小島 由紀子 <感想> 『萬葉』秀歌百首

●小島 由紀子 
 令和五年(二〇二三)二月九日
 <新潮日本古典集成で読む『萬葉』秀歌百首>
 ゆふされば ぐらの山に 鳴く鹿しかは 
    今夜こよひは鳴かず ねにけらしも
    (舒明天皇/巻第八 秋雑歌 1511番歌)
 はつがは ゆふ渡り来て 我妹子わぎもこが 
    家のかなに 近づきにけり
    (人麻呂歌集/巻第九 相聞 1775番歌)

 今回の一首目は、巻第八「秋雑歌」の冒頭を飾る古歌であった。

  夕されば 小倉の山に 鳴く鹿は 今夜は鳴かず 寐ねにけらしも

 池田塾頭は、この歌の作者である、第三十四代舒明天皇(天智天皇と天武天皇の父)について、詳しくお話ししてくださった。
「『萬葉集』は巻第一の冒頭に、古代の天皇で最も敬われた第二十一代雄略天皇の歌が置かれ、その次に第三十四代舒明天皇の歌が置かれています。これは皇統の正統性を示すとともに、国の創成に貢献した雄略天皇と文化の形成に貢献した舒明天皇が、特別な存在であることを表しています。『萬葉集』は、舒明天皇の孫にあたる持統天皇の発意によって編纂が進められましたが、実質的には舒明天皇の時代頃からの歌が集められているので、舒明天皇こそ『萬葉集』の創始者的存在といえるでしょう。」
 池田塾頭は、さらにこの時代と歌との関係について語られた。
「先代の推古天皇や舒明天皇の頃から、日本は国家という一つの大きな集団体制を確立していく時代となり、それを構成する個人には命令や禁止事項などさまざまな制約が強いられました。苦しい生活の中で、人々は矛盾を感じ、時に喜びを見出し、自分の感情というものを自覚して、それを歌に詠んでいきました。歌は人々の生活に馴染んでいき、まさに豊かな抒情詩が生まれた時代となったのです。そして、持統天皇は、母親の感性を働かせて、国民のために尽くす立場にある皇子や皇女たちに、歌を通じて国民の生活を教えようとして、歌を集め、歌を読ませ、今この世に生まれた自分は何を為すべきかを考えさせようとしました。『萬葉集』という題名は、『たくさんの言葉を集めた歌集』を意味するという説もありますが、持統天皇の思いをふまえると、『萬代までも末長く続く世を願って』という意味が込められているという説の方が適していて、伊藤博先生もそちらの説を取られています」
 池田塾頭のお話をお聞きして、日本文化の夜明けは、萬葉人の歌によって豊かな曙色に彩られているイメージが湧いてきた。そして、舒明天皇の「大和やまとには むらやまあれど……うまし国ぞ 蜻蛉あきづしま 大和の国は」という、『萬葉集』巻第一の2番歌の国見の歌が思い出された。
「萬葉人にとって特別な存在であった舒明天皇の歌が、巻第八『秋雑歌』で巻頭に置かれた意義を知るために、まずはご自身で何度も読んでみてください。この歌は斎藤茂吉はじめ専門家から『萬葉集』最高の名歌の一つとして高い評価を得ています。それをふまえた上で、伊藤博先生は『歌そのものを心ゆくまで朗誦する以外に真価を知るすべのないような品格がある』と仰っています。ぜひ声に出して読み味わってください。」

  夕されば 小倉の山に 鳴く鹿は 今夜は鳴かず 寐ねにけらしも
   ――夕暮れになるといつも小倉の山で鳴くあの鹿は、どうしてか、今夜は鳴かない。妻にめぐり逢えて共寝をしているのであろう。

 伊藤博先生はこの歌の境地に参入するために、鹿の声を実際に聞きに、秋の夜、京都高雄の奥山まで行かれたという。「萬葉集釋註 四」(集英社)にはその体験が綴られている。

「奥深い山々は森閑として暗く物音一つ聞こえない。そのうち、十時近くなって全山を響かせて鳴く鹿の声を聞いた。『カーヒョーーー』。長く尾を引き、澄んで高いその声は哀調を帯び余音を残しつつ、一声だけで終わる。そして、四分ばかりの間を置いて鹿はまた『カーヒョーーー』の高鳴りをしみ入るように響かせた。その間隔は規則的で寸分の狂いもない」

 ときに弦楽器の高音が、人の嘆きの極まりゆく声に聞こえて驚くことがあるが、この『カーヒョーーー』という音も、鹿の切ない心の声として迫ってくるようで、高く澄んだ子音や長音符「ー」にも、文字にできない微細な変転の響きがあるように感じられてきた。
 この声を夕暮れ時に聞き続けていたら、実際には聞こえない日も、耳の奥から、我が身を包むように鳴り響いてくるのではないだろうか……。
 伊藤博先生は「舒明天皇が鹿の哀韻に心を動かした経験の持ち主」であることを感得され、この歌について「荘重簡古な調べの中に深遠な思いやりがこもる」と仰っている。「新潮日本古典集成」の註釈にも、「宵々ごとに鳴いていた鹿が、今夜に限って鳴かないことに対するいぶかりを、愛隣の情をこめて歌ったもの」と書かれている。
 こういった舒明天皇の心の奥行きについては、他の訳書ではほとんど触れられていないが、伊藤博先生はじめ『新潮日本古典集成 萬葉集』の先生方は、雄鹿がひとり切なく鳴く姿、そして雌鹿と寄り添い合う姿を思い描き、鹿に心を寄せ続ける舒明天皇の、その慈愛の深さまでも訳し出されている。
「この歌の『小倉の山』の場所は詳しくは分かっていませんが、奈良県桜井市今井谷の付近といわれています。山奥で鳴く鹿の声になれ親しんできた萬葉人たちは、舒明天皇とこの歌に心を寄せ続けていたことでしょう。」
 池田塾頭のお言葉で、舒明天皇を仰ぎ見た萬葉人の思いと、この歌を巻第八「秋雑歌」の冒頭に掲げた編纂者たちの思いが、今も山奥に息づいているように感じられてきた。
 いつかこの歌が詠まれた奈良の山、そして伊藤博先生が行かれた京都高尾の山で、鹿の鳴く声を実際に聞いてみたい。たとえ真っ暗な山奥でも、この歌を思い出せば、この国の礎には歌がある、という安心感も得られるような気がしている……。

 次の二首目は、巻第九の「相聞」に置かれた、「人麻呂歌集」からの1775番歌であった。
 この歌は、前の1773、1774番歌と三首一連で、人麻呂が宴会の席で、恋を主題にした戯れ歌として、天武天皇の息子の弓削皇子ゆげのみこ舎人皇子とねりのみこに献じたものだという。
 一首目の1773番歌は、弓削皇子に献じられた歌である。

  かむなびの かみいたに するすぎの 思ひも過ぎず 恋の繁きに
   ――神なび山の神依せの板にする杉の名のように、胸の思いが過ぎてなくなることはあるまい。あまり激しく恋心が身を責めるので。

「伊藤博先生は、これは男の立場から詠まれた歌であるとして、女との間に『何か障害があるゆえの苦悶』があることを読み取られています。それを受けた1774番歌は女からの返歌で、さらにそれを受けた男の歌が1775番歌になっています。この二首は舎人皇子に献じられています」
 池田塾頭は歌の構成を説明されると、二首目の1774番歌を読まれた。

  たらちねの 母のみことの ことにあらば 年の長く 頼め過ぎむや
   ――お母様じきじきのお声がかりさえ頂けたなら、このまま何年もずるずると、お気を持たせたままで過ぎることにはならないはずです。
 
「『母の命』とは、母親に対する神名的な敬称です。女は母親の気高さを敬い、従うべき絶対的な存在として畏怖の念を抱いています。そして、母親から結婚を認める一言が欲しい、それが得られたらすぐにでも結婚するのにと、その許しが近いことを匂わせます。」
 池田塾頭はそう仰ると、三首目の1775番歌をお読みになった。

  泊瀬川 夕渡り来て 我妹子が 家のかな門に 近づきにけり
   ――初瀬川を夕方に渡って来て、いとしい人の家の戸口にとうとう近づいた。

「普通、妻問いは夜に出かけるものですが、『夕渡り来て』とあり、男は夕方に出立しています。これは初めて訪ねる女の家までの道のりの遠さを示していますが、やっと結婚が許されて、女のもとへ早く行きたいという男の気持ちが伝わってきます。そして、いよいよ女の家の門を目の前にして、第五句で「近づきにけり」となった時の、男の胸の高鳴りをぜひ聞き取ってみてください。そして、三首をもう一度続けて読んでみてください」 
 池田塾頭のお言葉に促され、三首を声に出して読んでみると、五七五七七の限られた文字の間から、男と女の切実な思いが充満しているのが見えてきた。
「伊藤博先生は『萬葉』秀歌百首の一首に1775番を選ばれましたが、『一首を孤立して味わっても男の心の高鳴りは充分に聞こえてくるけれども、三首一連の物語的構成の中に置いて味わえば、なおさら光彩を放つことが知られよう』と仰っています。1775番歌の口語訳だけでは、この歌の何が面白いのかと思われるかもしれませんが、三首を続けて読むと、男の純情さや健気さが迫ってきます。この三首を宴の場で、遊び心をもって読み連ねた人麻呂の手腕を、伊藤博先生は讃えていらっしゃいます。」
 池田塾頭はこう仰ると、伊藤博先生の釋註を読まれた。

「家のかな門に近づきにけり」——その向こうに何があるか。すべては万人の理解のうちにある。歌は余情を限りなく残して、終わるべきところで終わっている。

 このお言葉を聞いた瞬間、人麻呂の歌を宴席で直接聞いた、弓削皇子や舎人皇子、同席の人々が、皆うっとりと余韻に浸る様子が目の前に浮かんできた。そして、自分も知らぬ間に、彼らと同じ表情をしているように感じて、はっとした。

 池田塾頭のご講義によって、この日もまた萬葉人と時空をともにすることができました。あらためて心より感謝の念をお伝えさせていただきます。本当にいつも豊かでかけがえのないひと時をありがとうございます。

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