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小林秀雄山脈の裾野散策(十)
対象の特質の明瞭化について(2)
大島 一彦
次は芝居と映画と小説について――
「写真技術が、映画に於いて、驚くほどの計量と組織との力で生を模倣してみせてくれてゐるのは誰も知つてゐるが、芝居は、相も変らぬ不自由な大道具小道具を抱へて屈しようとはしない。仮装こそしてゐるが、動いてゐるのは尋常の人間であるといふ事、その魅力は掛替へないと信じてゐるからである。俳優の最上の喜びは、全観客の焼き付く様な眼を感じ乍ら、そしらぬ風が巧みに出来るといふ何んとも言へぬ感情にあるのではあるまいか、と私は屢々想像する。どんな名優も不入りつゞきの小屋で名演は出来まい。それが演技といふものである。芝居好きは、この事を深く理解してゐる。芝居好きは、芝居を見に行くのではない、寧ろ一種の芝居をしに行くのである。たぶらかされて泣いたり笑つたりする事が問題なのではない。巧みにたぶらかされつゝ、俳優の演技に対しては、はつきりと覚め切つてゐる。さういふ事をしに行く。『何んとか屋ア』と呼ぶ時、彼は夢みてなぞゐない。感嘆と親愛の情を実演するのだ。俳優と観客とは応和する。だから劇場には二つの劇がある。舞台の劇と、一層真実なこの観客との応和といふ劇場全体の劇と。」(「死体写真或は死体について」)
小林の云ふ「芝居」は多分に歌舞伎を念頭に置いたものと思はれるが、これに較べると翻訳劇や新劇は「芝居」としてはまだ熟してゐないと小林は見てゐるやうだ。それらは「まだこの第二の劇を創り出すに至つてゐない。本当の芝居好きを招くに至つてゐない。未熟な劇は、未熟な観客を創り出す。観客の喝采などといふ煩いものは要らぬといふ横柄な芝居が、冷淡な孤独な観客を創り出す」と云ふ。それはともかく、小林は芝居と対比することで映画の特質を浮彫りにする。
「銀幕に映つた俳優の影は、影の様な観客を創り出す。シナリオの寸断された場面を、カメラを相手に演じねばならぬ俳優は、演技すると言へるだらうか。演技の知的分析を演ずると言つた方がいゝ。影に喝采を送る事は出来ぬ。といふ一事が、観客の態度を決めて了ふ。映画館は、芝居小屋の様に、日常社会生活の延長の上に立つてゐないことを、彼等は、本能的に知つてゐる。彼等は、勿論私もその一人だが、この孤立したメカニスムの中に、黙々として吸ひ込まれる。凡ては、期待した通りだ。魂を悪魔に売渡せばよい。精神はフィルムとともに廻転する。フィルムとともに回転する精神を、どうして人間の精神と呼べようか。笑ひも涙も、運動する影の函数に過ぎず、決して私達のものではない。映画に屍臭を嗅ぐ事は難かしい。私達は弱く、精神が目覚めてゐるといふ事は難中の難だからだ。」(同前)
この中の「日常社会生活の延長の上に立つてゐない」と云ふ意味は、「日常社会生活の一時的中断の上に立つてゐる」と解すれば判り易いかも知れない。次の引用は「写真」から。ここでは小説と対比されてゐる。
「例へばドストエフスキイの『罪と罰』の映画を見た時など痛感するのであるが、小説と映画とは全く違ふ藝術だ。それはあたりまへだといふかも知れないが、この相違を痛感してゐる人は意外に少いのではないかと思はれる。『罪と罰』といふ小説を味読して、作者が表したいと思つた世界がどういふものであるかを感ずるのには、かなり骨が折れる。だが、この言はば眼を閉ぢて考へる世界の魅力なり真実性なりを感じてしまへば、これは映画の表現には全く適さぬことがはつきりするわけで、従つて映画が原作に忠実であるか、ないかといふやうな問題も、ほとんど無意味と考へられるわけである。映画製作者にすれば、原作の価値とは、製作に利用する様々な材料中のほんの一材料の価値に過ぎず、彼は当然、原作者が考へてもみなかつた、あるひは考へても実現は絶対に不可能だつた世界の表現を目指すのである。」
我我は小説を読むとき、暫し読むのを中断して考へ込んだり、前の方を読返して人物や情況などを再確認したりしながら自分の速度で読み進める。それが「言はば眼を閉ぢて考へる世界の魅力なり真実性」と云ふことなのだが、これは精神が「フィルムとともに廻転」してゐては不可能である。しかし映画を見るときはどうしても精神をフィルムの廻転速度に合せて行かなければならない。映画は待つてくれないからである。小説では精神を「目覚め」させておくことが出来るが、映画を楽しまうと思へばまづは「魂を悪魔に売渡」す必要があると云ふわけである。
小林は小説と映画について、「井伏君の『貸間あり』」でも話題の中心に据ゑてゐたが、その少し前に書かれた「写真」でも次のやうに云つてゐる。
「写真術の発達が、肖像画家の商売をほとんど絶滅させたといふやうなはつきりした影響は、文学の世界には見られないが、それでもカメラの視覚像による表現の万能は、文学者、特に小説家には大敵となつた。事物の客観的な描写においては、小説は到底映画の敵ではない。このことを自覚した小説家は、感覚的な映像を喚起する描写的表現に頼らず、分析や判断の力で、直接読者の精神に訴へる道を選ぶやうになつた。映画といふ大敵が現れたために、優れた小説は、かへつて言語による表現の純化の道を行くやうになつたわけだが、大多数の小説家は、映画と小説とに共通した物語性といふ世界に安住し、映画の表現力に媚び、これに屈従し、後で映画化されるのを目当てに書いてゐる。」
小林の写真と映画の特質を明瞭化しようとする言葉には、絵画や芝居や小説と違つて、ともすると或る種の冷淡な厳しさのやうなものが感じられるが、それはそれらの特質である自動的なメカニズムが元来冷淡なもので、そこに小林の精神が敏感に反応するからであらうと思はれる。しかし小林は、さう云ふメカニズムを媒体とする藝術であつても、既に見たやうに、例へば入江泰吉のやうな優れた表現者の作品に出会へば素直に感動する。
映画に関しても、一九三六年のベルリン・オリムピックの記録映画「オリムピア」を見たときの感動的なエッセイが真つ先に思ひ出される。小林の云ひ方を借りるなら、映画自体は確かに「影」だが、この場合、オリムピックの選手達はカメラに向つて細切れの演技をしたわけではない。小林はこの映画について、「高速度写真のカメラによつて映し出される様々な肉体の動きの印象は、いかにも強く、こちらの視覚に何か変調が起り、感受性の世界が脹れ上る様な想ひがした。あまりの美しさにぼんやりとした」と云つて、「心ないカメラが、僕の眼の前に、まざまざと映し出してくれた光景」に手放しで感動してゐる。(因みに、小林は「『罪と罰』を見る」と云ふエッセイで、「高速度写真は、映画の一変種ではない。尋常な映画のリアリズムの粋に他ならぬ」と云つてゐる。)
もう一つ、小林はパール・バックの小説「大地」が映画化されたものを見たときの感動も語つてゐる。「あの中で蝗の大群が襲来し、農夫達が、穀物を守る為にこれと大戦闘を演ずる場面があり、眺めてゐて何んとも言へぬ感動を受けた。……無論あれは実写ではあるまい。どういふ技術上のトリックがあるか僕等にはわからないが、ああいふ場面に露骨に現れる、一般にいつて映画の表現する実物の感覚といふものは、これを強制される僕等の精神に一種の無力感を惹き起す。そしてこの無力感は実物と精神との間をつなぐ言葉といふものがすつかり奪はれたといふ感情に他ならない。そして又この甚だ生理的な観客の感情の利用の上に、映画はその美学を築き、その目的を遂行するのである。」(「実物の感覚」)
どうやら小林は文藝作品の映画化には概して懐疑的であつたやうだが、映画が観客に突きつけて来る「実物の感覚」の可能性には肯定的であつたやうだ。「大地」の場合でも、蝗の襲来の場面だけが採上げられ、原作の「物語性」には触れられてゐない。文藝作品ではアメリカの作家ドライサーの「アメリカの悲劇」をスタンバーグ監督が映画化したものを称讚してゐるが(「小説の問題Ⅰ」)、これも作品の物語性よりも、潮で殺人が行はれる一場面の見事な撮影技術に、小林が「実にうまいなあ」と感心させられたからである。
昭和三十年四月に発表された「感想」でも、ディズニーの「沙漠は生きてゐる」から受けた肝銘を、「アメリカ西部の大沙漠の植物や動物の生態が、あきれ返る様な美しい色彩で、写し出されてゐた。映画館を出て、近所の喫茶店に這入つて休んでゐたが、私のぼんやりした頭は、未だ奇妙な夢を見てゐる様であつた」と記してゐる。また、後年「アラビアのロレンス」を見たときも、たいへんきれいな映画で感動した、と或る座談会で語つてゐるが、これも、多分、物語性よりもワイド・スクリーンに映し出された宏大な沙漠の光景に感動したからに違ひない。「実写映画はあらゆる映画の粋である。」これも「『罪と罰』を見る」の中の言葉だが、小林は映画の芝居や小説との本質的な違ひ、つまり特質をここに、つまり言葉抜きの実写によつて実物の感覚体験をもたらすところに見出してゐたと云つてよいであらう。
――以上で拙文は終るが、最後に一つの文章を紹介しておきたい。これは二〇〇三年九月十一日の読売新聞「編集手帳」に書かれたものであるが、小林の「オリムピア」を読むときの参考になるかも知れないと思つて切抜いておいたのである。
「十九歳で詩を捨てて漂泊者となったランボーを、『自ら美神を絞殺した』と評したのは小林秀雄である。その言葉を借りて『美神と添い遂げた女性』と呼んでもいいだろう。
「ドイツの映像作家、レニ・リーフェンシュタールさんが百一歳で死去した。美神の手に導かれるまま、名声の尾根から失意の谷へ歩いた人である。
「ナチスの党大会を鮮烈で芸術的な映像に昇華させ、ベルリン五輪の記録映画では、人間の肉体がもつ美しさを極限まで描いてみせた。比類のない完成度ゆえに戦前は『稀代の天才』と呼ばれ、同じ理由で戦後は『ヒトラーの映画屋』の汚名を着ることになる。
「私は芸術のために生きてきただけだ」……。いわれなき中傷には五十件にも及ぶ訴訟を起こし、ことごとく勝訴したが、映画界からの締め出しは続いた。いまもなお名誉が完全に回復されたとはいえない。
「不遇のなかにあっても、美神を殺すことはなかった。海底に魅せられ、七十一歳でダイバーの資格を取る。五十一歳と偽って潜水学校に通った。自ら海に潜って撮影し、百歳にして世に送った新作『原色の海』がいま、東京・渋谷の映画館で上映されている。
「幸と不幸のどちらをより多く美神がその人に与えたか、収支決算は余人の問うところでなかろう。残してくれた映像に、ただ息をのむばかりである。」
(この項了)
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