●壇 陽一
令和五年(二〇二三)二月十六日
<小林秀雄と人生を読む夕べ>
「信じるという言葉」
『身交ふ』や『好・信・楽』に寄せられる皆さまの文章は、御自身の感じたこと、考えたことをかくも上手に文章に表現できるものだといつも感心させられています。この「交差点」に投稿することは私などには遠く及ばないこととためらいながらも、僭越ですが少し感じたことを書かせていただこうと思います。
私が小林秀雄先生の作品を初めて目にしましたのは入試問題の出題文となった「無常という事」や「考えるヒント」等だったと記憶しています。その数十年後、新潮文庫「モオツァルト・無常という事」を手に取りましたが、中途で読むことを止めてしまいました。
そして数年後、新潮CD小林秀雄講演第二巻「信ずることと考えること」に出会ったのです。手に取った理由は全く記憶にございません。直感だったかもしれません。聞き始めるやいなやみるみるうちに心が満たされ、潤っていきました。講演の中で小林先生が「魂があるなんて解りきった常識ですよ」と言われた時には雷が落ちました。「霊魂は不滅か」「輪廻転生するのか」「人はなぜ生まれてくるのか」「神は存在するのか」……長年の疑問を解く手がかりがここにある、との思いから小林秀雄先生に学びたいと思い始めました。
その後、web雑誌『好・信・楽』で吉田宏さんが池田雅延塾頭を講師とする「小林秀雄に学ぶ塾」のサテライト塾、広島塾を運営されているのを知り、令和二年秋より「小林秀雄に学ぶ塾」のすべてのオンライン講義にて学ばせていただています。
さて、二月十六日の「小林秀雄と人生を読む夕べ」の第二部「生き方の徴」は「信じるという言葉」でした。
私が小林秀雄先生に学びたい動機に「見えも触れもしない存在(魂、霊魂、お化け)を解く手がかりを求めたい」ということがありました。しかし、それは何か証拠がなければその存在を信じることができないという疑念から発していたのですが、小林先生が言われる「信じること」の本意を池田塾頭から伝えられたとき、さらに「生きる」ことに直結していくことへと理解が深まっていきました。池田塾頭は次のようにお話されました。
「あらゆる信じるという行為は、人間が生きていく上で一番大事な仕事をするための内から湧きおこってくる智慧によるものです。この信じるという智慧を授かることによって、どう生きていったらよいかを思い描くことができるのです」
受講後間もない日のことでした。私は知人から「現在、とても辛い状況にあり、将来の不安や病気のことで眠れなかったり、途方に暮れたりする日もある」と聞かされました。その方は困難な重圧に押しつぶされそうになっても、それを天が与えた試練と捉え、乗り越えていこうと決心されていました。また、見えも触れもしない存在を信じ、生きていこうとされていて、その姿に心打たれました。
私はそのころ小林先生とも御縁のある福田恆存氏の著作「私の幸福論」を読んでいて、文中の「自分や人間を超えるより大いなるものを信じればこそ、どんな不幸のうちにあっても、なお幸福でありうるでしょうし、また不幸の原因とも戦う力も出てくるでしょう」の一文が心に刺さり、知人にこの一文をさっそく伝えることにしました。
今回の池田塾頭の「信じるという言葉」という講義を聴いて思いを巡らせていなければ、この一文を知人には送らなかったかもしれません。
自分の思いを表現することが苦手な私ですが、これからの自分の「標」にするつもりで投稿させていただきました。今後も「見えも触れもしない存在を信じること」、「幸福」についてさらに自問自答をつづけて参りたいと思います。ありがとうございました。
壇 陽一 <感想> 「信じるという言葉」
目次