大江 公樹 <感想> 「蘇我馬子の墓」 「わかるということ」

●大江 公樹
 令和五年(二〇二三)三月十六日
 <小林秀雄と人生を読む夕べ>
 「蘇我馬子の墓」
   (『小林秀雄全作品』第17集所収)
 「わかるということ」

「蘇我馬子の墓」は、武内宿禰をめぐる歴史の梗概から、聖徳太子に対する小林先生の見方、さらには歴史とは何かといふところまで展開して行きながら、最後の一段落で墓からの帰り道の小林秀雄へと戻つてきます。古代から現在といふ時間、自分の座る椅子から明日香村といふ地理的空間、さらには観念と現実といふ思想的空間を行き来させられる壮大な作品でした。
 最近、小林先生の文章中にある古典の引用について、難解で註を見たいと思つても、あへて読まないやうにしてをります。註を読む方が解釈に間違ひは無いかも知れませんが、自分のやうな怠惰な人間の場合、どういふ意味かと考へることをしなくなると思つたからです。そのため、池田先生が、小林先生の「古典をめぐりて」(折口信夫氏との対談)から引かれた、「古典というものは理解するのに苦労する処に面白味がある」といふお話は、大いに勇気づけられるところがありました。
 ご講義後半で、「わかることには無数の階段がある」と仰つてゐたことも、古典の話と繋がり、学びの姿勢を新たにさせられました。
 次回もどうぞよろしくお願ひ致します。

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