事務局ごよみ(6)
解き難き姿と親しむ
村上 哲
小林秀雄の文章は難しい、殊に『本居宣長』は難解極まる……。 この手の評は、小林秀雄氏当人がご存命のころから今に至るまで続く、ある種の共通認識とすら言えるのではないでしょうか。 私も、『本居宣長』を読み始めてからようやく十年経とうかというところではありますが、その真意を理解したなどとはとうてい言えません。しかしその一方で、『本居宣長』ほど明らかな文章もそうそうない、そう言いたくなるような感覚もまた、私の中に間違いなく存在します。どころか、初めて『本居宣長』を読んだ時、まず私の中に腰を据えたのはこの感覚でした。 なるほど、『本居宣長』に何が描かれているのかわかるように説明しろと言われれば、まったく言葉に窮するしかないでしょう。しかし、実際に読んでみて、私の心を照らさない文章だと思ったことは一度もありません。そうでなければ、何度も、何年も読み直し、考え続けることなんて出来はしないでしょう。なんなれば、何かを好きになるとは、相手の解き難きその姿と親しむことではないでしょうか。『本居宣長』の姿は、難解ではあっても、決して、親しみ難いものではないように見えます。 試しに、理解などというものを忘れ、ただ文を読むという行為の中に身を投じたならば、これほど読みやすい文章もないのではないでしょうか。もちろん、今の感覚で言えば言葉そのものが難しいところはありますし、そこに引かれている古文を読み切ることも難しいと言えるでしょう。ですがそれは、文章を隅々まで理解しようとする時の難しさであり、文を読む時の難しさとは、必ずしも一致しないように思われます。 こう言ってみると、そんなものは読書ではないとお叱りを受けるかもしれませんが、私達が文章を読むとき、果たして、一字一句を丁寧に拾い上げ、一言一句取りこぼすことなく、明瞭に認識しているでしょうか。少なくとも私は、もっと曖昧に文章を読んでいるように感じます。もちろん、それを一概にいいことだとは言いません。特に、より深く読み進めようと思うならば、文字通り一言一句に神経を張り巡らせていく必要があるでしょう。 ですが、まずこの文と親しむ、すなわち文と「身交ふ」うえで、この曖昧な読みというものは、存外、見過ごせないものなのではないか、そんな思いが私の中にあります。 なるほど、曖昧な読みは文を読んでいるとは言えないかもしれません。では、ここで私達は、少なくとも私は、何を読んでいるのでしょうか。おそらくそれは、文体と呼ばれるものでしょう。きっと私は、そこに「文の姿」を見ているのです。「文の姿」と「身交」っているのです。 もちろん、曖昧な読みはその曖昧さゆえに、多くの誤解を生む危険があります。一時の納得に留まらず、より理解を深めようという努力は不断に行われるべきでしょう。ですが、古典や古書の熟読というものは、この、「文の姿」と「身交ひ」、温められた親しみにこそ、支えられているのではないでしょうか。
(了)