小林秀雄 生き方の徴 (しるし) (一) 開講にあたって

開講にあたって
池田 雅延   
 ≪私塾レコダ l’ecoda≫の前身、≪レコダ l’ecoda≫では、毎月第三木曜日に「小林秀雄と人生を読む夕べ」と掲げた勉強会で小林秀雄先生の作品を一作ずつ読んできました。しかし本年(令和四年)四月に発足した≪私塾レコダl’ecoda≫ではその「小林秀雄と人生を読む夕べ」を二部に分け、第一部ではこれまでどおり小林先生の作品を一作ずつ読んでいきますが、第二部では「歴史」「常識」「教養」「知る」「感じる」「考える」「信じる」といった言葉を一語ずつ取り上げ、小林先生はそれらの言葉を私たちとはどんなに違った意味合で用いているか、ということは、国語辞典に書いてある語義とはどんなにちがった意味合で用いているかを見ることによって、それらの言葉がいずれも私たちの「いかに生きるべきか」をまっすぐに指し示していることを学んでいきます。
 小林先生は、日々、身の周りに現れる言葉や事柄に鋭く反応し、そこから生きることの意味や味わいをいくつも汲み上げました、先生の六十年にわたった文筆生活のテーマは一貫して「人生、いかに生きるべきか」であり、この「いかに」という人生への問いがどれほどの高みまで、どれほどの深みまで問い続けられたかに先生の本領が現れているのですが、しかしその問いは、人生観とか世界観とかの理論を求めて始められたのではありません。小林先生にとっても私たちにとってもすぐ身近で起きていることをすばやく見てとり、それらのささいな、微妙な物事が私たちの人生をどれほど豊かにしてくれているか、支えてくれているかを驚くばかりの高み深みで読者に指し示す、それが小林先生なのです。ということは、先生の言う「人生、いかに生きるべきか」は、出発点も帰着点も、「この人生、私たちは、どういう心がけで生活すればよいか」なのです。難解、難解と言われる小林先生ですが、そういう目と心で読んでいけば、「人生、いかに生きるべきか」はいくつもいくつもわかりやすい言葉で書かれているのです。

 いまここで言う「生き方の徴」の「徴」は、小林先生の「本居宣長」に依拠したものです。先生は「本居宣長」の第三十四章(新潮社刊「小林秀雄全作品第28集所収」)で、次のように言っています。
 ――有る物へのしっかりした関心、具体的な経験の、「徴」としての言葉が、言葉本来の姿であり力である。直かに触れて来る物の経験も、裏を返せば、「徴」としての言葉の経験なのである。……
 今回の「小林秀雄と人生を読む夕べ」の立場から言えば、「有る物」とはとりもなおさず「人生」です。ということは、私たちは小林先生に、「人生の徴としての言葉」を通じて「人生の生き方」を学ぼうとしているのです。「徴」には各種の意味合がありますが、「しるし」と読まれるときの「徴」は「表徴」の「徴」です、『新潮日本語漢字辞典』には「表面に現れた本質や意味」と書かれています。

  ●小林秀雄、生き方の徴(しるし)
  歳月をかけるということ 天寿を磨くということ  
  考えるということ    
  読むということ 書くということ     
  知るということ 感じるということ    
  見るということ 聴くということ     

  微妙ということ ふり すがた
  学ぶということ 信じるということ 
  愛するということ わかるということ 
  尊敬するということ

  食べるということ

  言葉について 言霊について
  歴史について 尊敬するということ
  学問と学習 質問するということ 
  詩とは何か 歌とは何か

  不安について 後悔について
  思想について 常識について
  経験について 模倣について 
  文化について 教養について
  直観について 想像力について
  集中力と持続力
  
  無私を得るということ
  もののあわれを知るということ
                                 他