小林秀雄と人生を読む夕べ
この講座は、第一部、第二部の二部構成になっています。
前半の第一部は、「小林秀雄山脈五十五峰縦走」と題して、小林先生の作品を五十五作、講師池田雅延が選んで各回一作ずつ読んでいきます。小林先生六十年の作品系列を池田は飛騨山脈、奥羽山脈などの山並に見立てて「小林秀雄山脈」と呼んでいますが、そのなかでもひときわ高く、美しくそびえる五十五作を特に選んで「小林秀雄山脈五十五峰」と名づけ、≪私塾レコダ l'ecoda≫の熟読翫味作としました。
そして後半の第二部は、「小林秀雄 生き方の徴(しるし)」と題して、「考えるということ」「常識とは何か」「歴史とは何か」など、誰にとっても「いかに生きるべきか」の急所に関わる言葉を順次取り上げ、これらの言葉について小林先生はどう言われているかをお話しします。
「小林秀雄山脈五十五峰」「小林秀雄 生き方の徴」とも、より詳しくは「l’ecoda講話覚書 Ⅰ 開講にあたって」でご案内します。
令和6年11月の講座ご案内
●11月21日(木)19:00~21:00
小林秀雄と人生を読む夕べ
第一部 小林秀雄山脈五十五峰縦走
第二十二峰「当 麻」(「小林秀雄全作品」14集所収)
「当麻」は世阿弥の手になった能です。小林先生は梅若万三郎の舞台で初めて観て、それまでまったく経験したことのない感覚に襲われます、そして次の言葉を記します、美しい「花」がある、「花」の美しさというようなものはない……。先生の「当麻」を読むとは、この言葉に込められた先生の発見と得心の驚きを感取することに尽きると言っても過言ではありません。この言葉は、二十代の初めからずっとフランス文学、ロシア文学に心酔し続けていた小林先生が、四十歳を目前にして初めて日本の美と思想を目の当りにし、思わず発した感歎の声だったとも言えるのです。
第二部 小林秀雄 生き方の徴(しるし)
「古典」という言葉
「古典」という言葉を、私たちは日頃、別段どうとも思わずに口にしたり、耳にしたりしています。しかし、小林先生は、たとえば「読書について」(「小林秀雄全作品」第11集所収)でこう言っています。
――文字の数がどんなに増えようが、僕等は文字をいちいち辿り、判断し、納得し、批評さえし乍ら、書物の語るところに従って、自力で心の一世界を再現する。読書の技術が高級になるにつれて、書物は、読者を、そういうはっきり眼の覚めた世界に連れて行く。逆にいい書物は、いつもそういう技術を、読者に眼覚めさせるもので、読者は、途中で度々立ち止り、自分がぼんやりしていないかどうか確めねばならぬ。いや、もっと頭のはっきりした時に、もう一っぺん読めと求められるだろう。人々は、読書の楽しみとは、そんな堅苦しいものかと訝るかも知れない。だが、その種の書物だけを、人間の智慧は、古典として保存したのはどういうわけか。はっきりと眼覚めて物事を考えるのが、人間の最上の娯楽だからである。……
11月21日の塾当日には、小林先生が「古典」という言葉をどういうふうに使っているかを他の文章でも見ていきます。
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