岡本 卓也  感ずるという不思議

●岡本 卓也
 令和四年(二〇二二)九月十五日
<小林秀雄と人生を読む夕べ>
「感じるということ」

     感ずるという不思議

 小林秀雄先生の精神との出会いは、広島の吉田宏さん吉田美佐さん夫妻が企画してくださった池田雅延塾頭の広島でのご講義、「小林秀雄に学ぶ塾in広島」の第2回からでした。2016年のことです。
 私はそれまで小林秀雄先生の著作を一度も読んだことがありませんでした。今、考えると大きなご縁に導かれていたとしか思えない出会いだったと思います。というのも私は初めて池田塾頭のご講義を聞いた時、そこで雷に打たれたような感動を覚えて「何かこっちにほんとうのことがある」と感じたとか、すぐにのめり込んで行った、というような敏感な塾生ではなかったからです。初めは分からなかった。むしろ反感に似た感情すらありました。普通の社会通念で考えると断定できるはずがないことを小林先生も池田塾頭も自分の心を賭けて真剣に断定する語り方をされていたし……。
 しかし、何故だったのかは自分でもはっきり説明できないのですが、多分、心にぶつかった何かから逃げるのが悔しくて、ご講義に通って、「広島素読塾」にも参加するようになりました。
 広島素読塾は小林先生の「美を求める心」の文章を全員で百遍読むことを目指し、月に一度集まって二回素読するという塾です。コロナ禍で中断するまで全員で50回以上は読んだのですが、この文章も初め私にとっては難しかった。何が難しかったかというと、小林先生の書かれている「感ずる」という言葉の意味が分からなかった。けれど、人生は少しずつ進み、その間にも少しずつ小林先生の文章との出会いは増え、私の心が掴む小林先生、池田塾頭の姿も精しくなっていき、いつのタイミングであったか、私は「感ずる」ということが「わからなかった」のではなく「信じられなかった」のだと、はっきり気づいたのです。すると、そこから実生活の中で色々なモノが見えて来て、初めて「美を求める心」という文章が意味でなくモノとして心に触れ始めました。
「感ずる」というのは、やはりとても不思議なことです。不思議だけれど、同時に何より確かなことで、錯覚などでは決してない。 人は花を見た時、「これは菫の花だ」とわかってからその価値を吟味して心を揺らすのではない。愛情の眼差しで目の前のモノを見た時、心はお喋りをやめて自然に相手と共に揺れ、その揺れる歓びに堪えるとき、人は自分の肉声でどうしようもなく「あなたは美しい」と歌を詠うのです。
 そのような「感ずる」という不思議の入り口に入った時、世界は依然として謎のまま、しかし明るく開けてくるように思います。感ずるという不思議は、精神の不思議で、命の不思議で、巡り合いの不思議です。唯物的世界の中に人間の脳があって、その脳が心を作り出している、心の存在は錯覚なのだ、計算機を発達させれば人工の精神がつくれるのだ、というような発想ではまるっきり説明のつかない暖かい謎です。その謎の核心に小林先生の文章も、池田塾頭のご講義も常に触れている。
 まだまだ池田塾頭のご講義は聴いても理解しきれないところも多いですが、これからも「感ずるという不思議」に接することだけを頼りに、自分の必然の中で何とか食らいついていきたい。
 池田塾頭、ありがとうございます。人生は未だ謎で困難なままですが、もう閉じこもって絶望せずに、美しいものは美しいと感ずる覚悟を持って進みたいです。

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