令和6年11月のご案内
令和6年11月の≪私塾レコダ l’ecoda≫三講座は、次のように開きます。
講師 池田 雅延
●11月21日(木)19:00~21:00
小林秀雄と人生を読む夕べ
第一部 小林秀雄山脈五十五峰縦走
第二十一峰「当 麻」(「小林秀雄全作品」14集所収)
「当麻」は世阿弥の手になった能です。小林先生は梅若万三郎の舞台で初めて観て、それまでまったく経験したことのない感覚に襲われます、そして次の言葉を記します、美しい「花」がある、「花」の美しさというようなものはない……。先生の「当麻」を読むとは、この言葉に込められた先生の発見と得心の驚きを感取することに尽きると言っても過言ではありません。この言葉は、二十代の初めからずっとフランス文学、ロシア文学に心酔し続けていた小林先生が、四十歳を目前にして初めて日本の美と思想を目の当りにし、思わず発した感歎の声だったとも言えるのです。
第二部 小林秀雄 生き方の徴(しるし)
「古典」という言葉
「古典」という言葉を、私たちは日頃、別段どうとも思わずに口にしたり、耳にしたりしています。しかし、小林先生は、たとえば「読書について」(「小林秀雄全作品」第11集所収)でこう言っています。
――文字の数がどんなに増えようが、僕等は文字をいちいち辿り、判断し、納得し、批評さえし乍ら、書物の語るところに従って、自力で心の一世界を再現する。読書の技術が高級になるにつれて、書物は、読者を、そういうはっきり眼の覚めた世界に連れて行く。逆にいい書物は、いつもそういう技術を、読者に眼覚めさせるもので、読者は、途中で度々立ち止り、自分がぼんやりしていないかどうか確めねばならぬ。いや、もっと頭のはっきりした時に、もう一っぺん読めと求められるだろう。人々は、読書の楽しみとは、そんな堅苦しいものかと訝(いぶか)るかも知れない。だが、その種の書物だけを、人間の智慧は、古典として保存したのはどういうわけか。はっきりと眼覚めて物事を考えるのが、人間の最上の娯楽だからである。……
11月21日の塾当日には、小林先生が「古典」という言葉をどういうふうに使っているかを他の文章でも見ていきます。
●11月7日(木)19:00~21:00 小林秀雄「本居宣長」を読む 第四十一章 信じるか、信じないか、二つに一つ 本居宣長が主役となって繰り広げられた「近世日本の思想劇」の最大の山場、宣長と上田秋成との大論争を第四」の事は太古の事績の中でも殊に荒蕩だと言う秋成の論難を第四十一章に引き、宣長はこれに対して自分もこの伝えを真に受けているわけではない、古学の眼を以て見ればなるほどと思われると言っているだけだと言い、「信ぜん人は信ぜよ、信ぜざらん人の信ぜざるは又何事かあらん」と返した、「ここに、信ずるか、信じないか、二つに一つ、という烈しい物の言い方が見られるが、そういう宣長の物の言い方から、彼の「古学」についての考えを、直かに摑まなければいけないだろう」と言います。ではなぜ宣長は、敢然とそう言い切ったのでしょうか、第四十一章ではその「なぜ」までが精しく語られます。
●11月28日(木)19:00~21:00 新潮日本古典集成で読む「萬葉」秀歌百首 今月の「秀歌」は次の二首です。 防人に 行くは誰が背と 問ふ人を 見るが羨ともしさ 物思ものもひもせず 昔年の防人の妻[4425]99 新しき 年の初めの初春の 今日降る雪の いやしけ吉事 大伴家持[4516]100・末尾の[ ]内は新潮日本古典集成『萬葉集』の歌頭に打たれている 『国歌大観』の歌番号、その次の数字は今回の秀歌百首の通し番号です。