小林秀雄 生き方の徴 (しるし) (二)

小林秀雄 生き方のしるし(二)
時間をかけるということ
池田 雅延   
 もう何度も言ってきましたが、人生いかに生きるべきか、これが六十年にわたって展開された小林先生の文筆活動の根本テーマでした。しかし、それは、けっして先生が高みに立って上から読者に言って聞かせるというような、教条的な話ではありません。私たちひとりひとりが日々を生き、日々の生活経験から人間はどういうふうに造られているかを少しずつ知り、その人間の造られ方に沿って生きようとする……、これが先生の人生いかに生きるべきかに対する答であり、そこを先生は先生自らの経験と発見に則して語り、どうやら人間はこういうふうに造られているようだ、ならば私たちはこういうふうに生きるのがよいのではないか、そこを読者に気づかせ、考えさせようとしたのです。
 その、人間というものの造られ方を、先生は「本居宣長」(「小林秀雄全作品」第27集・第28集所収)では「人性の基本的構造」という言い方で言い、古代の人たちに比べて自分たちはよほど利口になったつもりでいる今日の人々には、逆にその「人性の基本的構造」が解りにくいものになったと宣長は見ていたと言っています。
 人間には目が二つあり、腕が二本あり、足が二本あり、心臓があり、肺があり、胃があり、腸がある、といったような肉体の造られ方ももちろん人間の基本的構造ですが、小林先生は特に「人性の」と言っています。「人性」とは人間誰もに生まれつき具わっている共通の性質ということで、肉体面よりも知とか情とか意とかといった精神面について言われることが多いようです。
 そこでいま、先生が折にふれて読者に示した「人性の基本的構造」をあらためて辿り直してみますと、一貫して語られているのは「時間をかける」ということです。人間は何事も時間をかけてみるように造られている、逆に言えば、それ相応の時間をかけなければ人間は何もわからせてもらえないし何事も為し得ない、これこそが「人性の基本的構造」の基本であると先生はそのつど言葉を変えて言い続けていました。
 ではその、「時間をかける」ということの大切さを、先生が直截に語った文章を見ていきましょう。

 昭和十四年四月、三十七歳で書いた「読書について」(同第11集所収)では、次のように言っています。
 ――読書百遍とか読書三到とかいう読書に関する漠然たる教訓には、容易ならぬ意味がある。恐らく後にも先きにもなかった読書の達人、サント・ブウヴも、漠然たる言い方は非常に嫌いであったが、読書については、同じ様に曖昧な教訓しか遺さなかった。「人間をよく理解する方法は、たった一つしかない。それは、彼等を急いで判断せず、彼等の傍で暮し、彼等が自ら思う処を言うに任せ、日に日に延びて行くに任せ、遂に僕等の裡に、彼等が自画像を描き出すまで待つ事だ。故人になった著者でも同様だ。読め、ゆっくりと読め、成り行きに任せ給え。遂に彼等は、彼等自身の言葉で、彼等自身の姿を、はっきり描き出すに至るだろう」……
 そして、昭和三十七年八月、六十歳で書いた「還暦」(同第24集所収)ではこう言いました。
 ――成功は、遂行された計画ではない。何かが熟して実を結ぶ事だ。そこには、どうしても円熟という言葉で現さねばならぬものがある。何かが熟して生れて来なければ、人間は何も生む事は出来ない。……
 たとえば酒は、米を発酵させて造りますが、米がそうして酒になるまでには絶対不可欠の時間がかかります。そういう自然界の絶対的必要時間は、人間の思考や思索についても言えると言うのです。
 最後の大業「本居宣長」は、昭和四十年六月、六十三歳で雑誌『新潮』に連載を始めましたが、その雑誌連載は十一年七ヵ月に及び、連載開始から五年、六年が経った頃には、文士仲間から「いつまでやってんだ」とか「そんなに書くことあるのか」とか、冷やかしやからかいの声が聞こえてくるようにもなっていました。
 当時、雑誌でも新聞でも、連載はほぼ一年まで、延びても二年というのが相場で、先生の「本居宣長」のように、五年経っても六年経っても終るどころか終る気配さえないというのは異例中の異例でした。しかし先生は、そういう冷やかしやからかいを柳に風と聞き流して言っていました。
 ――このごろは皆、仕事が速すぎるよ。僕はふつうに歩いているのに、彼らが車に乗ったり飛行機に乗ったりして、おい小林、いつまでぐずぐずしてんだなどと言ってるだけなんだ。宣長さんは「古事記伝」に三十五年もかけたんだ。その宣長さんを読んでいる僕が、五年かかろうと十年かかろうと、どうということはないのだ。……
 「本居宣長」の文中でも、宣長が弟子に学問の心得を語った「初山踏ういやまぶみ」に言及し、
 ――宣長にはっきり断言出来るのは、「詮ずるところ、学問は、ただ年月長く、うまず、おこたらずして、はげみつとむるぞ肝要」ということだけになる。これさえ出来ていれば、「学びやうは、いかやうにてもよかるべく、さのみかゝはるまじきこと也」。宣長が、本当に言いたいことは、これだけなのである。……
 こうして「本居宣長」の連載は、昭和五十一年十二月号まで続きましたが、それからさらに十ヵ月、先生は連載の第一回に戻って全篇を徹底推敲し、四百字詰原稿用紙にして約一五〇〇枚分あった雑誌掲載稿を約一〇〇〇枚分に圧縮しました。連載開始の月から数えても十二年五ヵ月、これだけの時間をかけて五十二年十月三十一日に刊行した『本居宣長』はたちまちベストセラーになって増刷が相次ぎました。

 その昭和五十二年の暮でした、先生のお宅へ伺い、『本居宣長』の売れ行き状況などを私が報告し終えると、「君、ユニバーサル・モーターって知ってるか」と先生が突然、問いかけられました。
 「世界中のヨットというヨットが、みなこのモーターを積んでいる。いま、エンジンメーカーはどこもかしこもスピードを競いあっているが、ユニバーサル・モーターだけは昔ながらのモーターを造り続けている。このモーターは、スピードは出ない、しかし絶対に壊れない。ヨットというヨットがこれを必ず積んでいるのは、航行中に帆柱が折れるなどしたときも確実に港へ帰り着くためだ。だから、このモーターにスピードは必要ない、絶対に壊れない、それだけが必要なんだ……」
 先生の話は、それだけでした。先生は、こういうふうに、言おうとすることの眼目だけを短く言い、あとはまた沈黙に戻るか別の話題に飛ぶか、というのがふつうでした。あの日は沈黙に戻られたのです。
 私は、先生の次の言葉を待ちながら、先生はいま、先生自身のことを話されたのだと思いました。『新潮』連載十一年半、全面彫琢さらに一年、「本居宣長」に取り組んだ先生の歩みは、まさにユニバーサル・モーターでした。必要な時間を必要なだけかけて、孜々ししとして続けられた「大和心」という港への帰航でした。

 しかしその後、このユニバーサル・モーターの話を思い浮かべて、私は先生の言おうとされたことを別様に受取るようにもなりました。敢えてスピードは競わない、絶対に壊れることなく母港に帰り着く、そこに徹したユニバーサル・モーターの思想は、本居宣長が三十五年という時間をかけて「古事記伝」を書いたことにも重なる、そう思うようにもなりました。

 しかしまた、あれから四十年が過ぎ、先生が『本居宣長』を刊行された歳と同じ七十五歳になって、さらに別様の思いが湧きました。あの日、先生は、こう言いたかったのではないかと思えてきたのです。
 ――僕は、「本居宣長」を、ユニバーサル・モーターが造られるのと同じ気持ちで書いた。読者はみな、人生という大海を走っている、その大海のどこかで心の帆柱を折り、途方に暮れることもあるだろう、そういうとき、とにもかくにも読者が自分の港へ帰り着くための心のモーターとして、スピードは出ないが絶対に壊れないモーターとして、人生航路のヨットに積んでおいてもらえるようにと、そういう思いで「本居宣長」を書いた……。
 これはまた、宣長の「古事記伝」にも言えることでした。宣長は、からごごろに翻弄されて道を見失ってしまいがちの日本人が、はたと目覚めたときにはいつでも、確実に、「大和心」の港に帰り着けるようにと「古事記伝」を書いた、ということです、すなわち、「古事記伝」もユニバーサル・モーターだったのです。

 これらの思いは、私が意図した「解釈」ではありません、時間が経つうち、自ずと胸に湧いた「得心」です。先生にしても、これといった意味内容を明確に意識してあの話をされたわけではなかったでしょう。私の得心とはまた別の思いが先生の胸中にはあったかも知れないのです。けれど、いずれにしてもいま私は、あの日、先生から聞かせてもらったユニバーサル・モーターの話が、四十余年という時間の作用を受けてしっかり私のなかで熟していると感じています。先生の文章を読んで、その場ですぐには解せなかった言葉が、何年か後に気づいてみるといつの間にか腹に落ちていた、それとまったく同じにです。
 
 人間は何事も時間をかけてみるように造られている、逆に言えば、それ相応の時間をかけなければ人間は何もわからせてもらえないし何事も為し得ない、しかし、時間をかければそれだけで最初は思いも寄らなかったことをわからせてもらえる、それもひとつやふたつではない、無限といっていいほどのことをわからせてもらえる、人間はそういうふうに造られていると、八十歳もまぢかになった私は、日に日にこの思いをかみしめています。
(了)