小島 由紀子 <感想> 『萬葉』秀歌百首

小島 由紀子
 令和五年(二〇二三)三月二十三日
 <新潮日本古典集成で読む『萬葉』秀歌百首>
 たびひとの 宿りせむ野に 霜降らば 
     我が子ぐくめ あめたづむら
       (遣唐使の母/巻第九 1791番歌)
 ひさかたの 天の香具山 この夕
     霞たなびく 春立つらしも 
       (人麻呂歌集/巻第十 1812番歌)

 今回の一首目は巻第九「相聞」の歌で、題詞には「天平五年みづのととりに、遣唐使のふね難波なにはちて海に入る時に、の子に贈る歌一首あはせて短歌」と書かれ、長歌と一組になっている。
 池田塾頭は伊藤博先生の『萬葉集釋註 五』(集英社)を開かれ、こう語られた。
「この二首は天平五年(773)に遣唐使として旅立った若者の母親が詠んだ歌です。伊藤先生は『萬葉集』約四千五百首の全てに解説をお書きになりましたが、この歌には、解説の虚しさを感じると仰っています。まず長歌をお聞きください」

  秋萩を 妻どふ鹿こそ 独り子に 子持てりといへ 鹿じもの 我が独り子の 草枕 旅にし行けば たかたまを しじき垂れ いはひへ綿 取りでて いはひつつ 我が思ふ我子 まさきくありこそ  (1790番歌)
  ――花妻の秋萩を訪れる鹿は、一人子しか生まないと聞いているが、その鹿の子のようにたった一人しかない私の息子が旅に出てしまったので、竹玉を緒いっぱいに貫き垂らし、斎瓮には木綿を垂らし、神様をお祭りしてひたすら祈りながら私が案じているいとしいわが子よ、どうか無事に帰って来ておくれ。

「冒頭は、萩の花を鹿の妻と見立てた萬葉人の風雅な心が表れていますが、母親は一人子である鹿の子と自分の息子を重ね合わせ、当時の習俗に則った祭具を飾り、神祭りに精魂を傾け、ひたすら無事を祈っています。当時の遣唐使の船はたびたび難破し、安全に往復できる保証などない危険なものでした。そんな旅に一人息子を送り出さねばならなかった母親は、続けてこう詠みます」

  旅人の 宿りせむ野に 霜降らば 我が子羽ぐくめ 天の鶴群  (1791番歌)
  ――旅人が野宿する野に霜の降る寒い夜には、私の息子を羽で包んでかばっておくれ。空を飛んで行く鶴の群よ。

「当時の船旅は、夜は陸に上がり野宿をしていました。伊藤先生は『祈るだけでは足らず、天の鶴群に呼びかけて鎮護を願っているところがいたましい…我が身を鶴になして常に子の周辺にいたいという母親の身を切るような愛情がにじみ出ている』と仰っています。さらに、『愛児の無事をひたすら願う母心が切実に詠まれており、けだし、遣唐使を送る古今の歌の中での秀逸である』と讃えながらも、この遣唐使一行が約二年後に帰朝したことについては、『全員が無事であった保証も記録もない。帰り着いた人の中に、この母親の子が存在しなかったことを想像するのは惨酷に過ぎる』と言われています。伊藤先生のこの読みは、学者の読みとしては主観が入り過ぎているともみられますが、客観的な語釈と口語訳とに終始するだけの人たちは、萬葉人の思いの切実さに迫りきっていないと言えるのではないでしょうか。伊藤先生のこの読み方からは、客観的とされる浅い読み方は取りも直さず作者に対する冒涜となるという伊藤先生の強い思いが感じられます。さらに伊藤先生は、『子は母親にとって永遠に胎児であり、分化を許さないその心情は解説の言葉を寄せつけないことを痛感せざるをえない』と仰っています。母親の気持ちを思うと、解説しようにも跳ね返されて沈黙するしかない、ただ母親の気持ちを汲むだけしかできないと、無言の共感をされていたのでしょう」
 池田塾頭のお言葉で、「我が身を鶴になして常に子の周辺にいたい…」と記された時の、伊藤先生のご表情が浮かんでくるような気がした。
 伊藤先生の目の前には、「息子をその羽で包んでおくれ」と鶴に呼びかけながら、自分が飛んで行って息子を抱きしめ温めてやりたいと、腕を震わせ全身で無言で叫ぶ母親の姿があったのではないか…、そう思われてならなかった。

 この日の二首目から、巻第十に入った。この巻は巻第八と同じく、歌が四季ごとに分類され、雑歌、相聞の順に並べられている。出典は持統朝前後の「人麻呂歌集」 や「古歌集」で、他にも出典未詳の比較的新しい時代の歌が収録されている。
 伊藤博先生が「萬葉百首」にお撰びになったのは、巻第十「春雑歌」の冒頭を飾る、柿本人麻呂の歌であった。

  ひさかたの あめやま このゆうへ かすみたなびく 春立つらしも

 この歌を最初に聞いた時、春の夕景を描いたのどかな歌、という印象を覚えた。
 だが、池田塾頭は、「天の香具山は、大和の中心をなす聖なる山です。この山に見た現象に基づき、春の到来を確かなものとして推定した歌で、巻十の冒頭歌にふさわしいと、『新潮日本古典集成 萬葉集三』の頭注に書かれています。さらに、以下七首は、三輪付近での国見歌らしい、という言葉に注目してください。この歌は一首だけでは完結しません。七首まとめて読まないと、本来持っている歌の力が分からないまま終わってしまいます」と仰った。そして、こう語られた。
「柿本人麻呂は単なる大歌人ではありません。この七首で素晴らしい映像作品を作り上げ、映画の名監督のようにもなりました。言葉一つひとつを映像の一コマ一コマのように配列し、言葉の対比や補い合いによって、全体のイメージを作り上げています。視覚的効果を計算して編集し、さらに、歌を披露する場とタイミングをも計算に入れ、演出家としての才能も、また、色彩感覚豊かな画家としての才能も発揮しています。人麻呂という名監督が歌によってどういう形や姿を見せようとしているか、伊藤先生がそれにどのように見入っていかれたか、どうぞご覧になってください」
 池田塾頭の力のこもったお言葉によって、目の前に映画のスクリーンが広がり始める。そのスクリーンには、次のように三つの場面が展開してゆく。

*第一場面 大和の聖なる山「天の香具山」
  ひさかたの 天の香具山 この夕 霞たなびく 春立つらしも (1812番歌)
  ――天の香具山に、今夕は、霞がたなびいている。もう春になったらしい。
「この歌は春の国見が行われた三輪山西麓から、天の香具山を仰いで詠まれました。天の香具山は天から降ってきたという伝承を持つ、大和の神聖な山です。そこに霞がたなびくと春が到来するとされ、国見の場では誰もがこの山の名前を興奮のうちに聞いたことでしょう。国見とは、天皇が高い所に登って民の様子を見て、いかに国をまとめるか手がかりをつかむ機会です。年頭または春の苗代作りや種蒔きの時期に催され、秋の収穫が豊穣であるよう祈ります。花見も国見の行事だったと言われ、花を愛でて秋の豊作を祈る厳かな神事でした。そのような場で、人麻呂は天の香具山に春霞がたなびく様子を詠み上げました。まさに巻第十の『春雑歌』冒頭を飾るにふさわしい歌といえます」
 池田塾頭のお言葉によって、スクリーンに、「天の香具山」「三輪山」「国見」という言葉が神聖な輝きを放ちながら、その像を描いてゆく。そして夕景にたなびく春霞が、次の場面へと誘っていく。

*第二場面 国見の場「巻向の檜原」
  まきむくの はらに立てる はるかすみおほにし思はば なづみめやも  (1813番歌)
  ――ここ巻向の檜原に、春霞が立ちこめてぼうっとしているが、そのようにこの地をなおざりに思うのであったら、こんなに苦労してまでやって来るものか。
「この歌の『巻向の檜原』とは、今、国見が行われている三輪山西麓の地名で、檜原神社がある辺りです。伊藤先生は『国見を行なった場所を、わざと相聞的発想を取ることによって讃美した歌』と仰っています。人麻呂は国見の場を愛する女性に見立てて、私は彼女に会うためにはるばるここ迄やって来たのだと、その素晴らしさを褒め讃えたのです」
 池田塾頭はこう仰ると、人麻呂の相聞的発想についての、伊藤先生の考察を紹介された。
「『萬葉集』の他の歌でも、霞や霧は人間の鬱情の表れとして詠まれています。今、春霞を目の前にして、人麻呂の心中に、鬱状を晴らすには恋を詠む相聞歌だ、という風雅が湧き起こったのではないかと、伊藤先生は推察されています。また、国見の場には皇子だけでなく皇女も多かったので、女性を思う恋の歌にしたのではないかと想像されています。藤原宮から三輪山西麓まで、難渋な道を苦労してやって来た女性たちに喜んでもらおうと、臨機応変に趣向を凝らす人麻呂の手腕が十分に発揮された歌といえるでしょう。この後の歌にも女性に関する歌が続きます」
 池田塾頭のお言葉によって、スクリーンには笑顔を浮かべた皇女たちが居並び、華やかで明るい彩りが広がっていく。
 だが、次の第三首になると、その姿はフレームアウトし、時が一瞬にして過去へと遡る。
  いにしへの 人のゑけむ すぎに かすみたなびく 春はぬらし (1814番歌)
  ――昔の人が植えて育てたという、この杉木立の枝に霞がたなびいている。たしかにもう春は到来したらしい。
「第二首と同じく国見の場を詠んでいますが、今、目の前に鬱蒼と茂る見事な杉木立は、いにしへの人が植えてくれたものなのだと、現在から過去へ思いを馳せています。伊藤先生は『古人の息づかいのこめられた、遠く古い時代からの杉木立に霞がたなびくとうたうことで、今、一同が国見を行なう場所をほめた歌』とされ、人麻呂は第二首で「今」を、第三首で「古」を詠み、国見の檜原の春景が『古今を通じて不変の充足を帯びる』ことを詠み上げていると仰っています。人麻呂は第二首では『檜』、第三首では『杉』をストップモーションで撮影して時の流れを感じさせるという、映像の心理的誘導効果を狙っていて、映画監督としての手腕が大いに発揮されていると言えます」
 池田塾頭のお言葉で、スクリーン全面に檜と杉が映り、その緑の濃淡が永遠を感じさせるように揺らめき続ける。だが、次の場面でカメラは急に向きを変え、大和の山々を映し出していく。

*第三場面 東の巻向山と西の朝妻山
  子らが手を まきむくやまに 春されば の葉しのぎて 霞たなびく  (1815番歌)
  ――あの娘の手をまくという名の巻向山、その山に春が来たので、木々の葉にのしかかるように霞がたなびいている。
  玉かぎる ゆふさりれば さつひとの つきたけに 霞たなびく  (1816番歌)
  ――入日の輝く夕暮れになると、幸をもたらす猟人、その弓の名を負う弓月が岳に、いつも霞がたなびいている。
「第四首と第五首は、大和の中心の天の香具山から見て東側に位置する巻向山を詠んでいます。ただ同じ巻向山でも、第四首では山の『全体』を、第五首はその最高峰弓月が岳の『部分』を詠んでいて、伊藤先生はその視点の推移に着目されています。まずはロングショットで、次にクローズアップで、人麻呂はカメラワークを駆使するように、言葉で映像世界を描き出しているのです。さらに、第二首の『今』と第三首の『古』と同じように、第四首は『昼』、第五首は『夕』と、時間を対比させています。次の第六首と第七首は……」
 池田塾頭のお言葉で、カメラは東から西へと大きく転回する。
  きて にはねと 言ひし子を あさづまやまに 霞たなびく (1817番歌)
  ――今朝はお帰りになっても、今晩また来て頂戴と別れ際に言った、いとしい娘、その娘を思わせる朝妻の山に霞がたなびいている。
  子らが名に けのよろしき あさづまの かたやまぎしに 霞たなびく (1818番歌)
  ――あの娘の名にかけて呼ぶのにふさわしい朝妻山、あの片山の崖に霞がたなびいている。
「先ほどの第四、第五首では、天の香具山の東側で近くの巻向山が詠まれ、この第六、第七首では西側で遠くの朝妻山(金剛山)が詠まれています。古代の国見では、東の方角が重んじられたので、東から土地を讃えていきました。ただし、第四、第五首と構図は同じで、第六首は朝妻山『全体』を、第七首はその片山崖の『部分』へと、焦点の絞りがあることを伊藤先生は指摘されています。さらに、人麻呂は『朝妻』という山を、かつて自分を朝送り出してくれた女性として詠んだのではと推察され、第六首は『朝』、第七首は『昼』の歌で、第二、第三首と第四、第五首と同じ時間的対比があることに着目されています。このように伊藤先生は、萬葉歌人の目の働かせ方、そこに映る輝きまでも想像して、他のどの本にもない解説を、すべての歌について書かれたのです」
 
 伊藤先生は、さらに、第四首「子らが手を巻向山に」、第六首「今朝行きて明日には来ねと言ひし子か」、第七首 「子らが名に懸けのよろしき朝妻」で女性が登場し、第五首では「さつ人(猟人の弓)」が「弓月が岳」に係り、獲物の豊かな山として讃美し、生産の予祝としての歌であることを指摘されている。
そして、歌の構成についても細かく分析され、この四首こそ「春が到来したここ檜原の地から見はるかせば、朝も夕も、東も西も、近くも遠くも、山々に霞が一面にたなびいている。まことにめでたい」と讃えた純粋な国見歌であると仰っている。
「伊藤先生はあらためて第一首『天の香具山』の歌に注目されます。人麻呂はまず大和全体への春到来を示し、一座共有の認識として皆を安心させてから、国見の場、大和の山々へと歌を展開させていったとして、三つの場面それぞれに、第一首『春立つらしも』、第三首『春は来ぬらし』、第四首『春されば』と、春到来が明示されていることも指摘されます。これにより、春の国見歌として見事にまとまった一連となり、七首全体をまとめて読まねば、人麻呂の企画した味わいは汲みえないと仰っています」
 池田塾頭のお言葉で、目の前のスクリーンが一幕の平面ではなく、屏風絵や絵巻のように広がっていくように感じられた。そこには天の香具山を中心に、巻向の檜原、巻向山、朝妻山が次々と映り、次第に春霞に包まれた大和の地の全体が浮かび上がっていく。

「ここで七首全体をもう一度ご覧ください。第二首は『春霞』ですが、それ以外はすべて『霞たなびく』という言葉があります。人麻呂は詩歌の韻を踏む技法を使い、リフレイン効果を意識したのではないでしょうか。七首全体に秩序と流れが感じられます。人麻呂という映画監督は作曲家にもなり、映像として音楽として味わえる名歌群を完成させたのです」
 池田塾頭のお言葉で、スクリーンから輪唱のような音楽が鳴り響き、映画のエンドロールが流れ始めた。そこには、ゆっくりと暮れゆく春の夕景の光が湛えられている。

 その時、山辺の道の旅で、橿原市に宿泊した時のことが思い出された。高層階からは大和三山や三輪山、二上山も望むことができた。萬葉人の視界を遮ってしまう高さからの眺めではあるが、その夕景はとても静かで、大和の地には、静けさから聞こえてくるものが、今も変わらずあるような気がした。
「古今を通じて不変の充足を帯びる」という伊藤先生のお言葉が、その情景にも重なっていく。
 来春は、今回のご講義で池田塾頭が再現してくださった「春霞たなびく大和」という人麻呂の作品世界をぜひ訪ねたい、そして、その夕景をしばらく見続けたい、と思っている。

この記事を書いた人

目次