千頭 敏史 <感想> 『萬葉』秀歌百首

●千頭 敏史
 令和五年(二〇二三)三月二十三日
 <新潮日本古典集成で読む『萬葉』秀歌百首>
旅人の 宿りせむ野に 霜降らば 
我が子羽ぐくめ あめ鶴群たづむら
   (遣唐使の母 巻第九 1791番歌)

 令和五年三月二十三日には「『萬葉』秀歌百首」のご講義を賜わり有難うございました。
 1791番歌「旅人の 宿りせむ野に 霜降らば 我が子羽ぐくめ 天の鶴群」
「天平五年癸酉に、遣唐使の船難波を発ちて海に入る時に、親母の子に贈る歌一首 并せて短歌」と題詞のある、長反歌の反歌が今回の鑑賞歌です。
 伊藤博先生は「萬葉集釋注」で、「当時、渡唐の船はしばしば難破した。渡唐は生命の保証を期しがたい危険な旅であった。この長反歌には、愛児の無事をひたすら願う母心が切実に詠まれており、けだし、遣唐使を送る古今の歌の中での秀逸である」と言われ、前の長歌(1790番歌)について、独り子の危険な遠い旅を「母親としてまた女としてなしうる神祭りに精魂を傾けることで子の幸を祈る」と釋注されています。
 遣唐使一行は約二年後に帰朝しますが、「帰り着いた人の中に、この母親の子が存在しなかったことを想像するのは惨酷に過ぎる」と結ばれた釋文から、無事に帰って来れたのだろうと安易にこの歌を読んでいました。ご講義ではそうではないという読みを示され、厳しい現実を突きつけられたように感じ、また、萬葉歌に臨む姿勢をも教わったように思いました。
 この過酷な視点に立ってこそ、伊藤先生が釋注に、「子は母親にとって永遠に胎児であり、分化を許さないその心情は解説の言葉を寄せつけない」という、子の誕生という命の起源に立ち返るような言葉で、母子一体の強い表現とされた必然を思いました。
「愛児の無事をひたすら願う母心」が、「神祭りに精魂を傾ける」行為と詠歌とに駆り立てます。歌の形にととのえ、歌い上げることによって、母は不安に耐え、心を静め得たでしょうか。母の子を想うという普遍的な情愛が、この歌によって個性的な唯一無二の姿として刻印され、現代まで鮮明に伝わってくる、萬葉歌の力を思いました。
 ちなみに、この歌の「我」の読みは、母親の心情を想うに、「わ」ではなく断然「あ」でなくてはかなわないとの気持ちに導かれます。
 講座に先立って読んだだけでは到底感じ取れなかった、この歌の持つ重みと意義を教えていただき、有難うございました。 


●大江 公樹
 令和五年(二〇二三)三月二十三日
 <新潮日本古典集成で読む『萬葉』秀歌百首>
旅人の 宿りせむ野に 霜降らば 
我が子羽ぐくめ あめ鶴群たづむら
   (遣唐使の母 巻第九 1791番歌)
ひさかたの あめの香具山 このゆうへ
霞たなびく 春立つらしも 
   (人麻呂歌集 巻第十 1812番歌)

「旅人の 宿りせむ野に」の歌については、「解説といふもののむなしさを感じる」と述べられ、息子は結局帰ることがなかつたと想像する伊藤博先生のお話を伺ひ、歌を愛するといふのはかういふことかと思はされました。
「ひさかたの 天の香具山」に始まる七首については、国見の場に女性が多くあり、その上での歌だつたのではないかといふお話を伺ひましたが、講座を聴く今がまさに歌の季節と重なることもあり、ほのぼのとした愉し気な春の国見の様子を目の前に見てゐる気分になりました。

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