小林秀雄山脈の裾野散策 

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 小林秀雄山脈の裾野散策(十一)
       
小林秀雄の小説観
大島 一彦  
 小林秀雄が「山本有三の『真実一路』を廻つて」と云ふエッセイで述べてゐる小説観は、ことさら難しいことを云つてゐるわけではないが、案外小説読者の盲点を突いてゐるのではないかと思はれるので、その云ふところを確認しておくのも無駄ではないであらう。小説の世界はどこにあるのか――これが拙文の着目する主題だが、小林はここでも論旨を明瞭化するために他の藝術の小説とは異なる特質を明瞭化してみせる。
 例へば、音楽は音のさまざまな組合せで出来上がつてゐるから、解釈は聴く人の主観でどうにでもなると思はれがちだが、それは浅薄な考へで、「実は音楽ほど人を強制する力の強い、聴く者に不自由な藝術はない」のだと云ふ。「演奏が始れば……音の進行に完全に服従して神妙に終りを待つ以外に鑑賞のしやうがない。途中でくしゃみ一つ出来ないといふ不便を僕等は忍ぶのである。……息を殺して、僕等は陶酔を味ふのだが、この陶酔も勝手な陶酔を味ふといふわけにはいかないので、プレストが鳴つてゐる時、誰もアンダンテを味ふ事は出来ない。……この事実は重要である。音楽は、沢山の聴衆に同じものを強制するのだ。ある曲に耳を傾けてゐる人々の心のうちに起つてゐる事は、酷似してゐるのだ。誰も自ら進んで心を動かさうとするものはない。動かされるままに誰でも放心してゐるからである。」
 の場合はどうか。「或る画が見る人に与へる美しさは、たつた一つであり、見る人によつて違ふといふ事はあり得ない。少くとも画の鑑賞といふものが精錬されれば、人々は皆そこに同じ美しさを見るに違ひない。……ある画の美しさは、人間の生理的な組織に大きな革命が起らない以上、恐らく絶対的なものであらう……。」
 その他、彫刻でも建築でも舞踏でもさうだが、これらの藝術はすべて鑑賞者の外部にあつて、「素材自身の、実質的な働きによつて」鑑賞者の生理的感覚に直接訴へるもので、そこに言葉はないのである。それを皆が敢へて解釈し、言葉にしようとするから、さまざまな意見が出て来るのであつて、実情は、誰もがみな一つの対象の同じ姿を感知してゐるのである。
 しかし「小説といふものは、読みながらいろいろ余計な事を考へさせるものである」と小林は云ふ。音楽の音とか、画の色とか、詩の韻律とか、さう云ふ「直接に僕等の感覚に訴へて僕等の心をつかむ様な好都合な手段を、小説は持つてゐない。小説は言葉といふ符牒から出来上つてゐる。言葉といふおよそ表現する当の対象とは似ても似つかぬ要素から、作者は小説の世界を築かねばならぬ。」
 それなら詩はどうなのか、詩も言葉から成つてゐるではないかと云ふ当然の疑問が起るが、これに対する小林の意見はかうである――「韻律といふもののお蔭で、この(詩の)言葉は、音符の様に一定の形に配列され、読む者は、否応なく一定の感情の流れを強ひられる。つまり詩の要素としての活字は、小説の要素としての活字に比べると、比較にならぬ程感覚的に生きてゐるものだ。」
 しかし小説は詩と違つて、元来読者の気が散る様な仕組に出来てゐるのだと云ふ。小説ぐらゐ人を束縛しない藝術はなく、「僕等は小説を読みながら、いつでも勝手に小説の世界から出る。ある処は丁寧に読み返したり、ある処はサッサと読み進んだり、面倒臭ければ二、三頁飛ばして了ふ。長いものなら一と月もかかつて様々な気分の時に、様々な先入主を抱きながら分割して読むといふのが普通の読み方でもある。」また、小説は読者を強制しないから、一つの作品であつても解釈は読者次第であり、批評家が正当な読み方はかうだと云つてみたところで無駄である。
 小説といふものの表現形式には、他の藝術に見られるやうな感覚的要素が全く欠けてゐる。小説が直接に感覚に訴へるものは何か。印刷された活字の恰好だけである。この活字の恰好をどう按排してみても、小説は何の変化も受けはしない。「だから小説の本質的な形式は、全く抽象的なものだと言へる。小説は読者の(感覚ではなく)精神に直接訴へる。小説から風景とか人物とかの生ま生ましい感じを得ると言ふが、……そんな感じを例へば絵が僕等に与へるやうには、小説は決して与へやしない。小説は感じに訴へるものではない。精神に訴へ、判断を要求するものだ。僕等が漠然と考へてゐる、小説の与へる生ま生ましい感じといふやうなものは、実は読者の判断なり想像力なりが発明する感じであつて、小説から直接に来る感じではない。」
 そこで小林は問ふ、「小説の読者にとつて、小説といふものは何処にあるのか」と。成るほど眼の前には書籍があり、印刷された活字がある。しかしそれらは小説というものではない。それならどこにあるのか。答はかうである――「小説といふものは、小説の読者の内部にある。外部には見附からない。いつでも内部にある。」
 云はれてみれば確かにそのとほりである。実はかく申す私自身長年小説を読んで来たが、或るとき小林のこの文章に出会ふまでは、このことにまつたく無自覚であつた。確かに我我は小説を読むとき、実際には言葉あるいは活字と云ふ抽象的な符牒を眺めてゐるに過ぎないのだが、想像力を働かせることで、その抽象的な符牒を具象的な影像に変へてゐる、つまり小説の世界を自らの内部に創り出してゐるわけである。「ところで」と小林は続けて云ふ、「小説に書かれた風景も人物も、僕等は読みながら僕等の外部に在ると感ずる。そこの処をよく考へて見給へ。それは恐らく次の事を意味する。僕等は小説を読みながら、絶えず小説といふものが僕等自身の外部にあるものの様に感じようと努力してゐる。つまり小説に具体性を与へようと努力してゐる。さう努力してゐること即ち読む事と言つてよろしい。」
 ところで、小林は小説の写実と云ふことについて、これは複雑で面倒な問題なのだと云ふ。深入りすれば「一般に言葉といふものの不思議な殆ど謎のやうな性質」に突き当るのだが、敢へてそこまで踏込まなくても、「写実といふ言葉は、読んで字の如く、実物を写すといふ事だが、元来言葉には実物を写すなぞといふ能力は全くないのである」と云ふ。なぜなら「僕等に実物といふものが考へられる限り、言葉は飽くまでもその符牒に過ぎない」からである。例へば土瓶といふ言葉で実物の土瓶を写実しようとしても土瓶の実物を見たことのない人には通じない。だが実物を思ひ浮べる的確な想像力を持つた人々にはたいへん便利な道具になる。従つて「言葉の写実的効果は専ら、その言葉によつて実物を思ひ浮べる読み手の想像力如何いかんにかかつてゐる。」しかし読み手の想像力は決して的確なものとは云へない。「いや元来甚だ的確を欠くといふのが想像力の生命の様なものだとさへ言へる」ので、言葉による写実が便利なやうでゐてなかなか上手く行かない所以ゆゑんなのだ。「昔から、筆舌に尽し難いとか、百聞一見にかず、とか言はれるのも、言葉の写実的欠陥を指して言ふに他ならない。」
 小林は以下、山本有三の「真実一路」に触れながら、小説における人間の性格描写について論じてゐるが、「性格描写と簡単にいふが、描写されるに適したはつきりした性格といふものが、果して何処にあるのだらうか。……性格といふものは眼を凝らしてはつきり捕へようとすれば人間から消え去つて了ふていのものだ。……出来上がつて了つたかくかくの性格といふ様なものは、実際には決してないもので、性格は在るといふより寧ろ不断に成るものだ。……読者が実際の人間が巧みに写されてゐると感ずるところで、実は作者は自分の勝手に性格をでつち上げてゐる」のだと云ふ。土瓶ならまだ外部に実物が想定され得るが、人間の性格となるとさうは行かない。作者の記す人物の言動から読者が自らの内部に思ひ描いてみることが出来るだけである。
 小林はさらに、小説に描かれる人生図を現実の人生図と思ひ込むのは錯覚であること、小説の思想とは、小説を分析して抽象的な思想に翻訳することではなく、登場人物自体と作品構造そのものにほかならないことなどに話を進めてゐるが、拙文が着目した、小説の世界はどこにあるのかと云ふ問に対する答は既に得られたと思ふので、以下の詳細は割愛する。
 要するに、小説と云ふ藝術は外部から鑑賞者の感覚に直接訴へて来るものではなく、飽くまでも読者が己れの想像力で自らの内部に創り上げながら外部にあるかのやうに感じようとするものだと云ふこと、しかもその拠所よりどころとなる活字化された言葉は符牒、つまり記号であつて、指示能力はあつても写実能力はなく、読者の想像力も的確を欠くものであるから、思ひ描かれる世界は各人各様で、誰にでも一つの同じ対象が出現することはあり得ないと云ふこと――以上が小林の小説観だと云つてよいであらう。確かに、云はれてみれば御尤もとも云へる説だが、この観点を意識しながら、例へば小林のドストエフスキーの作品論などを読返してみれば、余人による作品論とは違つた或る感触が得られる筈で、それがどこから来るのかにも思ひ当る筈である。
 最後に、駄目押しの気味があるかも知れないが、もう一つ小林の言葉を引用しておかう。――「放心してゐても音楽は聞えて来るが、放心して小説を読む事は出来ない。寧ろ音楽を聞いたり絵を見たりする人は、先づ意識して一種の放心状態を作る事に努めるものだ。つまり受け身の態度をとるものだ。だが小説を読む人は、覚め切つてゐる。彼は判断し、解釈し、同感し、反撥しながら読み進む。つまり読む能力とはさういふ一種の自己主張の能力に他ならない。詩は合唱出来るが、小説は独りで読むに適する。」
                               (この項了)
 

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