事務局ごよみ(5)  降る雪のうれしくあらまし   橋岡 千代


事務局ごよみ(5)
  降る雪のうれしくあらまし 
     ――私塾レコダ l’ecoda「『萬葉』秀歌百首」へのお誘い
橋岡 千代  
 この一月末、関西は十年ぶりの雪に見舞われました。明け方、戸を開けると外は真っ白に降り積もった雪が広がり、さて……とこちらの頭もまっ白になりながら、ともかく和服に着がえてお茶会へでかけなければなりませんでした。バスはこないし、タクシーはつかまらない……雪は風とともに勢いを増していきます。……歩いた方が早いかもしれない、と大通りを北に向かうことにしました。アスファルトの上は十五センチほどの積雪ですが、川風で凍てついた橋の上は膝丈ほども積もっています。見慣れた山々は白く立ちはだかり、一夜にして町を雪国にしたひとひらひとひらの雪を見上げながら、「萬葉集」のある歌を思い出しました。

  大口おほくちの 真神まかみの原に 降る雪は 
    いたくな降りそ 家もあらなくに                     
             舎人娘子とねりのをとめ[1636]

 [1636]は、『国歌大観』で振られている歌番号ですが、大著『萬葉集釋注』(集英社刊)を遺された伊藤博先生は、この歌を次のように訳されています。
 ――真神の原に降る雪よ、そんなにひどく降らないでおくれ。このあたりに我が家があるわけでもないのに。
 その語注では、――「大口の」は、「真神」の枕詞。真神(狼の異名)の口が大きい意から冠したもの。一首の荒寥感に響くところがある。「真神の原」は、奈良県高市郡明日香村にあった原。飛鳥寺から香具山に続く一帯。……と記されています。なお、『萬葉集釋注』は集英社文庫にも入っています。
 皆さんもご存じのとおり、毎月第四木曜日に池田雅延塾頭が伊藤博先生撰の「『萬葉』秀歌百首」のご講義をされていますが、私も毎回楽しみに受講しています。そのおかげで日頃ふとした瞬間に古の人と一緒に見ているような情景を発見することがあります。
 先の歌は、奈良朝以前の風格ある古歌として巻第八の「冬雑歌」の冒頭に置かれていますが、伊藤先生は口語訳とは別の釈文で「肌にしみて寒い」歌と仰っています。吹雪の中で、一人香具山辺りの平野を過ぎ行くとき、何者かがぱっくり口を開けて待っているような空恐ろしさを感じます。舎人娘子の心細さが「雪」を介して玄冬をいっそう厳しく感じさせます。
 私はその日、お茶会の席入りになんとか間に合い、しびれた手足がほぐれていくのを感じていると、広いお庭に面した座敷から数人の女性たちの感歎の声が聞こえてきました。行ってみると、差してきた日の光が雪化粧したお庭をいっそう白く照り返し、そこに新たな雪があとからあとから散らつき始めていました。雪のゆっくり落ちて来る情景は、男性よりも女性に似合います。天平時代に聖武天皇のお后、光明皇后はこんな歌を詠まれています。

  我が背子せこと ふたり見ませば いくばくか 
    この降る雪の 嬉しくあらまし
             藤皇后とうくわうごう[1658]

 伊藤先生の訳は、
 ――我が背の君と二人一緒に見ることができましたら、どんなにか、この降り積もる雪が嬉しく思われるでしょうに。
 そして語注には、「藤皇后」とは光明皇后のこと、藤原不比等の娘、と書かれています。                 
 釈文には、「降る雪に寄せて夫を思慕する歌。皇后であることを捨てて一人の女性になりきっているところに、やさしくて可憐な姿がある」とあり、このころ聖武天皇は、皇后のいとこ藤原広嗣の叛乱に遭って東国巡幸に出かけている最中でした。伊藤先生の釈文は、歌の背景を単に並べて示すのではなく、このような皇后の複雑な心境や孤独感を見ていたかのように語りかけてくださいます。そのエッセンスを池田塾頭が取り次いでくださる、このお二人の連携プレイこそは”レコダ萬葉” の魅力です。
 さて、「雪」といえば「白」ですが、無彩色でありながらこれほど光が詰まっていて、他とかけ離れた力を持つ色はありません。百二十年ほどかけて編纂された「萬葉集」の最後の編者である大伴家持やかもちは、この白い雪を天皇の威徳に見たて、その御代が永遠に続きますようにと、予祝よしゅくの歌で「萬葉集」全二十巻を締めくくっています。

  あらたしき 年の初めの 初春の 
    今日けふ降る雪の いやしけ吉事よごと
             大伴家持[4516]

 伊藤先生の訳は、
 ――新しき年の初めの初春、先駆さきがけての春の今日この日に降る雪の、いよいよ積もりに積もれ、き事よ。         
 釈文には、「ここは『いやしけ』と命令形(願望)になっている。上からは『今日降る雪よ、この雪のいやしけ』という関係になり、その『いやしけ』は『吉事』にかかわり、『吉事よいやしけ』というのが結句の意であるから、『雪』と『吉事』とは等質の物ということになる。家持の眼前に降りしきるめでたい『雪』そのものが家持の願望するそのものとして降り積もっているのである。だから、『いやしけ吉事』は未来に及ぶことでありながら、眼の前に今実現しつつある。これは予祝の断定と言ってよいだろう」と書かれています。
 この『いやしけ吉事』をうけて、伊藤先生は大伴家持がこの「予祝」の歌をどんな思いで全二十巻にも及ぶ歌集の終わりにもってきたのか、そしてそこから「萬葉集」の誕生のいきさつにも考察を展開されています。
 伊藤先生は、集英社の『萬葉集釋注』より先に、新潮社の「<新潮日本古典集成>萬葉集(『新潮萬葉』とも呼ばれています)」の校註者としても中心的な役割を果たされ、各巻末の解説で「萬葉集」という歌集はなぜつくろうとされ、どういう風につくられていったかを詳しく書かれています。この「新潮萬葉」の担当編集者を十五年間務められた池田塾頭の講義では、「萬葉集」の幕開けを伊藤先生の註釈に則して、次のようにお話しされています。
 ――そもそも、『萬葉集』の発案者は天武天皇亡き後、皇位についた皇后の持統天皇でした。持統天皇は大和の国が幾久しく国民にとって安らかな国であることを願われました。そのためには、やがて国を治める立場となる皇子や皇女がこの大和の国の民の生活ぶりや心を知らなければよき統治者となれない、その教科書として、歌集に勝るものはない、そう考えられました。さらに、今後どの時代にあってもこの教科書が統治者のよりどころとなるような、そういう歌集の編纂が目指されました。そうした「持統萬葉」に継いで元明天皇のころには「元明萬葉」、元正天皇のころには「元正萬葉」と、編纂事業が続きました。それぞれの時代には、実際の立役者、柿本かきのもと人麻呂ひとまろ額田王ぬかたのおおきみ、大伴家持など、優れた歌人たちが天皇のそばに控え、その天皇の国を思う壮大な御心をよりどころとして、自らも歌を詠み、天皇から乞食者ほがいびとまであらゆる層の歌を集めて編んでいきます。つぶさに読むと、それは決して純朴な歌集ではありません。人間が生きていく上でどんな局面に立たされても、どう切り返して乗り越えるか、まさに持統天皇が望んだ名歌の集まりとなっています。……
 その人々の人生を支え励ますかのように巻第一の劈頭へきとうには第二十一代雄略天皇の春の歌を置き、「萬葉集」全巻の末尾巻第二十にはやはり春の歌で全二十巻を包む仕立てになっています。
 その巻第一の巻頭、雄略天皇の歌は国見の歌です。

 もよ み持ち ふくしもよ みぶくし持ち 
 この岡に 菜摘なつます子 家らせ 名らさね 
 そらみつ 大和やまとの国は おしなべて 我れこそれ 
 しきなべて 我れこそれ 我れこそば らめ 家をも名をも

 伊藤先生の訳は、
 ――おお、かご、立派な籠を持って、おお、掘串ふくし、立派な堀串を持って、ここ、わたしの岡で菜を摘んでおいでの娘さん、家をおっしゃい、名をおっしゃいな。さきわうこの大和の国は、くまなくわたしが平らげているのだ。隅々までもこのわたしが治めているのだ。が、わたしの方からうち明けようか、家も名も。……
 語注では、「国見」とは「望見くにみ」のことで、高い所から国の有様を見ること、もと「春秋」(古代中国の歴史書)に五穀豊穣を願い祝う儀礼、と書かれています。
 天皇が土地の娘に家や名を問うという当時の大らかで明るい求婚の場面は、彩り豊かな野辺の花が揺れているようでもあり、青い土が匂い立つようでもあり、春の躍動が長歌のリズムとなっています。伊藤先生の釈文には「土地の娘と天皇との結婚はこの地が天皇に服属することを意味するとともに、結婚による子孫の繁栄ということから、この地の五穀豊穣を約束する意味を持つ」と書かれています。

 さて、私は、「雪」という天象に触れ、今も昔も人の心をとらえるのはなぜかと考えたとき、とっさに「萬葉集」が頭に浮かびました。こうして歌を通じて古の人の心を訪ねて行くことができるのは、おそらくこの国には古来、四季の移り変わりや天候のあらわれという時空を超えた風土の接点があるからではないでしょうか。
 現代の私たちはそれを「趣」とでも言うのかもしれません。しかし古代の人々は、雪のみならず森羅万象と直結しており、そこで感じる畏れを生活の経験として深い所で育て、それをよりどころにして人生の山坂を超えて行ったのではないでしょうか。古語の一息に読めない音やリズムを何度も声に出すうちに、この切実な思いが伝わってくるような気がします。
 小林秀雄先生は池田塾頭に、「僕は若い頃、フランスやロシアの本ばかり読んで、日本の古典は四十歳になるまでほとんど読んで来なかった。しかし、『萬葉集』だけは早くから愛読した」とおっしゃったそうです。その「愛読」はおそらく「生きていくための歌」として持統天皇の心が何百年も経て小林先生の心にも伝わっていたということではないでしょうか。
 三月の講座「小林秀雄と人生を読む夕べ」では、「蘇我馬子の墓」が取り上げられます。今日、一般には明日香の石舞台古墳として知られていますが、この地を訪れた小林先生の文章はこんな風に結ばれています。
 ――私は、バスを求めて、田舎道を歩いて行く。大和三山が美しい。それは、どの様な歴史の設計図をもってしても、要約出来ぬ美しさの様に見える。「万葉」の歌人等は、あの山の線や色合いや質量に従って、自分たちの感覚や思想を調整したであろう。取り止めもない空想の危険を、僅かに抽象的論理によって、支えている私達現代人にとって、それは大きな教訓に思われる。(中略)山が美しいと思った時、私は其処に健全な古代人を見附けただけだ。それだけである。ある種の記憶を持った一人の男が生きて行く音調を聞いただけである。……
 小林先生が古典や歴史と出会われたときには、いつもこの「音調」を聴いてらっしゃったにちがい、と思いながら私も早春の雪に耳をすませました。
 皆さんもぜひこの音調を聴きに「伊藤博氏撰『萬葉』秀歌百首」にいらしてください。そして、このホームページ『身交ふ』で募集中の「新撰・私撰、私たちも『萬葉』百首」にこれぞと思った歌をぜひご推薦ください。『身交ふ』の彼方から、今度はどんな「音調」が聞えてくるでしょうか。
(了)  
目次