小林秀雄「本居宣長」を読む
「本居宣長」は小林先生が六十三歳から七十五歳までの十二年六か月をかけて書かれた畢生の大作です。江戸時代の古典学者本居宣長の学問は、「源氏物語」や「古事記」に「私たち日本人はこの人生をどう生きればよいのか」を尋ね、教わろうとした「道の学問」なのだと言われ、全五十章に思索の限りを尽くされました。
私たちの塾ではその五十章を一回に一章ずつひらき、それぞれの章に宣長の言葉はどういうふうに引かれているか、そして小林先生は、それらの言葉にどういうふうに向き合われているかを読み取っていきます。むろん毎回、「私たち日本人は、この人生をどう生きればよいか」をしっかり念頭においてです。
令和7年8月の講座ご案内
●8月7日(木)19:00~21:00
小林秀雄「本居宣長」を読む
第四十七章 「『あやし』という言葉の使い方」
令和の今日もなお大差はないかも知れませんが、江戸時代に本居宣長が「古事記」の註釈を思い立った頃、「古事記」を開けてみたほとんどの人が「ここで言われていることはあやしいものだ、伝説に過ぎまい、歴史とは言えぬ」と高を括っていました、しかし宣長は随筆集「玉勝間」に「あやしき事の説」を書いて言っています、
――「もし人といふもの、今はなき世にて、神代にさる物ありきと記して、その人といひし物のありしやう、まづ上つかたに、首といふ所有て、その左リ右に、耳といふもの有て、もろもろの声をよくきゝ、おもての上つ方に、目といふ物二つありて、よろづの物の色かたちを、のこるくまなく見あきらめ」、「かくて又胸の内に隠れて、心といふ物の有つる、こはあるが中にも、いとあやしき物にて、色も形もなきものから、上の件耳の声をきゝ、目の物を見、口のものいひ、手足のはたらくも、皆此心のしわざにてぞ有ける、さるに此人といひし物、ある時、いたくなやみて、やうやうに重りもてゆくほどに、つひにかのよろづのしわざ皆やみて、いさゝかうごくこともせずなりて止みにき、と記したらむ書を、じゆしやの見たらむには、例の信ぜずして、神代ならんからに、いづこのさるあやしき事かあるべき、すべてすべて理リもなく、つたなき寓言にこそはあれ、とぞいはむかし」、そして、「すべて神代の事どもも、今は世にさる事のなければこそ、あやしとは思ふなれ、今もあらましかば、あやしとはおもはましや、今世にある事も、今あればこそ、あやしとは思はね、つらつら思ひめぐらせば、世ノ中にあらゆる事、なに物かはあやしからざる、いひもてゆけば、あやしからぬはなきぞとよ」、……
これを受けて、小林先生は言います
――此処で、彼が言いたいのは、「あやし」という言葉の使い方である。――「つらつら思ひめぐらせば、世ノ中にあらゆる事、なに物かはあやしからざる」と自分の言うところを、そのまま率直に受取って欲しい。「あやし」という言葉を、まともに使おうとすれば、どうしても、このように強い反語的な言い方にならざるを得ない、という事が、解って貰えるだろうか。この言葉のまともな使い方をしている人が、何と少いか。そういう事を、彼は、つらつら思いめぐらしているのである。この言葉の不徹底な使い方ばかりが、周囲に行われている様を、見ているうちに、それが、古学の道を、遂に誤まらす事になったのが、彼には、いよいよはっきりして来た。……
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