小林秀雄「本居宣長」を読む (二)第一章 上

小林秀雄「本居宣長」を読む(二)
第一章  折口信夫氏の示唆
池田 雅延   
 第一章  折口信夫氏の示唆

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 小林秀雄先生の「本居宣長」は、次のように書き起されています。
 ――本居宣長について、書いてみたいという考えは、久しい以前から抱いていた。戦争中の事だが、「古事記」をよく読んでみようとして、それなら、面倒だが、宣長の「古事記伝」でと思い、読んだ事がある。……
 ここで言われている「戦争」は、日中戦争です。昭和十二年(一九三七)七月に日本が起した対中国の侵略戦争ですが、その頃に小林先生が「古事記」を「よく読んでみよう」としたのは、ひとつには次のような経緯によってであったと思われます。
 昭和十二年の春、日本の文壇では日本的なものとか、日本の民族性とかについての議論が盛んに行われていました。小林先生はその気運をとらえて「『日本的なもの』の問題Ⅰ」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第9集所収)、「同Ⅱ」(同)を書き、こう言いました、
 ――民族性がどうの伝統がどうのと議論してみても、文学者がそういうものについて己れ独特の文学的イメエジを抱いていなければ空論に過ぎまい。日本というものの自分独特のイメエジを信じ、これを作品によって計画的に証明しようと努めている作者は、少くとも新しい文学者の間では林房雄一人きりだ。そして彼の仕事は今始ったものではないし、成しとげられるのに未だ長い時間を要する。……
 小林先生が「古事記」をよく読んでみようと思ったのは、この発言の線上に立ってのことで、先生は、自分も文学者のひとりとして、日本人の民族性や伝統についての「己れ独特の文学的イメエジ」を「古事記」から得ようとしたと思えるのです。
 昭和十二年の春といえば、先生が三十五歳になるかならぬかの頃ですが、先生はそれまで日本の古典はほとんど読んでいませんでした。昭和九年四月、雑誌『若草』のアンケート「わが愛読の日本古典」に「愛読出来る程日本文学の古典には親しんではおりません」と「回答」を寄せていますが、同年二月、「『罪と罰』についてⅠ」を『行動』に発表したのを皮切りに五月には「同Ⅱ」、七月には「同Ⅲ」を発表、同年九月から翌十年七月までは「『白痴』についてⅠ」を『文藝』に連載し、昭和十年一月からは『文學界』に「ドストエフスキイの生活」を連載して十二年三月に及ぶなど、昭和九年の年明けから十二年の春先まで先生はドストエフスキーに没頭していましたから、依然として日本の古典どころではなかったでしょう。
 したがって、昭和十二年の春、先生が日本人の民族性や伝統についての「己れ独特の文学的イメエジ」を「古事記」から得ようとしたのは画期的発意だったと言えるのですが、しかし昭和十二年の春、先生の机上には連載を終えたばかりの「ドストエフスキイの生活」が載っていました、先生にはこの「ドストエフスキイの生活」に手を入れ、早く本にしたいという思いも強かったでしょうから、宣長の「古事記伝」と本格的に向かい合ったのは『ドストエフスキイの生活』が創元社から刊行できた昭和一四年五月以後だったかも知れません。

          

 いまここで、あらためて申し述べるまでもないことですが、「古事記」は日本最古の歴史書です、そして「古事記伝」は本居宣長の「古事記」の注釈書です。しかし「古事記伝」は、ただの注釈書ではありません。
「古事記」は奈良時代が始ったばかりの和銅五年(七一二)一月、太安万侶おおのやすまろらの苦心によって完成しましたが、まだ平仮名も片仮名もなかった時代のことで、文字と言えば中国から渡ってきた漢字があるだけでした。その漢字にしても日本に伝わったのは今から一五〇〇年前ともそれ以上前とも言われていますが、和銅五年は今から約一三〇〇年前ですから、仮に漢字の伝来が一五〇〇年前頃だったとすると日本の文字文化はまだ二、三百年しか経っておらず、したがって漢字で文章らしきものを記そうにも漢文の表記法がほんの一部の人たちに知られていただけだったと思われる時代です、そんな時代に安万侶は、漢字の一字一字を様々に組合せ、独自の表記法を編み出して大和言葉、すなわち日本古来の国語を文字化し「古事記」を書き上げたのです。

 安万侶の「古事記」の撰述は元明天皇の命によるものでした。新潮日本古典集成『古事記』の校註者、西宮一民氏の解説によれば、元明天皇は和銅三年三月十日の平城遷都をきっかけとしてこの修史事業を立ち上げ、宮廷専属の文人学者太安万侶に撰述を命じました。当時、官人の文章記述法としては漢文表記を用いるのが常道となっていましたが、安万侶は一計を案じ、漢字を借りはするものの原則としてはその字の意味は捨て、音と訓のみを借りて漢文ではない大和言葉の文章を書いたのです。
 この一計には安万侶の深慮遠謀がありました。ここからは筑摩書房版「本居宣長全集」第九巻の大野晋氏の解題にも拠りながらお話ししますが、単に歴史的事実を記述するだけなら漢文表記の方がはるかに効率的でした。しかし漢字は、一字一字が中国語の語意、語感を帯びています、そういう漢字に意味内容までよりかかり、漢文表記で文字化したのでは、日本の歴史は中国語の語意、語感に染まって純粋の日本史ではなくなってしまうだろう、歴史の古心は古語によってこそ古人さながらに体感してもらえるはずだ、だから巻頭から巻尾まで、全文が大和言葉で訓読してもらえるような表記法をと安万呂は考えたようなのです。
 ところが、「古事記」はそういう特殊な漢字の使い方で成った書でしたから、「古事記」とほぼ同時代にやや後れて完成した「日本書紀」が漢文表記で書かれていたところからも日本の歴史書としては「日本書紀」が「古事記」より重んじられ、これによって「古事記」は上代、平安、鎌倉、室町の各時代を通じてまともに取り扱われることはないまま過ぎていました。わずかに室町時代の後期、「古事記」を訓む努力も一部ではされ、江戸時代に入ると『萬葉代匠記』を著した契沖が、『厚顔抄』も著して「古事記」の歌謡のすべてに注解を施したりはしましたが、概して言えばおよそ一〇〇〇年、江戸時代の半ば頃まで「古事記」はそこに書かれている文字を満足には読もうとさえされないままでした。その「古事記」を、宣長は一代で読み解いたのです。しかも、ここはなぜこう訓むかまでいちいち克明に注記したのです。
 「古事記」が一〇〇〇年もの間、一般にはほとんど本気で読もうとされなかったという不幸の急所は、やはり太安万侶独創の漢字表記にありました。先ほども言ったように、安万呂は漢文表記を敢えて斥け、漢字一字一字の音と訓を借りて大和言葉を文字化するという、今日では「万葉仮名」と呼ばれている表記法を編み出したのですが、宣長はそこに窺える安万侶の深慮をただちに感受し、明和元年(一七六四)三十五歳の年から寛政十年(一七九八)六十九歳の年まで、足掛け三十五年の歳月を費やしてその深慮と苦心を汲み続けたのです。
 「古事記伝」の「伝」は古典を解釈するという意味での「伝」です。小林先生が「それなら、面倒だが」と言っているのは、上記のような宣長の洞見によって「古事記伝」が途轍もない大著になっていたからです。
 小林先生は、こうして「古事記」と、「古事記伝」とに出会いました。
 ――歴史というものは、見れば見るほど動かし難い形と映って来るばかりであった。新しい解釈なぞでびくともするものではない、そんなものにしてやられる様な脆弱ぜいじゃくなものではない、そういう事をいよいよ合点して、歴史はいよいよ美しく感じられた。晩年の鷗外が考証家に堕したという様な説は取るに足らぬ。あの厖大な考証を始めるに至って、彼は恐らくやっと歴史の魂に推参したのである。「古事記伝」を読んだ時も、同じ様なものを感じた。解釈を拒絶して動じないものだけが美しい、これが宣長の抱いた一番強い思想だ。解釈だらけの現代には一番秘められた思想だ。そんな事を或る日考えた。……
 昭和十七年六月、「無常という事」(同第14集所収)にこう記す三年前、ないしは二年前のことでした。
           
          

 そして先生は、「本居宣長」で続けて言います。
 ――それから間もなく、折口おりくち信夫しのぶ氏の大森のお宅を、初めてお訪ねする機会があった。話が、「古事記伝」に触れると、折口氏は、たちばな守部もりべの「古事記伝」の評について、いろいろ話された。浅学な私には、のみこめぬ処もあったが、それより、私は、話を聞き乍ら、一向に言葉に成ってくれぬ、自分の「古事記伝」の読後感を、もどかしく思った。そして、それが、殆ど無定形な動揺する感情である事に、はっきり気附いたのである。「宣長の仕事は、批評や非難を承知の上のものだったのではないでしょうか」という言葉が、ふと口に出てしまった。折口氏は、黙って答えられなかった。私は恥かしかった。……
 ――帰途、氏は駅まで私を送って来られた。道々、取止めもない雑談を交して来たのだが、お別れしようとした時、不意に、「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ、では、さよなら」と言われた。……
 小林先生はそう言い、続けて次のように言います。
 ――今、こうして、おのずから浮び上がる思い出を書いているのだが、それ以来、私の考えが熟したかどうか、怪しいものである。やはり、宣長という謎めいた人が、私の心の中にいて、これをめぐって、分析しにくい感情が動揺しているようだ。物を書くという経験を、いくら重ねてみても、決して物を書く仕事は易しくはならない。私が、ここで試みるのは、相も変らず、やってみなくては成功するかしないか見当のつき兼ねる企てである。……
 小林先生は、そこまで書いて次の話題へと移っていくのですが、先生は、「本居宣長」を、なぜこの「折口氏の思い出」から書き起したのでしょうか。「今、こうして、おのずから浮び上がる思い出を書いているのだが」と言われていますが、先生が本居宣長について書こうと思うや、「折口氏の思い出」は一番に、「自ずから」、浮び上がったのです、ということは、この「自ずから」は、「必然的に」と言ってもいい「自ずから」だったのです。そしてあの折口氏の「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ」は、ついには小林先生の「本居宣長」の屋台骨となったのです。

          

 折口信夫氏は、国文学者、民俗学者であると同時に優れた歌人でした。明治二十年(一八八七)の生れで小林先生より十五歳年長、民俗学者としては柳田國男の門下として知られ、歌人としては釈迢空の名で知られていますが、国文学者としては大正五年(一九一六)から六年にかけての『口訳萬葉集』がまずあり、昭和四年からは全三巻の『古代研究』を刊行、民俗学を踏まえた古代文学の発生研究や古代の信仰研究等を世に問いました。
 その折口信夫氏に、小林先生は早くから敬意を抱いていました。折口氏の代表的な著作に「死者の書」がありますが、これは奈良の当麻寺たいまでらの中将姫伝説に材を取り、古代人の生活と心を再現してみせた中篇小説で、昭和十四年の一月から三月にかけて『日本評論』に発表されました。昭和十一年十二月、フランスの思想家アランの「精神と情熱とに関する八十一章」の翻訳を創元社から刊行したのが機縁で創元社の顧問となり、昭和十三年十二月、柳田國男の『昔話と文學』を第一巻として「創元選書」の刊行を始めていた小林先生は、「死者の書」を読むやただちにこれを「創元選書」に収録させてほしいという願いをもって折口氏を訪ねました。先生のこの願いは、「死者の書」はまだ続篇を書きたいからとの理由で断られましたが、先生の「死者の書」に寄せる敬畏は続き、昭和十八年に「死者の書」が青磁社から出た後の昭和二十五年十一月、先生は『新潮』に「偶像崇拝」を書いて「死者の書」に光っている折口氏の美的直覚と詩的表現を称えました。
 その折口氏を、小林先生は、「死者の書」とは別の思いを抱いて訪ねたのです。昭和二十五年か二十六年のことだったように思うと、若き日、折口氏の家に書生として住み込んでいた歌人の岡野弘彦氏は言われ、小林先生は本居宣長のことを書きたいという意思をはっきり持って訪ねてこられたようだったとも言われています(座談会「小林秀雄の思想と生活」、『国学院雑誌』第一一一巻第一号所載)。
 しかし、このときも、小林先生の期待は少なからず裏切られました。先生は「話が、『古事記伝』に触れると」と、さりげなく書いていますが、実際は『古事記伝』に関して折口氏に何らかの問いを向けたのでしょう。そうでなければ折口氏の応対に、「私は、話を聞き乍ら、一向に言葉に成ってくれぬ、自分の『古事記伝』の読後感を、もどかしく思った。そして、それが、殆ど無定形な動揺する感情である事に、はっきり気附いたのである」とまでは書かなかったでしょう。
 折口氏が口にのぼした橘守部は宣長からは五十年ほど後の学者で、折口氏がいろいろ話したと言われている守部の評とは主として『難古事記伝』からであったと思われるのですが、「難」は批難の「難」です、したがって折口氏もまた「古事記伝」はさほどには評価していないと受取れる話の内容だったのでしょう、しかし、小林先生が折口氏に返した「宣長の仕事は、批評や非難を承知の上のものだったのではないでしょうか」は、直接には橘守部の「古事記伝」批難を聞かされての言葉だったにしても、胸中、小林先生は、こういう批難は橘守部だけではないだろう、極端に言えば誰ひとりとして宣長の学問は理解できなかったのではあるまいか、それほどまでに宣長の学問は尋常の人知を超えていたのではあるまいか、そうも思い始めていたと思われます。
 そして折口氏は、小林先生を大森駅まで送ってきた別れ際に、唐突に言ったのです、――小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ……。
 岡野氏は、折口先生の別れ際のあの言葉は、小林先生が大森駅の改札口を通られてからでした、何歩か去っていかれた小林先生の背中に折口先生が「小林さーん」と呼びかけられ、小林先生もギクッとしたような感じで戻ってこられました、その小林先生に、折口先生は「本居さんはね、やはり源氏ですよ、はい、さようなら」とだけ言ってまたクルッと後ろを向いてしまわれましたから、小林先生もそのまま帰っていかれましたが、折口先生の家での会話に「源氏物語」はほとんど出ていなかったと思います、と言われていました。
 こうして岡野氏の記憶を聞かせてもらって、私、池田は、折口氏の別れ際のあの一言は、橘守部の『難古事記伝』に対して「宣長の仕事は、批評や非難を承知の上のものだったのではないでしょうか」と言った小林先生の言葉に黙して答えなかった折口氏の、思い余っての一声だったのではないかと思いました。小林先生は、それをそうと確かめ、長く記憶に留めていたればこそ、「本居宣長」を折口氏の思い出から始めたのだと思いました。

         

 小林先生は、大森駅で折口氏と別れた後、時を移さず折口氏の「源氏物語」論と、宣長の「源氏物語玉の小櫛」か「紫文要領」かを探して読んだと思われます。そして折口氏の「日本文学の戸籍」に行き会ったと思われます。
 本居宣長といえば、「古事記伝」とともに「もののあはれ」という言葉が代名詞のようになっていますが、「もののあはれ」という言葉は「本居宣長」では第五章で初めて顔を見せ、小林先生が宣長の学問と正対し始める第十二章に至って本舞台に立ちます。
 考察は第十三章、第十四章と進められ、第十五章に入ってこう言われます。
 ――折口信夫氏は、宣長の「物のあはれ」という言葉が、王朝の用語例を遥かに越え、宣長自身の考えを、はち切れる程押しこんだものである事に注意を促しているが(「日本文学の戸籍」)、世帯向きの心がまえまで押込められては、はち切れそうにもなる。……
 小林先生が第一章に記した折口氏の別れ際の一言、「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ、では、さよなら」は、ここへつながってくるのです。すなわち、折口氏の一言は、小林先生が宣長の「もののあはれ」の説に眼をひらく一大契機となったのです。それまでの宣長は、小林先生のなかでは「『古事記伝』の宣長」でした、それが「『源氏物語』から『古事記』への宣長」になったのです。

 先生が第十五章に引いている「日本文学の戸籍」は、折口氏の著書『国文学』の第二部で、「源氏物語」は第三章で講じられていますが、先生が引いた所説の前にはこういう言葉が見えています。
 ――本居宣長先生は、「古事記」の為に、一生の中の、最も油ののった時代を過された。だが、どうも私共の見た所では、宣長先生の理会は、平安朝のものに対しての方が、ずっと深かった様に思われる。あれだけ「古事記」が譯っていながら、「源氏物語」の理会の方が、もっと深かった気がする。先生の知識も、語感も、組織も、皆「源氏」的であると言いたい位だ。その「古事記」に対する理会の深さも、「源氏」の理会から来ているものが多いのではないかと言う気がする位だ。これほどの「源氏」の理解者は、今後もそれ程は出ないと思う。……
 おそらくこれが、「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ」の子細です。
 小林先生は、ここであの折口氏の、大森駅での言葉の真意を痛感したと思われます。その核心は「もののあはれ」です。そしてこのとき、小林先生における「『古事記伝』の本居宣長」は、「『源氏物語』から『古事記』への本居宣長」に変貌したのです。先に私が、折口氏の一言は、小林先生の「本居宣長」の屋台骨となったと言った所以です。
 いずれにしても折口氏のあの一言は、小林先生の宣長理解に画期的な道をつけました。それから約十年後の昭和三十五年七月、先生は新潮社の『日本文化研究』シリーズに最初の本居宣長論として「本居宣長――物のあはれの説について」(「小林秀雄全作品」第23集所収)を書きました。『新潮』で「本居宣長」の連載を始める昭和四十年六月の五年前でした。
(第一章  了)