金森 いず美 <感想> 第二十七章(下)紀貫之、和文を創る

●金森 いず美
 令和五年(二〇二三)三月二日
 <小林秀雄「本居宣長」を読む>
 第二十七章(下)/ 紀貫之、和文を創る
   (「小林秀雄全作品」第27集)

 三月の「小林秀雄『本居宣長』を読む」は、第二十七章後半を読みました。池田塾頭のご案内文には、「紀貫之による和文の創出という日本文化の大転換劇を、小林先生の和文によって体感します」とあり、とても楽しみに三月のご講義に臨みました。

「やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」(仮名序) と、貫之は言ったが、歌の種になる心とは、物のあわれを知るという働きでなければならない、と宣長は考えた。そして、彼は、「物のあはれ」という言葉を、「土佐日記」の中から拾い上げたのも、先ず確かな事である。(『小林秀雄全作品』第27集「本居宣長」p.304~305)

 宣長は、「物のあはれ」という言葉を「土佐日記」から取り上げ、その起点を「仮名序」に求めました。「やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」と記した貫之は、どのように日本語に向き合い、はじめての和文日記である「土佐日記」を書き上げたのか。私たちが当たり前に使っている、日本語の文字による文体は、貫之によって生み出されたものだと、小林先生の文章を読み、あらためてその創出のドラマに驚き、感動いたしました。
 貫之は「古今集」の勅撰という機会を得て、「やまと歌」の本質や価値や歴史を説く、漢文で書かれた序文「真名序」を、日本語に翻訳した和風の文章に作り上げました。時勢を察知し、好機を捉えて事に挑んだ貫之。「仮名序」は、「鋭敏に時宜を計った、大胆な試みである」という小林先生の文章に、和文の誕生という、時勢の本質をいち早く掴んだ貫之の資質そのものを感じ取ることができました。小林先生は貫之の資質を、「歌人のものというより、むしろ批評家のものだったのではあるまいか」と評されています。
 貫之は、才学有って、善く和歌を作るという人であったが、彼のような微官びかんには、才学は出世の道を開く代りに、言霊の営みに関する批評的意識を研いだであろう。(『小林秀雄全作品』第27集「本居宣長」p.307)

 貫之の置かれた境遇と彼の才学は、「批評家」の資質を磨いていきます。「やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」という貫之の言葉は、「やまと歌」に息づく「言霊」の鼓動と、次々と生まれ出る「言の葉」に対する驚きと感慨が込められて、その奥底には、日本人の心の原点があるのだ、と語りかけてくるように感じました。「仮名序」からおよそ三十年、時勢は、平仮名の誕生から普及へ、日本の文化が女性たちの間で急速に歩みを進めていきます。

 女手といわれているくらいで、国字は女性の間に発生し、女性に常用されていたのだから、国文が女性の手で完成したのも当然な事であった。「土佐日記」の作者には、はっきりした予感があったと見ていいのではあるまいか。「女もしてみむとてするなり」という言葉には、この鋭敏な批評家の切実な感じがめられていただろう。(『小林秀雄全作品』第27集「本居宣長」p.308)

「はっきりした予感」が動力となったかのごとく、はじめての和文日記である「土佐日記」が貫之の手で書き上げられました。「言霊」が環境に応じて己れを掴み直したように、貫之も、漢文の日本語への翻訳という困難な仕事に全身をぶつけ、自国語と懸命に向き合い、己れを掴み直したのではないだろうか…。小林先生の文章から、貫之の心の奮闘や情熱までもが見えてくるように思われます。「和歌」では現すことのできない「心余る」その心のうちを、和文で表現しようとした貫之。「やまと歌」に息づく「言霊」の営みに心を重ね、和文を創出した貫之の、鋭い直感と切実な思い、「人生いかに生きるべきか」を、この第二十七章後半から感じ取ることができました。
 いくつもの大きなテーマが据えられた第二十七章をなんとか読み進めることができ、ほっとしています。池田塾頭の貴重なご講義に心から感謝をいたします。

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