[小林秀雄「本居宣長」を読む]

 小林秀雄「本居宣長」を読む

  「本居宣長」は小林先生が六十三歳から七十五歳までの十二年六か月をかけて書かれた畢生の大作です。江戸時代の古典学者本居宣長の学問は、「源氏物語」や「古事記」に「私たち日本人はこの人生をどう生きればよいのか」を尋ね、教わろうとした「道の学問」なのだと言われ、全五十章に思索の限りを尽くされました。
 私たちの塾ではその五十章を一回に一章ずつひらき、それぞれの章に宣長の言葉はどういうふうに引かれているか、そして小林先生は、それらの言葉にどういうふうに向き合われているかを読み取っていきます。むろん毎回、「私たち日本人は、この人生をどう生きればよいか」をしっかり念頭においてです。


 令和7年12月の講座ご案内

●12月4日(木)19:00~21:00
   小林秀雄「本居宣長」を読む
第五十章 「小手前の安心と申すは無きことに候」

 小林秀雄先生の「本居宣長」は、全五十章で成っています。その「本居宣長」を、一ヵ月に一章ずつと決めて読んできた私たちの学びもいよいよ最終回、大団円の回となりました。小林先生は、「本居宣長」は「思想の劇」なのだと最初に言われ、宣長が主役となって演じた「歌の事」から「道の事」への思想劇を詩情豊かに描き出されました。「道の事」とは宣長畢生の大業『古事記伝』の主題であると同時に宣長たちの古学を象徴する言葉ですが、宣長が門人たちの質疑に答えた『答問録』の中に、「人々の小手前にとりての安心はいかがと、(中略)此事は誰も誰もみな疑ひ候事に候へ共、小手前の安心と申すは無きことに候」とあり、この発言は宣長の古道の論を締め括るような形になっていると先生は言い、第五十章はこの発言を吟味することから起されます。では、宣長と同時代の人々にとって「小手前の安心」とはどういう安心だったのでしょうか。宣長がきわめた上代の人々の安心はどういう安心だったのでしょうか。

 ☆――以下、特報です――☆
小林先生の「本居宣長」には二部構成の「補記」があり、昭和五二年十月の「本居宣長」刊行後、昭和五七年四月に刊行されて「小林秀雄全作品」の第28集にも入っていますが、私たちの「私塾レコダ」では引き続き、令和八年一月八日(木)から同年十月一日(木)までの見通しで毎月第一木曜日に「本居宣長補記Ⅰ」「同Ⅱ」を読んでいきます、ご期待下さい。



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