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小林秀雄山脈の裾野散策(十四)
「人形」について
大島 一彦
小林秀雄の「人形」は、小林が或るとき大阪行の急行の食堂車で、四人掛けの食卓に一人で坐つて遅い夕食を摂つてゐると、前の空席に六十恰好の上品な老夫婦が腰を下ろし、互ひに目礼を交しただけで無言の会食が始まり、途中から女学生と思しき娘さんが小林の隣の席に坐つてこの会食に加はつたが、彼女はその場の空気を察知して最後まで無言の会食に協力してくれた、さう云ふ内容の小品である。老夫婦の細君の方は小脇に何かを抱へてゐたが、袖の蔭から現れたのは大きな人形で、着附の方は新しかつたが、顔の方はすつかり垢じみてゐた。夫は旅なれた様子で、おだやかな顔でビールを飲んでゐたが、妻は運ばれて来たスープを一匙すくつては、まづ人形の口元に持つて行き、それから自分の口に入れる。それを繰返してゐる。
作品の中ほどで小林はかう記してゐる――「もはや、明らかな事である。人形は息子に違ひない。それも、人形の顔から判断すれば、よほど以前の事である。一人息子は戦争で死んだのであらうか。夫は妻の乱心を鎮めるために、彼女に人形を当てがつたが、以来、二度と正気には還らぬのを、かうして連れて歩いてゐる。多分そんな事か、と私は想つた。」
この作品は二頁ほどの小品だが、味はひは濃く深い。感傷を避けるべく淡淡と抑へた筆致で書かれてゐるが、その行間からは老夫婦の悲しみと、その悲しみに想ひを寄せる筆者の心の動きがひしひしと伝はつて来る。私はふと、小林が「ドストエフスキイの生活」の序文で、子供を失つた母親の悲しみについて語つてゐたことを思ひ出した――「子供を失つた母親に、世の中には同じ様な母親が数限りなくゐたと語つてみても無駄だらう。類例の増加は、寧ろ一事件の比類の無さをいよいよ確かめさせるに過ぎまい。掛替へのない一事件が、母親の掛替へのない悲しみに均合つてゐる。……子供が死んだといふ歴史上の一事件の掛替への無さを、母親に保證するものは、彼女の悲しみの他はあるまい。どの様な場合でも、人間の理智は、物事の掛替への無さといふものに就いては、為す処を知らないからである。悲しみが深まれば深まるほど、子供の顔は明らかに見えて来る。恐らく生きてゐた時よりも明らかに。」
もう一つ思ひ出したのは、小林が「政治と文学」で、「きけわだつみのこえ」に触れて云つてゐたことである――「戦争の不幸と無意味を言ひ、死に切れぬ想ひで死んだ学生の手記は採用されたが、戦争を肯定し喜んで死に就いた学生の手記は捨てられた。……ただ私は、あの本に採用されなかつた様な愚かな息子を持つた両親の悲しみを思つたのです。私は、さういふ親を知つてゐた。彼は息子を軍国主義者などと夢にも思つてゐなかつたし、彼自身も平和な人間であつた。……或る学生は、死に臨んで千万無量の想ひを、一枚の原稿紙に託すつらさを嘆いてゐたが、みんながみんなさうだつたであらう。遺言にイデオロギイなどを読んではいけないのである。」
「人形」は巧みに書かれた上澄みであつて、その底には以上のやうな想ひが沈潜してゐるのではないかと云ふのが、私の勝手な感想である。勿論それは、小林が「人形」を書くときにいま引用したやうなことを意識してゐたらうと云ふことではない。三者が私の頭の中で出会つて渦を巻いたと云ふことである。
ところで、この「人形」については、井伏鱒二に「小林秀雄の随筆作品」、「『人形』その他」、「対象を見る目」と云ふ三つの文章があつて、井伏全集の第二十七巻に収められてゐる。尤も最初の文章はそつくりそのまま二番目の文章に取込まれてゐるから、実質的には二つだが、いづれの文章でも小林の「人形」がたいへん高く評価されてゐる。井伏は、小林が食堂車で老夫婦と同席したのは、日本がまだ米軍に占領されてゐた時期のことであつたらうと推測して話を進めてゐる。
「この作品に出て来る人形は、あの正気な沙汰ではなかつた戦争を象徴する厳粛な存在でありながら、何かの拍子に帽子が脱げると、つるつるの坊主頭を丸出しにして、老夫人からスープをスプンで飲ましてもらふ真似をさせられる。見てゐて、子供の飯事遊びと変らない。悲劇の総元締ともいふべき人形が、他愛なく頓狂な真似をさせられる。しかも事態の運びに、不自然なところは一つもない。……人形は老夫婦の一人息子――戦死した息子を形取つてゐることは確かである。本職の人形師に頼んで作らせたらしい。最初の着附は軍服にしてゐたかもしれないが、戦後、背広に改めさしたものらしい。人形は手擦れがしてゐても、着附は新しい。オーバと鳥打帽子の縞柄がお揃ひで、戦後匆々にしては行き届いた注文仕立であるやうだ。老夫人の血涙がそそがれてゐる人形だといふことがわかる。戦争を怨嗟する人たちにすれば、十字架にも曼荼羅にも等しい人形であり、気の狂つた老夫人にすれば、戦場から帰つて来た、いとしい一人息子である。しかるに人形は、頭が禿げ、目は濁り、唇は褪せ、薄汚くなつてゐる。つい滑稽な存在だと侮つて、無躾な口をきく者がないとも限らない。」
小林の人形に関する言及は精精五、六行の簡潔なものであるが、井伏の想像力はそれを倍以上に膨らませてゐる。作家が読むとかうなるか、そこが面白いと思つたので敢へて長い引用をしてみた。小林は作品の最後をかう締括つてゐる――「異様な会食は、極く当り前に、静かに、敢へて言へば、和やかに終つたのだが、もし、誰かが、人形について余計な発言でもしたら、どうなつたであらうか。私はそんな事を思つた。」井伏はこれを受けてなほも空想を逞しくして、ここに進駐軍の兵隊が現れて人形を冷かしたらどうなるか、小林が、この野郎と摑みかかつて行つて、取組合の大騒ぎが始まるかも知れない、そんな場面まで想定してみせる。かうなると何やら井伏流ユーモア文学の気味を帯びて来るが、まさかそこまでは行かないであらうがと、井伏も筆を納め、最後は、「この作品は、さりげないスケッチのやうでありながら、人に切迫して行く力を持つてゐる。煩手を避けて、省けることは省けるだけ省いてゐる。叙事詩として見ても、戦後文学に於ける絶唱である」と、最大級の讃辞で文を結んでゐる。
以上は、「『人形』その他」に拠つたものであるが、この「『人形』その他」と「対象を見る目」には、井伏がこの文章を書くに至つた経緯が記されてゐる。どちらも井伏と小林がいかに親愛の情で結ばれてゐたかがよく判る文章だが、ここでは簡潔に書かれた後者から引用しておかう。
「小林君に私が最後に会つたのは、五年前の秋、河上徹太郎君の御通夜の日に、柿生の河上家に出かけたときであつた。庄野君たちが茶の間にゐて、安岡君や文春記者など庭の芝生のなかにゐた。庭の入口に仮の受附所があつて、来会者たちが次から次に詰めかけてゐた。茶の間から出て来た小林君が僕に気がついて『弥生書房の随筆集の解説を書いてくれないか』と云つた。かねて弥生書房主人が小林秀雄集の解説を僕に書かせようとしてゐたもので、まだ僕が書くとも書かないとも返事をしてゐなかつた原稿であつた。『解説だから短くていいよ。二行でいいよ』と小林君が云つた。『解説二行なんて、聞いたことがないよ』と答へると、『俺はお前さんを信用してるからね。二行だけでいいから頼んだよ』と、天空海闊な禅問答のやうなことを云つた。御通夜の日だから来会者が次から次に詰めかけて、小林君も人込みのなかに入つてしまつた。教会の神父さんの説教が終つて、僕は安岡君の車に便乗して帰つて来た。その翌々年、小林君が入院したといふ噂を聞き、やがて小林君危篤の報を聞いた。小林君に会つたのは、河上君の御通夜の日が最後であつた。」
この「解説二行」が「『人形』その他」では「三行」になつてゐる。どちらも同じ場面を伝へてゐるのだが、会話のやりとりなど、細部の表現が微妙に違つてゐるところが面白い。両者を読み較べると、小林が、井伏は単に事実を写すのではなく、純粋な散文を作るべく常に工夫を凝らしてゐる作家だと云つてゐたことが改めて思ひ出される。「俺はお前さんを信用してるからね。」さう云はれては、井伏としても発奮しないわけには行かなかつたらう。その感じが井伏の「人形」論にはよく出てゐるやうに思はれる。
小林の「人形」については、もう一つ紹介したい文章がある。それは池田雅延氏が「常識」と云ふ観点からこの作品に光を当てたもので、この作品の一つの新鮮な、しかも大切な読み方を呈示してゐると思はれるからである。池田氏はウェッブ・マガジン「考える人」に二〇一六年十月から三年間「随筆小林秀雄」を連載してゐて、「常識について」と題された第五十七回で小林の「人形」を採上げ、この作品の美しさが、常識が正しく働いたときの美しさと不可分のものであることを指摘してゐる。氏は「人形」の全文を引用して、かう云つてゐる――
「一人息子を戦争で亡くしたらしい細君の悲しみが惻々と伝わってくる。その傍らで、瓢々と振舞っているかに見える夫の悲しみは、細君より深いかも知れないとさえ思えてくる。むろん(小林)先生は、この老夫婦の悲しみを慮り、こういう夫婦と行き会ったことを読者に伝えようとしたのだが、この一文を書いて先生が最も言いたかったことは、最後の、『彼女は、全く正気なのかも知れない。身についてしまった習慣的行為かも知れない。とすれば、これまでになるのには、周囲の浅はかな好奇心とずい分戦わねばならなかったろう。それほど彼女の悲しみは深いのか』と、『もし、誰かが、人形について余計な発言でもしたら、どうなったであろうか』であっただろうと私は思う。すなわち、あの場に居合わせた誰もが、それぞれの常識を正しく働かせた、そのおかげであの会食は静かに、和やかに終った、先生はそれを言いたかったのではないかと思うのだ。」
池田氏は続けて、小林の「常識について」と「忠臣蔵Ⅰ」から、常識に関する小林の言葉を幾つか引用することで、なぜ自分が「人形」をそのやうに読むかを暗示してゐる。引用されてゐる小林の言葉を敢へて私なりに要約してみるとかう云ふことにならうか。――常識とは何かと刑而上学的に問うても仕方がないので、これは我我が持つて生れた精神の不思議な働きなのだから、これをどう云ふ風に働かすのが正しくまた有効かを問ふことだけが重要なのだ。常識は一般に人の心事については遠慮がちなもので、人の心の深みはあまり覗き込まないことにしてゐる。心理学がいくら人心の無意識を明るみに出さうとしても、人の心の奥底が暗いことに変りはなく、人の心が自他ともに互ひに見透しと云ふことになつたら、人間の生活は成立たなくなるだらう。――
小林が「人形」で伝へたかつた「常識」とは何だつたのか――池田氏はさう問掛けて、かう答へてゐる――「人形の口に一匙一匙スープを運ぶ細君の悲しみの深さ、その深い悲しみに行き会っておのずと現れた『沈黙』という人間の知恵である。」また、私たち読者が「人形」と云ふ作品に感動するのはなぜか――「幸いにして私たちの『常識』が正しく働くからであらう。戦争の経験はないにちがいない女子大生が、『一と目で事を悟り、この不思議な会食に、素直に順応した』ようにである。」
(この項了)
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