[小林秀雄と人生を読む夕べ]

 小林秀雄と人生を読む夕べ 

 この講座は、第一部、第二部の二部構成になっています。
 前半の第一部は、「小林秀雄山脈五十五峰縦走」と題して、小林先生の作品を五十五作、講師池田雅延が選んで各回一作ずつ読んでいきます。小林先生六十年の作品系列を池田は飛騨山脈、奥羽山脈などの山並に見立てて「小林秀雄山脈」と呼んでいますが、そのなかでもひときわ高く、美しくそびえる五十五作を特に選んで「小林秀雄山脈五十五峰」と名づけ、≪私塾レコダ l'ecoda≫の熟読翫味作としました。
 そして後半の第二部は、「小林秀雄 生き方の徴(しるし)」と題して、「考えるということ」「常識とは何か」「歴史とは何か」など、誰にとっても「いかに生きるべきか」の急所に関わる言葉を順次取り上げ、これらの言葉について小林先生はどう言われているかをお話しします。
「小林秀雄山脈五十五峰」「小林秀雄 生き方の徴」とも、より詳しくは「l’ecoda講話覚書 Ⅰ 開講にあたって」でご案内します。



令和7年4月の講座ご案内

●4月17日(木)19:00~21:00
 小林秀雄と人生を読む夕べ

   第一部 小林秀雄山脈五十五峰縦走
     第二十七峰「実 朝(「小林秀雄全作品」14集所収) 
               昭和一八年(一九四二)二~六月発表 四十歳
 
実朝さねとも」は、源実朝です。鎌倉幕府を開いた頼朝の次男で自身も第三代の将軍となりましたが、歌集「金槐和歌集」に見られる彼の歌に小林先生は「何かしら物狂おしい悲しみに眼を空にした人間」を読み取ります。人口に膾炙した歌「箱根路を われ越えくれば 伊豆の海や 沖の小島に 波の寄るみゆ」も、「大きく開けた伊豆の海があり、その中に遥かに小さな島が見え、またその中にさらに小さく白い波が寄せ、またその先に自分の心の形が見えて来るという風に歌は動いている」と、実朝の心の調べを聴き取っていきます。

   第二部 小林秀雄 生き方の徴(しるし)
     「孤独」という言葉

 今回の鑑賞作品「実朝」には、「孤独」という言葉が次のように見られます、
  ――箱根路を われ越えくれば 伊豆の海や 沖の小島に 波の寄るみゆ
 この所謂いわゆる万葉調と言われる彼の有名な歌を、僕は大変悲しい歌と読む。実朝研究家達は、この歌が二所詣にしょもうでの途次、詠まれたものと推定している。恐らく推定は正しいであろう。彼が箱根権現に何を祈って来た帰りなのか。僕には詞書ことばがきにさえ、彼の孤独が感じられる。……
  ――大海の いそもとゞろに よする波 われてくだけて さけて散るかも
 こういう分析的な表現が、何が壮快な歌であろうか。大海に向って心開けた人に、この様な発想の到底不可能な事を思うなら、青年のほとんど生理的とも言いたい様な憂悶を感じないであろうか。恐らくこの歌は、子規が驚嘆するまで(真淵はこれを認めなかった)孤独だっただろうが、以来有名になったこの歌から、誰もかに作者の孤独を読もうとはしなかった。勿論、作者は、新技巧をこらそうとして、この様な緊張した調を得たのではなかろう。……
 こうして小林先生の作品では急所急所で「孤独」という言葉が用いられます。ということは、「孤独」という言葉は先生の人間観の急所であったということであり、四月一七日の塾当日には先生の作品から「孤独」という言葉を幅広く蒐集して先生の人間観に肉薄します。


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