である。……
 宣長は、遺言書を書いているはずです、なのに、墓碑の背後に山桜を植えよと指示してそこに花ざかりの木を描き、あたかも随筆のような趣きになっている、と小林先生は言うのです。宣長には別途、「玉勝間」と題した随筆集があり、小林先生はそこに書かれている一文をも想起しました。
 ――花はさくら、桜は、山桜の、葉あかくてりて、ほそきが、まばらにまじりて、花しげく咲たるは、又たぐふべき物もなく、うき世のものとも思はれず。……
 山桜は、葉と花が同時に出ます。長楕円形で紅褐色の新葉とともに淡い紅色の花がひらきます。
 ――以上、少しばかりの引用によっても、宣長の遺言書が、その人柄を、まことによく現している事が、わかるだろうが、これは、ただ彼の人柄を知る上の好資料であるに止まらず、彼の思想の結実であり、敢て最後の述作と言いたい趣のものと考えるので、もう少し、これについて書こうと思う。……
 宣長の遺言書は、彼の思想の結実である、遺言書と言うよりあえて述作と言いたいと小林先生は言います。「随筆」よりも踏み込んで、思想の成果が盛られた「述作」、すなわち「著作」ですらあると言うのです。先生が、三十年ちかくにもわたって心に動揺を強いられてきた本居宣長という謎といよいよ正対するに際して、まずいちばんに宣長の遺言書を繙いたわけは、ここで言われている「思想の結実」「最後の述作」という言葉に集約されていると見てよいでしょう。宣長の遺言書は、宣長の全著作の結語であり縮図であると小林先生は言うのです。私は先に、小林先生は宣長の遺言書を本居宣長という城の搦手とみなしてという意味のことを言いましたが、いまここで言い足せば、表門、すなわち大手門はまぎれもなく「古事記伝」でしょう。しかしその「古事記伝」の傍らには、小林先生が「本居宣長」を書くと思い決めた昭和四十年当時、実証主義の先達、国粋主義の権化などという、宣長本人は聞いたこともないにちがいない現代の学術・イデオロギー用語で顕彰碑や警告板が立てられていたのです。

          

 ――遺言書は、次の様な文句で始まっている。書き出しから、もうどんな人の遺言書とも異なっている。「我等相果て候はば、必ず其日を以て、忌日と定むべし、勝手に任せ、日取を違へ候事、これあるまじく候」、書状が宛てられた息子の春庭も春村も、父親の性分と知りつつも、これには驚いたかも知れない。……
 そして、葬式の段取りになります
 第一条には、宣長が息を引き取ってから葬送までの手順と心得が記され、次の条には、遺体を洗い浄める沐浴もくよくからひげを剃り髪を結い、時節の衣服に麻のじつとくを着せて木造りの脇差わきざしを腰に差し、と事細かに指示されます。「十徳」は羽織に似た男性用の外出着で、宣長の時代には医師や儒者、茶人などの礼服でした。
 ――沐浴は世間並みにてよろし、沐浴相済み候はば、平日の如く鬚を剃り候て、髪を結ひ申すべく候、衣服はさらし木綿の綿入壱つ、帯同断、尤もあわせにても単物ひとへものにても帷子かたびらにても、其の時節の服と為すべく候、麻の十徳、木造りの腰の物、尤も脇指わきざしばかりにて宜しく候、随分麁末そまつにて、只形ばかりの造り付にて宜しく候、棺中へさらし木綿の小さき布団を敷き申すべく候、随分綿うすくて宜しく候、惣体そうたい衣服、随分麁末なる布木綿を用ふべく候……
 続いて、納棺の要領です。
 ――さて稿わらを紙にて、いくつも包み、棺中所々、死骸の動かぬ様に、つめ申すべく候、但し、丁寧に、ひしとつめ候には及ばず、動き申さぬ様に、所々つめ候てよろしく候、棺は箱にて、板は一通リの杉の六分板と為すべく、ざつと一返削り、内外共、美濃紙にて、一返張申すべく候、蓋同断、釘〆、尤もちゃんなど流し候には及ばず、必々板等念入候儀は無用と為すべく候、随分麁相そさうなる板にて宜しく候……
 「ちゃん」は木材に用いる防腐用塗料のことですが、ここまで読んで小林先生は言います。
 ――この、殆ど検死人の手記めいた感じの出ているところ、全く宣長の文体である事に留意されたい。……
「検死人」は、変死者、または変死の疑いのある死体を調べる医者や役人のことですが、その検死人の手記とは、死体の有り様を克明に観察し、わずかな変事も見逃さずになされる記録です。宣長の遺言書は、そうした検死人の手記を思わせるというのです。それも、文体が、です。遺体の身拵え、納棺の要領までも指示するという気の回し方もさることながら、小林先生が感服しているのは宣長の目の使い方、心の向け方です。遺言書のこのくだりは、生きている宣長が死んだ宣長の部屋へ通り、沐浴から納棺へと運ぶ手順をてきぱきと差配している、そうも言いたいほどの臨場感で読めるのですが、先に小林先生が、宣長の遺言書は彼の思想の結実であり、あえて最後の述作と呼びたいと言った所以の第一は、この「殆ど検死人の手記めいた感じの出ている」宣長の文体でしょう。
 「文体」という言葉も、小林先生にあってはかなりの奥行があるのですが、「思想」というなら「文体」も思想の一環です。ここでまた確と思い返しておきましょう、かつて「思想」という言葉をめぐって小林先生は、「イデオロギー」との対比において「思想」の意義を明らかにしました。「イデオロギー」は人間が集団で行動するための原理であり論理ですが、「思想」はそうではありません、――僕の精神は、何かを出来上らそうとして希望したり、絶望したり、疑ったり、信じたり、観察したり、判断したり、決意したりしているのだ、それが僕の思想であり、また誰にとっても、思想とはそういうものであろうと思う……、つまり、「思想」とは個人のものだ、人間一人ひとりのよりよく生きるための思索だと小林先生は言うのです。
 ここから敷衍して言えば、宣長の「紫文要領」は「源氏物語」を、「古事記伝」は「古事記」を、宣長が正しく読もうとして「希望したり、絶望したり、疑ったり、信じたり、観察したり、判断したり、決意したり」した宣長の思想の軌跡であり、その「希望したり、絶望したり、疑ったり、信じたり、観察したり、判断したり、決意したり」した精神のその時々の起伏が言葉に乗って外に現れたときの弾力感や速度感、それが文体である、と言えるでしょう。そうであるなら文体は思想そのものでもあるとも言え、そういう宣長独自の文体が「遺言書」にも顕著である、これから宣長の学問を読んでいくにあたっては、まずはそこに心を留めておいてほしい、小林先生はそう言っているのです。

 次いでは葬儀の手筈です。
 ――て死骸の始末だが、「右棺は、山室妙楽寺へ、葬り申すべく候、夜中密に、右の寺へ送り申すべく候、太郎兵衛並びに門弟のうち壱両人、送り参らるべく候」とある。……
 宣長の遺言書は、どんな人の遺言書とも異なっていると小林先生は早くに言っていましたが、最も異なっている、と言う以上に、異様とさえ思わせられるのはこの遺体に関わる指示でしょう。この指示は、沐浴から納棺までのことを言った第三条の直後、第四条にあります。
 本居家の菩提寺はじゅきょうと言い、松坂の中心部にあって本居家代々の墓もここにありましたが、宣長はこれとは別に、自分ひとりのための墓を造ろうとしました、それが先に見た山室山の奥墓です。「山室妙楽寺」と言われている「妙楽寺」は、樹敬寺の前住職が隠居所としていた寺で、山室山の中腹にあり、その住職の世話で宣長は山室山に墓所を得ることができたのですが、当時は遺体を埋葬する「埋め墓」と、墓参のための「詣り墓」、この二つの墓を造ることはふつうに行われていました。後にこの風習は、両墓制と呼ばれるようになりますが、いずれにしても宣長が、樹敬寺の墓に加えて妙楽寺に墓を造ろうとしたこと自体は別段特異なことではありませんでした。しかし、遺体の扱い方は特異も特異でした。
 宣長自身、「送葬の式は、樹敬寺にて執行とりおこなひ候事、勿論なり」と書き、「右の寺迄、行列左の如し」と言って葬列の組み方を詳しく図解するまでしています。棺に納められた遺体はまずは樹敬寺へ運ばれ、そこで葬儀を執り行い、そのあと「埋め墓」の地の山室山に移して埋葬される、それが通例の段取りでした。ところが、宣長の指示はそうではなかったのです。自分の遺体は、樹敬寺で行う葬儀の前の夜中、内々で妙楽寺へ運べ……、そして、葬儀当日の葬列を事細かに指図した最後に、「已上いじょう、右の通りにて、樹敬寺本堂迄空送カラダビ也」と記しています。
 小林先生は、これを承けて言っています。
 ――葬式が少々風変りな事は、無論、彼も承知していたであろうが、彼が到達した思想からすれば、そうなるより他なりようがなかったのに間違いなく、それなら、世間の思惑なぞ気にしていても、意味がない。遺言書の文体も、当り前な事を、当り前に言うだけだという、淡々たる姿をしている。……
 どういう葬式にしようとも、「彼が到達した思想からすれば、そうなるより他なりようがなかったのに間違いなく……」、ここに私は、小林先生が宣長の遺言書は彼の思想の結実であり、あえて最後の述作と呼びたいと言ったについての第二の所以を見ます。
 宣長は、自分の遺体は葬儀の前夜、秘かに山室の妙楽寺へ送れと書いた後、「右の段、本人遺言致し候旨、樹敬寺へ送葬以前、早速に相断り申さるべく候、右は、随分子細はこれ無き儀に候」と言っています。「随分子細はこれ無き儀に候」は、けっしてこれといったことわけがあってのことではありません、というほどの意で、「子細」は「格別の事情」「なんらかのわけ」といった意味合です。
 ――ところが、やはり仔細は有った。……
 小林先生がこう転じた「仔細」は、「支障」「不都合」「異議申し立て」等の意です。
 ――村岡典嗣つねつぐ氏の調査によれば、松坂奉行所は、早速文句を附けたらしい。菩提所で、通例の通りの形で、葬式を済ませた上、本人の希望なら、山室に送り候て然るべしと、遺族に通達した。寺まで空送で、遺骸は、夜中密に、山室に送るというような奇怪なる儀は、一体何の理由にるか、「追而おって、いづれぞより、尋等これあり候節、申披まうしひらきむつしき筋にてこれあるべく存じられ候」というのが、役人の言分である。……
  「いづれぞより」は、どこかから、とおぼめかして言っていますが、ここは、御奉行様から、の婉曲な言い回しと解していいでしょう。宣長の思想の前に、俗世の通念が立ちはだかり、小林先生は、ここに宣長の真骨頂を見たのです。
 ――実際、そう言われても、仕方のないものが、宣長の側にあったと言えよう。この人間の内部には、温厚な円満な常識の衣につつまれてはいたが、言わば、「申披六ヶ敷筋」の考えがあった。……
 これが、小林先生が宣長の遺言書を読んで、最も読者に訴えたかったことです。宣長の遺言書を、彼の思想の結実であると言い、あえて最後の述作と呼びたいと言った言葉の淵源です。
 「申披六ヶ敷筋」の「申披」は弁明あるいは釈明、「六ヶ敷」は難しい、「筋」は事柄、つまり、遺体を直接妙楽寺へ、それも夜中に人目を忍んでなどという振舞いは、どう釈明しようとも御奉行様に聞き入れてもらうことは難しい、役人はそう言ったのですが、この「申披六ヶ敷筋」は、宣長の全生涯において、急所と思える局面での言動には悉く言えることでした。
 したがって、「本居宣長」の劈頭においた折口信夫氏訪問の日の思い出で、小林先生が折口氏に向けた「古事記伝」に関わる問いに折口氏は橘守部の『難古事記伝』を引いて応じ、これを受けて小林先生は、「宣長の仕事は、批評や避難を承知の上のものだったのではないでしょうか」と返した旨が書かれていましたが、この「宣長の仕事は、批評や避難を承知の上のものだったのではないでしょうか」は、折口氏との間で「遺言書」もが話題に上っていたなら、「宣長の仕事は、すべて『申披六ヶ敷筋』のものだったのではないでしょうか」と言われていても不思議ではなかったのです。
(第一章 了)