小林秀雄山脈の裾野散策(二)
小林秀雄の井伏鱒二論(1)
大島 一彦
「僕は小林には二度助けられたな――」
昔、或る日の夕方、小沼丹先生に連れられて、当時大久保にあつた酒場「くろがね」で井伏鱒二氏と同席させて頂いたことがあるが、談たまたま小林秀雄に触れたとき、井伏氏がさう口にされたのが、今でも耳の底に残つてゐる。「僕は」が「ぼかあ」と云ふ響きだつたこともよく憶えてゐる。氏はさう云つただけであとは口を噤まれたが、そのとき、ああ、井伏氏の念頭にあるのはあれとあれだなと、私にはすぐに察しがついた。ちやうどその頃、私は小林秀雄全集を「本居宣長」を除いて読みをへたばかりだつたからである。
「あれ」の一度目は、小林が昭和六年に発表した「井伏鱒二の作品について」である。当時はプロレタリア文学の全盛期で、左傾しなかつた「井伏の作品は、小市民的根性の表現に過ぎぬ」とか、「彼の文学はナンセンス文学だ」とか、定説のやうに云はれてゐたらしい。小林は「虚栄による饒舌が、どの位、饒舌を知らぬ作家の羞恥心を苦しめるか、これは腹の立つ事です」と云つて、世評は井伏作品の呈する「平明素朴な外観」を侮つてゐると云ふ。そしてかう続ける――
「彼の文章は決して平明でも素朴でもありません。大変複雑で、意識的に隅々まで構成されてゐるものです。若い作家のうちでは、彼は文字の布置に就いて最も心を労してゐるものの一人です。彼は文章には通達してをります。瑣細な言葉を光らせる術も、どぎつい色を暈す術も、見事に体得してゐます。」
世評の多くは「彼が文字をあやつつてゐる手元を少しも見ようと」せず、「彼の独特な文字を彼の心の機構として辿らずに、単なる装飾と」見てゐる。「一般に作品の技巧を、作者の意識の機能としてみる時に、作品は非常に難解なものとなるのが定め」なのだ。小林は井伏作品を見る視座をさう定めて、世評の見方の浅薄を批判する。小林はフランス象徴派の詩文作成の技法を井伏の意識的な文章作成の技巧のうちに見てゐると云つていいであらう。
さらに小林は井伏の小品「鯉」は傑作であり、「この数頁の小品に、どんな挿話が、どんな事件が語られてゐるかを、ここに書かうとすると、その全文を掲げなければ全く不可能な程、この小品は聊かの無駄もなく、緊密な文字で一とはけで書かれてゐる。……彼の眼は小説家の眼といふよりも、寧ろ詩人の眼です。……彼はこの生物が自分の心の哀愁の象徴である事を、素直に確信してゐる」と云ふ。小林にとつて井伏の「鯉」は一篇の見事な象徴的散文詩なのである。
だがこの確信はときに揺ぐことがある。そんなとき作者の心は反抗的になり、羞恥の仮面を被つて所謂ナンセンス文学を書くが、これはあまり上手く行かないことが多い。その一例として小林は「ジョゼフと女子大学生」を挙げる。しかし作者がその哀愁を「殉教的に表現して聊かも恥ぢないとき」、「谷間」「朽助のゐる谷間」「シグレ島叙景」などのたいへん見事な系列の作品を書く。小林はさう云つて、論の最後をかう結んでゐる――「『丹下氏邸』は、外見は多彩ではないが、構造は最も完璧で、この系列の頂にある様に思はれます。そこでは、彼は文字を完全にわがものとしてゐます。一字も彼の心から逸脱してをりません。そこには、率直に人の純潔に訴へる声があります。この声はあらゆる小説の形式を破るだけ強くはありますまいが、あらゆる嘘言を殺すには充分に強いものだ、といふ事を私は信じます。」
小林のこの文章にはいかにも井伏鱒二に対する友情が籠つてをり、これを読んだ井伏が、小林のうちに有難い知己を確信したであらうことは想像に難くない。
但し一つだけ、この文章の中で、果してさう云ひ切れるかしらと思はれたところがある。井伏は「自意識の冒険」にはまつたく興味を持つてゐない作家だと云つてゐるところである。小林はこの文章で「山椒魚」にはまつたく触れてゐないが、「山椒魚」を読む限り、そしてこの作品が井伏生涯のテーマを孕むものであつて、晩年には大幅な改作までなされてゐることを思ふと、井伏が「自意識の冒険」に無関心であつたとはとても思へないからである。尤も小林が昭和六年の時点で「冒険」と云ふ言葉にどう云ふ思ひを込めてゐたかにもよるが、少くとも「山椒魚」が当時でも井伏の自意識の働きを象徴する作品であつたことだけは確かなことのやうに私には思はれる。
(つづく)