小林秀雄山脈の裾野散策 

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 小林秀雄山脈の裾野散策(五)
       
小林秀雄の井伏鱒二論( 追 記 )
大島 一彦  
 小林秀雄は「井伏君の『貸間あり』」の最後の一節で、映画に長ながと映し出される「男女の狂態」に触れて、「これには閉口した」と云つてゐる。なぜなら、これは趣味とか道徳とかの問題ではなく、画面から来る一種の暴力であつて、観客は或る不安を我慢させられるが、「この不安のうちには、一とかけらの知性も思想も棲む事は出来ない」からである。「なるほど、画面に現れる人々の狂態は、日常生活では、誰にも極く普通な自然な行為である。ただ、私達は、自分の行為を眺めながら行為する事が出来ないだけの話だ。実生活の自然な傾向は行為せずに眺める事を禁じてゐる。」これはたいへん重要な指摘で、小林はここで猥褻と云ふ言葉は遣つてゐないが、実はこの「極く普通な自然な行為」を敢へて眺める、或は眺めさせる行為が所謂猥褻行為なのである。
 作家は実生活に対して観照の世界と云ふ不自然な心的態度のうちに棲むがゆゑに、実生活が狂態で充満してゐるのがよく見える。少しでも気を許せば猥褻行為に及びかねない危機に瀕してゐる。「この言はば視覚の或は知覚の危機を経験してゐないやうな者は作家ではない。彼はひたすら言葉の工夫によつて、この危機を切り抜ける。」小林はさう云つて、最後をかう結んでゐる――「実世間を参照しなければ言葉は死ぬであらうが、一方、実世間の在るがままの姿などといふものは、箸にも棒にもかからぬものだと知つて置く方がよい。現実の実相を、小説にどこまで表現出来るか、といふやうな言ひ方が、無反省に濫用されすぎる。」
 勿論、井伏鱒二の原作には「男女の狂態」を描写したところなど一箇所もない。
(この項 了) 

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