事務局ごよみ(2) ウェブ雑誌「身交ふ」の立ち上げにあたって
安達 直樹
私は、この10月に刊行となった当ウェブサイト『身交ふ』のウェブデザインと誌面の割り付けを担当している。
私塾レコダ l’ecodaには『身交ふ』の前身となるウェブサイトがあり、そこでは、池田塾頭の講義の情報が受講生に共有され、「交差点」というコーナーには、講義に触発された受講生の自問自答が投稿されていた。『身交ふ』は、この前身のウェブサイトを発展させる形で生まれた。また、デザインや色調は、兄弟サイトである『好*信*楽』との親和性を考慮しながら、幅広い年代の読者が閲覧しやすいよう、シンプルなものにした。
池田塾頭はこの「交差点」への投稿文が、「小林秀雄先生の正当な享受のかたち」であると言われる。小林先生がこの世を去ってから40年が経とうとする時期に「小林秀雄」をタイトルに冠した書籍が相次いで出版され、小林先生が練り上げた言葉が持つ影響力にあらためて驚かされる一方で、著者が本当に小林先生の言葉に心を動かされたのかと首をかしげたくなるものも多いと感じる。
小林先生は著作や講演の中で、自分はいつも感動からはじめた、そして、自分の作品は感動を書こうとしたものだ、ということ言われている。「交差点」への寄稿文は、小林先生の言葉や池田塾頭の講義から受けた感動であふれていて、そこをはっきりと感じ取って、池田塾頭は、「小林秀雄先生の正当な享受のかたち」とおっしゃるのだろうと思っている。
小林先生の「天命を知るとは」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第24集所収)のなかには、このような文章がある。
「ここに徂徠の独創性が現れるのだが、彼の考えによれば、孔子の思想は、古文献に徴した限り、宗教でもなければ、哲学でもない、のみならず、彼には、どんな学説も発明した形跡はない、ひたすら、民を安ずるという現実的な具体的な「先王之道」を説いて止まなかった人である。それに、もう一つ大事なことは、この人が、そういう道を説くという使命感を自覚していたのを、歴史は証しているという事だ。これが徂徠の思想に一貫した聖人の定義である。従って「五十ニシテ天命ヲシル」という彼の言葉は、五十という年齢にこだわる要はないが、彼が、天から、先王の道を説けというはっきりした絶対的な命令を受けている、と悟るに至った、そう素直に受け取るのが一番正しい。」
小林先生の謦咳に接し、その後も真摯に対話を続けている池田塾頭の言動を近くで見ていると、小林先生の言葉を正しく後世に伝えることを、自身の使命としてはっきりと自覚されていると感じることが多い。塾生が心を動かされ続けているその姿には、きっぱりとした迫力があって、少しでもその使命を果たすことの助力になることができれば、と思わせる力がある。もちろん、私は、まだまだ天命を知るという境地には達していないし、そもそも到達できるのかどうかも定かではないが、池田塾頭の言葉や、小林先生の作品の享受史を広く届けること、遺すことの大切さは知っている。それが今の自分の「任」だと思っている。少し大袈裟な表現になったが、これが、私が、慣れないウェブサイト運営という役割を引き受けた、偽りのない動機である。
一応の形が完成して、無事に出航した『身交ふ』。各コーナーの編集には何人もの塾生が携わっていて、今後は「私たちも『萬葉』百首」のページも充実していく。ぜひ、多くの人に読まれ、小林先生の言葉を共有するプラットフォームとして活用されるウェブ雑誌に育ってほしいと願っている。
(了)