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小林秀雄山脈の裾野散策(十五)
世世の心を見る眼
大島 一彦
今ここに、並べて引用してみたい二つの文章がある。一つは本居宣長の「くず花」からの一節で、小林秀雄が「本居宣長」の第四十八章冒頭に引用してゐるもの、もう一つは小林自身の「歴史と文学」からの一節である。多分引用者による解説は殆ど不要であらう。二つを併せ読むならば、前者の考へ方が後者の考へ方の根本を支へてをり、後者が前者の見事な敷衍解説になつてゐることが分るからである。
まづ宣長の「くず花」から――
「古へより文字を用ひなれたる、今の世の心をもて見る時は、言伝へのみならんには、万の事おぼつかなかるべければ、文字の方はるかにまさるべしと、誰も思ふべけれ共、上古言伝へのみなりし代の心に立かへりて見れば、其世には、文字なしとて事たらざることはなし、これは文字のみならず、万の器も何も、古へには無かりし物の、世々を経るまゝに、新に出来つゝ、次第に事の便よきやうになりゆくめる、その新しく出来始めたる物も、年を経て用ひなれての心には、此物なかりけん昔は、さこそ不便なりつらめと思へ共、無かりし昔も、さらに事は欠ざりし也」
勿論小林は、宣長論の流れの中で、上古言伝へのみの世の心、つまり未だ文字がなく話言葉だけで伝達伝承が行はれてゐた時代の人心が、文字に慣れ親しんで来た時代の人心と如何に異なるかを述べるためにこの一節を引用してゐるのだが、私が初めてこの文章に出会つたときに驚いたのは、譬へとして述べられた引用文後半に見られる歴史観であつた。私もそれまでは御多分に漏れず、歴史は古へより今日に至るまで進歩発展して来たものと思ひ、それ以上のことは深く考へたことがなかつた。多分それは私の眼が、時代の推移とともに現れるさまざまな分野における便利な発明品にのみ向けられてゐたからである。しかし宣長の眼はそれぞれの時代に生きた人びとの心、つまり「世(代)の心」に向けられてゐたのである。いつの世も人はその世にあつて可能な物事を最大限に活用し味ははうとしてゐたのであつて、不可能な物事は初めから思慮の外であつたらう。従つて、仮に幸福度と云ふやうなものがあるとすれば、それはその可能な物事がどれだけ実現あるいは経験出来たかによつて計られるであらう。だとすれば時代がいつであらうと、時代そのものに優劣はつかないことになる。
小林はこの宣長の文について、「いかにも宣長らしい、平明な譬へだが、平明過ぎて、読む者は、そのまま読み過ごし、このやうな事を明言した者は、この人以前に、誰一人ゐなかつた事には、想ひ到らぬといふ事はあるのである」と云つて、読者の注意を促してゐる。因みに、宣長の云ふ「万の器も何も」は、今日風の云ひ方をするなら「一切のどんな文明の利器も」と云ふことにならう。
小林の「歴史と文学」は昭和十六年の三月に発表されたものである。小林がこのとき既に「くず花」を読んでゐたかどうかは判らないが、戦時中に「古事記伝」を読んだと云つてゐるから、歴史を考へる際に宣長の考へ方も意識されてゐたらうとは想像出来る。それはともかく、小林の云ふところを聞いてみたい――
「歴史の進歩といふ様な事が誰の念頭にもなかつた時代もあつたし、人間の退歩を信じ切つてゐた時代も嘗てはあつた。さういふ時でも最善を尽した人は尽したのだし、努力家は努力家だつたし、怠け者は怠け者だつたのであります。歴史の変化は様々な価値の増大を齎すといふ考への流行のうちにをりますと、不平を言つてゐても、皮肉を言つてゐても、人類の進歩に協力してゐる気がしてゐるといふ事になる。併し、それはまだよい。一番いけないのは、この考へに捕はれた者が、しかとした理由もなく抱く過去といふものに対する侮蔑の念であります。ただ単に現代に生れたといふ理由で、誰も彼もが、殆ど意味のない優越感を抱いて、過去を見はるかしてをります。単にもう死んで了つた人々であるといふ理由で、彼等にはもはや努力して理解しなければならぬ様な謎はないのだ、彼等の価値には、歴史の限界が明らかだからだと言ひます。そんな事は彼等の知つた事ではありませぬ。では現代の価値にも歴史の限界がある筈かと言へば、それは勿論ある、と言ひます。そして、将来は、自分が侮蔑される番だ、ときまり悪さうに言ひそへるがよろしい。それなら、価値は、地球が充分に冷却した時に、最大となるわけですか。と言ふ事は、はじめから価値の問題なぞ実はどうでもよかつたのと同じ事になります。何といふ空想でせうか。
「『見る人の、語りつぎてて、聞く人の鑑にせんを、惜しき、清きその名ぞ』と家持は歌つた。何といふ違ひでせうか。『万葉』の詩人は、自然の懐に抱かれてゐた様に歴史の懐にもしつかりと抱かれてゐた。惜しと想へば全歴史は己れの掌中にあるのです。分析や類推によつて、過去の影を編み、未来の幻を描く様な空想を知らなかつたのです。」
――本稿は以上の引用で終にするつもりであつたが、その後たまたま「様々なる意匠」を読返してゐたら次の一節が眼に留つたので、これも引用しておきたくなつた――
「如何なる時代もその時代特有の色彩をもち音調をもつものだ。しかしそれは飽く迄も色彩であり音調であつて、吾々が明瞭に眺め得る風景ではない。吾々の眼前に明瞭なものは、その時代の色彩、その時代の音調の産んだ様々な表象の建築のみである。世紀がその最も生ま生ましい神話を語るのは、吾々がその世紀の渦中にあつて最も無意識に最も潑剌と行動してゐる時に限る。」
時代に違ひがあるとすれば、それはその時代特有の色彩と音調の違ひだけだとするこの考へ方は、時代に歴史の限界を見ることも価値の優劣をつけることもない。「さらに事は欠ざりし也」と云ふ宣長の言葉とも通じ合ふところがあるやうに思はれる。「様々なる意匠」の初出は昭和四年であるから、小林はまだ宣長を読み始めてゐなかつたかも知れない。だとすると、小林には宣長と出会ふ前から宣長に共鳴する下地があつたとも云へさうである。なほ、引用文中の私が傍点を附した部分は、その時代の色彩を湛へ、その時代の音調を帯びた個個の具体的な文化遺産、とでも解すれば分り易いかも知れない。
(この項了)
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