大江 公樹 <感想> 第二十九章 「古の実のありさま」は古語にこそ

●大江 公樹
 令和五年(二〇二三)六月一日
 <小林秀雄「本居宣長」を読む>
 第二十九章 「イニシエマコトのありさま」は古語にこそ

 第二十九章は津田左右吉氏による本居宣長批判で幕を開ける。津田氏の立場は、いはゆる「客觀的な歷史事實」を重んじたものであり、この概念に慣れ親しんでゐる我々読者からすると、二十九章冒頭は非常にスリリングなものである。津田氏による「理詰め」の考へ方に対して、小林氏がどのやうな反論をするのかと期待しながら読むと、小林氏は「問ふ人の問ひ方に應じて、平氣で、いろいろに答へもするところに、歷史といふものゝ本質的な難解性があるのであらうか」と述べて、津田氏の意見を軽やかにかはしてしまふ。その後、宣長に寄り添ふやうにして、「言語生活上の、どうにもならぬ条件」に立ち向かふ古代人に思ひを致し、古代人がどのやうに漢語を自分たちの生活に吸収し、かつ自国語を意識したのかを想像する。そして、この想像が、津田氏に対する壮大な反論となつてゐるのである。
 第二十九章を読むと、想像力を働かせることにより、歴史は見え方がかうも変はるものかと思はされる。本章で、争点として書かれてゐるのは、「辞」といふ言葉の解釈である。「帝紀及び本辞」といふ記述をはじめとして、『古事記』序文において何度か登場する「辞」を、津田氏は「事」だと解釈するが、本居氏は「古語」と密接に結びついたものと考へる。『古事記』に至るまでの、古代人の思ひを想像しなければ、我々は「辞」といふ言葉を簡単に読み流してしまふだらうし、津田氏の考へをあつさり受け入れて終はつてしまふだらう。しかし、本居氏、小林氏に倣つて、「漢字によつてわが身が実験され」てゐた古代人の思ひを想像すると、「辞」といふたつた一文字が、古語を守ろうとする古代人の姿を物語るやうになる。想像力により、小さな形跡が、その背後に巨きく深い歴史の姿を見せてくれるのである。
 第二十九章からは、歴史に向き合ふ望ましい姿勢とはどういふものかを教へられたやうに思ふ。

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