金森 いず美 <感想> 第二十八章 (上)宣長の「学問の本意」

金森 いず美
 令和五年(二〇二三)四月六日 
 <小林秀雄「本居宣長」を読む>
 第二十八章 上 宣長の「学問の本意」

 「小林秀雄『本居宣長』を読む」は、第二十八章に入り、四月にその前半を読みました。 
 昨年四月の第十九章から受講を始めて一年、よちよち歩きだった私の足も、小林先生の言葉のうちに入り、宣長の心の動きに触れる毎に、しっかりとした土の感触を感じて歩けるほどに変わってきたように思います。小林先生がいよいよ宣長の「古事記伝」と身交われる第二十八章、道の先に見える初めての景色に、私の心は早くも感動で一杯になりそうですが、向こうに立っていらっしゃる小林先生の目をしっかりと見つめて、小林先生の言葉のなかに生きている宣長の心を感じながら、大切に読んでいきたいと思います。

 なぜたった三十五年で宣長は「古事記」を読めたのか。宣長に身交ふ小林先生の思いを、池田塾頭がご講義の冒頭でこのように私たちに投げかけられました。三十五年の歳月、一人きりで「古事記」のなかに入り、古代人たちの思いを汲んで「古事記伝」を完成させた宣長。小林先生は「古事記序」の註釈のうちに現れる「宣長の心の喜びと嘆きとの大きなうねり」に眼を向けました。註釈に記された宣長の言葉は、古人の言葉をただ眺めたり聞いたりして生まれたものではない。古人の心と一体になり、自らの心をぴったりと離さず重ね合わせて、古人の心の波立ちを直に身に受けて生まれたものだ。宣長のこの「気質」、これこそが「古事記」への道を開く鍵となったのだ。小林先生は、宣長の「気質」に真っ直ぐに眼を向け、傍観者になることなく古人と一体となる宣長の心こそが「学問の本意」への道を開いたのだということを見抜かれました。小林先生の姿は、「古事記」の本質を素早く掴んだ宣長の姿と重なり、私の心に強く訴えかけます。

 古人と一体となるとはどういうことなのか。私は、生まれたばかりの我が子と、朝も晩もなくぴったりと離れずに過ごした日々をふと思い返しました。まだ言葉を話さない我が子と一体となり、あらゆる自分の感覚を集めて、我が子のことを知りたいと願いながら過ごした時間。日々暮らしているうちに、なぜ泣いているのかなぜ笑っているのか、僅かな表情の変化、声の色合いの違いも次第に分かるようになり、我が子と心が通い、この子も言葉を話そうとしているのだと気がついたときの感動と驚き。私は、宣長が古人と暮らした三十五年の月日を思いながら、我が子との日々を心に浮かべていました。

「彼は『古事記』のうちにいて、これと合体していた」という小林先生の一文は、「古事記」の言葉は古人の心そのものであり、この言葉、この心が、まさしくこの国の歴史なのだ、という宣長のはっきりとした思想を私たちに伝えています。宣長の「学問の本意」とは、そして、人間にとって言葉とは何か、小林先生が示される問いに、私なりの答えを、来た道を振り返って考え、一歩ずつ地面の感触を確かめながらまた歩いて、この先の道を時間をかけて進んでいきたいと思います。

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