小島 由紀子 <感想> 『萬葉』秀歌百首

●小島 由紀子
 令和四年(二〇二二)十二月二十二日
 <新潮日本古典集成で読む『萬葉』秀歌百首>
ぬばたまの よるさりれば まきむくの 
   かはおと高しも あらしかも
   (人麻呂歌集 巻第七 1101番歌)

いはばしる 垂水たるみの上の さわらびの
   づる春に なりにけるかも
   (志貴皇子 巻第八 1418番歌)
   
 今回の一首目は、前回に引き続き、巻第七の柿本人麻呂の歌で、池田塾頭はまず題詞について、再度ご説明してくださった。
「巻七の雑歌では、題詞は『天』『地』『人』に分類され、さらに『天』は天、月、雲、雨に、『地』は山、岡、川、露、花、葉、こけ、草、鳥に、『人』は故郷、井、倭琴に分けられています。萬葉人に身近な自然や事物を、『萬葉集』の編者がどのように見据えて企画を立て、配列していったかを意識して味わっていきましょう。今回は『川を詠む』という題詞の歌です」
 池田塾頭はそう仰ると、伊藤博先生が「萬葉百首」にお撰びになった1101番歌と、直前にある1100番歌を読まれた。

  まきむくの 穴師あなしの川ゆ 行く水の 絶ゆることなく またかへり見む  (1100番歌)
  ――巻向の穴師の川を、流れる水が絶えないように繰り返し繰り返し、何度も来て眺めよう。
  ぬばたまの 夜さり来れば 巻向の 川音高しも あらしかも疾き  (1101番歌)
  ――夜になると、巻向川の川音がひときわ高く聞える。山の嵐が激しく吹き下ろしているのか。

 いずれも前回の二首(題詞「雲を詠む」1087、1088番歌)と同じく、奈良の巻向山沿いを流れる「穴師川」(巻向川)を詠んでいる。
 1100番歌は、「新潮日本古典集成」には「穴師の川辺への愛着を、旅の歌の国讃め形式に託して詠んだ」とあり、伊藤博先生も「巻向讃歌である」と言われている。人麻呂がこの近辺をよく訪れ、時に足を止めて穴師の川の流れを見つめる姿が浮かんでくる。

「今回の歌も表面的にとらえると、川の様子を詠んだ平俗な歌と思われるかもしれませんが、伊藤博先生のお言葉を聞いて、ご自身の聴覚を働かせて味わってみてください」
 池田塾頭はそう仰ると、「萬葉集釋注 四」(集英社)の1101番歌についての解説を読まれた。

「聴覚によって川の流れの激しさをとらえた歌。聴覚に訴える部分を第四句で『川音高しも』と切り、その原因に対する推量を小きざみに『あらしかも疾き』と添えたところが魅力。急ぐようなその結びは、嵐の鋭さに対応しているように感じられる。もとより計算してのことではなかろうが、二音節『疾き』で押さえてそれが盤石の坐りを見せている手腕には驚かざるを得ない」

 池田塾頭は読み終えると、「歌の最後を二音節の『疾き』で押さえて、ぱっと切ったことで、川音がより大きく耳に達するように聴こえてきませんか。伊藤博先生のように、『萬葉集』の歌は、そこに鳴っている音を耳で聴き取るという意識で読んでいきましょう」と仰った。
 このお言葉を聞き、自分はこの歌を抑揚のない平坦な流れで読んでいたことに気付いた。そっと声に出し、まず「ぬばたまの 夜さり来れば 巻向の」を語尾を伸ばして徐々に音を上げていくと、暗闇の山の中で足がすくむような心地がした。「川音高しも」を一語ずつ駆け上るように読み、「あらしかも 疾き」と強く言い切ると、激しい川音が暗闇の奥から響いてくるような気がした。
「伊藤博先生はこの歌を、『人麻呂集歌』および『萬葉集』中の『傑作の一つ』と仰っています。このような言い方は主観であるとして、現代の学会においては批判されます。今や註釈や解説は客観的にしか述べられず、無味乾燥でカサカサとしたつまらないものになっています。伊藤先生は学会のタブーを犯してまで、主観的な感想を語られました。そこには血が通い、体温が感じられ、歌人と出会い、握手をしたという確かな実感があります。『新潮日本古典集成』の編集会議や講演会では、『萬葉集』の歌を朗詠され、時に皆で合唱するように読んで、身をもって味わうことを大切にされていました」
 池田塾頭はそう仰ると、今回の題詞「川を詠む」の十六首(1100〜1115番歌)をすべて朗詠してくださった。次第に、そのお声には、萬葉人の声、伊藤博先生の声も重なっているように聞こえてきた。
 人麻呂の穴師川の二首の後は、御笠山を流れる細谷川(能登川)、吉野川、泊瀬川、檜隈川、布留川、率川、結八川など、奈良の各地の川を詠み込んだ歌が続き、川音のさやけさや水の清らかさ、流れの速さ、その川を訪れた喜びや、川で出会う男女の恋心など、さまざまな思いが溢れ出てくる。
「同じ題詞の一連の歌を声に出して読むと、どういう世界が立ち上がってくるか、お分かりいただけたでしょうか。萬葉人の心の昂り、躍動が強く伝わってきたのではないでしょうか。これらの歌は、うたげの席や祭りの場で、川が題詠となった時に披露され、その後、『萬葉集』の編者が、巻第七で題詞ごとに分類するという企画を立てた時、選び抜かれて配列されたとも考えられます。この十六首の冒頭に、人麻呂という大歌人の歌を二首置いたことからも、編者の意気込みが強く感じられます」
 池田塾頭は、歌の作者となり編者となって、萬葉の自然が描かれた、巻第七という長編連作の魅力を語っていかれた。そして、再び作者となって、こう仰った。
「歌を披露する時は、川に寄せる思いを作曲するように朗誦したことでしょう。萬葉人は、歌を通じて、人間に備わっている、音楽を聴くことで得られる安らぎを分かち合い、交換し合い、生活の潤いとしていたことでしょう」

 萬葉人の心の中に響いていた歌の音が、時を超え、現在にまた鳴り響き出したような余韻が続く中、池田塾頭は、「今日の二首目から、巻第八に入ります」と仰って、その新たな編纂法についてお話しくださった。
「巻第八は、春夏秋冬の四季に分類され、それぞれ雑歌と相聞に分かれています。この新しいスタイルの部立が、後世の『古今和歌集』をはじめ、和歌の重要な分類法となったので、まさに画期的な試みと言えます。その巻頭『春雑歌』のトップを飾るのが、今回の志貴皇子の歌です」

  石走る 垂水の上の さわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも

 池田塾頭は春の到来を喜ぶ歌として有名なこの歌を読み上げられ、伊藤博先生がなぜ「萬葉百首」に撰ばれたかを、「萬葉集釋注 四」の解説とともに詳しく話してくださった。
まず伊藤博先生は、「石走る 垂水の上の さわらびの」の三つの「の」について、次のように言及される。

「助詞『の』を上三句に立てつづけに畳みこんで、『さわらびの萌え出づる春になりにけるかも』と一気に歌い上げた明るく力強い調べが春の躍動そのものに調和しており、韻律豊かな気品の高い歌である」

 これについて池田塾頭は、「私たちは日本語という言葉とその音を授かり、子供の頃から音の響きを記憶に刻んでいます。たった一語の助詞の『の』にも敏感で、それが連なる音を聞いただけで、そのあり方や情景を直観できるでしょう。『石走る 垂水の上の さわらびの』と聞くと、自分の体内にある、日本語の音楽性を感知するツボが自然と反応して、その緊密さから自然の躍動感というものを、食べ物の味を味わうように、耳で味わうことができるのです」と仰った。そして、志貴皇子が見た情景を伊藤先生の「釋注」に拠って次々と描き出されていった。
「枕詞の『石走る』は、普通は語調を整えるだけで意味を持たないのですが、この歌では、目の前に見えている実景の『垂水』を修飾して、『岩にぶつかってしぶきをあげる』という意味になっています。また、『走る』とは、普通は平地を横に移動する運動を表しますが、志貴皇子は、水が下に流れ落ちる運動を『走る』としてとらえています。つまり『石走る 垂水の上』とは、川の水が勢いよく流れ落ちる滝壺の周辺のことで、地面とほぼ水平にある位置にちょうど芽ぶいたばかりの『さわらび』が生えていたというわけです」
 さらに、池田塾頭は、その小さな「さわらび」の姿を、これもやはり伊藤先生の「釋注」に拠って接写レンズで迫るように映し出していかれた。
「『さ』という接頭語がついた『さわらび』という言葉が『萬葉集』に登場するのは、この歌のみです。『さ』を一言添えると、『狭衣』『小枝』『小夜』といったように、何かしら心惹かれるものが感じられますが、『さわらび』の『さ』は、生き生きと萌え出したばかりという強い生命力や、目に見えない力が十分に発揮されているという充足感を感じさせます。志貴皇子は萬葉人に愛用された『わらび』に『さ』を付けて、新しい歌語を生み出したのです。また、『なりにけるかも』は、今まさに『さわらび』が地上に現れ、新たな生命を得た若者の姿を我々の目の前に見せているという力強さを感じさせます」
 池田塾頭のこのお言葉を聞いて、実際に地面に生えるわらびを見たことはないものの、眼前に、小さく丸まった緑色の穂先や、細やかな産毛が浮かんできて、思わず手を伸ばして摘んでみたくなった。

 そして、池田塾頭は、結句について、「『なりにけるかも』で結ぶ歌は、集中、このほかに六首ある、一様に一気呵成の流れるような調べが感動を誘う。その中で、志貴皇子の歌は最も古いと見なされ、一首が詠まれた折の鮮度が偲ばれる」という、伊藤先生の言葉を引かれ、さらに詳しく説明してくださった。
「この『なりにけるかも』という言葉は、結句に据えると格好がつくため次第にお手軽に使われ、手垢の付いた言い回しとなってかえって感動を呼ばなくなるとさえ言われるようになりました。ですが、志貴皇子は『石走る 垂水の上の さわらび』を見て春の到来を感じ、その思いの深さから自分の心に生まれ出た『なりにけるかも』という言葉をこれは歌語として使えると直感し、『萬葉集』で最初に詠み込んだのです。それぞれの歌の『なりにけるかも』も、その調べやテンポ、また短調か長調かなど違いがあります。意識して聞き分けてみてください。志貴皇子が、この味わい深い言葉を、歌の歴史に留めてくれたのです」
 
 志貴皇子は、天智天皇の第七皇子であったため、天武天皇の時代には政治的に恵まれなかったが、文学的素養が豊かで、「萬葉集」には六首のみながら優れた歌を残し、子孫にも萬葉歌人が多いという。そして、晩年になって生まれた第六子の白壁王は、後に光仁天皇となって、再び天智天皇の皇統に戻ることとなったという。
 伊藤博先生は「萬葉集釋注 四」の中で、志貴皇子の生涯を仔細にわたって書かれている。
 この箇所を読んでいると、奈良市郊外の白毫寺山門の写真が思い出された。高円山の西麓にあるその寺は、志貴皇子の山荘跡に建てられたという言い伝えがある。「万葉散策」(新潮社/とんぼの本)で見たその写真は、山門への石段を塞ぐように咲きこぼれる、紫と白の萩の花が美しくも哀しげで、強く印象に残っていた。
 この残像と伊藤博先生が志貴皇子に寄せられた思いが重なり、巻第二に戻って、志貴皇子の薨去に際して詠まれた歌(230〜234番歌)と伊藤博先生の解説を読んだ。伊藤博先生が萬葉人とともに志貴皇子の葬儀に臨まれているようで、事実を辿る抑えた筆致から、深い哀悼の意を湛えたお姿が浮かんできた。
 この日の池田塾頭の「伊藤先生の註釈は、その他の註釈と全く違います」というお言葉が思い出され、ただうなずくばかりであった。

この記事を書いた人

目次