大江 公樹 <感想> 第二十八章(上)宣長の「学問の本意」 

●大江 公樹
 令和五年(二〇二三)四月六日
 <小林秀雄「本居宣長」を読む>
 第二十八章(上)/ 宣長の「学問の本意」 
   (『小林秀雄全作品』第27集)

 池田塾頭が「宣長が『序』の漢文体のこの部分に聞き別けたのは、安万侶の肉声だったのだ」といふ箇所を読まれた時、引用されてゐた「古事記」の「序」から本当に太安万侶の肉聲が聞こえてきたやうでした。
「『記の起り』を語る安万侶にとって、阿礼の存命は貴重な事実であり、天武天皇が、阿礼の才能を認められた時、阿礼が未だ若かったとは、まことに幸運な事であった、と考えざるを得なかったであろう。でなければ、どうして『年是れ廿八』などと特に断っただろう」といふ、部分を読みますと、「古事記」といふ書が現代に残つてゐること自体が、まさに字義通りの意味に於いて「有難い」ことだと思はされます。
 今日の講義で抱いた感動を胸に、小林先生の「本居宣長」、本居宣長の著作、そして「古事記」を読んで参りたいと思ひます。

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