事務局ごよみ(4)  小林秀雄素読塾のご案内   有馬 雄祐


事務局ごよみ(4)
  小林秀雄素読塾のご案内 
有馬 雄祐  
 数人の塾生からベルグソンが読みたいという声があがり、それならば素読でという池田雅延塾頭の教示により、2014年に素読会が始まりました。「素読」とは、古典の文章を一区切りずつ、皆で声を揃えて読んでいく読み方です。その特徴を強調するなら、内容の理解は云々せず、声に出して読むだけという点になります。ベルグソンの『物質と記憶』と、異色な組み合わせではありますが『古事記』の素読会が並行して開催され、『古事記』の素読を終えた後の2017年5月からは『源氏物語』の素読を始めました。現在はベルグソンの著作と『源氏物語』の素読会をそれぞれ隔月で開催しており、『源氏物語』の素読会は謝羽さんに舵をとってもらいながら、私の方は主にベルグソンの素読会で幹事を担当しています。
 生命の哲学に取り組んだアンリ・ベルグソンは、小林先生が最も敬愛された哲学者です。小林先生の思想をより深く理解したいと願う多くの方が、ベルグソンの著作にも関心を寄せられています。しかし、ベルグソンの著作は難解であるともよく言われます。小林先生でさえ、ベルグソンの『物質と記憶』を一応わかったという確信が持てるまでには十年の月日を要したと、そう池田塾頭に言われたというのですから、その難しさはお墨付きです。私自身も『物質と記憶』の素読会に参加し始めた当初は「わからない」という印象が強くありました。『物質と記憶』には、「イマージュ」や「純粋記憶」といった、ベルグソンの著作に特有な言葉が出てきます。そうした言葉の定義を追いかける、分析的な読み方を密かに試みたりもしたものですが、上手くいきませんでした。
 けれど、ともかく素読を続けるうちに、ベルグソンの作品のリズムや、言葉の響きが、馴染み深いものに感じられようになりました。『物質と記憶』という作品を、音楽作品であるかのように、心地よいリズムで読もう、なるべく皆と声を合わせてみよう、そうした努力を続けるうちに、「わからない」といった印象が薄れてくる。要するに、『物質と記憶』に慣れるのだ。すると不思議なもので、ベルグソンの言葉が意味する内容も、文章全体のリズムを通じて、少しずつ感じられるようになってくる。小林先生はベルグソンの文体を「驚くほど透明で、潔白である」と評されますが、あれほど複雑に思えた文章が、ベルグソンが観ている生命の実相を真っ直ぐに伝えようとしている文章に感じられてくるのです。
 これは、小林先生が言う「すがた」の経験であったのだろうと思います。小林先生は世界的な数学者である岡潔さんとの対談「人間の建設」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第25集所収)で、素読こそが古典の「すがた」に親しむ唯一の方法であると、次のような話をされています。

 小林:岡さん、どこかで、あなたは寺子屋式の素読をやれとおっしゃっていましたね。一見、極端なばかばかしいようなことですが、やはりたいへん本当な思想があるのを感じました。
 岡:私自身の経験はないのですが、ただ一つのことは、開立かいりゅうの九九*を中学二年くらいだった兄が宿題で繰り返し繰り返し唱えていた、私は一緒に寝ていて眠いまま子守唄のように聞き流していたのです。ところがあくる日起きたら、九九を全部言えたのです。以来忘れたこともない。これほど記憶力がはたらいている時期だから、字をおぼえさせたり、文章を読ませたり、大いにするといいと思いました。(中略)(*執筆者注:「開立」とは、ある数や代数式の立方根を求めることで、その九九とは三乗九九のこと。)
 小林:昔は、その時期をねらって、素読が行われた。だれでも苦もなく古典を覚えてしまった。これが、本当に教育上にどういう意味をもたらしたかということを考えてみる必要はあると思うのです。素読教育を復活させることは出来ない。そんなことはわかりきったことだが、それが実際、どのような意味と実効とを持っていたかを考えてみるべきだと思うのです。それを昔は、暗記強制教育だったと、簡単に考えるのは、悪い合理主義ですね。「論語」を簡単に暗記してしまう。暗記するだけで意味がわからなければ、無意味なことだと言うが、それでは「論語」の意味とはなんでしょう。それは人により年齢により、さまざまな意味にとれるものでしょう。一生かかったってわからない意味さえ含んでいるかも知れない。それなら意味を教えることは、実に曖昧あいまいな教育だとわかるでしょう。丸暗記させる教育だけが、はっきりした教育です。そんなことを言うと、逆説をろうすると取るかもしれないが、私はここに今の教育法がいちばん忘れている真実があると思っているのです。「論語」はまずなにをいても、「万葉」の歌と同じように意味をはらんだ「すがた」なのです。古典はみんな動かせない「すがた」です。その「すがた」に親しませるという大事なことを素読教育が果たしたと考えればよい。「すがた」には親しませるということが出来るだけで、「すがた」を理解させることは出来ない。とすれば、「すがた」教育の方法は、素読的方法以外には理論上ないはずなのです。実際問題としてこの方法が困難になったとしても、原理的にはこの方法の線からはずれることは出来ないはずなんです。私が考えてほしいと思うのはその点なんです。古典の現代語訳というものの便利有効は否定しないが、その裏にはいつも逆の素読的方法が存するということを忘れてはいけないと思う。……

 この小林先生の教えに倣い、私たちはベルグソンの著作を素読しています。小林秀雄素読塾は古典の素読をただ続けるだけの会ですが、ぜひいらっしゃってみて下さい。より詳しくはyusukearima77@gmail.comまでお問合せ下さればご案内します。
(了)  
目次