小林秀雄 生き方の徴(しるし)(三)

小林秀雄 生き方のしるし(三)
考えるということ

池田 雅延  

     
 
 考える、とは、私たちも日頃、気軽に言っています。――今夜は何を食べようかと考えている。――今度の連休、どこへ行こうか、みんなで考えようよ。――この問題は、どの公式を使うかを考えればすぐ解ける……。つまり、一日三度の食事のメニューであったり、地図上の地名であったり、教科書の記述内容であったりと、いずれもすでに存在しているデータを適宜に取り出し、それらを比較し取捨して当面の課題の結論を導く、多くはそういう頭の操作をさして「考える」と言っています。
 しかし、小林先生の「考える」は、そうではありません。「小林秀雄全作品」の第24集に入っている「考えるという事」で先生はこう言っています。
 ――宣長は、この考えるという言葉を、どう弁じたかを言って置く。彼の説によれば、「かんがふ」は、「かむかふ」の音便で、「かれとこれとを、比較アヒムカへて思ひめぐらす意」と解する。それなら、私が物を考える基本的な形では、「私」と「物」とが「あひむかふ」という意になろう。「むかふ」の「む」は「身」であり、「かふ」は「交ふ」であると解していいなら、考えるとは、物に対する単に知的な働きではなく、物と親身に交わる事だ。物を外から知るのではなく、物を身に感じて生きる、そういう経験をいう。……
 そしてここからは、本誌『身交ふ』(むかう)の「総合案内」に、「誌名『身交ふ』について」と題して坂口慶樹編集長が書いてくれているところを引きます。
 ――小林先生がここで言われている「『むかふ』の『む』は『身』であり、『かふ』は『交ふ』であると解していいなら……」をもう少し詳しく辿りなおしますと、現代語の「考える」は古語では「考ふ」「かんがふ」ですが、その「かんがふ」は古くは「かむがふ」とも表記されていて、さらに「かむがふ」の「が」はもとは「か」とんで発音されて「かむかふ」だったとも推察できますから、最初の「か」を語調を整えたり軽い意味を添えたりするだけの発語ととればこの語は「むかふ」となり、「むかふ」の「む」は「身」であり、「かふ」は「交ふ」であったと解し得るところから「考える」の語源は「身交う」であり、「身交う」は物を外から知るのではなく、物を身に感じて生きる、そういう生活経験を言い表した言葉であったと推察できる……、と小林先生は言われているのです。……
 ということは、「考える」の本義は現代の「考える」のようにすでに持合せている知識を取り出し、それらを組合せて当座をしのぐことではなく、すぐ目の前にあるというのに今はまだ見えているとは言えないものを見てとり、感じられていないものを感じとるために、物であれ人であれ、相手と全身でつきあうことだったのです。
 現代語「考える」の古語「考ふ」は、古くから日本にあった言葉「かんがふ」に、「しらべる」という意味合で通じるということから漢字「考」を充てたもののようです。漢字が中国から日本に渡ってきたのは一五〇〇年前ともそれ以上前とも言われていますが、漢字が伝来するはるか前から日本列島には日本人が住み、やまとことばを話していました、そのやまとことばのなかで「かむかふ」「かんがふ」はすでに言われていて、この「かむかふ」「かんがふ」は原初の日本人が実生活の経験から生み出した知恵の言葉だったということのようです、小林先生はそこを言っているのです。
 
 ではこの「身交ふ」ということを、小林先生は日頃、どういうふうに行われていたのでしょうか。あのときも先生は、宣長と身交われたのだ、必死で身交われたのだと後になって気づき、思わず私は息を呑んだという出来事があります。以下、すでに二度、公表したことのある拙稿ですが、いまいちどご覧に入れて先生の言われる「考える」という言葉と身交いたいと思います。
 
     本居宣長の桜
 
 小林先生の「本居宣長」は、第一章に図版が入っている。私は毎年、秋風が立つ頃になると、あの図版の経緯を思い出す。
 昭和五十二年(一九七七)の九月であった。「本居宣長」の単行本制作作業が、十月三十一日の発売を控えて大詰めを迎えていた。
 「本居宣長」は、雑誌『新潮』に、昭和四十年の六月号から連載されたが、五十一年十二月号をもってその連載を終了し、先生はただちに単行本化に向けて全面彫琢にかかられた。『新潮』の連載稿は四〇〇字詰原稿用紙で約一五〇〇枚に達していた、それを先生は約一〇〇〇枚に圧縮されたのだが、その先生の彫琢作業も、私たち編集部の校正作業も、ようやく麓が見えていたころであった。
 鎌倉のお宅に、本の表紙や外函など、装幀関係の相談に伺った日のことである。ひととおり私の説明に応じられたあとに、先生が突然言われた。「中に、挿絵を入れたいのだがね……、間にあうかい」。
 本文が始ってすぐ、宣長の遺言書を読まれたくだりに、宣長自身が遺言書に描いている墓所の図解を入れたいと言われるのである。一枚は、墓碑と墓碑の背後に植えてほしいと言っている山桜の絵、もう一枚はその桜のことを詳しく言って地取図も描いている箇所なんだが……、と聞いて社に戻り、筑摩書房の『本居宣長全集』からコピーをとって、翌日持参し見てもらった。
 ところが――、「ちがう。これではない」。最初の一枚、山桜の絵を見るなり、先生は鋭くそう言って席を立たれた。すぐまた一冊の本を手にして戻り、「これだよ」と示された。
 なるほど、ちがう。絵柄はそっくり同じだが、私が持参したコピーの桜は、筆の穂先で枝々に点々が打たれているだけで、一見いわば葉桜であった。ところが、先生が示された桜には、見事にひらいた五弁の花がしっかりついていた。
 先生がもってこられた本は、昭和十二年に出た『本居宣長全集』であった。私がコピーをとった筑摩書房版は、先生の「本居宣長」の連載開始とほぼ同時期の昭和四十三年に刊行が始まった最新版の宣長全集であった。
 急いで調べますと約してその日は辞し、松阪の本居宣長記念館に確認を乞うた。筑摩版の絵にまちがいはなかった。記念館に蔵されている宣長自筆の遺言書の桜は、筑摩版のとおりの「葉桜」だった。
 それを、先生に伝えた。しかし、絵の真贋を伝えるだけではすまなかった。先生自身の文章にも、「花ざかりの桜の木が描かれている」と書かれているのである。もしこの「葉桜」を図版で入れるとなれば、文章にもなんらかの手入れが必要となるかも知れない。私はそれを言い添えた。
 先生は、「葉桜」のコピーに見入られた。じっと見入ったまま、人差指でしきりと前髪を巻き上げられた。考え事をするときの先生の癖である。長い時間が過ぎ、やっと顔をあげられた先生は、「明日、もういちど来てくれたまえ」と言われた。
 翌日――、先生は、応接間に入ってこられるや、きのうのコピーを指差し、いきなり言われた。
 「君、これは、花ざかりの桜だよ。まちがいないね。この点々で、宣長さんは見頃の花を描いているんだ。あれから何度もこの絵をながめ、繰り返し繰り返し、宣長さんの気持ちを思ってみた。そしてはっきり合点がいった。まちがいないね、これは花ざかりの桜だよ……」
 帰路、東京へ向かう横須賀線の車中で、耳にしたばかりの先生の口調が、鉄斎や雪舟について書かれた文章のそこここと交響するのを覚えた。恐らく先生は、鉄斎や雪舟の絵を観たときと同じ気魄で宣長の桜に見入り、宣長の気持ちを読み続けられたのだろう。
 それと同時に、先生が新居に植えられた桜が思い合わされた。先生は、前年一月、三十年にわたって住まわれた山の上の家から八幡宮前の平地に引っ越されたが、その新居の庭に、自ら植木屋へ足を運んで選んできた桜の若木を植えられた。その桜を新しい家の庭に植えた直後の午後、最初の花を待ちながら、若木に向けて目を細められた温顔がしきりに浮かんだ。
 
 それにしても、昭和十二年の全集で、なぜ桜は五弁の花をつけていたのだろう。あの全集は、宣長の子孫、本居清造氏が精魂こめた仕事である。その元になったのは、明治三十四年から刊行された『本居全集』で、校訂は、これもやはり宣長の学統と家系を継いだ国学者、本居豊頴とよかいである。桜は、この豊頴の『本居全集』で、すでに花をつけていたのである。ただし、私の調べがそこまで遡りえたのは、甚だ心残りではあるが先生が亡くなられた後だった。
 早くに、誰か、宣長の気持ちを汲んだ者がいたのだろうか。その誰かが、「葉桜」を黙視していられずに、そっと咲かせたのだろうか。そんなことを思いながらも、以後は他の仕事に追われ続けたこともあってそれ以上のことはわからずじまいになっていた。
 しかし、近年、本居宣長記念館の館長、吉田悦之さんとお会いする機会がふえ、ある日、ふと思い出して尋ねてみた。吉田さんはたちどころに答えられた。宣長の遺言書には写本があり、その写本の桜は五弁の花をつけていて、豊頴の『本居全集』は写本に拠っています、それというのも、宣長の遺品はすべて松阪からの持ち出しが禁じられているため、東京に住んで大正天皇の皇太子時代に東宮侍講を務めるなどした豊頴は、松阪に厳重保管されていた遺言書の原本を用いることができなかったという事情も伴っているのです……。
 今日のような複写機はおろか、写真機でさえ日常的ではなかった時代の全集である。豊頴の苦労と苦心は想像してみるだけでも容易でないが、豊頴の手になったこの『本居全集』は、明治三十三年の宣長の百年忌を機に編まれ、そこには宣長だけでなく長男春庭はるにわ、養子大平おおひららの著作も含まれていて、以後の国学史研究の基礎を築いたと吉川弘文館の『国史大辞典』にある。
 
 今にして思えば、あのとき、「宣長の桜」の咲きようが問題になったとき、なぜ宣長記念館に「満開の桜」のことまで確認しなかったのかと言われそうだが、私自身、「遺言書」に異本が存在しようなどとは思ってもみなかったし、小林先生も「葉桜」を眺めて一晩、宣長の気持ちと身交い続けられ、宣長はあの点々で桜の花盛りを描いているのだと確信されたあとは、もう「満開の桜」を話題にされることさえ一度もなかった。
 私が小林先生の「本居宣長」の本を造らせてもらった昭和五十二年という年、吉田さんは國學院大學に在学されていたそうだ。単行本『本居宣長』の刊行から何年もが経ってからとはいえ、吉田さんと知りあえて遺言書に写本があると教えていただけたことは幸いだった。    
(了)